ある男の死
一人の男が死にかけている。
トイレで血を吐いていた。
体が崩れ落ちた。
冷や汗が出て、動悸が激しい。
意識が暗くなっていく。
「やっと終わりか……」
男はそう呟く。
つまらない日々だった。
どうしようもなく堕ちきった人生。
目的もなく喜びもなく、ただ働くだけの毎日。
なんの充実感もない。
家族もいない。
そして、両親の愛情すらもなかった。
孤独。
だいぶ長い間を生きてきて、誰とも愛情を交わすことはできなかった。
一人の恋人もいなかった。
誰も愛せなかったし、誰からも愛されなかった。
友人もいない。
からっからに渇いた人生。
――やっと終わる。
これで何も感じなくて済む。
おれはやり直しなんかしたくない。
このまま消えたい。
男は一抹の寂しさと、大きな安堵感を得ていた……。
男が気が付くと、地平線も水平線もない世界にいた。
重力すら感じない。
体がふわふわ浮いていた。
男の前に立つ者がある。
仮面をしていた。
目と口だけで構成された単純極まる仮面。
三日月の形が、笑顔に見えるように配置されていた。
男からすると、嘲笑っているように見えた。
「ここが地獄か。で、あんたが神様?」
答えはなかった。
仮面は何も語らないが、事態は移行していくらしい。
男の体が一方方向へ急速に進んでいく。
落ちていくともいえ、あるいは上昇していく感覚にも似ていた。
「おいおい。地獄に行く前に裁判ぐらいあるのかと思っていたが、そういうのすらないのかい?」
判決-父親殺しの罪により地獄いき。
「どうせそうなるんだろう? 神様のやることも大したことがねぇな」
┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿┿
耳元で叫び声が聞こえる。
男は重たい目蓋を開ける。
「האם אתה בסדר ?!או תודעה היא」
「ぅえ……」
意識がぼやけている。
目の前、三十歳ぐらいの白人的な容姿をした男が、何か意味の分からない言葉を叫んでいた。
右腕がやたら痛む。
途惑いつつ視線を移す。
上腕が変なところから、ぶらんと垂れていた。
折れた白い骨が皮を突き破って露出していた。
開放骨折……。
はっきり原因を確認してしまうと強烈な痛みが襲ってきた。
「いてえぇぇぇ…!」
意味も分からないまま、悶え苦しむ。
白人の男が折れた腕をつかむと、飛び出た骨を無理やり傷口に押し込めた。
目玉が飛び出しそうになるほどの刺激。
程度を超えた痛み。
まるで全身を棒で殴られているようだ。
「לפני רפא אובדן הבשר」
意味不明な、朗々と吟じるような旋律が聞こえる。
男は我が目を疑った。
白人の掌が輝く。
その輝きを傷口に翳した。
目の前で開放骨折が見る見るうちに塞がっていく。
痛みが嘘のように消えていった。
「なんだこりゃ……」
状況が全く分からない。
夢か幻覚だろうか。しかし、醒めはしないのだ。
男は正体不明の白人の顔を見上げる。
青年ほど若くないが、中年というには若々しい。
やはり三十歳前後ではないだろうか。
けっこう美男子の類に入れてもいい。
男性的な、彫が深くて精悍そのものの顔つきだ。
しっかりと整った鼻梁。
形のいい口元。
引き締まった頬。
どことなく鋭さを湛えた群青色の瞳をしていた。
表情には厳しさだけではなくて、気遣いと優しさが滲み出ている。
髪はくすんだ金髪。
男は立ち上がってみる。
だるいが、なんとか立てた。
直後に激しい違和感。
視線が低い。
白人の男が巨人のようだ。
視線の前に太腿の付け根がある。
「なんだ、こいつ。どんだけ背がデカいんだよ……」
いや、まてよ……。
男は自分の掌を見てみる。
小さい。
ふわふわした赤ん坊の手のようだった。
あの、ごつくて、節くれ立った自らの手ではなかった。
「これが地獄か? おれはどうなった?」
「アベル……איך עדיין איפשהו לפגוע בך……アベル」
言葉は全く理解できない。
記憶にある外国語に似た感じのものすら思い当たらない。
しかし、それでも引っかかる単語があった。
アベル……。
名前的な雰囲気を感じた。
「ア……ベル。アベル」
男は白人の目を見ながらそう口にすると、相手は複雑な表情をした。
ちょっとほっとしたような、それでいて困惑したような。
男は直感でアベルというのが自分の名前だろうと思う。
だが、今は何も喋らないほうがいいかもしれない。
あらためて周りを見渡して観察する。
困ったときには、まずよく観察して原因を見つけ出す。
原因を見つけたならば、それとどう付き合うか、あるいは逃げるか判断しなくてはならない……。
直ぐ傍で馬が死んでいた。
頭が潰れ、首が変な方向に曲がっていた。
さらに見上げるほど高い岩壁がある。
自分と馬は、上から落下した。
そう考えるのが妥当だった。
男は無意識に自分の顔や頭をなでる。
まだ乾ききっていない血がべったりと付いていた。
――もしかすると、おれもあの馬みたいに……。
頭が潰れていたんじゃないのか?
それをこの白人の兄ちゃんが魔法みたいなので治した……?
奇妙な信じがたい治療行為をやってのけた白人は、男をひょいと抱くと、そのまま歩き出す。
――さすがにこの歳でお姫様抱っことか恥ずかしいんだよ。
そう思うが黙っていた。
しばらく抱かれたままでいると、小川が見える。
そこで降ろされた。
男は水辺に向かって歩く。
流れの穏やかな水面に顔を映すと、そこには三、四歳ぐらいの白人系統の子供の顔があった。
信じられないような現象だが現実だ。
もうこれは、どう見てもかつての己の姿ではない。
頬とか髪に血が付いている。
とりあえず顔を水で洗う。
汚れが落ちると、幼くも整った素顔が現れた。
群青色の瞳。
端正なほど形の良い目鼻に口元……。
酷く喉が渇いていたが、川の水は生のまま飲むのは危険だ。
やめておく。
小声で呟いた。
「生まれ変わり……。輪廻転生?」
――いや待てよ。そんな都合のいい事か?
やっぱりここは地獄じゃないのか?
これから俺はまた酷い目に遭うだけじゃないのか……。
男の心中にはそんな思いが渦巻く。
「アベル……מה מילים יכולות לדבר」
背後からそんな声が聞こえた。
振り返る。
心配そうな顔がある。
ゲームでは、こういうときスキルとかで意味が理解できたりするものだが、この状況はそう便利なものではないらしい。
チュートリアルもなければステータス画面もない。
まるっきり現実だった。
鼻から空気を吸えば、植物の発する青臭い香りがした。
手で土を触れば、ひんやりと湿った質感……。
始めからそうであったというような青い空に、やはり白い雲が浮かんでいる。
――こいつは俺の父親だ。たぶん、そのはずだ。
男はそう思った。
諦念の混じった笑みが浮かんできた。
――アベルとして生きていく。
それがおれの地獄ってことかな。
新しいアベルが生まれた……。
六話ぐらいで戦闘の予定です。