2011年11月3日木曜日

富士山とかぐや姫伝説

富士山とかぐや姫を結びつける書物はたくさん存在しています。今回はなぜそのような考え方が成立したかについて追求しようと思います。

  • 富士山と女神
木村武山 「羽衣」

富士山とかぐや姫伝説を考える上で重要なことはまず「古来より富士山と女神を結びつける考え方が存在した」ということを把握することが非常に重要です。『富士山記』には以下のようにある。

「白衣の美女二人有り、山の戴の上に雙び舞う。」

とあり、富士山の神を「白衣の美女」とする女神像が認められる。つまり平安時代には既に富士山と女神を結びつける考え方は成立していたことになります。またこの『富士山記』には同時に「浅間大神」の記述があるため、「浅間大神=女神」と考えられます。

少し後期の『海道記』(鎌倉時代)には富士山に関する伝説を挙げて

「此山の頂に二泉あり、湯の如くわくといふ。昔は仙女が此みねに遊びて常にあり。ひがしふもとに新山と言山あり、延暦年中に天神くだりてこれをつくといへり。」

とあります。これは都良香の『富士山記』に影響されたものといわれますが、この考え方が継続されていたことが分かります。そしてこの中に

「むかし採竹翁と云ものあり。女を赫野姫といふ。おきなが家の竹林に鷹の卵子の形にかへりて巣の中にあり。」

とあります。赫野姫=かぐや姫なので、竹取物語ですね。これは富士山を意識したものとして挙げた話であるので、富士山とかぐや姫を結びつけていたと考えられます。そして併せて『竹取物語』所蔵の和歌2首をあげています。

  • 富士山縁起
ここで注目したいのは「富士山縁起(富士縁起)」である。「富士山縁起」は「富士山に関する起源・沿革や由来を示したもの」で、富士山の神についての言い伝えなどもあり、様々な種類が伝わっています。

「富士山縁起」の存在を確認できるものに、古いものとして南北朝時代に成立したという『神道集』にある「富士浅間大菩薩事」がある。この文中に「富士縁起」とある。「富士浅間大菩薩事」にはこのようなことが書かれている。

子のない翁夫妻が竹林から5・6歳の女子(赫野姫)をみつける。赫野姫は国司と夫婦となるが…

と続く。つまりは竹取物語である。他に『詞林采葉抄』に「富士縁起」があり、これも赫夜姫と結びつけるものであり、南北朝時代には富士山とかぐや姫を結びつける考え方があったことは間違いない。また『三国伝記』に「富士山事」があり似たような視点の記述がある。「富士浅間大菩薩事」で「富士浅間大菩薩事-富士縁起/赫野姫の逸話」が認められ、『詞林采葉抄』の「富士縁起」でも同様のものがあるため、これらの系統の「富士縁起」が複数存在していたことが理解できる。「竹取翁説話系富士山縁起」という感じだろう。


竹取翁説話を含む富士山縁起所伝
富士縁起『詞林采葉抄』
富士縁起(1とする)金沢文庫(全海書写)
富士大縁起(2とする)公文富士氏伝
富士山縁起(3とする)村山三坊(池西坊)
富士山縁起(4とする)村山三坊(池西坊存撰)

これら「竹取翁説話系富士山縁起」は「かぐや姫が富士山頂上の岩山にこもり、浅間大菩薩となる」という「浅間大菩薩の化身」として伝わるものである。以下、「中世の富士山-「富士縁起」」から引用する。

富士山縁起諸本に収録される竹取翁説話を集約すると次のようになる。富士山麓の「乗る馬里」に、箕作りを行業とする老夫婦がおり、翁は鷹を愛し、媼は犬を飼っていた。ある時竹の中から赫野姫を見出し、麗しく育てた。姫が16歳のみぎり、時の帝は全国に勅使を派遣して富士山に登り、姿を消した。このとき、地元の人が悲しんで涙を流した場所が「憂涙河」(潤井川)と呼ばれた。帝はこれを惜しんで勅使に(あるいは自ら)跡を追わせたが、追いつくことができず、途中で落とした冠が石に変じて「冠石」となった。姫の故地は、宣旨によって「乗馬里一斎京」とされた。やがて赫野姫は富士の神となって浅間大菩薩と名乗り、竹取翁は愛鷹山に入って愛鷹明神、媼は今山に入って犬飼明神となった

また「中世の富士山-「富士縁起」」では「末代の滝本不動尊に関する縁起は3と4の富士山縁起に含まれており、それらと同様の記述は鎌倉時代の書写とされる1の富士山縁起と同様なので、3・4の縁起の伝承は古さが証明されている」と説明している(P123)。鎌倉時代の書写とされる1の富士山縁起が古いため、それと類似する3・4は古いとしているようだ。

また大宮に関して云えば、「木花咲耶姫系富士山縁起」(後述)が主流であるが、「竹取翁説話系富士山縁起」もある。「富士大縁起」(公文富士氏所伝、2の縁起)のものである。しかし上の表からすると、はやりこれら「竹取翁説話系富士山縁起」はどちらかと言えば村山で主流であったと考えるのが自然である。

  • 富士市に伝わる伝承
富士市の比奈地区には「竹採姫」の石碑があり、そこから由来してか「竹取物語発祥の地」を自称している。無量禅寺にあったという鐘の銘文に「駿州富士郡姫名村神護宝山雲門無量寺」とあるというので、比奈という名前は「姫名村」から由来すると考えられる。富士市になぜこのような伝承があるのかということを考える上で、ある文献がでてくる。富士市の無量禅寺(廃寺)の禅師が著した書(江戸時代)に

「富士郡比奈村の神輿無量禅寺は、雲門と名づく。赫夜仙妃の誕育の聖跡なり…」

とある。しかしこの内容は「富士山縁起」と同様であり、これに沿ったものであろう。しかしこの文末に「空しく口碑あるのみ」とあり、伝説はあったが史跡などは存在していなかったことが示されている。では誰が「竹採姫」の石碑を建てたかというと、それはよくわかっていない。

つまり、ほぼ江戸時代に禅師が著したそれのみの影響で今日「かぐや姫生誕の地」という伝承が成立したことになるが(これを拡大解釈させたものが『竹取物語』由来の地という表現だろう)、それらの背景として「富士山縁起」の存在があったのは間違いない。上述のように禅師が著した書は「富士山縁起」から"引用/参考"にしたものであるからである。そしてこれは元は村山に伝わるものと推測されるため、ある意味村山の影響を強く受けたものであろう。しかし江戸時代より遥か前に「竹取翁説話」は成立しているので、伝承の域を出るものではない。といいますより「姫名村」≒「かぐや姫」と考える事に無理があるのである。

「富士山縁起」の中に「竹取翁説話」があるという事実は興味深いが、学術的に言えばそれら「富士山縁起」より早く『竹取物語』は存在すると考えるのがごく自然であり、これら石碑類だけで発祥の地などと言えるものでは到底ない。そもそも、「竹取翁説話」が含まれる富士山縁起はかなり前に存在しているのである。例えば、鎌倉時代末に遡る称名寺伝来の縁起が存在している(大高康正, 富士山縁起と「浅間御本地」」)。

もちろん、大真面目に富士市が竹取物語発祥の地であるという論調で語る論文類など、存在しません(地元の資料類のみ)。但し富士市に於いては広報等でも「竹取物語発祥の地」として盛んに宣伝され、他に自治体史である『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』P435には
『竹取物語』発祥の地と伝えられる「竹採塚」の調査報告書である。調査は、竹取物語のふるさととされる「竹採塚」をめぐり、物語の伝承を調査し…

などとあるのである。つまり自治体史の執筆者ですら疑いなく記述する程、当地では信じ込まれているのである。富士山とかぐや姫を考えたとき最も重要なことは、「富士山縁起になぜかぐや姫が取り込まれていたのか」ということである。そしてその答えとしては「古来より富士山と女神を結びつける考えが存在していた」ということであろう。

  • 木花咲耶姫系富士山縁起

女神である「木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)」を浅間神とする富士山縁起もある。「木花咲耶姫系富士山縁起」という感じだろう。しかしこれらが発生した背景としても「富士山と女神を結びつける考え」があったと言わざるを得ない。これらは『浅間御本地由来記』や『源蔵人物語』などにみられるという。しかしこれらは村山を中心に発生したものではない。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

大宮浅間社(富士宮市浅間大社)の縁起書は、『神道体系』に収録されるものをはじめとして、富士山の祭神を木花咲耶姫とする近世以降の作とみられるものが大半であり、仏教的な説明をほどこした中世縁起の体裁を備えているものは少ない

「木花咲耶姫系富士山縁起」は本宮浅間神社の縁起の傾向と言えそうである。この差異も注目されるべき部分であろう。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』,2018

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