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世界を見渡せば、人類社会は力さえあれば、強ければ、何をやっても赦されるということがほんの十九世紀まで常識でしたし、そういう国はいまでもあります。 しかし我が国では、1300年前に書かれた古事記において、武は、どこまでも慈愛を根幹としなければならないと説いているのです。 これはものすごいことです。 |

画像出所=http://hukumusume.com/douwa/pc/jap/12/31.htm
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)書いたものというのは、研究の結果ではありますけれど、同時に、書いた時点が「新たな出発点」になります。そこを土台にして新たな研究を進めていくからです。
『ねずさんと語る古事記』を書き上げたときは、それがその時点における自分なりの最高峰だったわけだけれど、その後にたとえば「隠身」というものすごく重要な用語にあらためて気付かされたりするわけです。
「知(し)る」ということは、神様から大切なお知恵をいただくということだというのが、我が国の古くからの考えです。
何かを知った、何かの研究成果があがった(これは文学や歴史に限らず科学などの理工系も同じです)というのは、もちろん個人の努力もさりながら、それ以上に、周囲の助けを借りながら神様からお知恵をお下げいただいたということだと考えられてきたのです。
素晴らしい発見や発明であっても、我が国では、その発明や発見をした個人に、何かの賞を与えるということはしてきませんでした。
あくまでもその人を通じて、その開発や発明発見に関わった人たちみんな、つまりその一族やその家にお褒めがあったものでした。
周囲への感謝を忘れ、「俺の考えだ!」と天狗になれば、その人がどんなに優秀な人であったとしても、神様はその人にそれ以上の知恵をお授けになることはありません。
要するに、それで打ち止めになります。『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |

神々が知恵を授けてくださるときは、その人に応じて、これは必ず、小出しに行われます。
はじめから全部を与えてくれることは決してありません。
知恵をいただきますと、それはものすごい感激があります。
世界を見る目が変わってしまうほどの驚きと感動があります。
しかしそれで天狗になり、「俺のおかげさ」などと思うようになったら、神様はその瞬間にその人を見捨てます。
見捨てられたら、それ以上の知恵は一切授けられなくなります。
逆に、神様から教えていただいたことに感謝し、またそういう教えをいただけるように協力してくれた周囲のみなさんや家族に感謝し、謙虚な気持ちで、日々の研鑽を重ねていくと、神様は、次のステップの教えをくださいます。
さて、本題です。
これは古事記の葦原の中つ国の平定のところに出てくるお話です。
高天原は、大国主神がおさめる葦原の中つ国を平定するために、天菩日神、天若日子を中つ国に派遣し、いずれも失敗に終わります。
そこで高天原では八百万の神々が三度(みたび)集って会議を行ない、次に天尾羽張神(あめのをははりのかみ)を派遣しようと決めます。
そしてその尾羽張神がおいでになる場所は、天の安河(やすかわ)の川上にある急流であり、そこは「天の安河の水が塞(せ)き止められていて、川の道が塞(ふさ)がれ、他の神が行くことができない場所」と描写されています。
天尾羽張神というのは、剣の神様です。
そしてその剣の神様がおいでになる場所は、なかなか行けない場所なので、「天迦久神(あめのかぐのかみ)」が遣(つかわ)されることになるのです。
この「天迦久神」について、『ねずさんの古事記』では、岩波の日本古典文学大系に基づいて、
「迦久」は「鹿久」のことで、
鹿の神であろうとか、
「加久」は「輝く」で
剣が光り輝くという意味
という従来からある説を本の中でご紹介させていただきました。
けれど、今回、それは間違っていると気付かせていただきました。
全然違うのです。
まず「迦」という字は、祝詞(のりと)を唱えながら進むことを意味する漢字です。
長く久しく祝詞を唱え続ける神様だから、神々に守ってもらえるから、安全に尾羽張神のところまで行ける・・・とこれがひとつ。
もうひとつ(こちらが大事なのですが)、この「迦」に当てられた音読みの「カ」は、チャイナにおいて、昔、梵字の「カ」を訳したものとして造られた漢字です。
その梵字の「カ」は、サンスクリット語の「クシティ・ガルバ」のことです。
「クシティ・ガルバ」とは、
クシティが大地
ガルバが子宮、
つまり「大地の母胎」を意味します。
その「大地の母胎」を、漢字二字で「地蔵」と表現するようになりました。
「大地のお蔵」だから「地蔵」です。
ですからお地蔵さんは慈愛の象徴です。
どうしても最後に剣(つるぎ)の神様を迎えに行かなければならなくなったということは、最後の手段として「武力を用いなければならなくなった」ということです。
それは滅多なことでは用いてはならないものだから、激流の先の、誰も行くことができないような難所に天尾羽張神がおわすと書いているのです。
そしてその天尾羽張神をお迎えに行く神様は、武神ではなく、どこまでも慈愛を象徴するお地蔵様のお仕事であると古事記は描写しているわけです。
世界を見渡せば、人類社会は力さえあれば、強ければ、何をやっても赦されるということがほんの十九世紀まで常識でしたし、そういう国はいまでもあります。
しかし我が国では、1300年前に書かれた古事記において、武は、どこまでも慈愛を根幹としなければならないと説いているのです。
これはものすごいことです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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