柳が7度目も崩しきれなかった「10勝の壁」に、30年前に挑んだ投手の話を書こう。のちにレジェンドと呼ばれる山本昌だが、1989年は9勝目を挙げてから苦しんだ。4度目の先発となる9月23日の阪神戦(甲子園)が、ラストチャンスだった。なぜなら翌日にはフロリダ野球留学への出発が決まっていたからだ。代名詞となるスクリューボールを手土産にした留学は前年で、これが第2章となる。
2桁を前に足踏みする山本さんに、星野監督は「もう1回、行ってこい!」と命じた。行けばハンバーガー漬けになると知っている山本さんは「あと1回だけチャンスをください」と食い下がった。勝てば免除。負ければフロリダ。さて結果は…。
「もう何かに導かれていたんだよね。あれだけ三振を奪って、勝っていたのにあんなことが起こるんだから」。30年たった今も、山本さんはスコアや展開を詳細に覚えている。
3点リードの8回、味方の拙守もあって一挙4点を失った。逆転で負け、9勝9敗でシーズンは終わった。あまりの悔しさに、山本さんは球団から渡された航空券を自腹でビジネスクラスに格上げしたそうだ。しかし、この敗戦が新たな扉を開くのだから人生はおもしろい。
「僕は転んでもただでは起きないから。あのベロビーチではカーブを覚えた。それがあったから93年に最多勝を取れたんだ。ゴルフでいうバウンスバックだよね」
スクリューとは逆に曲がるカーブを磨いたことで、投球の幅が一気に広がった。翌90年に10勝を挙げ、さらに3年後に最多勝。大投手への階段を駆け上がっていく。
失敗を成功に、マイナスをプラスに転じる。何かを成し遂げる人は、必ず転んだ痛みを忘れず、生かしているものだ。30年前の山本さんは24歳。25歳の柳の野球人生にも、きっと鮮やかなバウンスバックが待っていると信じたい。