家族
翌日、アベルは日の出と共に目が醒める。
初めての朝。
すべて夢でした……なんてことはなかった。
右にウォルター。左にアイラが寝ていた。
小鳥の囀りが聞こえる。アベルはウォルターとアイラに促されて起き上がった。
アイラが木戸を開け放つ。外はまだ薄暗かった。
曙光が柔らかな薄絹のように空を染めていた。
この家は周囲より一段、小高い地形に建っているから眺めがいい。
二つの大きな月が、朝と夜の境界的な様相を呈している空で幻想的に輝いていた。
異世界だなぁ……。アベルの核にいる男は思った。
朝食は、昨晩の残りのスープを温め直して、捏ねてあるパンを焼くことから始まる。
どこからともなく鶏の鳴く声が聞こえてきた。
スープが湯気を立て、竈からは香ばしい小麦粉の焼ける匂いが漂ってきた。
アベルは何となく食器の準備を手伝う。
食卓は高いのでアベルの身長では椅子の上に載らないと並べられなかったけれども。
ウォルターがその様子を嬉しそうに見ている。
ちょうど食事を済ましたころ、来客がある。
やや慌てたような声が複数あった。
ウォルターとアイラが雰囲気をがらりと変えて対応する。
緊迫感が漂った。
アベルが木戸から外を見ると、足や腕に酷い傷を負った男が担架のようなもので運ばれている。
ウォルターが同じ敷地の中にある別棟に怪我人一行を案内する。
アベルも付いていくと、その別棟には木の台があって、そこに怪我人を横に寝かせた。アイラが服を脱がしていく。
傷は何となく、動物とかにつけられたもののように見えた。
父親のウォルターが例の魔法で傷を治す……が、全ての傷が治るわけではない。
魔法によって小さい傷はある程度治るが、脛の一番大きな傷は水で洗って、そのままにしている。脛の傷は酷く、齧られたかのように欠損していた。アベルはもしかすると猛獣によるものかもと想像した。
やがて、怪我人の四肢は革のベルトで固定された。
父親はノコギリや鑿といった、およそ人の体を治すのに必要とは思えないような大工道具を取り出すと、素早く足の切断作業を開始した。
叫び声。
ベルトで拘束された男が血も凍るような声を上げる。
拘束されていても激痛に悶えた患者が大暴れする。
同伴者の大人たちが押さえつけた。
アベルは気分が悪くなった。
食べたばかりの朝食を吐きそうだ。
仕事小屋を出で、庭で気持ちを落ち着ける。
アベルはいくつか発見した。
まず、父親ウォルターの職業は医者だ。
間違いない。
ただし、魔法も使う医者だ。
治療魔術家という言葉があるかは知らないが、とにかくそういうものだ。
そして、治療魔術なんてすげえと思っていたが、程度が酷いと治せないらしい。
あるいは複雑なローカルルールがありそうな気がする。例えば払える金の多寡によって魔法の種類が変わるとか。
そうだとしたら、相当、えげつない父親ということになるのだが。
それから、わざわざ怪我人を何処かから運んできたということは、ウォルターのような魔法使いは、きっと少数なのだ。でなければ、自分で自分を治したり、そこらの農夫に魔法を頼むことで済む。
アベルはもっと気になることがある。
父親が治療魔法を使ったとき、父親の体内から何か形容しがたい熱気というか気配を感じた。あれが魔力というものではないのか。
-自分でも使ってみたいな。
アベルの単純な欲求。
使えれば便利なことこの上もない。
アベルは庭に腰掛けるのにちょうど良い石を見つけた。
そこにちょこんと座る。
魔力の使い方なんか分からない。
なんとなくアベルは自分の掌に意識を集中させた。
自分の体内に前世、決して感じることない感覚を早くも掴んだ。
必然ともいえた。
前世で何十年もの時間、知りえなかった第六感というべき感覚が既に体の中に備わっている。
それこそが魔力というべき力なのが嫌でも意識できる。
腹のあたりに、うねる熱源的なものを感じた。
それを意識して熱を加速するようなイメージを強く持った。
熱はやがて全身に行きわたる。
汗が玉のように浮いてくる。マラソンをした直後のように額から垂れてきた。
時間にして二十分ぐらいだった気がする。集中力が切れて、もう限界という状態になってアベルは訓練を止めた。
この訓練方法が正しいか分からない。しかし、続けなければならない確信があった。
アベルは心地よい疲労感があったので、庭にあったベンチに横になった。
時間帯としては、まだ朝だった。
日の出とともに目覚めて、夜になればさっさと寝るというスタイルは、単純で分かりやすい。前世では夜明けとともに起床して出勤、部屋に帰って来られるのは真夜中なんて普通だった。
この世界は文明のレベルは低く見えるが、夜は休息が許されるのならこちらの方がよほど文化的ではないのだろうか。
もともと電灯だって、夜を有意義に過ごせるための発明でもあったはずだ。
それが、真夜中まで働いてなければ生活できないとは奴隷なみだ。
アベルは思う。
奴隷と言えば、この世界にも身分制度はあるだろうか?
たぶんあるだろう。
そうした社会制度を熟知しなくてはならない。
そして、できるだけ早期に両親から離れよう。
どうせ自分に家族など邪魔なだけである。
できれば特技や手に職を持っておかないといけない。
そう思えば、あの治療魔法など身に付けば素晴らしい。
それから庭の散歩をしてみる。
やたら広く見えるが、たぶんそれは自分の体が小さくなっていることも作用しているはずだった。
青い菫に似た花が咲いている。
菫の開花期は春なので、今は春なのだろうか。
そもそも、この地域に四季はあるのだろうか……。
アベルが可憐な紫の菫を見ていると、背後に気配を感じる。
二十歳ぐらいの女性が一人の子供を連れている。
アベルは患者だろうかと思っていると、女性が手を振って笑顔になる。
知り合いのようだ。
子供はアベルと同じ年齢ほどの女の子だった。
大人の女性はずいぶん若く見えたが、直感的には女の子のお母さんにしか見えない。
おそらく、この世界の女性の初婚年齢は二十歳ぐらいか、あるいはそれよりも低いのでは想像してみる。
「נעים להכיר、シャーレ、אנא אם אתה ילד טוב」
女性は何事か喋るが、相変わらずアベルには意味が分からない。
女性はウォルターの仕事場へ歩いていく。
時間をおいてから仕事場の扉を僅かに開けると、両親と先ほどの女性が忙しく働いていた。
従業員かお手伝いさんといった雰囲気だ。
アベルは自分の後をついてきた女の子に視線を合わせる。
緑色のエメラルドみたいな瞳だった。
目鼻も可愛らしく整っていた。
髪は色素の薄い金髪のような感じ。
「綺麗な瞳だ……」
女の子は首をかしげる。
アベルは女の子を指さして「シャーレ?」と発音する。
女の子は不思議そうにした後、頷いた。
シャーレという名の女の子は言語学習に役立った。
不審がることもなく、指さした物の名前を口にしてくれる。
どうやら遊びの一環として理解してくれたらしい。
昼ぐらいになっただろうか。
アベルが、やや空腹を感じた頃。アイラが手招きをしている。シャーレと共に家の中に入ると料理が用意されてあった。
平べったいパンの上に挽肉のようなものと野菜がのっている。
サンドイッチみたいな料理だった。
口にすると、やはり美味かった。
シャーレが笑顔である言葉を口にする。
アベルは顔を合わせて同じ言葉を口にした。
-美味しいって意味なんだな…。
アベルは食事が楽しかった。
味もいいが、そもそも誰かと共に食べることが、前世でほとんどなかった。
食卓ってこういうものだったのか、と気づく。
昼食にウォルターは姿を現さなかった。
アイラも急いで食事を摂ると慌てて仕事に戻っていく。
父ウォルターの元には早朝の急患を皮切りに、たくさんの人々がやってきた。
しかし、最初の脛の大手術が大事だったらしく患者の処理が追い付かない。
行列ができてしまった。
アベルは、こりゃ大変な家だなと感心半分、呆れ半分だった。
とはいえ子供の自分に手伝えることなどない。
午後もシャーレと言葉遊びに興じた。それから再度、魔力の訓練らしきこともやってみた。
やはり体内に尋常ではないパワーの漲りを感じる。
しかし、今はそれを具体的にどう形や現象にするか分からない。
アベルはいつしか空が黄金色や茜色に変化していくのを見て取った。
夕焼けが実に美しい。
夕方になると仕事は終わりらしい。
シャーレが母親と共に帰っていく。
今日、アベルは仕事場を時々、盗み見たところ、お手伝いのおばさんらしき人がさらに二人も増えていた。
職場に直行したから出勤には気づかなかったようだ。
両親の働きを見ていると、どうやらアイラは看護婦というよりも薬師のような役割をメインにしているらしかった。
様々な薬草をその場で調合していた。
そして、やはり父親は刃物で深めに切ったような傷は魔法で治療していたが、必要のないところについては薬草を塗りつけたりするのみだった。
魔法はとっておき、というわけらしい。
仕事が終わると、まずウォルターは桶の水をお湯に変える。
何か呪文の詠唱のようなことをしていた。お湯ができると、浸した布で自分の体を拭く。
背中はアイラが丁寧に拭っていた。
その様子は愛し合う夫婦、恋人そのものであった。
アベルは本能的に怯む。
ああした一組の夫婦の心からの情交は、前世、自分の家族で決して見ることができないものだった。
その光景が美しければ美しいほど、もしかしたら偽物なのではと、思い至るのである。
汚泥のような感情が、止めどもなく這い上がってきた。
そんな葛藤を知る由もないアイラはアベルを呼んだ。
我が子の服を脱がすと、全身を拭う。
アベルが夕方、ざっと調べたところこの家には風呂の設備がなかった。
この集落ではかなり別格に裕福そうなこの家ですら風呂がないとすれば、これは入浴など王様ぐらいの特権かと思う。
夕食は卵と鶏肉の炒め物。パン。チーズ。肉と野菜の入った塩味のスープだった。
アベルは両親が意外と忙しいのを今日知ったので、この少ない団欒を学習の場として利用した。
言葉や単語を習う。それから、物置のような部屋に二十冊ほどの本があったのも見つけたので、文字を教えるように仕種で伝えた。
両親はそんなアベルを不思議そうに見るものの、すぐに木簡とインク、羽ペンを持ってきた。紙は希少なのかもしれない。
木簡には五十一の文字がすでに刻まれていた。母親が指さし、発音する。
案外、するすると理解できた。
それ以上、分解できない最少発音一つに対して一つの文字が割り当てられていた。濁音に対しては日本語と同じように点が付属することで字を構成していた。
つまり、これは日本語の言葉の成り立ちに近いものがあるようだ。
そういえば、日本語も五十音で成り立っている。数がほとんど同じだった。
木簡には母音らしきものが五つ、別枠で刻まれていた。
日本語で言うとアイウエオにあたる部分が、ア・ウ・イ・エ・オという順番と発音になっている。順番こそ違えども発音自体は近いのだ。
それから数字も十進法が採用されている。これはアベルの予想通りだった。
なにしろ両手指でちょうど十本なのだから、数字すら発明されていなかった時代にも十個という区切りは重要な意味を自然に持ったであろう。
こちらの世界では一日の時間も十に区切られていた。
日の出が1で夜明け前が10となる。
一日の時間が前世の二十四時間とどれぐらい違うのかは不明だが、そう大差ない気がした。そして、一年は三百七十日と定められている。
アベルは、こんな毎日が続いていって、一年、二年と時が過ぎていくのかなと思った。
次の話しで、少し育って言葉を憶えます。