十万五千余人が亡くなった関東大震災。約九万人は焼死でしたが、餓死者はいません。市民はどうやって生き延びたのか。防災の知恵を探りました。
震災が起きた一九二三年、東京の人口は約二百五十万人でした。被災者は住民の半数を超える百五十万人。政府は被災者を地方に避難させます。その数、約百万人とも。今でいう広域避難です。自動車はまだ普及していない時代、どうやったのでしょうか。
◆無賃乗車で故郷へ
うまくいった理由を愛知県の西尾市岩瀬文庫で見つけました。
同文庫をつくった岩瀬弥助のスクラップブック「貼込帖(はりこみじょう)」に赤い紙=写真、西尾市岩瀬文庫所蔵=がありました。中央に大きく「罹災(りさい)者 無賃乗車船証」、右側には「鉄道省」と印刷されていて、公式の無賃乗車証と分かります。左上に手書きで「西尾」と目的地が記されています。
内閣府の報告書によると、鉄道省は九月四日以降二十日まで避難民は無賃輸送し、二十一日以降も証明書のある避難民は無賃輸送を続けました。一方、被災地に入るのは救助などに制限しました。
この措置は「ほとんど焼き尽くされた帝都の混乱を防いだ」と評価されています。
もっとも、作家田山花袋は「東京震災記」の中で少し違った話を書いています。
(避難者たちは)なだれを打ってプラットフオムへ押しかける。無賃乗車は、あれは止(や)むを得ずそうなったので、あの人雪崩に一々切符を売ったり何かしていることはとても出来たことでなかった。
岩瀬文庫には田山の見方を裏付ける資料もあります。貼込帖には無賃乗車証や罹災証明書など九十二点が貼ってありました。中には、長さ七センチ、幅一・五センチの付せん紙のような紙にガリ版刷りで「災民無賃 赤羽駅長」と書き、印が押してあるだけのものも。田端駅や日暮里駅、三河島駅もあります。混乱の中で一生懸命だったことがうかがわれます。
◆震災の語り部にも
東京・品川に住んでいた二十一歳の男性は知人と名古屋市まで避難した体験を「手記・関東大震災」(新評論)に寄せています。
「九月四日午前十時ごろに品川駅に。東海道線も中央線も不通だが、信越線は行けるという…。(群馬県の)高崎駅に着いたのは翌日午前十一時前であった。避難民たちは学生団の手厚い接待を受けた」「(車内では)身動きもせず立ち通しである。長いトンネル中でもガラス窓は開放され…。苦しさのあまりまさに倒れんばかりである」と書いています。貼込帖の乗車証を持っていた人も同じような経験をしたのでしょうか。
体験談では、六日午前五時ごろに岐阜県・中津川駅に着いて「ここでも親切な接待を受け」と感謝の言葉がつづられています。
当時、沿線の駅では、消防団や婦人会、青年団などが湯茶の接待や炊き出しをして避難者を励ましたそうです。乗り換えが多かった高崎駅での救護者は約七万人と推定されています。中には極度の不安や飢餓の人もいました。
愛知県には九月末までに約十五万人の被災者らが避難。名古屋駅前には受け入れ場所も造られました。一般家庭でも被災者を受け入れたそうです。
混乱はあったけれど、広域避難によって餓死者はゼロ。地方に避難した人たちの多くは、復興が進むと東京に戻っています。
広域避難にはもう一つ、防災に役立ったことがあります。
名古屋大学の武村雅之客員教授は「関東大震災は地方でもよく知られている。全国に広がった避難者が直接、震災の話を伝えたからだろう」と話します。
一方、流言飛語も広めました。「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」などといったデマも広がって、群馬県や長野県でも朝鮮人の虐殺が起きました。忘れてはいけない教訓です。
◆共助の心を育てる
首都直下地震は、地震から二週間後、最大で七百二十万人が避難すると想定されています。南海トラフ地震では、地震の起き方によりますが、高齢者や津波の危険性が高い地域の住民らは一週間程度の避難を指示されます。
関東大震災では被災者は親類縁者を頼って避難しました。今では難しそうです。といって、すべてを行政に頼ることもできません。
「自助や公助でなく、共助。お互いに助け合わなくてはいけない。情けは人のためならず、ですよ」。関東大震災をずっと研究している武村教授の結論です。
この記事を印刷する