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| 全国の神社などにある「忠魂碑」。 いったい、どれだけあるのでしょうか。
 それを調べた方々がいます。
 埼玉県神道青年会の皆様です。
 県内の忠魂碑を一軒一軒回って、その来歴を調べ、一基ごとの写真とともに、それらを一冊の本にまとめられました。
 それが下の写真です。
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 以前、このブログで筆者の地元の「忠魂碑」のことを書かせていただいたことがあります。
以前、このブログで筆者の地元の「忠魂碑」のことを書かせていただいたことがあります。
それは巨大な石碑なのですが、神社の角に、いまではすっかり忘れらさられたように建っています。
ところがその石碑の裏には、たくさんの人の名前が掘ってあります。
いったい、何のお名前なのでしょう。
実は、そのお名前は、地元から出征して散華された方々のお名前です。
とりわけ「希典書(まれすけしょ)」と揮毫(きごう)されている忠魂碑は、最も数が多いですけれど、これは日露戦争のときの地元の英霊たちの忠魂碑です。
埼玉県神道青年会の皆様は、県内の忠魂碑を一軒一軒回って、すべての忠魂碑について、その来歴を調べ、一基ごとの写真とともに、その内容、来歴を一冊の本にまとめられました。
それがトップの写真です。
こうして調査した「忠魂碑」は、埼玉県内だけで、なんと1537基。
石碑の揮毫は、乃木希典陸軍大将、靖国神社第五代宮司筑波藤麿王、福島安正陸軍大将、川村景明元帥陸軍大将、寺内正毅元帥陸軍大将内閣総理大臣、大山巌元帥陸軍大将、東郷平八郎元帥海軍大将、他10名に及びます。
つまり忠魂碑は、日露戦争に限らず、戊辰戦争以降、散っていかれた地元の出身の兵隊さんたちの御魂を慰め、またその遺徳を未来永劫語り継ごうと建てられたものであったのです。
この本の「刊行に際して」に、次の一文があります。| 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!
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        「祖国を愛し、故郷を思い、家族を案じて、
 春秋に富む人生を道半ばで
 寂しくも散華せられた英霊を想うと
 断腸の念に堪えません。
 その至純崇高なる殉国の精神は、
 国民等しく敬い尊び追悼し、
 永久に語り継ぐべきものであります。
 今日、我が国の歴史と誇りを示す郷土の資料であり、
 遺族や戦友の思いが込められた
 忠魂碑等の戦争に関する石碑が、
 神社の境内や公園、学校等津々浦々に
 立っていることの意義は計り知れません。
 英霊の誠心を学び、
 正しい歴史認識を持ち、
 戦争を真剣に考え、
 平和を祈る、
 そういう立派な志を持った人が増えるよう願って
 碑が経っております。」
私達の先輩たちは、戦争という現実から目をそむけることをしなかったのです。
そして心から平和を望み、散華された方々の、愛を勇気を、決して無駄にしないことを、石に刻んだのです。
すこし地元のお話をします。
昭和20年の夏。
GHQがやってくると聞いた地元八幡神社の氏子(うじこ)さんたちが集まって相談しました。
「万一、この石碑が、
 GHQによって
 接取または取り壊しになったら
 申し訳ない。
 どうしたら良いだろうか」
こうして、有志で石碑を地面に埋めました。
昭和27年、サンフランシスコ講和条約でわが国の主権が回復した時、一番最初に地元の人達が行ったことが、その忠魂碑を掘り起こすことでした。
日露戦争が終わったのが、明治38(1905)年です。
大東亜戦争の終戦が昭和20(1945)年。
サンフランシスコ平和条約が、昭和27(1952)年です。
その時点では日露戦争からまだ47年です。
日露戦争に従軍され、命を落とされた兵隊さんは、当時だいたい20歳前後すから、彼らの奥さんや姉妹たちは、この碑が掘り起こされたときには60代です。
若い日に、大好きだった勇敢で明るくてしっかり者だったうちの父ちゃんが名誉の戦死を遂げた。
その死を悼んで、乃木将軍が、大きな碑を建ててくださった。
その碑は、地域のみんなで大事に地元の神社に建立されていた。
だから毎回、神社に行くたびに、この碑の前で、お父ちゃんに手を合わせていたのです。
石碑はものすごい重量物です。
けれど重機なんかありませんから、ぜんぶ手作業で、みんなでエンコラって、掘り起こしました。
掘り起こした石碑は土を払い、水できれいに洗って、元の台座の上にご安置しました。
そのとき、おばあちゃんは地面に座って両手を合わせ、涙を流していました。
誰かが言いました。
「なんで泣いてんだ?」
「旦那が帰って来たって思ってるんだよ」
もらい泣きしました。
旅順要塞戦の頃、まだ3つだった伍長の息子さんは、もう壮年です。
境内で、碑を起こす人夫さんたちに大声で指揮をとっていました。
サンフランシスコ講和条約締結の日は、9月8日です。
まだ残暑が厳しい頃のことです。
神社の境内には、蝉がミンミン鳴いていました。
飛び散る汗。人足さんたちの掛け声、三角に組まれた足場。
地面に座り込んで手を合わせるお婆ちゃんたち。
碑が立ちあがり、お天道様が西の空に沈んで、その日の夜、神社の氏子会館で、簡単な宴が行われました。
なつかしいおじいちゃん、青春の日のおじいちゃん、勇壮な出征のときの様子が語られました。
乃木将軍がやってきた日のことが語られました。
「あの日は、県知事さんや、市長さんたちも来てね・・・」
「乃木将軍、大礼服来て、あの日、暑かったぺや」
「おめえ、いたずらこいて、兵隊さんに怒られてたろ?」
「やめてよ、お母さん。あれはもう50年も昔の話でねーか」
宴が終わって、帰り道、またまた境内で、両手を合わせ、深々とお辞儀をして二拍する人々。
そんな歴史が、すぐ近くの神社にありました。
埼玉県神道青年会編『埼玉県の忠魂碑』についてのお問い合わせは埼玉県神社庁へ。
所在: 〒330-0803 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1丁目447−1
電話: 048-643-3542
お読みいただき、ありがとうございました。

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すると「桜花の絆! 戦病没者・戦災死没者よ安らかに!」なる
サイトを見つけました。
各県別に英霊祭祀社・忠魂碑など多くのリストが存在するようです。
全内容を把握していませんが、日本全国を網羅しようとしている力作サイトです。
履歴を見ると平成26年に立ち上げて、最近特に活発に更新されています。
皆さんぜひご覧ください。
靖國神社遊就館前広場のベンチで休憩していました。
その時、後ろから話し声が聞こえてきました。
要約するとこんな話でした。
・心魂とは心に響く共鳴。
・身魂とは自分を磨く心。
・入口は身魂で上は心魂。
・共鳴できれば気場は無用。
・花木は心魂を持っている。
・動物は身魂も心魂も無い。
・動物は過去など考えない。
・動物は今を生きる自己中。
・だから心など通じない。
・人の心にも種類がある。
振り返って言いました。
「失礼ですが、ではあの像は何のためでしょうか?」
目の前には動物慰霊像がいます。
・戦没馬慰霊像
・軍犬慰霊像
・鳩魂塔
と…突風!
軍犬像に捧げられた水のボトルが吹き飛ばされました。
急いで拾い集めて捧げなおしながら振り返ると、件の正装組は消えていました。
人の心って何だろう。
仲間と参集殿に入っても、暫く考え続けていました。