修行の成果
この世界にも四季はあった。
畑に野菜や果物が余るほど実った、夏。
様々な季節の味を知った。
母親アイラは、そうした作物を美味しく料理して食べさせてくれた。
秋は、冬が来るまでに収穫を終えなくてはならない農繁期だ。
穀物の収穫と脱穀で毎日、朝から夕方まで農民が働く。
農民たちだけでは手が足りないので、大勢の季節労働者がどこからともなく集められてくる。
収穫物は税を払った後、自分たちが食べる分は残して、他は物や金に換えるらしい。
アベルは農家のことの細かい内情までは知らない。
冬が来ると一転、農家にとっては農閑期となる。
貧しい小作の家では出稼ぎに行くこともあるらしい。
余裕のあるアベルの家では、もちろんそういうことはない。
アベルは家で辞書を読んでいた。意味の分からない所、知らない単語は後回しにして、とりあえず読み進めていく。もう言葉も上達して、日常会話に難はなかった。
ここのところアベルは自らの記憶力の良さに酔いしれていた。
ざっと読み流しても、だいたいのことは頭に入る。しかも、忘れない。
これは子供の脳だからというわけではないと思う。血筋だ。
もうこれだけで十分に恵まれていると、幸福な気持ちになる。
頭の良い人間はどこまでも優秀になっていく理屈が分かった。
手早く理解が進むと、次の段階をも習得しやすくなるのだ。
加速感に似ている。これが記憶力や理解力が低いと、憶えても忘れてしまうし、消化不良のまま次の工程に進んで、なお意味不明に迷い込む……というわけだ。
今日、ウォルターとアイラは出かけていて不在だった。
身動きがとれないほどの重症者へ診療に出かけている。
アベルはお家でお留守番だった。
朝から昼までぶっ続けで読書と書き取りをやったので、午後はさすがに気怠くなった。
なんとなくウォルターの部屋に入ってみる。
父親の部屋は、なかば物置のような状態だった。
荷物は鍵のついた大箱がいくつか並んでいるだけ。
それから夏服、冬服が数着ずつ。
父親は医者だけあって医学書のようなものも数冊ある。
次にアイラの部屋。
こちらも似たり寄ったりだが、女性の必需品である化粧台がある。
普段、アイラは化粧などしないけれども。
化粧台に鏡が嵌め込まれている。この家で唯一の鏡だ。
アベルは鏡に映った自らの面相を見る。
くすんだ金髪。
ウォルターといいアイラといい、美男美女だけあって幼いながらも、かなり整った顔をしていた。
しかし、群青色をした瞳の奥には疑り深い、用心に満ち満ちた、子供らしからぬ異様な気配が宿っていた。
気のせいなどではない。
アベルの核にいる男。
無残な、失われていくだけの人生を送った男。
何も創れず、誰も愛せなかった男……。
目だけ見ていると、アベルは子供などではなかった。
破れて餓えた畜生がそこにいた。
アベルは鳴り響いた音に驚いた。
扉を乱雑に叩く音がする。来客だろうか。
椅子を持って扉へ行く。椅子の上に乗って、覗き窓を開いた。
そこにはシャーレの母親ドロテアがいた。
他にも誰かの気配がある。
「アベルお坊ちゃん! ウォルター様は?!」
慌てた声に急かされて、アベルは鍵を外して扉を開けた。
「ドロテアさん。父上と母上は診療に出かけています」
「どこに!」
「知りません」
そこにはシャーレの父親のアンガスもいた。
アベルは異常を感じる。
アンガスはシャーレを抱きかかえていた。
手首に布が巻かれているが、その布が血で真っ赤になっていた。
目も虚ろだ。
「シャーレ、怪我したの!」
アベルは本気で心配になる。
シャーレは母親に連れられ頻繁に遊びに来ていて、最も親しい少女だった。
誰に対しても本能的に心を閉ざすアベルの核にいる男だが、シャーレの無垢な愛らしさに、やや親しみを持っていた。
ドロテアが説明する。
「大鎌を乗せていた馬車がいたの。でも、鎌の刃が外に飛び出していて、シャーレの腕に引っかかったのよ」
「顔色が真っ青だ。意識が……」
「そうなの。出血は止まらないし、傷は深いし、すぐに治癒魔法で塞がないと危ないの! このままじゃ」
ドロテアは普段から看護婦として働いているぐらいだから、傷の見立ては確かなはずだった。
アンガスとドロテアが相談を始めるが、どこに行ったのか分からないではやりようがない。取りあえず待とうという結論になる。
アベルは一行を家に招く。
シャーレは長椅子の上に寝かせた。
アベルは脈を診てみる。
弱くて速い脈だった。
冷や汗が額に浮かんでいた。
何か譫言を口にしている。
大量出血で内臓から血が失われている症状だった。
アベルは血が止まっていないので、もっと腕を縛ろうとも思うが、止血はあまり長時間に及ぶと手首より上にダメージを及ぼすことになる。
状態は非常に悪かった。
-このままではシャーレが死んでしまうのではないか?
いちかばちか、やってみるか……。
どうせ失うものはなにもない!
アベルは精神を統一する。
腹の中の魔力を高める。
力の渦が回転しながら高まっていく感覚があった。
ウォルターは手に魔力を集中させていた。
アベルもそれに習う。掌に魔力が集中していく。
ジリジリ熱くなっていく。
治癒の場合、相手の体に作用を及ぼすようイメージしなくてはならない。
教わったわけではないが、直感がそう告げていた。
シャーレの呼吸は浅くなっていた。
このままでは死ぬかもしれない。
助けてやりたいと心の底から思った。
掌が、ぼわっと淡く光った。
「ドロテアさん、止血を解いて」
ドロテアは驚きつつも手首の布を外した。運悪く動脈が縦に裂けるような傷だった。それで一気に大量出血したのだろう。
傷口に光を翳す。
まずはDNAや細胞をイメージする。
それから血管が形をとり、傷が塞がる工程を強く念じた。
裂けた血管が、ピンク色の管状に戻っていく。
血管の上を覆う肉と皮下脂肪が再生していき、皮膚が一瞬で傷を覆い尽くした。
アベルは全身に大量の汗を掻いていた。
激しい運動をした直後のように呼吸が荒く乱れる。
「成功したのか……」
「信じられない。本当に治癒魔法なの!」
ドロテアとアンガスが驚愕の声を上げた。
「どうかな? 傷は塞がっているけれど出血が酷すぎるかも。もう一回やっておこう」
-血液ってどこでつくられるのだっけ?
アベルは前世の知識を思い出す。たしか、骨髄とかに造血細胞とかいうのがあったはずだ。腎臓は血液をキレイにする臓器だったような気がする。良く分からないから内臓全体に活力が行き渡るようなイメージを持ってみる。
シャーレの服を、はだけさせた。白いお腹が剥き出しになった。
まだ、ほんの子供なのに、それでも妙な艶めかしさがあった。
掌に魔力を集めると、再び白い光が発生した。そのままお腹に当てた。それがどれだけ効果があったのか明確ではないが、シャーレの脈や呼吸が落ち着いてきた。
顔色がはっきり良くなっている。何かの手ごたえがあった。
「アベルお坊ちゃん! ありがとうございますっ」
アンガスとドロテアは泣くほど感謝していた。
アベルは妙な気分になる。
人を助けるのも悪い気はしないもんだな。そんな感想だけがある。
それなりの疲労感があるアベルは椅子に座って休んでいると、しばらくしてウォルターとアイラが帰って来た。
「ウォルター様!」
ドロテアが興奮気味に事情を話す。ウォルターが信じられないという顔でアベルを見ていた。
「アベル。本当に治癒魔法を使えたのか?」
「そうみたいです。父上」
「詠唱はどうした。しなかったのか」
「あれ、なに言っているのか良くわからないから、していません」
「そりゃそうだよ。詠唱というのは、それぞれの魔術門閥が秘密にしている隠語なのだから、分からないようにやっているんだ。おれも八歳の時、偶然で自分に治癒魔術の才能があるのを発見した。でも、アベルはまだ四歳だぞ」
「父上の魔法を近くで見ていたから、自分でも使いたいとずっと思っていました」
アイラが嬉しそうにアベルを抱きしめた。
豊満な胸がアベルの顔を圧迫する。
「わっぷっ」
「さすがは、私とウォルターの息子だよっ。きっと人の役に立つ立派な魔道士様になるね」
少し魔法が使えるようになりました。
次は戦いの準備です。