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雄略天皇は仰られました。 「狼の子のように人に慣れ従わず、 ともすれば危害を加える心を持っており、 飽食すれば離れ、 飢えれば寄ってくる。」 あらあら、今も昔もまったく同じ・・・・・。 |

画像出所=https://sekainorekisi.com/glossary/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87/
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)古代朝鮮と倭国との関係をまとめたいと思います。
チャイナに隋が建国(581年)され、次いで唐(618年)が建国された時代です。
隋ができる前までのチャイナは、五胡十六国時代から南北朝時代で、国内が戦乱に明け暮れていました。
統一王朝はなく、国の内部で殺し合いばかりをしていたわけですから、日本としては(あたりまえのことですが)関わらないのが一番で、その間の日本は平和な時代であったということができます。
この時代の日本は倭国と呼ばれた時代です。
倭国の領土は朝鮮半島の南部に及びました。
いまの韓国があったエリアは、倭国の直轄地でした。
その北側に高句麗、百済、新羅の三国がありました。
この三国は、いずれも倭国への朝貢国でした。
第二十一代雄略天皇のときのことです。
天皇が即位されて八年目のとき、高句麗が突然、新羅に攻め込むという事件がありました。
新羅は任那(みまな)日本府に助けを求めました。
任那日本府は、援軍を送って高句麗を討ち破りました。
事態が明らかになったのは、この後のことです。
そして雄略天皇は、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)と蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)を呼んで、次のように詔(みことのり)されました。
「新羅はこれまで朝貢をしていたのに、
朕が即位してからは対馬を奪おうとしたり、
高句麗のわが国への朝貢の邪魔をし、
あるいは百済の城を奪い、
わが国への朝貢さえも怠(おこた)っている。
狼の子のように人に慣れ従わず、
ともすれば危害を加える心を持っており、
飽食すれば離れ、
飢えれば寄ってくる。
よろしく攻め伐って天罰をくだせ」
こうして宿禰らは進軍し、またたく間に新羅を討ち破ったと日本書紀に書かれています。
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まず、「高句麗もわが国に朝貢していた」と書かれています。
これは当時高句麗を含めた朝鮮半島全体が倭国の傘下に入っていたことを意味します。
そして高句麗が新羅に攻め込んだことには、はっきりとした理由がありました。
それは「高句麗が倭国に朝貢のための使者を送ろうとしていた」ということです。
これを新羅が邪魔しただけでなく、高句麗の朝貢使の持ち物を奪うという事件があったのです。
高句麗が怒るのは当然のことです。
日本人はお人好しです。
追われた新羅が助けを求めてきたというだけで、任那日本府は兵を出して、追ってきた高句麗を打ち破るのです。
高句麗にしてみれば、自分たちこそ被害者です。
悪人を追ってやってきたのに、警察が、何を血迷ったか犯人ではなく被害者を逮捕したようなものです。
高句麗はもとより倭国と争う意思などありませんから、任那日本府の兵を前に退散したのです。
実はこれと同じことが、戦前の大陸で繰り返し起きています。
もともとチャイナでは、清国の時代、社会の上層階級が女真族(満人)、次が漢人、その下が諸蛮とされました。
ですから半島人は、もちろん漢人よりも下の階層です。
ところが日韓併合によって半島人は日本人となりました。
当時の日本人は世界の一等国民です。
大陸にいた半島人は皆までとは言いませんが威張り、女真人や漢人の家を襲って女子を強姦する等の事件を頻発させました。
これに怒った女真人や漢人が半島人を追いかけると、彼らは日本軍の兵舎に
「ウリたちは日本人だ。襲われている。助けてくれ」と逃げ込んできました。
当時の半島人は日本人ですから、日本軍は半島人をかくまい、追いかけてきた女真人や漢人を追い払いました。
このことが結果として、どれだけ日本が女真人や漢人から恨みを買うことになったか。
古代も同じです。
任那日本府は、あった事実を、ちゃんと中央に報告します。
報告は義務だし、目の前に争いがあれば、それを鎮めるのは日本府の役割です。
ですから、ちゃんと報告を行っています。
報告内容は、ですから「争いを鎮めました」です。
悪気なんてありません。
事実を事実としてちゃんと報告する。
問題はこのあとです。
このとき中央にあられたのが、偉大な雄略天皇だったのです。
任那日本付の報告に不審を抱いた雄略天皇は、事実関係の調査を命じます。
そして「高句麗が新羅を攻めたのは、高句麗のわが国に対する朝貢の使者を新羅に奪われ殺されたという原因が先にあった」と突きとめるのです。
調べてみれば、高句麗との今回の事件のみならず、新羅は倭国の直轄領である対馬を勝手に奪おうとしたり(いまの韓国による竹島占領に似ています)、あるいは百済の城を強奪し(韓国企業による日本企業への嫌がらせや妨害工作、買収による経営権の簒奪にも似ています)、わが国への朝貢さえも怠(おこた)っているといった事実が判明するわけです。
まさに、
狼の子のように人に慣れ従わず、
ともすれば危害を加える心を持っており、
飽食すれば離れ、
飢えれば寄ってくる。
今も昔もまったく変わらない。
そこで二人の将軍に、
「よろしく攻め伐って天罰をくだせ」
と命じるのです。
雄略天皇というお名前は、奈良時代にあとから付けられた漢風諡号です。
和名は「大泊瀬稚武天皇」といいます。
「大」は偉大な。
「泊瀬」は、雄略天皇の都が置かれた長谷。
「稚」は禾偏(のぎへん)が稲穂で、隹が小さなスズメの象形で「小さな稲穂」。
「武」は「たける」で、竹のように真っ直ぐにすることを意味します。
つまり大泊瀬稚武天皇というお名前は、
「長谷の宮で
小さな稲穂たちのために
世の中の歪(ゆが)みを
まっすぐに立て直された
偉大な天皇」
というお名前です。
こうした経験を経て、倭国は、三国に対し、国王の跡取り息子、つまり王子を倭国に人質として提供することを求めました。
あととり息子を人質に出すことで、
「我が王国は決して裏切りません」という、これは意思表示です。
そして悪さをすれば、国王の跡取り息子の王子が殺されます。
すると王国は跡継ぎがいなくなりますから、次の代で滅ぶことになります。
一方、人質となった王子は、朝貢先の国(この場合は倭国)で、父である国王が逝去するまでとどまります。
わかりやすくいえば、保育園から小学校、中学校、高校、大学、就職、結婚、サラリーマン生活まで、ずっと倭国ですごすわけです。
そして倭国の女性と恋をし、結ばれて、次の王子を倭国で産みます。
王様が亡くなると、王子は次の国王として自分の国に帰り、倭国で倭人女性との間に生まれた子が、王子として、倭国に残ります。
こうすることで、王族の血が倭人とまじり、また倭国の文化の影響を強く受けることで、互いに争いをなくそうという、これは古代における倭国が編み出した画期的なシステムです。。
そしてこの仕組は、平氏や源氏といった武士団に受け継がれ、なぜかモンゴルに受け継がれて元の大帝国のシステムとなり、その後のユーラシア大陸内のすべての王国に応用されていきました。
そのひとつの例が、西洋の王国にある近衛兵で、あのきらびやかな近衛兵(ベルばら好きの人なら、オスカルが隊長を務めていた王様付きの軍団です。)というのは、実は貴族の跡取り息子たちです。
貴族が外地に出征するとき、その貴族の子が王宮で人質として近衛兵になっているのです。
もし貴族が敵に寝返れば、その息子が公開処刑されと、そういうシステムです。
昨今の半島系の学者のなかには、そうではなくて逆に倭国が半島の三国に従属していたのだと強弁する人がいます。
しかし残念ながら、わが国の歴代天皇の中に、半島に皇太子を人質にだした天皇はひとりもいません。
ちなみに後年、強大なモンゴルが当時の半島を征していた高麗を属国にしたとき、高麗王は、大喜びで息子をモンゴルに人質として送り込み、モンゴル族の女性を王子の妻に迎えています。
雄略天皇の時代以降、百済と新羅は、ずっとこの人質を倭国に出すようになりました。
けれども、自分が悪くないのに任那日本付に攻められた高句麗は、これを承知せず、倭国の属国から離れて、独立国を営むように成っていきます。
ここで高句麗が偉かったのは、二度と新羅に軽んじられないようにと、軍事力を徹底強化したことです。
こうして高句麗は、軍事強国となっていきます。
そこに隋の大帝国ができあがるわけです。
隋は、高句麗に何度も攻め込もうとしますが、そのたびに高句麗は隋の大軍を跳ね返し、このために隋は国力を疲弊させ、あっという間に唐によって滅ぼされています。
こうなると新たに生まれた唐にとっての最大の危険が高句麗です。
唐は、チャイナのお得意の「遠交近攻」戦略で、新羅に近づき、高句麗を挟み撃ちにしようと持ちかけます。
そしてそのために、百済はお前たちにあげるよ、と。
こうして唐と新羅は百済を滅ぼしてしまいます。
それがわが国では第35代斉明天皇の時代です。
倭国は百済復興のためにと、半島に兵を送ります。
ところが3年戦ったのですが、気がつけば、「倭国と唐の戦争」になっている。
百済も新羅も、いつのまにか他人事で知らぬ顔を決め込んでいます。
これでは何のために半島で戦っているのか、わかりません。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、倭国は唐と話し合い、半島から兵を全部撤収することを決めます。
このとき半島における倭国の直轄領を含めた権益の一切も放棄しています。
これは先の大戦の終戦のとき、日本が半島の権益をすべてそっくり放棄したこととまったく同じです。
まさに歴史は繰り返すです。
そして倭国は、帰国のために兵を白村江に集めて、兵たちを乗船させました。
ああ、やっと戦が終わったと、鎧兜も脱ぎ捨てて、船で兵たちが酒を酌み交わしはじめたとき、いきなり襲ってきたのが新羅です。
当時の船は木造船です。
火をかけられたらひとたまりもありません。
倭軍は、慌てて出港しますが、5万の兵のうちの1万を失うことになりました。
これは古代における大虐殺ともいえる事件です。
この事件について、これを「白村江の戦い」と呼び、あたかも正々堂々とした倭国軍と新羅軍の衝突であるかのように見せかけているのは、「歴史の偽装」です。
本来ならば「白村江事件」と呼ぶべき大虐殺事件です。
ちなみにこのとき新羅が「鉄甲船を用いて木造の倭国軍の船を蹴散らした」というお話があります。
ただのファンタジーです。
そのファンタジーを信じ込んだコリアの人が、実際にその鉄甲船を復元して作ってみたら、船が重すぎて前に進まない。
仕方がないので、一度海に動かさずに浮かべただけで、あとは陸上展示しているそうです。
頭がオカシイんじゃないかと言いたくなります。
こうして漁夫の利で半島を手に入れた新羅は、唐に土下座外交をするかたわら、新羅国内では唐の兵たちにあらゆる乱暴狼藉を働きます。
それを唐から咎められると、ひたすらごめんなさいを繰り返す。
それで、もう悪さをしなくなるかというと、そんなことはなくて、相変わらず悪さを続ける。
これは、実はいまでも行われていて、半島にある米軍基地にコリアンは白人にはひたすら恭順するけれど、同じ米軍でも黒人さんたちにはものすごく失礼な態度を取っています。
まさに千年前も今も変わらない。
この繰り返しでいい加減辟易した唐は、新羅に朝貢を命じて半島から去っていきます。
こうして新羅はまさに漁夫の利で、半島全域を手に入れます。
ただし、手に入れて大きな顔をしたのは、元新羅の王族だけです。
元百済の住民、元高句麗の住民、半島南部の元倭国直轄地の倭人たちの身分は奴隷となり、あらゆる収奪が行われるようになりました。
これが5世紀から7世紀にかけての日本と半島の関わりの歴史です。
私達はあらためて、日本書紀に書かれた歴史を学ぶ必要があるのではないでしょうか。
そうそう。最後にもうひとつ。
7世紀の日本は小国であり、唐という超大国に学んだのだ。藤原京や奈良の都も、唐の長安を模倣したものだ、という説があります。
さらにここから派生して、唐の長安は人口200万の大都市。
藤原京は20万で、その差は10倍もあった、などと教えられたりします。
まったくのデタラメです。
チャイナが城塞都市国家であることはみなさんご存知のとおりです。
その長安の街区図は、いまネットでいくらでも見ることができますが、藤原京よりもひとまわり小さなものです。
どんなに頑張って、街を満員電車さながらにしても、人口40万がやっと。
おそらく、実際には20万であったものと思われます。
このことが何を意味しているかというと、倭国は、当時にあって、東アジアの超大国であったという事実です。
そして倭国と、隋や唐との最大の違いは、隋や唐が外来王朝であって、中原をいわば植民地とし、逆らう者には死を与えることで、いくらでも徴兵能力を持った(兵が足らなくなれば、いくらでも周辺国に攻め入って奴隷を確保すれば良かった)のに対し、倭国は、全国の豪族たちがみな縁続きの血縁者であって、そうした虐殺徴兵ができません。
兵力格差が、重大な意味を持った古代の戦いにおいて、このことは倭国にとっては致命的な問題で、そのために倭国は、虐殺徴発に代わる、まったく別な兵力増強手段として、国民国家の形成を始めるのです。
そしてそのためには、王族支配しか眼中にない半島は、むしろ国家の統一に際して邪魔な存在でさえあったわけです。
これが聖徳太子から天智天武持統天皇に至る、7世紀における倭国の一連の大改革につながり、いまの日本の原型になっています。
お読みいただき、ありがとうございました。

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半島辺りは、古代から少しも変わって無いということですね。
人類の癌は結構強か!
言われたら言い返す?
奴らと同じ土俵での悪口雑言合戦は、もうウンザリです。
半島は無人にならない?
なぜ滅びないのですか?