北海道炭鉱強制徴用者証言集

 韓国の「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」と言うのを知っていますか?
以前、このブログでは、「ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(チルボン島事件)」で取り上げましたが、太平洋戦争末期、南太平洋マーシャル諸島内のミリ環礁に強制動員された朝鮮人が、日本軍の「人食い事件」に抵抗し、無差別虐殺されたということを報告した韓国の委員会です。

 その委員会のサイトには、いろいろな報告書が載っています。(チルボン島事件に関する報告書は未だ載っていないようですが・・・) その報告書の中に、戦前に北海道の炭鉱に「強制動員」された証言集というのと資料等が載っている報告書がありました。
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上段が委員会のサイト、下段左「強制動員口述証言集」、下段右「写真で見る強制動員の話」

 証言集はハングル版なので、私には理解できないのですが、冒頭の一部分に日本語で書かれている箇所がありました。そこを読んでいると「あれ?」と思う部分がありました。そして「ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(チルボン島事件)」と同様に、「ここに書かれているのは本当のことなのかな・・」という疑問がわいてきました。

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 資料では「1938年4月国家総動員法」ができてから強制徴用が始まったように書かれていますが、国家総動員法に基づく「国民徴用令」は1939年(昭和14年)7月より日本内地で実施されますが、朝鮮半島に適用されるのは1944年9月からです。そして日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでのわずか7ヵ月間でした。

 しかし徴用令の前に「官斡旋」と呼ばれる募集の方法がありました (1942年2月~)
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日韓基本条約に関する日本側提出資料

 企業が朝鮮総督府に必要人数を申し入れ、総督府が人数を道(日本でいう県)に割り当て、道は郡(市)に、郡は邑(町)や面(村)にそれぞれ割り当て人数を下ろしていくやり方です。邑や面は、日本へ送るのに適当と考えられる人を説得しましたが、日本行きを拒否することは出来たし拒否しても罰則はありませんでした。また官斡旋での就職先は辞める事も出来た。

 その前は「自由募集」です。朝鮮半島からはすべて自由意志で日本に来たのです。

ある証言があります。


動画の「2:46」頃からの「ヤン・ジュヒョン」と言う人の証言に注目してください。




ヤン・ジュヒョン(76)  北海道の産炭地「釧路」で生まれた。

 父親は数百人の炭鉱夫をまとめる会社経営者。乗馬に興じる余裕があった程、裕福な暮らしをしていた。14歳の時、家族と離れて一人で釜山に引き揚げる。
 釜山には不良者がたくさんいた。一人では街に出てはいけないと言われていた。街に出てみると、男たちが大声を出し、女を抱いているのを見た。海の方に連絡船の往来を見ると日本に帰りたいと思った。



 ヤンさんは14歳のとき引き上げですから、1930年代前半の生まれです。この時ヤンさんの父親は数百人の炭鉱夫をまとめる会社経営者だそうです。動画では、北海道・阿寒炭鉱に住んでいた頃の写真が紹介されていましたが、北海道阿寒町(現在は釧路市阿寒町)にあったのは雄別炭鉱と思われます。

 そして「証言集」には、「軍や大企業から下請けしたタコ部屋という特殊な労務管理システム」と言う記述がありますが、例えばどういう組織でしょうか・・・。ヤンさんの父親も炭鉱夫をまとめている会社経営者です。「タコ部屋」だったのでしょうか・・・その頃は、朝鮮人も日本人も同じように大変な時代でした。

『釧路炭山その奇跡』というサイトがあります。北海道釧路地方の炭鉱の様子が見ることができます。

そこから少し引用して紹介したいと思います。



釧路炭山の軌跡ー 太平洋炭鉱の創業 1920-1945

■戦時体制の深まりと増産

 昭和15年以降、会社従業員のほかに多数の朝鮮半島からの労働者を坑内へ投入したことに加え、農漁閑期の人びとを短期勤労報国隊としての入坑、市街の40歳以上の商店主を産業報国隊として採炭従事させ、中学生の入坑動員やヤマの女性までも入坑させました。
 坑内の機械化は進めていましたが、それを上まわる石炭増産の大号令は坑内労働を2食弁当持ちの12時間労働から14時間へと増加、これが定着します。こうした気運のもと当時の新聞は「征くぞ先山へ」「掘れ石炭 決戦の原動力」と見出しをつけて、石炭増産を訴えました。

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 昭和14年、朝鮮半島から第1陣として別保坑へ到着した徴用の労働者。
 炭鉱の労働者不足をおぎなうため昭和14年から同18年まで、朝鮮総督府を通じて徴用もしくは召集というかたちで朝鮮半島などから多くの働き手を国内の炭鉱・鉱山などに採用しました。
 当時、その人びとを≪朝鮮人労働者≫と呼んでいます。最盛期の人数は、太平洋炭礦(株)全体で2,700人になりました。写真が残されていた別保坑でも800人が採用されました。

 写真はその第1陣となった100人ほどが別保神社前で記念撮影したものです。写真左は炭鉱責任者と警察関係者、右側と後の3人は炭砿関係者です。朝鮮半島などから徴用された人たちは、鉱山のほか港湾・空港・鉄道建設などにもかかわりました。
(注:写真は着の身着のまま日本に来たという感じではないですね。まるで集団就職の写真のようです) 

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 市内商店主たちの入坑記念写真。戦争が激しくなるにつれ物資統制が進みます。買いたい品、売りたい商品が不足して配給にまわり、商店や配給店は組合へ統合されます。
 このため商店主たちも出炭増産への協力が求められ、釧路市内の40歳以下の商店主たちは産業報国隊に入り、炭鉱で石炭生産に動員されることになりました。

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 昭和19年4月25日付の太平洋炭礦(株)坑員への徴用告知書。
 昭和19年に入り国策で、太平洋炭礦も≪保坑(保安坑山)≫に指定されました。戦争で海上輸送をはばまれたことから釧路炭田を休山し、坑内の保安要員だけを置いて、その他の坑員たちは妻子や親を山元に残し、徴用告知書によって九州の炭鉱へ配置転換されました。朝鮮半島から徴用で派遣された人たちも九州へ移されました。紹介した徴用告知書は、そのとき満16歳3ヵ月になっていた佐藤 浩氏に宛てたものです

(注:徴用されたのは日本人も同じで、本人の意思には関係なく徴用されました)


注:朝鮮人鉱夫の時期が昭和14年や昭和15年という記述があるのは、当時、周辺地域も含め「○○坑」と呼ばれる多くの穴があったためです。

 さて戦争が終わった昭和30年代の釧路地方の炭鉱マンの証言があります。戦争が終わっても当時の炭鉱の「組制度」の様子がよくわかります。



釧路地方の炭鉱マンの証言

 すぐに父親と同じ庶路炭鉱に勤め始めました。昭和32年のことです。

 何せ若くて馬力がありましたから、部署も希望して一番きついけども賃金のいい掘進の仕事を選びました。決まった給料がもらえる職員ではなく1メートル掘進するといくらもらえるという請負での仕事です。

 「直轄」と呼ばれた正職員に対して「組長」をリーダーとして「◎◎組」と呼ばれる集団ごとに請負作業を行っていたのは明治時代から続く「友子制度」の名残りです。

 すでに機械化の進んでいた太平洋炭鉱では掘進や採炭作業も機械で行われていたようですが、規模の小さい庶路炭鉱ではまだダイナマイトで崩した石炭をツルハシとスコップで掘り進め、馬にトロッコを引かせて運び出すというものでした。ほとんど明治時代から変わらない「手掘り」による作業です。大体ひとつの切り羽を4、5人の「組」で掘進するのですが、何せ作業のほとんどが人力によるものですから、せいぜい一日に3メートルも進めばいい方だったのです。

 庶路炭鉱に入って8年目、26歳の時に近くの阿寒町にあった雄別炭鉱へと移りました。一人前の仕事ができるるようになれば、当時の請負の炭坑夫は腕を買われてあちこち渡り歩くのが普通でした。世話になった親方の頼みであれば絶対に断れないのが当時の決まりだったからです。

 友子制度自体はなくなっていましたが徒弟制度の「親方と弟子」のような職人同士の義理人情が強く残っている世界でした。


「釧路炭鉱マン秘話」というブログより引用



 つまり炭鉱の下請けである「組制度」では、掘れば掘っただけ賃金をもらえ、掘らなければ賃金はもらえないと言う仕組みです。これは当然過酷な労働になると思われますし、戦争で増産体制になれば余計過酷になったのでしょう「坑内労働を2食弁当持ちの12時間労働から14時間へと増加」と言うことも行っていたようです。ただこういうのも朝鮮から来た人たちだけがやっていたということではなかったということです。

 おそらく日本の人たちに聞いても「当時の炭鉱内での労働は過酷だ」というでしょう。こういう状況ですから「自由募集」のときに来ていて、「強制徴用で過去な労働を強いられた」と言うのはどうなんでしょうか・・。

 
さて、「写真で見る強制動員の話」の中には、こういう記述もありました。
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朝鮮の人たちは「いくら働いても各種名目で控除され、実際には殆どお金がもらえなかった」とされています。

 実際にそんなことがあったのでしょうか・・・一方の朝鮮の人は数百人を使い、裕福で乗馬などもやっていたというのに・・・・。
次回では、このことについて調べていきます。

【参考】

北海道炭鉱強制徴用者証言集(2)

『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(1)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(2)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(3)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(4)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(5)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(参考資料)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(参考資料 その2)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件とは・・・』

wiki『チルボン島事件』




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