「攻殻機動隊」をめぐる
5つの考察
2029年、かくして
機械と人間は融合する
人間の社会や生活のあらゆるところに
機械が存在するようになったいま、
ぼくらは機械といかに向き合っていくべきか?
日本AI界の伝道師・松田卓也は、「攻殻機動隊」こそが
「機械と人間のあるべき関係」を示していると語る。
「2029」に至る道
「攻殻機動隊」の舞台は2029年ですが、(現実の世界では)レイ・カーツワイルは、人工知能(AI)がチューリングテストをパスするのが2029年になると予想しています。これはまったくの偶然だと思いますが、AIにとって重要なタイミングが「2029年」にぴたっと重なるところがおもしろい。
松田卓也|TAKUYA MATSUDA
では、その2029年にどんな世界が訪れることになるかを考えたときに、「攻殻機動隊」は非常にリアルに技術や社会を描いている。なかでもいちばん注目すべきことは、「攻殻機動隊」の世界のなかでは人間の「義体化」、そして「電脳化」が実現していることです。
義体化とは、たとえば義手や義足、人工心臓、あるいは眼鏡だってある意味ではそうですが、人間の欠けた機能を補う、または機能を増強するものです。たとえばすでに、義足で走ったほうが速いという時代が訪れつつありますが、これからはますます機能を増強する義体技術が増えてくるでしょう。
「義体化」「電脳化」こそが、
人類がこれから
進むべき道ではないか
そして電脳化。(主人公の)草薙素子は、脳と脊髄だけを残して、あとはすべてが義体化されていることで超人的な能力を手に入れていますが、それだけでなく知能もすごい。彼女の脳が普通の人間のものならそんなことにはならないはずで、つまり素子は電脳化して、脳がコンピューターとネットワークを介してつながっているということです。
こうした「義体化」「電脳化」こそが、人類がこれから進むべき道ではないか、というのがぼくの主張です。なぜか? AIについての議論になると、必ずAI脅威論というものが出てくる。ぼくが「ハリウッド的世界観」と呼んでいる考え方です。そのいちばんの典型が映画『ターミネーター』であり、「スカイネット」というAIが意識をもち、意志や意図をもち、人間を滅ぼすためにターミネーターを操縦する。このように「人間とは異なる存在」が、人間より賢くなり、人間を支配する、あるいは滅ぼすという考えが、多くの人がAIに対してもつ恐怖の根源なわけです。
一方で、「攻殻機動隊」の世界で描かれているのは、機械と人間が融合した姿です。どこからが機械でどこからが人間かというのはもはや哲学的な問題になりますが、素子は脳と脊髄以外が機械に置き換わっていても、人間の精神を保ったまま義体化、電脳化することで能力を極限まで高めている。これが、「攻殻機動隊」で描かれている機械と人間の関係になるのです。
ロボティクスの未来は日本にあるか?
この考え方の違いは、西洋と日本のロボットに対する接し方から来ていると思います。つまり西洋のキリスト教的な世界観では、ロボットなど人間とは異なる存在に対する拒否感や脅威感がある。それに比べて日本では、ドラえもんやアトムといったキャラクターが愛されているように、ロボットに対する拒否感が少ない。
では、「攻殻機動隊」のように知能強化された人間に対してはどうか? 映画『トランセンデンス』では、ウィル博士(ジョニー・デップ)がコンピューターにマインドアップロードすることでものすごい能力を手に入れたわけですが、映画では「強化された人間」であるはずの彼のことも(人類の)敵として描かれていました。これも、異質なものを恐れるという意味ではいかにも西洋的な発想だとぼくは思います。日本人だったらむしろ、神として崇めるような存在になるんじゃないかという気がします。
このようにロボットへの拒否感が少ない日本は、世界に先立って機械と人間の融合をうまく進めていくことができるかもしれません。あるいは、「攻殻機動隊」がいま、こうしてハリウッド映画化されることで、米国人も、機械との向き合い方のひとつに融合という道があるということに気づくかもしれません。
インターネットによってあらゆる情報にアクセスできるようになったわれわれは、いまだって昔の人に比べて圧倒的に知能が増強されているといえます。現在はスマートフォンを介してインターネットを使っていますが、将来的にはそのデヴァイスは眼鏡になり、コンタクトレンズになり、もっと進めば脳の中にデヴァイスを埋め込むことで直接ネットにアクセスできるようになるでしょう。技術的にも、人間とは異なる存在としてのロボットをつくるよりも、人間を強化していくために機械を活用していくほうが目処がついているわけです。
人間の物語
5年前に『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』という本を書いたのですが、あのときは正直言って、技術的なことにはあまり詳しくなかったので、夢のような話、つまり機械が意識をもつかもしれないというAIの未来図を描きました。しかしそれから、計算論的神経科学の分野を勉強すればするほど、意識なんてそう簡単には生まれないということを知ることになりました。
大脳の後ろ側のほとんどは、視覚や聴覚、触覚といった知覚を担っています。前側には運動野があって、身体を動かすための役割を担っている。理性や論理性、数学や科学をする能力といった「人間らしさ」と呼べる能力は、額部分の脳のほんの一部でしか担っていない。つまり脳は何をするものかというと、基本的には知覚をして、筋肉を動かすもの。エサをとる、敵から逃げるといった生存のための、基本的な能力を果たすものです。
士郎正宗がすごいと思うのは、
1989年にはるか未来の
テクノロジーを
的確に想像しながら、
いまも昔も変わらない
人間の社会を描いていること
そういう意味では、人間の脳の構造は、たとえば猿の脳と比べてもそこまで差はありません。でも機能的には人間の脳はほかの動物とは圧倒的な差があって、人間だけが言語をもち、高度な思考をし、このような巨大な文明を生み出しました。この差は何か?というところに、人間の人間たるゆえんを解き明かすためのヒントがあるのだと思います。
ところが現在のAI研究を見てみると、そのほとんどが知覚を研究しています。それに比べて運動の研究は進んでいませんが、それもこれからできるようになってくるでしょう。つまりいま理解が進んでいるのは、人間の脳というよりは、猿の脳。動物としての基本である、情報を受け取って動く、という能力をコンピューターに行わせるところで留まっているわけです。もちろんコンピューターにとっての出力は筋肉を動かすのではなく、電気信号やメールを出すといったことになるわけですが、それさえもまだまだできていません。
そう考えると、コンピューターに意識をもたせるなんてことは先の先の先。2045年のことはまだわかりませんが、少なくとも2029年に、人間らしい知能や意識をコンピューターに備えさせることはできないでしょう。脳というのは、そんなに簡単なものじゃないということです。
そうした機械では代替できない人間らしさ、人間の本質は、何年経ったって変わらない。原作者の士郎正宗がすごいと思うのは、1989年にはるか未来のテクノロジーを的確に想像しながら、いまも昔も変わらない人間の社会を描いていることです。政治権力争いに犯罪、恋愛やアイデンティティの模索…どんなにテクノロジーが進化しても、そうしたものはなくならない。「攻殻機動隊」は、結局のところ人間の物語なのです。