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2019-08-29

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ふっと気づいた。
 「希望」に根拠はいらないのではないか、と。
 「その希望の根拠を提出しなさい。
 そうでなかったら、その希望やらは認めない」
 なんて言われて、理路整然と根拠を言えるとしたら、
 それは「希望」じゃなくてもいいことだよ。
 2+3は5になります、みたいなことなのだから、
 絶望していたって成立してしまうだろうよ。

 「希望」は、ぼやっと明るいものが見える
 というようなことなんじゃないかな。
 「希望」を失わないというのは、
 その、ぼやっとした光が消えないということだよな。

 南アフリカ大統領だったネルソン・マンデラさんなんか、
 獄中の生活が27年間だっていうのだけれど、
 「希望」というものがなかったなら、
 そこからの人生なんてありえなかったと思うんだ。
 そして、その彼の「希望」が消えてないことを、
 信じている人はとても少なかったろう。
 でも、「希望」を持っていたんだろうなぁ。
 そうでなかったら、釈放されてからの
 精力的な活躍は、きっとなかったろう。

 たいてい、なにかが次のレベルに上がる前には、
 どんよりと不調な感覚があるものだ。
 成長痛とも言えるし、細胞の入れ替えがあるとも言える。
 しかし、そこで「もうダメだ」と思ってしまったら、
 ほんとうにお終いになってしまうんだよな。
 「どんより」の次の場所に立つためには、
 とにかくあきらめないことが重要だ。
 おそらく、そこでカギになるのが「希望」だ。
 そして、その「希望」の根拠は見せられるものじゃない。

 「希望」は、持つか持たないか、それだけのものだ。
 なんにでもエビデンスとやらを求める時代だから、
 根拠をあげることが
 当たり前のようになってしまっているけれど、
 そんなこと無理なんだって、いまごろ気がついたよ。
 「希望が好き」「希望と共にある」それだけでいいよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「希望なんて持てない」と言ったとたんに希望は消えるし。


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