ここで二重国籍問題について詳しくは触れない。蓮舫氏の二重国籍を問題視する声は昨年あたりから起きていた。本格的に報道などで注目されると、蓮舫氏の発言は二転三転する。蓮舫氏の対応に一切問題がなかったとは言えないだろう。だが、台湾籍の父親と日本人の母親から生まれた蓮舫氏の国籍は、その後、日本の国籍法が改正されたこともあり複雑な経緯がある。複雑な制度上の欠陥も指摘されている。蓮舫氏の個人の問題として取り上げることはフェアではない。そもそも多くの国が「二重国籍」を認める中、なぜ日本は二重国籍を認めないのか、という問題もある。つまり「二重国籍」自体を問題視すること自体に、問題があるのではないか、ということだ。
残念なことに、「リベラル」を掲げていた民進党の一部にも蓮舫氏を批判する議員がいた。蓮舫氏は代表を辞する際に、二重国籍問題について直接言及していないが、それが原因であるかのようなタイミングであったことは間違いない。つまり当時の民進党は結果的に「二重国籍」が問題であるということを認めてしまったことになる。「リベラル」としての態度として適切だったのだろうか。
メディアも変わらない。当時、保守系のメディアに限らず、蓮舫氏の二重国籍問題は連日取り上げられており、その多くが蓮舫氏の対応や問題を指摘していた。制度の複雑さや、歴史的背景を紹介することはあっても、「だからこれは問題ではない」あるいは「制度を改善する必要がある」といった報道は、めったに見なかった。蓮舫氏の個人の問題か、あるいは「二重国籍は問題」という態度がほとんどだったのだ。
もやもやの原因は蓮舫氏だけではない。しばらく話題になっているモデル・女優の水原希子氏の芸名問題もそうだ。
アメリカ人の父親と韓国人の母親を持ち、アメリカで生まれ、日本で育った水原氏はアメリカ国籍だ。水原氏がメディアに出ると、おそらく韓国にルーツを持つことが気に食わない排外主義的な人間が、ヘイトスピーチを行う(水原希子出演プレミアム・モルツCMへのヘイトは4カ月前から行われていた。私たちが批判の声を挙げることに意味がある)。しまいには水原氏が日本風の芸名を名乗っていることを「利用している」と批判し、過去に「日本人でないことを強調していた」というデマも流れた(反日=非難・差別対象? 水原希子が「日本人でないこと」を強調していたという悪質デマと、フィフィらの反応)。
日本で長く生活を送っている水原氏はおそらく日本になんらかの思い入れがあるだろう(いい思い入れだけとは限らない)。水原氏にとって、「水原希子」という名前は“芸名”と片付けられない意味を持つものかもしれない。また、本当に「利用」しているのであれば、なぜ「利用」しなければいけないのか、その背景を考えなくてはいけないだろう。なぜ芸能界で活動する際に、本名を名乗るよりも「日本風の名前」がいいのだろうか。なお、「日本人でないことを強調していた」というデマに基づいた批判はいまだに跋扈し、現在は「芸名」は問題でない、という主張が中心的になっているようだ。事実はどうでもいいのか。
日本にルーツをもつイギリス人作家の受賞は大喜びし、日本にルーツを持ち日本に住む国会議員と、日本に住むアメリカ国籍のモデルは批判する。それぞれ賞賛と批判の意味は違うのだろう。なぜここまで評価がわかれてしまうのか。ここであげた3名は、おそらく日本に何らかの思い入れを持ち(繰り返すが、それはおそらくポジティブな意味だけではない。到底そうは言えないのが現状だ)、日本への影響を語ったり、日本に住んでいるのだろう(日本から出たくても出られない/出るのが難しい可能性もあるが)。なぜ自身と同じルーツを持つ、自身と同じ国や土地に住む人間を賞賛するだけに留めず、排外的な言動に出てしまうのだろうか。
第157回芥川賞で、宮本輝選考委員は、候補作の一つである温又柔「真ん中の子どもたち」に対して、こう語っていた(「在日外国人の問題は対岸の火事」平然と差別発言を垂れ流した芥川賞選考委員の文学性)。
「これは当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった」(『文藝春秋』2017年9月号)
温又柔氏は、台湾に生まれ、3歳の頃から日本で過ごしている。作品では言語の越境を問うている。
対岸の火事であるはずがない。日本で、以前からずっと燃え続けている火だ。他人事で、退屈なものなどではない。それに向き合うことなく、かつて日本の国籍を持ち、いまはイギリス人として活躍する作家の偉業を、ただただ賞賛するだけの無邪気さは、無自覚な暴力のようにしか思えない。
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