2019年09月03日
声
センシティブなタイミングだったんだね。
知らんかった。
でも流石にそこまで配慮は出来ないよ。
だって知らないんだもん。
ごめんね。
自分が関わった以降のことは知らないし、自分が体験したことはこれからも書くと思う。
だから、少しでも傷つきたく無い人は俺が書いている文章なんか読まない方が良いと思う。
自分が作った作品は今でも誇りに思っています。
でも、環境は最悪だった。
今はもう離れているらしいけど、あの制作会社に演劇を作る資格は無い。
そういうのは客席からは見えないし、言ってくれるなという意見も半分は理解出来る。
板の上に上がっているものだけを観たいというのもわかる。
でも俺は、肋骨を損傷している役者をマチソワ間に駆り出してDVD特典映像の為に休ませないとか、そんなの演劇以前の問題だと思う。
「あの役者、気に入らないから台詞全カットかヘタに見えるように演出してください」とか言う人に演劇に触れて欲しくは無い。
それでも役者は頑張るんだよ。
本が酷くても、演出家が来なくても、制作会社が劣悪でも、お客さんには関係無いから役者は現場で頑張る。
舞台の上で笑顔を見せる。
お客さんには関係無いから。
そして役者は声をあげない。
お客さんには関係無いから。
仕事を失いたく無いから。
役者が役割以上のことを、本来は脚本家や演出家や制作がやらなければいけないことをやって、頑張って成立させている芝居が多過ぎる。
恨んでいるわけではないの。
まだ制作を続けているから言うの。
見ぬふりするのは役者を潰すことに加担しているのと同じだと思うから。
2019年09月02日
夏
ちょっとだけ昔話。
演出で呼ばれた芝居。
稽古初日に渡された脚本が、まあ酷かった。
前作との辻褄も合って無くて、そもそも前作もなかなか酷い本だったので半分オイラが書き直したという経緯があった。
脚本家さんがが書いた本に手を入れたのは初めてのことで、ぶん殴られる覚悟で書き直したのだけれど、本番を観た脚本家さんは満足そうだった。
「僕と御笠ノさんは相性が良いんですね」
と。
ああ、この人は自分の書いたものになんのプライドも責任も感じて無い人なんだなって悟った。
それでも二作目を引き受けたのは、理不尽な理由でキャス変されそうになっていた俳優が何人か居たから。
「このシリーズではキャス変はしない」
「本番期間中のマチソワ間に取材等を入れない(俳優を休ませるため)」
「出演者数に見合った人数のトレーナーを入れる」
これらを条件にして二作目を引き受けた。
そして二作目の稽古初日。
初めての読み合わせが終わったあとの空気は酷かった。
何も起きていない、何も成立していない脚本。
「これ、書き直してもらえませんか?」
制作側の回答は、
「執筆は稽古初日までの契約なのであとは現場で…」
とのことだった。
今思えば、前作で大幅に手を入れたこともあったので、オイラが直すことが前提で組まれていたんだろうね。
稽古を休んで書き直した。
元の台本なんて1ミリも使わなかった。
残したのは引用されていたマザーグースの一節だけ。
書き直していくプロセスで登場人物の内の三人が死んでしまう流れになった。
演じていた三人と話した。
「ここで役が死ぬということは続編に出られないことになる。続編に出られないということは仕事を失うということ。だから厳しい場合は別の物語を書くから正直にNOと言って欲しい」
三人は笑って言った。
「この本がやりたいです」
本番期間中、彼らが死ぬ場面で毎回涙が流れた。
役なのか本人なのか、書いた俺にも境界線がわからなくなってしまっていた。
本番が終わり、オイラはクビになった。
演劇なんて二度と触れたく無いくらいに落ち込んだんだけど。
「三人に何か少しでも返せるまでは辞められない」
演劇を続けていくモチベーションの一つがそれだった。
だいぶ時間かかったけど、この夏、ようやく三人に少しだけ返せた。
そのことでホッとして演劇ごと辞めそうになってしまったわけですが。
まあ、全ては昔話。
その三人とはまだまだ一緒に作りたい芝居や未来があるので過去はもうどうでもいいです。
面白かった夏もぼちぼち終わるな~。
秋も好きなんだな~。
演出で呼ばれた芝居。
稽古初日に渡された脚本が、まあ酷かった。
前作との辻褄も合って無くて、そもそも前作もなかなか酷い本だったので半分オイラが書き直したという経緯があった。
脚本家さんがが書いた本に手を入れたのは初めてのことで、ぶん殴られる覚悟で書き直したのだけれど、本番を観た脚本家さんは満足そうだった。
「僕と御笠ノさんは相性が良いんですね」
と。
ああ、この人は自分の書いたものになんのプライドも責任も感じて無い人なんだなって悟った。
それでも二作目を引き受けたのは、理不尽な理由でキャス変されそうになっていた俳優が何人か居たから。
「このシリーズではキャス変はしない」
「本番期間中のマチソワ間に取材等を入れない(俳優を休ませるため)」
「出演者数に見合った人数のトレーナーを入れる」
これらを条件にして二作目を引き受けた。
そして二作目の稽古初日。
初めての読み合わせが終わったあとの空気は酷かった。
何も起きていない、何も成立していない脚本。
「これ、書き直してもらえませんか?」
制作側の回答は、
「執筆は稽古初日までの契約なのであとは現場で…」
とのことだった。
今思えば、前作で大幅に手を入れたこともあったので、オイラが直すことが前提で組まれていたんだろうね。
稽古を休んで書き直した。
元の台本なんて1ミリも使わなかった。
残したのは引用されていたマザーグースの一節だけ。
書き直していくプロセスで登場人物の内の三人が死んでしまう流れになった。
演じていた三人と話した。
「ここで役が死ぬということは続編に出られないことになる。続編に出られないということは仕事を失うということ。だから厳しい場合は別の物語を書くから正直にNOと言って欲しい」
三人は笑って言った。
「この本がやりたいです」
本番期間中、彼らが死ぬ場面で毎回涙が流れた。
役なのか本人なのか、書いた俺にも境界線がわからなくなってしまっていた。
本番が終わり、オイラはクビになった。
演劇なんて二度と触れたく無いくらいに落ち込んだんだけど。
「三人に何か少しでも返せるまでは辞められない」
演劇を続けていくモチベーションの一つがそれだった。
だいぶ時間かかったけど、この夏、ようやく三人に少しだけ返せた。
そのことでホッとして演劇ごと辞めそうになってしまったわけですが。
まあ、全ては昔話。
その三人とはまだまだ一緒に作りたい芝居や未来があるので過去はもうどうでもいいです。
面白かった夏もぼちぼち終わるな~。
秋も好きなんだな~。
2019年09月01日
ほどほどに
とある女優さんの映画を連続して観ている。
彼女が画面から放つ力について知りたくて。
答えはなんとなくわかってきた。
ジョン•レノンと同じやつだ。
他の人が演じたら凡作になりそうな作品も、彼女が演じると一定のレベルが担保されているような気がする。
そういう女優さんはいつの時代にも存在している、と思う。
以前とあるアニメーションプロデューサーと「女優さんを美しく魅力的に撮れる映画監督」について熱く語ったことを思い出す。
巨匠のほとんどは絶対にここを外していない。
自分は舞台という土俵だけど、かなり意識的に、それでいて本人にはなるべく悟られないように(ここ凄く重要)そこに取り組む。
女優さんに限ったことではない。
俳優さんと役との魅力を混ぜ合わせて出来た気体液体固体から魅力の最適解を求めることになるんだけど。
でも、伝えるのは最低限の意図。
「ここをこう演じて見せてくれたらお客さんにはこう見えるからそうやって」
みたいなオーダーはまずしない。
「あそこって今、どんな感じ?」
そんなところから聞く。
俳優さんへの演出って、そんなことのような気がする。
違うのかな。
わからんが。
昔はそのやり方がわかってもらえなくて「明確な解答」を求められることもあった。
「それを言ってしまったらもうあなたがやる意味なくなっちゃうじゃん」とは言えないので難儀した記憶もある。
近頃はそんなことも無いけど。
昨日、演劇とはまったく無関係な本を読んでいて自分の中に飛び込んできた言葉。
「概念的な情報と交換不可能な在り方」
ああ、これだって思った。
まだ整理しきれて無いんだけど。
まだまだ演劇上手くなれそうだな。
頑張ろう。
ほどほどに。
2019年08月31日
縁
舞台『幽☆遊☆白書』の幕が開いた。
連日多くの方が当日券に並んで下さっているとのこと。
ありがたい。
くれぐれも残暑には気をつけて頂きたい。
一緒に作って楽しい人達と楽しみながら作った。
そんな作品。
半年前の自分にとっては最後の演劇活動にするつもりだった作品なわけですが、色々を経て、マインドも変わり、今となってはすぐにでも続編を作りたい。
演出家の仕事のほとんどは初日を迎えるまでのことなので、舞台上で楽しんでいる一緒に作った仲間達のことを客席で見守りながら自身も楽しんでいる感覚。
乱暴にくくると、現場から最初に離れるのが脚本家で、その次が演出家だ。
両方好きだけど、自分はどちらかというと演出家だと思う。
誰かから「これから演出の仕事バンバン入ってくるだろうね」と言われた。
実はピンときてないと言うか、
正直に言うと入って来なくていいと言うか、
それは脚本についても同じで、
なんとなくこの夏に出た結論があって、
多分もう、自分は縁に突き動かされなければ演劇を作ろうとは思わないんだろうな、と思っている。
コミュニケーションの芸術である演劇。
演劇でしかコミュニケーションのとれない私。
創作。
そこで生まれる縁。
その縁が次の演劇活動に繋がるわけでして。
そういうふうに、縁から広がったもの以外は興味が無いんだと思う。
なので、この芝居で生まれた縁がまた色々な形で次の演劇に繋がればいいなぁと思っています。
今回はそんな素敵なカンパニーよ。
2019年08月27日
say
ラジオが森山の力を借りて夏の終わりを告げてくる。
抗いたい気持ちも有るが、秋が好きだから抵抗は柔らかにすんなりと受け入れるのだろう。
取材しなければならないことが増えてきたので旅に出たい。
秋には車の免許を取得しようと画策しているので冬には旅に出ようか。
春には昇華したい。
キャスティング。
この作業は楽しい。
最近楽しみを覚えた。
本を読み込み、脳裏に浮かぶ人に声をかけていく。
浮かばない部分には新しい出会いを。
極力オーディションはしたいスタイル。
『幽☆遊☆白書』はアンサンブルもオーディションして自分で選んだ。
結果的に初舞台の子が多かったんだけど、初舞台を前にして既に舞台の楽しさを実感している様子。
売れたら仕事くれ。
友人達の芝居が時期的に重なっている。
観には行けないわけだけど、互いに食えなかった頃から知っているのでこの状態は健全だと思っている。
みんな頑張れ。
シアター1010に来ると青井さんを思い出す。
思い出が多いからね。
あれから二年か。
栄之進は演劇続けてますぞ。
色々あるけど
I say hello
2019年08月26日
零点
知らせを受ける。
目を瞑る。
18歳の自分にとっては異形に見えましたよ。
そのままバイクの後ろに乗っけてもらってガチ袋を買いに連れてってもらった。
ゴムボーイとナグリとコガチとガチ袋を選んでもらった。
帰り道くらいまでは拉致とか誘拐だとか思っていたかもしれません。
俺のナグリの持ち方、釘の打ちかたを見て「零点」と。
よく零点をもらいました。
そういえば、二年前に演出したときも最終通し稽古のときに知らせがあった。
今日もそう。
演劇を作り続けていけば、出会いも増え、知らせも増えるんだろう。
演劇を作り続けていけば、作った芝居の数だけ最終通し稽古もあるものだし。
出会いの数だけ知らせもある。
順番ですからねぇ、こればっかりは。
でも、順番無視っすよね。
それは何点ですか、先輩。
とはいえ、瞼の裏には先に行ってる兄貴分と師匠と一緒にいる絵が浮かびました。
いつかはみんな行く。
そのときまた零点ください。
今日は先輩におすすめされた『ビッグ・リボウスキ』をまた観ます。
おやすみなさい。
2019年08月22日
手触り
虚と実のバランスの中で揺れ続けているわけである。
誰もが、なのだと想像するけど、こういうのは自分のことしかわからない。
この場合も自分は実、だけど人の心は虚なのだろう。
逆もあるか。
それくらい不定形なもの。
演劇だっていわゆる虚。
ただ、作っている最中は実感を伴っているから実だ。
ここの実が好きだ。
現場が好きなんだと思う。
今も、結果的に虚なのかもしれないものを皆で寄ってたかって作っている。
この感覚が好きだ。
現場でも虚なものを極力排除するように俳優やスタッフさんにオーダーしている。
実感を伴いたいんだと思う。
手触り。
それでも、演劇は何処まで行っても錯覚の芸術。
錯覚=虚かどうかまで断定出来ないけど、そこに在るのは稽古場なら稽古場でしかないし、劇場なら劇場という空間でしかない。
空間=虚なわけでもないと思うけど、近しいものではあると思う。
そこに、実感を伴って、無いのに実感を伴って挑むのが演劇人なわけで。
これは何処か多分にドンキホーテな様相だ。
お客様はお客様で、前提は虚であることを知りながら、虚と共犯関係を結んで演劇を成立させてくれる。
嬉しいのが、成功したときに何かしらの実を持ち帰ってくれるのがやはりお客様だということ。
許せないのが、実によく似せた虚を売りさばく虚の虚。
虚中の虚。
でも、その虚中の虚が実ぶって、そこそこの評価をされていたりする。
それは虚でも無い。
フェイクだ。
おそらく、心の底からフェイクが嫌いだ。
フェイクに塗れ、フェイクと比較されるような場所に居たく無い。
ときどき演劇ごと辞めようとするのは自分の中で其処のバランスが崩れたときなんだと思う。
自分の中のフェイクな部分を突きつけられて実感してしまうから、というのもあるんだろう。
手触り。
現場には手触りがある。
この夏、二つの現場で演出を手がけている。
どちらの現場にも手触りがある。
虚な自分は、手触りを感じることで初めて実感と実体を得られる気がしている。
感謝。
↑という内容の健康食品のCMを見た。
これもまた実。
2019年08月21日
俺と俺
こんなに演劇と向き合えている夏は…と、思ったので夏とオイラと演劇とで連想して記憶をほじくりかえしてみた。
そういえば、初めて自分で脚本を書き、演出をしたのも今頃の時期だった。
動き出したぞ19歳。
一人から始めた19歳。
誰から求められたわけでもなく、自分がやりたかったから人を集めた。
電柱とか掲示板とかに「馬鹿募集」って手書きのポスター貼ったりもして(違法)。
本番は近所の公民館。
20歳になっていた。
達成感なんてものを抱いたのはこの時だけ。
そのあとに襲って来た猛烈なロスト感。
一人だけ残ったのが魚住君。
馬鹿は二人になった。
公演の記録映像を「俺達が面白いと思う50人に送ろう」という話になった。
『ハリウッド スピルバーグ』で送った。
届くと思ったから。
返送されてきてないから届いたと信じている。
50人の中の一人に流山児祥がいた。
面識は無かったけど「どうやら演劇界で一番喧嘩が強いらしい」と聞いたから。
オジキ(流山児祥)から電話がきた。
知らぬ間に若手演出家コンクールというのにノミネートされてた。
そして今に至る。
39歳。
ロスト感から逃れたくて
どうにも止まらぬ気持ちを抱え続けて
時速8kmで走り続けていれば
楽しい演劇の夏がまた来るよ
俺と俺みたいな奴への私信。
そういえば、初めて自分で脚本を書き、演出をしたのも今頃の時期だった。
動き出したぞ19歳。
一人から始めた19歳。
誰から求められたわけでもなく、自分がやりたかったから人を集めた。
電柱とか掲示板とかに「馬鹿募集」って手書きのポスター貼ったりもして(違法)。
本番は近所の公民館。
20歳になっていた。
達成感なんてものを抱いたのはこの時だけ。
そのあとに襲って来た猛烈なロスト感。
一人だけ残ったのが魚住君。
馬鹿は二人になった。
公演の記録映像を「俺達が面白いと思う50人に送ろう」という話になった。
『ハリウッド スピルバーグ』で送った。
届くと思ったから。
返送されてきてないから届いたと信じている。
50人の中の一人に流山児祥がいた。
面識は無かったけど「どうやら演劇界で一番喧嘩が強いらしい」と聞いたから。
オジキ(流山児祥)から電話がきた。
知らぬ間に若手演出家コンクールというのにノミネートされてた。
そして今に至る。
39歳。
ロスト感から逃れたくて
どうにも止まらぬ気持ちを抱え続けて
時速8kmで走り続けていれば
楽しい演劇の夏がまた来るよ
俺と俺みたいな奴への私信。
2019年08月17日
何処かそう
病院からの帰り道。
駅へ向かう十五分ほどの道のり。
不思議なことに人とすれ違うことは無かった。
夏の夕暮れの東京で人がいないなんてこともなかなかないことだろう。
もしかしたら見えていなかっただけなのかもしれない。
考え事をしていたからか。
おそらくこれが今生の別れになると予感出来てしまっていたのだと思う。
頭の中で稽古スケジュールを思い浮かべる。
いつ行けるか、もう行けないか。
行けない、が現実的だった。
演劇って何処かそうだ。
そして知らせを受ける。
その後の色々も本番やらツアーやらで行けなかった。
演劇を通して出会ったから、別れ方としては理想的な形だったのかもしれない。
同じ季節に同じように演劇を作っているから思い出したこと。
残してくれた言葉を演劇に。
そんなふうに思って、ゆっくりとですが動いております。
2019年08月16日
青
今年も青空
記憶にある今日はずっと青空
記憶に無い生まれる前もきっと青空
この先もきっとずっと青空
せめて思いは青くあれ
曇りそうなら青く塗れ
Paint It, Blueでどうだ
青は誰でも持ってるはずだ
引き出しの奥にしまったままだ
俺はけっこう使うよ青
青しか持っていないから
ときどき青が足りなくなる
だから誰か
わけてよ青
曇りそうになったら
寄ってたかって青く塗れ
青空を見たかった昔の誰かと
青空を眺めている今の自分と
明日の誰か明後日の誰か
青で繋がる
青で繋げる
嗚呼青臭いアホ臭い
青い言葉は青のまま
青い思いは思うまま
青い思いで会いましょう
明日も早い
もう寝ましょう
2019年08月15日
突飛
夜。
夏になってから初めてコーヒーを淹れようとした。
フィルターがなかった。
買いに行こうと思って外に出た。
涼しかった。
雨の影響か、夏の終わりも近いのか。
だからコーヒーを淹れようとしたのか。
昼。
出かけた瞬間に豪雨。
コンビニに駆け込んで時間をつぶす。
止みそうに無いので傘を買う。
外に出た瞬間、晴れる。
そして電車の中に忘れる。
傘として使ってやることは出来なかった。
ほぼ杖だった。
アイデンティティを否定してしまってすまないと思ったけど、謝ることはもう出来ない。
別れとは往々にしてこういうもの。
夏の原風景は岩手県衣川村だ。
祖父母も亡くなり、帰ることもない。
ZABADAKの『Tin Waltz』を聴くと、何故か田舎の風景を思い出す。
不思議だ、田舎で聴いていたわけでもないのに。
そういう音楽と出会っていることが嬉しい。
昔作った童貞Tシャツが出て来た。
漢の七箇条みたいのが書いてあった。
若い頃にやっていたこういうことは大概恥ずかしいことなんだけど、恥はちゃんと晒すようにしている。
自分のやったことだし。
違うものにはなれないし。
a-haとリック・アストリーが来日するらしい。
両方行くか、後者だけにするか。
ルー・リードも観ておきたかったなぁ。
デタラメな並びだな。
脳直なので。
今日も文体が安定している。
文章を書くということは自分を確認しているようなものなのだと思う。
安定してないときの方が突飛な文章になるんだけど。
今は突飛じゃなくていい。
2019年08月14日
模様
日々、演劇を作っている。
ふと、2.5次元って郷本直也のことなんじゃないだろうかと思ったり。
同い年の39歳。
頼りになります。
七月にテレビがぶっ壊れて買い替えた。
今のテレビってそのままネットに接続出来るんだなぁとか遅れた知識をやりくりしてNetflixに登録してみたものの全然観れてない。
今の現場が終わったらまたインプットの時期に入ろう。
ニューヨークで酒を飲むことを覚えた…というわけではないのだが、帰国して以降も一日一杯だけ飲む習慣が続いている。
夏の間に川に足を浸したい。
多分出来ないけど。
広島の日もかつての相方の誕生日も長崎の日も御巣鷹山の日も通り過ぎたけど忘れてはいない。
居心地の良い店を見つけたのだけれど、いつ行っても人がいない。
空いているのはありがたいけど無くなってしまうのは困る。
車を買おうかなと思っている。
その前に免許を取らなければならないことは賢いから知っている。
スティングを観た翌日にシンディ・ローパーを観ることになるらしい。
年内は、あとはKISSか。
クラッシュとスレイドは観たかったな。
魚住と矢崎に良き人が現れることを願ってやまない。
散文の箇条書き。
心は安定している模様。
2019年08月12日
ついで
『スタンレーの魔女』についてゆっくりと思いを巡らせて綴ってみたいんだけど、千秋楽の夜には別案件の打ち合わせをし、翌日も『幽☆遊☆白書』の稽古はしているわけで。
この日々に句読点は無い。
だから思いは胸にしまい込み、次なる場所へ…という感じか。
来て下さった皆様に感謝。
関わって下さった皆様に感謝。
松本零士先生に感謝。
またスタンレー山脈を目指したい。
きっと振り返ったときに、この公演は自分の人生の中でも重要な分岐点になっていると思う。
再演をするきっかけになった人には観てもらえなかったけど、幸あれとだけ。
その夜の打ち合わせは新しい試みのもの。
新しいことをやり続けていればなんとかもつのかも。
『幽☆遊☆白書』の稽古も楽しい。
よくもまあこんなメンバーが集まったもんだ。
六本木康弘の思いが乗った殺陣にエリザベス・マリーのステージングが花を添える。
役者も達者な人達ばかりだし、ときどき茶々を入れるのが唯一の仕事のようだ。
俺はなんでこんな時間にブログを更新しているのだろうか。
寝ろと思う。
演出だけのオファーを頂いた。
嬉しい。
人の本を、完成された戯曲を演出するのが一番好きかもしれない。
自分一人なら書きたいとも思わないし、脚本は人のために書くものだと思っている。
とはいえ、所属の俳優も増えた。
年に一本くらいはオリジナルの新作を書かねばだね。
それは人のためだから出来る気がする。
自分のために何かをしようとするとどんどん演劇から離れてしまう。
離れ離れていつか舞い戻って来たら全ては演劇のためだったっていうオチなんだろうけど。
来年は40歳か。
何か、酷く自分だけが満たされる表現でもやろうか。
だったらまたバンドがやりてーわ。
予定より長く生き過ぎてるからついでに長生きしてやろう。
2019年08月01日
備えて
『スタンレーの魔女』無事に初日を迎えることが出来まして、日々上演中です。
『幽☆遊☆白書』の稽古も始まっておりまして、劇場へは行けなかったり、行けても上演には間に合わなかったり、なんとか間に合って観劇出来たりと、そんな日々です。
二年ぶりに演出家なんぞをやっているわけですが、なまってはいなかったと思う。
むしろ上手くなっていると思う。
それでも自分の感性が時代と逆行している感は否めないというか、それはどんな作品をどんなセクションで作っていても感じることなので受け入れるようにはしている。
八月になった。
八月は自分が関わった作品が三本上演されるということに気がついた。
これも多分初めてのことではないと思う。
慣れているわけでもないけれど、驚くこともなくなっている。
演劇との距離の取り方は永遠の課題だ。
少し減らしてみようと思っていた矢先のこと。
稽古場で唐橋さんが発した言葉が美しくて、以来ずっとそのことを考えている。
「世の中に一つでも多くの演劇が生まれれば」
演劇の可能性を信じていたのはかつての自分か、今もそうでいられているのか。
遠回りをしたのか。
近道をしなかっただけなのか。
好きなことでズルは出来ない。
結局そんなところを行ったり来たり。
なんて思考を郷本直也のデカい声が吹き飛ばす。
ああ、そうだった。
稽古場が好きになったのは演劇を始めたからだ。
そんなわけで、明日に備えて今日を寝る。
2019年07月28日
空想
今日は隅田川の花火大会。
近所だ。
去年は事務所のベランダから眺めた。
今年は地下にある劇場で場当たりをしていた。
僕は演劇人だ。
スタッフの皆さんが舞台を作り上げる。
役者はそこに乗る。
演出家に出来ることは見守るくらいだ。
人の手で作られるものだから、花火も演劇も美しい。
大自然の美しさも好きだけど、人の手が加わったもの、人の生きた痕跡のあるもの。
なんか、そんなものが好きだ。
舞台は形に残らない。
作ったと言い張る人と、見たと言い張る人。
その共犯関係だけが存在を証明している、気がする。
だから好きなのかもしれない。
そこに在ったって思っている人同士にしか見えない共通の空想のような。
自分の作ったものを積極的に残そうとは思わない。
誰かが覚えていてくれてればいいやぁ。
きっとその人のために作ったものだから。
明日から『スタンレーの魔女』が始まります。
観に来てくれた人の中に何かが残ってくれたら嬉しい。
2019年07月27日
鼻毛
この七月は我ながら頑張ったと思っている。
数本の舞台が同時に走っていた。
映画も公開された。
戯曲本も出版された。
久しぶりに演出もだ。
何か忘れてる気がするから、きっと何か忘れてる。
頑張った、まだ終わってないけど。
でも、こういうときは色々余裕を無くす。
余裕を無くすと人に優しく出来なくなるからよくない。
猛省した。
今後の仕事のやり方を考えた。
移動の時間も惜しかったので、レンタカーを借りて稽古場に通った。
運転は助手の矢崎。
マネージャーも兼ねてくれているから諸々の打ち合わせは車内で済ます感じ。
なんだか新鮮で楽しかった。
免許でも取ろうかと思った。
人が若い頃にしてきたことをしてこないで演劇ばっかやってきたから免許なんかも取ってないの。
自分自身の働き方を変えて、普通に生きてこれなかった部分を取り返したいという気持ちが強い。
繰り返すようだけど、辞めるわけではない。
休もうとしていただけ。
その間に色々とやろうとしていたのは、結局演劇の為だったりするし。
今のところ、演劇取ったら鼻毛くらいしか残らんだろ、こんな奴。
鼻毛以外も残したいと思っただけ。
それも色々とやりくりしたら、出来る時間は確保出来る。
何かを辞めたって時間は増やせないって、好きだったバンドが歌ってた。
そう思う、半分は。
実際は、多少は増やせると思う。
増やせるっつーか、確保は出来るよね。
そのやり方が上手くなかっただけ。
その時間を使って、演劇以外のことをやろうと思う。
そこで得たものを演劇に持ち帰る為に。
だから休むのも辞めたの。
しばらくは、やりたいことだけやっていこう。
ずっとそうしてきた気もするけど。
数本の舞台が同時に走っていた。
映画も公開された。
戯曲本も出版された。
久しぶりに演出もだ。
何か忘れてる気がするから、きっと何か忘れてる。
頑張った、まだ終わってないけど。
でも、こういうときは色々余裕を無くす。
余裕を無くすと人に優しく出来なくなるからよくない。
猛省した。
今後の仕事のやり方を考えた。
移動の時間も惜しかったので、レンタカーを借りて稽古場に通った。
運転は助手の矢崎。
マネージャーも兼ねてくれているから諸々の打ち合わせは車内で済ます感じ。
なんだか新鮮で楽しかった。
免許でも取ろうかと思った。
人が若い頃にしてきたことをしてこないで演劇ばっかやってきたから免許なんかも取ってないの。
自分自身の働き方を変えて、普通に生きてこれなかった部分を取り返したいという気持ちが強い。
繰り返すようだけど、辞めるわけではない。
休もうとしていただけ。
その間に色々とやろうとしていたのは、結局演劇の為だったりするし。
今のところ、演劇取ったら鼻毛くらいしか残らんだろ、こんな奴。
鼻毛以外も残したいと思っただけ。
それも色々とやりくりしたら、出来る時間は確保出来る。
何かを辞めたって時間は増やせないって、好きだったバンドが歌ってた。
そう思う、半分は。
実際は、多少は増やせると思う。
増やせるっつーか、確保は出来るよね。
そのやり方が上手くなかっただけ。
その時間を使って、演劇以外のことをやろうと思う。
そこで得たものを演劇に持ち帰る為に。
だから休むのも辞めたの。
しばらくは、やりたいことだけやっていこう。
ずっとそうしてきた気もするけど。
2019年07月25日
DM
誕生日だった。
お祝いのメッセージや「いいね」の念を送って下さった皆様、ありがとうございました。
誕生日を祝われることは苦手だったのですが、なんだか少しずつ喜び方がわかって来た気がします。
早く人間になります。
友人の川尻恵太が呟いていたので再度記しておこうと思いますが、演劇や芸能の世界に関わる人や目指している若者で「自分が所属している団体は大丈夫なのだろうか」とか「これから所属しようとしている場所は大丈夫なのだろうか」とか悩んでいる人はTwitterのDMから連絡して下さい。
客演先、演出家についてもある程度のことは答えられると思います。
進路相談なんかも受けつけてます。
恵ちゃん(川尻恵太)ともだし、横の繋がりで情報を共有しておりますのでヤバいところはきっちりヤバいとお伝えします。
演劇の世界と一般の社会でルールが違うなんてことは無いです。
演劇だからってパワハラやセクハラが許されるわけがない。
お金についてもそう。
そもそもお金にならない(小劇場はね)世界ではあるので、そこに関しては一般社会と違うと思うけど、習い事のようなものだと捉えるとわかりやすいんじゃないだろうか(この例え、怒られそー)。
規模や内容によってかかるお金も変わってくるので、仕組みとかお金の流れについてもレクチャーしますので、何か引っかかることがあったら気軽に相談して下さい。
2019年07月24日
39
なんか、辞めるって思われたみたい。
そうではなくて、雨降って地固まる、というやつで。
済んだことじゃなきゃこんなふうには書けないよね。
なんか、思いのほか心配されてしまった。
でも、ありがとうです。
待っていてくれる人がいるのは、オイラにとってはエネルギーにしかなりません。
プレッシャーとかにはなりません。
だから、ありがとうです。
39歳になりました。
やってみたいことをイメージしたら19歳くらいの小僧が羅列しそうなことばかりだった。
演劇しかやってこなかったからね。
演劇をやらずに生きていたら、そっちの分岐を選んでいたらどうなっただろうか?
そんなマインドが19歳みたいな思考にさせたのでしょう。
辞めはしないけど働き方改革はしていこうと思っている。
個人の仕事も、人と関わる現場も。
今回の現場も、お子さんがいる人が多いので、なるべく家庭の負担にならない稽古の在り方を摸索している。
こういうマインドを当たり前にしていきたい。
当たり前のことを、当たり前に。
自分は演劇人だから演劇の現場で。
お金の流れとかもね、重要よ。
世間はそのことで騒がしい。
ギャラの比率なんて、一般の人は知らなかったんじゃないだろうか。
どこもかしこも取り過ぎですよ。
アメリカちゃんなんかだと15%じゃなかったっけか。
うちはそれに近い比率でやってます。
会社がお金をくれるんじゃなくて、個人が会社に投資する。
そんなマインドでやってるんだけど。
ま、それについては追々。
2019年07月23日
誰か
『スタンレーの魔女』の稽古をしている。
この芝居を再演して良かったなって、まだ本番前なのに思っている。
去年、ある芝居を観て、強く違和感を抱いて、この芝居を再演したいって思った。
自分自身は演劇人としても日本人としても傍流になりつつあることを自覚している。
迎合出来る性格でもないから、受け入れていくんだと思う。
正直なことを言えば、この夏に演出する二本の芝居を終えたら演劇を休むつもりだった。
辞めることはないんだと思う。
休む、だ。
自分の中で演劇は尊いから、真摯に向き合い続けたいから、休みたいと思った。
この不安定さは演劇を始めたときからずっと抱えているもの。
演劇は好きだけど、演劇の周辺にある色々なことにはいつも疲れてしまう。
政治的なこと、不得意どころか向いてるどころか得意なんだと思うんです。
環境を良くしていきたいから、戦うべきところは戦うんです。
でも、そういう自分がとても好きではない。
向いているからといって好きではない。
本当は、食えなくたっていいから、小劇場の小僧でいたかった。
去年、寺子屋というのを始めた。
これが自分にとって大きなものになっていった。
人に教えること、向いている方ではない。
向いてないけど、疲れるけど、とても意義を感じた。
自分のやるべきことはこれなんじゃないかとも思った。
人に教えることは自分が学ぶこと。
とても多くのことを学んだ。
作品を作るプロセスも見せてあげたい。
そんなことも演劇を続けて行くモチベーションになっていった。
それでも空虚が生まれてしまうこともあるもんで、春に、夏以降の全ての案件にごめんなさいとサヨナラをした。
だから、実を言うと、雑誌や本に載っている対談は遺言のようなものだった。
そのことを知りながら対談してくれた演出家は語り終えたあとに全てを理解してくれた上で「それでも僕は慰留します」と言ってくれた。
プロデューサーはわざわざうちの近所のファミレスまで来てくれた。
初めてサシで話をした。
未来の話をした。
愉快な未来図だった。
自分にとっての演劇は誰のために作るか、だ。
劇団のために、メンバーのために、妻のために、お客さんのために、誰かのために。
ときどき自分の所在を見失って空虚が生まれてしまう。
演出家とプロデューサー。
この人達のために作りたいという思いが加わって、また続ける気持ちが生まれた。
感謝。
誰か、のために作る。
その誰か、と出会いたい。
それも自分にとっての演劇なのだと思う。
2019年07月22日
半径
ここに文章を綴る時は明確なメッセージを抱えているわけでなく、どちらかというと己の思考の整理の為に書いているようなところがある。
今日もきっとそんな文章になるだろう。
ポジティブにもネガティブにも、関わっている仕事に対する何かだと思われるのは望むところではない。
これはつまり、特定の仕事に関する何かではない。
まあ、広く自分の関わっている世界。
演劇という地平から見た世界、というか。
嘘だ。
地平なんて広さは感じていない。
クローズドな世界。
演劇だけじゃない。
見渡す限り閉じた世界。
大小様々な閉鎖空間が溢れていて、そこにいるそれぞれがそれぞれに其処を最大の宇宙と捉えている感じ、というか。
それぞれの宇宙は尊重されるべきものだと思う。
でも宇宙は膨張している。
というか、膨張させていくのも其の宇宙に参加している各々の役割なのではないかと思う。
そしてその過程で、自分のいる宇宙の他にも宇宙があることに気がつき、時には移民として渡ってみるとか。
今見えている最大が最大ではないはずなのだけれど。
きっともっと広がるものがあるはずなのだけれど。
そうはなっていない感じが、つまりは居心地が悪いのだ。
僕の場所は何処?
多くの事象の妨げになっているものが概ねプライドに起因するものだったり、プライドそのものだったりする。
プライドというものに、もはやポジティブなものを感じなくなってしまっている。
いるものだったっけ?
プライド。
特に、自分自身にかかっているプライド。
それが膨張とか成長とかを止めていることに、みんな気づきながら受け入れている感じ。
そこに居心地の悪さを感じる。
それを言葉にすることで更に居心地の悪さを増幅させているような気がするのだ。
でも言葉や態度にすることで共振共鳴する誰かと出会えることもある。
だから自分の音を出すことは辞めないし、諦めたくもない。
ただ、ときどき疲れる。
疲れながらも、手の届く半径を広げ、自分の関わる宇宙を膨張させて行きたいと、願い、思い、実践する。
その繰り返しの果てに死か。
なんてことにも薄々気がついてはいるのだけれど。
半径を広げようとして手を伸ばす。
その手は鋭利なものに触れて傷つくこともある。
痛みの中で見つけた言葉も傷だらけの手も、近くの人には響かないし届かない。
その痛みも、傷も、なくてもしなくてもいいものだからと、言葉にしても、手を伸ばしても。
掴むのは雲ばかり。
概ね、私という名の宇宙との衝突により生じるプライドというものが障害になって。
それで、やはり疲れる。
虚しさに近い。
でも、遠くの誰かに響いたり、届いたりすることがある。
今ではそういうことの方が多い。
だからなんとかなっているのかもしれない。
それでも半径を広げようとするのは、
結局のところ自己愛で、
言葉や、
握りしめてくれる手を求めているだけなのかもしれないんだけど。
それでもやっぱり手を伸ばし音色とフォントを変えながら叫び続けるのだろう。
おちーんちーん。
寝よ。
眠いのだから。