吉田拓郎という巨人
吉田拓郎という人をご存じでしょうか。
シンガーソングライターであり音楽プロデューサーでもある吉田は戦後間もなくの1946年にこの世に出生しました。中学生時代にウクレレを手にしたことから吉田の音楽人生ははじまります。
1966年、20歳でフォークコンテストに高位入賞、「和製ボブ・ディラン」と呼ばれ話題になりました。ボブ・ディランとは1960年代から活躍する「フォークロックの神」と呼ばれる人です。
この頃から吉田はフォークソングの世界で次第に存在感を増していきます。学生運動華やかなりし頃を経験しながら、1972年「結婚しようよ」でメジャーデビュー。
「結婚しようよ」はオリコン3位にランクイン。この曲のヒットによってフォークソングファンだけでなく、日本中が「吉田拓郎」を知ることになります。
また、当時の学生運動と強く結びついて「反体制を歌うもの」とされていたフォークソングのイメージ、世の認識を一新することにもなりました。
これは一例に過ぎませんが、吉田拓郎の出現は日本のミュージックシーンに多大な影響を及ぼし、これ以降も吉田は新しい時代を呼び続けることになります。
フォークの変革、ニューミュージックの起点
1960~1970年代は反体制・反権威で非商業主義であることがフォークであるとされていた時代です。その時代に吉田は政治も理想も歌わず、自分自身の生き方・考えなどを歌いました。
当時のフォークファンからは「軟弱」、「堕落」などと罵声を浴びせられました。売れようと世間に迎合していると見なされていたようです。しかし吉田は自分の言葉で自分の心情を歌ったに過ぎません。
それが当時の若者に支持されたのです。時代は連帯の時代から個人の時代へ移り変わろうとしていて、吉田が歌うものはその流れに沿っていた、あるいは流れを導くものであったと考えられます。
また、吉田はフォークを従来のフォークのまま歌うということもしませんでした。
もともとフォークだけでなくさまざまなジャンルの音楽を渡り歩いた人でもあるため、他ジャンルの要素も取り入れて「新しい」フォークを生み出します。
これがのちに「ニューフォーク」と呼ばれ、さらには「ニューミュージック」という新たな音楽ジャンルを生み出すきっかけとなります。
ニューミュージックはその後さらにJ-POPへと発展するのですが、こうした音楽が個人の心情、恋愛歌を奏でるようになったのは吉田拓郎の登場以降のことであると言われています。
現在のJ-POPが存在するのは、吉田拓郎がいたからだと言えましょう。
プロデューサー兼アーティストの先駆者
1972年、吉田はプロデューサー兼アーティストとしてCBSソニーと契約を結びました。アーティストとして自身が作品を発表する一方で、ほかのアーティストのプロデュースも行います。
はじめてのプロデュースはCBSソニーと契約した1972年のかぐや姫。「神田川」や「妹」などで有名なフォークグループです。最新プロデュース作品は2000年、Kinki kidsの「好きになってく愛してく」です。
また、忘れてならないのは1977年「てぃーんずぶるーす」でデビューした原田真二です。
1975年、吉田は小室等・泉谷しげる・井上陽水らとともにレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立。現役アーティストがレコード会社を設立すること自体が当時としては大事件でした。
フォーライフ・レコードが行った新人発掘オーディションの初回に、吉田によって見出されたのが原田でした。吉田をして「天才」と言わしめた原田は吉田のプロデュースによって爆発的人気を得ました。
洋楽的なポップスの色濃く、新鮮なテイストの音楽を日本にもたらし、「ロック御三家」の一人と数えられた原田真二を知らない人は1970年代の音楽シーンを知る人のうちにはいないでしょう。
1990年代以降、小室哲哉、つんく♂、小林武史などアーティストとして活動しながら他者のプロデュースも行うというスタイルの活動をする人はめずらしくはなくなりました。
吉田はこういったプロデューサー兼アーティストの先駆け的存在であると言えます。吉田がいなかったら、現在の音楽シーンはまた違った姿をしていたでしょう。
アーティストかつラジオパーソナリティ
1970年代以降、「テレビに出ない」アーティストが多くなりました。ともすれば「ニューミュージックのアーティストはテレビには出ないもの」という認識も世にはありました。
それを世に強く認識させたのはTBS系で放送されていたテレビ番組「ザ・ベストテン」でした。「木曜9時の放送時間に生演奏でアーティストが歌う」ことが眼目の大人気番組です。
「ザ・ベストテン」にはフォーク・ニューミュージック系のアーティストはほぼ出演せず、毎回のように、番組側が「出演交渉を続けている」旨のアナウンスをしていました。
これによって「出演拒否」のアーティストがいるということが日本の隅々まで周知されたのです。この「出演拒否」の先駆者も吉田であるとされています。
しかし、吉田はテレビには出ませんでしたがラジオには出演していました。アーティストとしてではなく、パーソナリティとしてです。
もともと吉田はトークが達者でライブのMCも人気があり、歌よりもMCの方が長い時間を取ってしまうこともあるほどでした。その素養もあってラジオも好評で、深夜放送ブームの先頭を走ったのです。
吉田拓郎をきっかけに、さだまさし、松山千春、中島みゆきなどのテレビには出ないがトークが巧いアーティストが次々とラジオパーソナリティに起用されました。
これは、テレビは拒否するものの忘れ去られないよう、他メディアでの露出を望むアーティストと、テレビに押されて弱体化しつつあり起死回生を図るラジオ業界が、互いを必要とした結果でした。
これがのちに、アーティストがラジオ番組を持つという文化の基礎となったのです。
「夏休み」
アルバム「元気です。」
「夏休み」が収録されたアルバム「元気です。」は1972年7月21日にリリースされました。その頃、既に吉田はテレビに出ない人となっていて、プロモーションも特にないままのリリースです。
同じ月にリリースされたシングル「旅の宿」の別アレンジが収録されていますが、ほかは誰も知らない曲です。テレビに出ない・宣伝されない・知らない曲ばかりのアルバムが、しかし大ヒットしたのです。
オリコン週間ランキングでは1位、年間ランキングでは2位にランクインする大ヒットです。吉田最大のヒットアルバムでもあります。
「元気です。」というアルバムは時代が求めたものであり、当時の日本という風景と普遍的な若者の姿を映したものでもあると評価されています。
シングルカット
時代が下り1989年3月21日、「夏休み」はシングルカットされました。カップリング曲はかまやつひろし(のちのムッシュかまやつ)とのコラボ曲「シンシア」です。
「シンシア」は吉田の9thシングルでもあります。「シンシア」とは「元祖アイドル」と語られることもある歌手、南沙織の愛称です。吉田は彼女の大ファンで、彼女に捧げる曲をつくったのです。
こうしてシングルカットされることで、「夏休み」は「元気です。」のリリースからから17年後にもう一度、世に親しまれることとなりました。