作家論/作家紹介

市河晴子に恋して――『歐米の隅々』ほか

  • 2017/11/21
仏和辞典では「一目惚れ」と訳される〈coup de foudre〉は直訳すれば「雷の一撃」、まさに落雷に打たれたやうに恋に落ちることを意味する言葉だが、こと書物に限つて云へば、そんな経験は滅多にあるものではない。それまで一度も名前を聞いたことがなかつたのに、本屋の棚からたまたま手に取つて数行読んだとたんに「雷の一撃(ク・ド・フードル)」に打たれ、著者との運命的な出会ひを確信するなどといふのはほとんど奇跡に近いからである。だが、そんな奇跡がただ一度だけ私にも起つたことがある。何かに取り憑かれたやうに本をむさぼり読んでゐた若い頃ではない。つい最近、と云つてもよい二〇〇六年六月のこと。教授会に向かふ途中、神保町のとある本屋に入つて、まつたく偶然に手に取つたのが市河三喜・晴子著『歐米の隅々』(一九三三年六月・事務局注:Amazon等で書籍の取扱なし)だつた。さすがに三喜の名前は知つてゐたが、開いたページは晴子の文章で、数行読んだだけで心臓を鷲づかみにされた気がした。その日の教授会はまつたく記憶がない。目のまへに広げた『歐米の隅々』にひたすら没頭してゐたからである。

『歐米の隅々』は東大英文科主任教授市河三喜とその妻晴子の共著の体裁をとつてゐるが、三喜は最初と最後だけで、中心をなす六百ページ余りは晴子の筆になる。

市河晴子。一八九六年十二月二十一日、東京帝大法科大学長、枢密院議長等を歴任した穂積陳重と、澁澤栄一の長女歌子の三女として生まれる。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒業後の一九一六年十月、十九歳にして市河三喜と結婚。二男一女をまうけるも、一九二六年六月、次男「三愛」をジフテリアで喪ひ、一九四三年十月、長男三栄にも先立たれ、悲しみに耐へることあたはず、病臥ふた月。十二月五日、三栄のあとを追ふやうに息を引き取つた。享年四十七。

晴子が幼少の頃より利発だったことは母歌子の日記『穂積歌子日記』(みすず書房)や、晴子と三栄の追悼文集『手向けの花束』(一九四五。三喜刊行の非売品)に記されてゐる。晴子が最初に文章を発表したのは一九一七年十一月に「作楽会会報」に載せた「ひとりごと」である。その後、出産と育児に明け暮れ、再び筆を執つたのが一九二三年だつた。以後、子供のこと、身辺随筆、紀行文、エッセイ、評論とその世界は拡がつてゆく。代表的著作は以下のごとくである。

穂積歌子日記 1890‐1906―明治一法学者の周辺 / 穂積 歌子
穂積歌子日記 1890‐1906―明治一法学者の周辺
  • 著者:穂積 歌子
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(988ページ)
  • ISBN:4622046814
内容紹介:
明治国家の最盛期の法学者穂積陳重の妻、または実業家渋沢栄一の娘だった一人の女性の日記。政治の生きた脉搏とともに世相生活の綿密な描写は近代日本の貴重なドキュメント。孫による懇切な補注を付す。

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一、『愛ちやん』。一九二七年三月。研究社。

二、『歐米の隅々』・一九三三年六月。研究社。英訳あり。

三、『イギリス現代風俗誌』。一九三三年八月。新英米文学社。

四、『米國の旅日本の旅』。一九四〇年三月。研究社。英訳あり。(事務局注:いずれもAmazon等で書籍の取扱なし))

どれも名著と呼びたい右(事務局注:上)の著書のうち、一は愛児三愛を亡くしたときの痛切なエッセイであり、三は比較文化論である。市河晴子といふ文筆家の全貌を知るには、以上に加へて、雑誌掲載のさまざまな文章にも接する必要がある。だが、旅のエッセイといふことになれば、『歐米の隅々』と『米國の旅日本の旅』の二冊を逸することはできない。

晴子の文章の魅力は何よりもその生命感あふれる文体であり、意表をつく形容や擬音、そして連想と比喩であつた。

具体的に語らう。一九三一年三月、欧米視察に赴く夫三喜と連れ立つて晴子は支那からシベリアを経てロシア、ヨーロッパ、エジプトと経めぐり、単身ドイツと米国に向かふ三喜と別れて帰国する。その旅の日々に書きつけたのが『歐米の隅々』の中心を占める記述である。

たとへば万里の長城に登つたときのことを晴子は次のやうに書く。

私達はやがて三十尺の城壁の上に登つた。
(略)
時々一種の地鳴りが聞える。最初は不審に思つて油断してゐて、突然の風に攫はれようとしたが、其次からはゴウと響くと、石の堡塁へヒタリとへばりつく。蒙古から来る風だ。盆地を席捲し、八達嶺を逆ごきにして、長城の堅壁に反撥されて、バァーと虚空へ飛散する。其バァーと云ふ音が地球の嘆息の様に、壮大に悲しい。何だか、長城の上を顧みもせず、ドンドンドンドン歩いて行つちまい度い不思議な願望が胸をうづかせる。

やがて私は自分を、その場所からひつぺがすやうにして、麓の関門の有る所まで滑り下りた。(略)こはごはしい石垣の前に桃の蕾がふくらんで、遥々と旅を重ねて来た駱駝の一群がガラン、ゴロウンと首の鈴を間遠く立てつゝ、やつと此所まで辿り著いたなんて感懐は毛程も無ささうに歩いて行く。
 
最後の一文が効いてゐる。晴子の筆は自身の昂揚に、冷徹な観察力とユーモアを絡ませることで一層生彩を放つ。『米國の旅日本の旅』もさう。晴子の文章で記憶に残る箇所を挙げてゆくとすれば、それこそ切りがない。どこを繙いても引用したくなる言葉が現れる。以下にいくつか並べるのはたまたま開いたページにあつたものに過ぎない。
 
毛皮に着ふくれて立ちながら馬を御する髯男が、腕の附根から手を振り廻して呼ぶ。私達も窓から乗り出してハンケチを振る。午後八時半までは夜と見なさぬとて電燈のともらぬ雪明り。人なつかしい夕である(シベリア)。
 
「こはこはいかに」と云ふ様な場合「コワ、コワ、コワ」と云ひ、「閉つてゐる」のフランス語は「人(へー)るめえ」と聞え、「あい、さうさ」「ウィ・セッサ」の軽い調子が似てゐるのも面白い(フランス)。

床は黒と白の細かい市松の花瓦が、樹の間洩る月光を思はせて冷たい。その床にアラビア風のふくよかなクッションに寄つて半ば横(よこた)はれば、視線の行末は天井である。だからムアは天井に凝つた。(略)其寝室はアラビアン・ナイトの寝物語にふさはしく、麗人の胸に幻想の盛り上り湧き上るのを押し平めぬ為に、天井も亦蜂巣(ハネコム)に似たドームをなして、五千に近い小窩の凹凸が光と影とを怪しく錯綜させつゝ、ふつさりと王者の夢を覆ふ(アルハンブラ宮殿)。
 
寒い。寒い。叩けばカンカン鳴りさうな青天。白くて暗い窓穴のボスリ、ボスリと開いた骸骨然たる家々。足元の灰色の岩。四百尺下に拡がる青灰色の荒野。其中に巨大な切株のやうに残るエンチャンテッド・メサ。曠野のはてにくつきりと白いテーラーの嶺。それを一つ一つ、二三分づゝ見つめ、五六百回足踏し、数千回歯をガチ〳〵鳴らしても、まだガイドは上つて来ない(ニューメキシコ)。

晴子の紀行文がスターン「感傷旅行」や「枕草子」、「更級日記」等に通じる高みに達してゐると云つたのは竹友藻風である。たしかに鋭い観察眼、うるほひのある情感、理智、ウィット、博識、古典の造詣、自由闊達さ、偏見のなさ、人間に対する多大な関心と同情、アイロニーと挙げてくれば、晴子の文章に匹敵する紀行文はさして多くないことに気づかされる。晴子の単行本未収録の文章は多数残されてゐる。『歐米の隅々』その他が復刊され、単行本未収録作品をまとめた書物がいつの日か刊行される日を私は日夜夢見てゐる。それが白日夢ではないことを祈るばかりだ。晴子の文章に対する恋心はまだまだ冷めさうにない。

初出メディア

國文學(終刊)

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