マストドンのProfile directoryが盛り上がりを見せているのに対して、Misskeyの「みつける」は、フェアネスでもオープンネスでも大きく水をあけられている。
マストドンのProfile directoryとMisskeyの「みつける」は、どちらもURLが /explore であり、コンセプトも共通する。ただし、マストドンではユーザーが最近トゥートした順に配列される (旧仕様。新仕様では新しいユーザーの順を選択できる) のに対して、Misskeyでは「ピン止めされたユーザー」、「人気のユーザー」、「最近投稿したユーザー」、「新規ユーザー」というセクションがこの順にならんでいる。ここで「ピン止めされたユーザー」とは、当初は「公式アカウント」と呼ばれていたものである。「人気のユーザー」は、フォロワー数の順である。
また、Misskeyには「みつける」とは別に「おすすめユーザー」パネルがあり、こちらのほうが古い。「おすすめユーザー」パネルの配列は、フォロワー数の順である。
さて、Misskeyの「みつける」のフェアネスはどうだろうか? 「ピン止めされたユーザー」の実態は公式アカウントなので、フェアネスを議論する意味がない。「人気のユーザー」、すなわちフォロワー数順のリストのフェアネスは最悪である。「最近投稿したユーザー」は、パワーユーザーエフェクトの懸念があり、フェアネスはそこそこ。「新規ユーザー」はフェアであるが、しかし、「最近投稿したユーザー」と「新規ユーザー」があるあたりまで、わざわざ下にスクロールするユーザーがどれだけいるだろうか?
というわけで、Misskeyのユーザーディスカバリーメソッドのフェアネスは、ページのはるか下の方にある「最近投稿したユーザー」と「新規ユーザー」を除けば、率直に言って最悪ということがわかる。
ここでめいめいによるフォークに言及すると話がややこしくなる。めいめいによるフォークの「みつける」は「おすすめユーザー」というセクションがあり、User Matching in FediverseのAPIを呼んでいる。User Matching in Fediverseは、作者が私なので当たり前だが、レコメンデーションがフェアになるように設計されている。とはいえ、めいめいによるフォークの「みつける」は、「公式アカウント」、「人気のユーザー」のセクションがあってその下に「おすすめユーザー」なので、フェアネスについてはあまり期待できるものではない。
話を戻すと、Misskeyの「みつける」は顕著にアンフェアであり、ついでに「おすすめユーザー」パネルもアンフェアである。例えばmisskey.ioでは、作者のしゅいろと管理者の村上が常にリストの最上位に掲載されている状態である。これは相当に面の皮が厚くないとできない芸当である。マストドンのProfile directoryでは、当初はフォロワー数順の配列が選択できたが、リリースまでにこっそり削除されている。Gargronのようなシャイな青年にとって、自分自身がリストの先頭に居座り続けることは、きまりが悪かったのだろう。
フェアネスではなくオープンネスについて言えば、マストドンのProfile directoryもMisskeyの「みつける」も、表示されるのはローカルなユーザーに限定されていた。マストドンはリモートのユーザーも表示されるように改良を加えたが、まだリリースバージョンには反映されていない。
これまでフェアネスについてはさんざん言及してきたが、オープンネスはなぜ重要なのだろうか? ユーザーディスカバリーメソッドがオープンでなければ、ソーシャルグラフは小集団に分割され、それらの小集団を超えた交流は希薄になる。これはインターネットを電話かLINEグループのように使うことになる。それぞれの閉鎖的な小集団は、民主主義者の集まりであれば民主的に運営されるだろうし、強権的な人物とその追従者の集まりであれば強権的に運営されるだろう。荒くれものの集まりであればニガーやファゴットでは済まないような強い言葉が飛び交うだろうし、攻撃性を嫌悪し集団の和を重んじる小集団であれば、それに従わない人物を一致団結して追い出しにかかることだろう。
それぞれの小集団には良いところもあれば悪いところもある。一般論としては、外部の目が届いているほうが、その集団の悪いところが凝縮されていくのを防ぐことができる。
あるいは、Misskeyの作者とmisskey.ioの管理者は、意図的にアンフェアかつクローズドなコミュニティを志向しているのかもしれない。他の小規模なインスタンスの管理者たちが、そのあたりの機微を理解しているかどうかは、また別の問題である。