天日山・岩神・小坂山・古三昧・大日山と、低い山並みが東に連なる明田集落は、八家川中流域左岸にあって、昔ながらのしっとりとした田園風景が広がっていた。川の西向こうの家並みは『播磨国風土記』美濃里の条の継潮(つぎのみなと)の比定地とされる継の集落であろう。
風土記が編纂された奈良時代、継と明田を隔てたのは八家川ではなく、潮がひたひたと入り江を満たす播磨の海だったのかもしれない。湊は豊な「美濃里」の穀倉地帯をひかえて早くから人が定住した様子は、この近辺に分布する古墳群や「見野廃寺」跡の状況などからもうかがうことが可能だ。これらの物資の集散地でもあった湊は、利便性の高い重要な上陸の足がかりになる地点として、異国人たちに知れわたっていたに違いない。
ある日この湊に新羅国の王子が質人としてやってきた。「新羅大明神在明田村、明田神社これなり皇后御帰陣のとき、異国の王子をここに預け置き給い、のちその王子を祭るという」と『播磨鑑』に記された明田神社は、八家川に近い字「下道居」に鎮座、社を安穏に守り固めるように、北接して西道居それに東道居の小字地名も見られる。
道居地名は土井か土居などと書くのが正しく、道居の文字はおそらく当て字であろう。柳田國男は『地名の研究』の中で「播磨の方言に堤防のことをドエという。これは土居の転訛に相違ない。堤などの置き土をドイということは西部諸国一般の風である」と述べている。東へ張り出した八家川に堆積した土砂を積み上げ堤防として築き、内陸部の水田地帯を塩害から守るための防御施設「土井」を設けたのは、すぐれた土木技術をたずさえてやってきた新羅の国の人だったのだろう。
定住の第一歩を記した記念すべきこの土地に、誇りある一族の祖先神を祀り、故郷にちなんだ新羅国の社名を付けたのではないだろうか。