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憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰か

憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰か

有料会員限定記事

聞き手・高重治香

 あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた。憲法が保障する「表現の自由」の問題として考えた時に、どのような意味があるのか。行政による文化芸術活動への助成に詳しい慶応大学の横大道聡(よこだいどうさとし)教授(憲法学)に聞いた。

「誰の」表現の自由が、「どのように」制約されたのか

 ――今回の件は、どこに注目していますか。

 「<誰の>表現の自由が、<いつ><誰によって><何を理由として><どのように>制約されたのかを整理しなければ、問題の核心・焦点がぼやけてしまうと思います」

 ――まず、「誰の」表現の自由が「どのように」侵害されたのでしょうか。

 「影響を受けた可能性がある主体として、大きく分けて、①展示作品の製作者②不自由展担当の実行委員会(民間のメンバー)③作品を見られなかった観客④社会全体の四つを考えることができます」

 「もともと表現の自由は、戦前のように政府批判をしたら逮捕されるなど、あからさまでわかりやすい圧力を想定したものでした。基本的な発想は、刑事罰などによって、表現活動を妨げられないということです。一方で表現の自由は、発表の機会を提供したり、作品を購入・展示したりすることまで、行政に義務付けるものではないというのが、判例や憲法学の通説的な理解です。そのため、不自由展を担当した実行委員会や展示作品の作者の『表現の自由』の問題であるとする議論の立て方は、少なくとも裁判では、簡単には通用しないと思います。自分のお金・時間・場所で同じ表現を行うことは何も規制されていないからです。誰かがお金を出さない、場所を貸さないなどの微妙なやり方で表現の自由に対して影響を与えようとしてきたとき、それを直ちに表現の自由の侵害ということは困難を伴います」

 ――法的には「表現の自由」の問題ではないということですか。

 「『表現の自由』が保障する自由な情報の流通によって、個別の観客を超えて社会全体が得られるはずだった価値が傷つけられた、ということは言えると思います。作品がトリエンナーレという場で発表されることによって、多くの人が見て考えを深めるきっかけになるといった意味があったはずです」

 「ただ、これも訴訟になると、仮に憲法上保障された価値が損なわれていても、『誰の』『どの権利』が具体的に『侵害』されたという風に、個人に還元できないと難しいのです。たとえば、首相の靖国参拝政教分離上の問題があったとしても、違憲国賠訴訟で裁判所が、訴えたあなた個人の権利は侵害されていない、と訴えを退けるのと同様です」

「いつ」「誰によって」「何を理由として」表現の自由は制約されたのか

 ――制約されたのが社会全体にとっての表現の自由だとして、それは「いつ」「誰によって」「何を理由として」制約されたのでしょうか。

 「制約が生じたのは、開催中止の段階です。制約したのは、トリエンナーレ実行委員会であり、その理由は専ら『安全』でした。政治家による発言もありましたが、それが中止の理由ではないと芸術監督の津田大介さんが明言しています」

 「トリエンナーレの事業主体は実行委員会であり、実行委員会の中には知事や市長も入っている。津田さんは実行委員会の依頼で総監督として責任を負っている。官民混合の組織であることが問題を複雑にしていますが、芸術監督自身が実行委員会と一体となって中止の判断をしたことが、今回の問題だと思います」

 ――なぜでしょうか。

 「本来、外部の圧力から展示を守るべき立場にいたからです。芸術への援助をする場合、使えるお金には限りがありますから、どこにどれだけの援助をするかといった内容にわたる判断が不可避的に求められます。しかし、それを政治的なよしあしで判断してしまうことには問題がある。そこで憲法学では、芸術助成に対する政治からの介入を避けるためには、専門職が展示について自律的に判断して、その判断を尊重する体制をつくるのが、あるべき姿だと考えられてきました。イギリスでは、行政が芸術に助成する際に、行政と距離を置いた専門家らによる第三者機関が助成対象を審査して助成先を決める『アーツカウンシル』という仕組みがあります。アメリカでも基本的な考え方は同じで、日本でもこれを参考に議論していたのです。日本の文化芸術基本法にも、このような考え方が反映されています」

 「しかし今回、芸術監督という専門職の立場であるはずの津田さんが中心になって、中止の判断をしました。専門職の自律的判断に任せれば表現の自由の侵害から芸術が守られる、という議論の前提が崩れているのです」

 ――それは異例のことなのでしょうか。

 「実は日本ではこれまでも、専門職であるはずの美術館などの館長が、展示をやめる判断を主導する事例がありました。たとえば、今回も展示された昭和天皇の写真をコラージュした『遠近を抱えて』という作品の場合です。富山県立近代美術館で一度展示して購入した後、県議からの批判を受けて、(再展示せず)売却することや図版の焼却を決めました。その判断は館長が行いました。その後同じ作品を、沖縄県立美術館での企画展で展示する話が持ち上がった際に展示しない判断をしたのも、やはり館長でした」

「安全」は中止の理由になるか

 ――安全を理由にした中止決定の妥当性について、参考になる判例はありますか。

 「表現の自由と同じ21条の『集会の自由』についての判例があります。1980年代にある政治団体が集会のために市民会館を借りようとして、市が、反対者が来て乱闘が起こり『公の秩序をみだすおそれがある』と判断して貸さなかったことについての訴訟です(泉佐野市民会館事件)。裁判所は、集会の自由の実現に関わるため、人の生命や財産などに対する明らかな差し迫った危険が具体的に予見できるような場合に初めて公の秩序をみだす場合といえる、と条件を非常に絞り込みました。その時に、『主催者が平穏に集会をしようとしているのに、反対者が来ることによって混乱が起きるからやめるというのは反対者に拒否権を与えるのに等しく、騒ぎを起こしたもの勝ちになる。それを理由に貸さないという判断をしてはならず、警察などが守る義務があるのだ』という趣旨のことを述べています。ただしこのケースは、主催者の側と反対者の側が暴力的抗争を繰り返していたため、本当に差し迫った危険があったと判断されましたが」

 ――表現の自由に関する判例はありますか。

 「今回も出品されていましたが、元慰安婦の女性の写真展がニコンの写真サロンで行われる予定が中止になったという2012年の事件があります。主たる争点は、会場提供の契約を結んでおきながらその債務を履行しなかったという民事上のものでしたが、ニコン側が、契約上の債務を履行しないことについて正当な理由があると主張する中で会場の安全の問題を述べています。これに対して、裁判所が『抗議活動があることが予想されても、契約履行に向けた努力をする義務があり、それを履行せずに一方的に開催中止とした』と判断し、損害賠償請求が認められました」

 ――それらを踏まえて、今回の判断については。

 「警察に警備の強化をお願いしたり、手荷物検査を厳格化したりするなど、中止よりも穏当なやり方では本当に安全管理できないか、きちんと検討してから中止という判断に至ったのかどうかがポイントになると思います」

政治家の発言に問題はないのか

 ――政治家が公金支出をしないことをにおわせる発言をしたのは、法的には問題ないのでしょうか。

 「公金支出をもって、援助を受けた表現が自動的に国や自治体の見解になるわけではないということへの、誤解があるようです。政治的に気に食わない作品の展示に公金が用いられたとしても、その表現を支持したことにはなりません」

 「先ほど、芸術助成のあり方として、行政が政治的なよしあしで対象作品を決めるのではなく専門家が決めるべきだという考え方を紹介しました。『金は出しても口は出さない』という原則であり、今回の政治家の発言はこれに反しています」

 ――政治家は、美術館や芸術祭に対して、口を出してはいけないのでしょうか。

 「どういうイベントを開くかに全く関与できないというのは非現実的です。例えば今回のように大きな美術展にお金を出すとか、舞台演劇か彫刻かといったジャンルの選択のレベルにおいては、当然口を出すことができるでしょう。また、文化多様性を促進するための美術展だからそうした作品を中心に取り上げる、といった作品選定の基準までは、言っていけないということはないでしょう」

 「しかし、芸術監督を置き、芸術的なすばらしさのみを根拠に作品のセレクションをしたかのような外観を作りながら、政治的見解を忍び込ませるのは、表現空間にゆがみを生じさせることになります。観客は、芸術のプロが良いと判断したという目で見るのに、後ろから腹話術人形みたいに言わされていたということになると評価がゆがめられてしまいます」

 ――「芸術的なすばらしさのみを根拠に作品のセレクションをした外観を作りながら、政治的見解を忍び込ませる」ということでいえば、表現の不自由展の作品についてもそのように批判する意見があります。

 「本来、そのような批判ではなく建設的な議論を起こすことが、芸術の専門家の腕の見せどころであったはずであり、キュレーションの工夫などによって技術的に不可能ではなかったと思います。ただ、批判や攻撃を避けるためにあえて『両論併記』して、制約されていない作品まで不当に持ち上げることは、結果として表現の空間をゆがめることに注意しなくてはいけないでしょう」

今回の出来事が問いかけたもの

――今回の問題が残した課題とは。

 「専門職自身が中止の判断をしたことの意味は問い続けるべきでしょう。そのためには、芸術は何のためにあるのか、なぜ国家や自治体が特定の文化や芸術に税金を支出することが許されるのかを、確認しておく必要があります」

 「芸術は何のためにあるのでしょうか。経済学的な発想ならば、国家に対して芸術立国として威信を与える、観光資源になる、教育のためなど、いろいろなメリットがあるから補助金を出す、と考えるでしょう。一方、そうした短期的な経済的メリットでなく、社会全体が豊かになる、ものの見方そのものに良い影響を与える、その意味で非常に基底的な価値を育てる、だからこそ芸術助成が国家の役割として正当化できるのではないか、という議論もできます」

 「芸術助成というものが一体何のために行われているかという目的にかんがみれば、専門職の判断であれば何でも認められるというのではなく、芸術の振興が目指そうとすることとは逆の方向に向かわないよう一定の縛りをかけるべきです。芸術の本質的な役割については文化芸術基本法にも書かれているので、そうした法律も生かしながら、どのように縛るか議論を進めないといけないと思います」

 ――政治家の発言の中には、「表現の自由」をほとんど顧みていないように聞こえるものもありました。日本社会の中で、表現の自由はどれだけ重みを持っているのでしょうか。

 「むしろ当たり前すぎるんですかね。水や空気みたいに。新聞が好きなことを書いて、テレビもそれなりに政権批判ができて、そういう状況が当たり前すぎて、むしろ大切と思っていない。『こういうけしからん表現が規制されたって自分には関係ない』という感覚もあるのでしょうか。あの介入を認めてしまうと別の介入も認めることになり、さらにこちらも、という想像力が働かないということに危惧を感じます」

 ――表現の自由で保障されない表現はありますが。

 「児童ポルノなどの犯罪や、名誉毀損(きそん)にあたるものがそうですね。今回の脅迫も表現の自由によって保障されないことは明らかです。難しいのは、人種差別的な表象をした彫刻があるとして、それがヘイト表現か、そうした表現に対する風刺か、判断に迷うような場合です」

 「アメリカでは、弁護士らがつくる自由人権協会という団体が会員を大幅に減らした事件がありました。1970年代に、ナチスドイツから命からがら逃れてきた人が大勢住んでいる村で、あるネオナチ団体がナチスを称賛するパレードを計画し、それを止めるために村は条例を作るなどして阻止しようとしました。それに対する訴訟で、協会は表現の自由を守るためとして団体の弁護に参加しましたが、それに反対するリベラル系の会員が大量に脱退したのです。難しい問題ですが、立場にかかわらず表現の自由を守るために、そこまでするという人たちもいます」

 ――なぜ、自分と反対の考えまで守らないといけないのでしょうか。

 「哲学者のジョン・スチュアート・ミルは次のようなことを言いました。気に食わない表現を規制するというのは、その表現が気に食わないと思っている人に対して害を与える。なぜかと言うとそれと自分の見解を比べて、自分が正しいのだと確認する機会が奪われるし、自分が間違っているかもしれないと考え直す機会すらなくなる。だから、反対する表現は反対する人のためにこそ重要だ、と。気に食わないから自分とは関係ない、ではなく、そういう表現が流通していることによって、自分も利益を得ているのではないか。そういった想像力を持つことが必要だと思います」(聞き手・高重治香)

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富山県立近代美術館事件

富山県立近代美術館事件

The Museum of Modern Art,Toyama Incident

https://artscape.jp/artword/index.php/富山県立近代美術館事件


富山県立近代美術館の企画展「とやまの美術」(1986)に招待された美術家の大浦信行が、1982年から85年にかけて昭和天皇の図像を部分的に引用して制作した版画連作《遠近を抱えて》全14点が、同展終了後に県議会の教育警務常務委員会で議員によって「不快」と糾弾されたことをきっかけに、右翼団体による抗議活動を招き、これらを受けた同館が同作の非公開と売却を決定し、なおかつ同展の図録を焼却した事件。その後、裁判闘争に発展した。公立美術館が「表現の自由」や「知る権利」を侵害した事件として知られている。94年、大浦を含む美術関係者や市民有志は、富山地裁で国家賠償請求訴訟を起こした。原告側は「鑑賞する権利」をもとに作品の特別観覧および買い戻しと図録の再版を求めたのに対し、被告側は「管理運営上の障害」と「天皇のプライバシー侵害の疑い」を理由に一連の処分を正当化した。原告側の証人として、美術評論家の三木多聞、憲法学者の横田耕一、博物館学者の君塚仁彦らが証言した。98年の地裁判決では、「管理運営上の障害」と「天皇のプライバシー侵害の疑い」を認めず、特別閲覧の不許可は違法としたが、作品の買戻しと図録の再版については退けた。原告側の一部勝訴といえる判決だったが、原告被告双方ともに控訴。2000年の控訴審判決は、天皇の肖像権が制約を受けるとした一審判決を支持したが、「管理運営上の障害」を認め、原告の請求をすべて認めなかった。原告は最高裁へ上告したが棄却され、15年に及ぶ裁判闘争は終わったが、09年、沖縄県立美術館で開催された「アトミック・サンシャインの中へ in 沖縄 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」展に展示される予定だった《遠近を抱えて》が「教育的配慮」を理由に排除されたことは、日本における天皇制と検閲の問題がいかに根深いかを物語っている。

著者: 福住廉

参考文献

  • 『富山県立近代美術館問題・全記録 裁かれた天皇コラージュ』,富山県立近代美術館問題を考える会編,桂書房,2001
  • 『法政研究』67巻4号,「富山・天皇コラージュ事件 公立美術館の『展示(公開)』の性質と表現(芸術)の自由について」,大城渡,2001
  • 『週刊金曜日』1998年12月25日,「天皇コラージュと表現の不自由」,中北龍太郎,金曜日
  • 『アート・検閲、そして天皇 「アトミックサンシャイン」in 沖縄展が隠蔽したもの』,沖縄県立美術館検閲抗議の会編,社会評論社,2011



大浦信行
https://ja.wikipedia.org/wiki/大浦信行

《遠近を抱えて》に関する議論[編集]

発端は1986年に富山県立近代美術館で開催された「富山の美術 '86」展である。この展示で展示された当作品は10点が審議を経て購入、収蔵された[6]。展示会では特に混乱は発生しなかったものの、展覧会終了後県会議員による県議会での批判がマスコミに報道され、右翼団体や神社関係者から作品とその図録の非公開もしくは処分が求められるようになった[6]。この図録の非公開は県立図書館にまで及び、日本図書館協会の図書館の自由に関する調査委員会が非公開を批判する見解を出すなど、図書館における非公開が「表現の自由」や「知る権利」を侵害したとして問題となった[7]。その後1993年に県は、作品と図録の保有が管理運営上の問題になるとして、作品の売却と図録残部の焼却処分を決定した[6]。これに対して作品公開を求めた作家と市民らが住民訴訟を提起し、一審で一部勝訴したものの、控訴審で敗訴し、上告が棄却された[8]2009年には沖縄県立美術館の「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄 ─ 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」展で同作のうち14点が展示される予定であったが、検閲され展示拒否された[9]。この展覧会はニューヨークのPuffin Roomや東京の代官山ヒルサイドフォーラムを既に巡回しており[10][11]、その際同作品は展示されていた[12][13]。大浦は当時行われたシンポジウムの中で経緯を説明している[13]。それによると、2007年の7月頃に企画担当のキュレーターから世界で九条に関する展覧会を行いたいという申し出があり、大浦は出品許可を出した[13]。キュレーターから11月末と2月に事後報告で電話があり、その中で沖縄県での展示で《遠近を抱えて》が展示拒否となったことから、代替として『日本心中』を上映したいという申し出があり、大浦はそれを論点のすり替えであるとして退けた[13]。大浦はこのことに関して、キュレーターの沖縄県の抱えている問題に対する吟味が不足していたことを指摘している[14]


あいちトリエンナーレ2019における焼却場面の再現[編集]

2019年8月1日に開幕したあいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」にて、大浦の『遠近を抱えて PartII(4点)』が出展された[18]。作品の中には富山県立近代美術館による自分の作品の焼却を彷彿させるシーンがあるが[18]、昭和天皇の御真影が焼かれるように見えるため、観客からは不快などと批判された[19]。また、同じ企画展には慰安婦像嶋田美子による昭和天皇の肖像を大浦と同じ趣旨で加工した作品も出展されたため[20]、抗議や脅迫が殺到し、企画展は同月3日を最後に中止した[21]。 



誰が〈表現の自由〉を殺すのか ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件と裁判判決から考える

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2017/09/08/20170909nikon/

「あいちトリエンナーレ」を巡る騒動の根底に「加害責任について考えるのが苦手な日本社会」が…堀潤氏

「あいちトリエンナーレ」を巡る騒動の根底に「加害責任について考えるのが苦手な日本社会」が…堀潤氏

https://blogos.com/article/397928/



 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」で持ち上がった騒動。慰安婦問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、タブーとされがちなテーマを扱った作品であることが拡散した結果、愛知県や運営側にテロ予告が届くようになり、3日には大村知事と津田大介芸術監督が相談の上、来場者らの安全が確保できないと判断、展示の中止を決定した。

 しかし、企画の実行委員会側も会見を開き「一方的中止に抗議する。私たちはあくまで本展を会期末まで継続することを強く希望する。一方的な中止決定に対しては法的対抗手段を検討していることを申し添える」(岩崎貞明氏)などとして異議を唱え、これに賛同する意見も少なくない。さらに5日には憲法の定める「表現の自由」について、大村知事と名古屋市の河村たかし市長との間で意見が真っ向から対立するなど、議論はさらに広がりを見せている。

 一連の問題について、ジャーナリストの堀潤氏は「一連の動きを追っていると、表現の自由と検閲の問題や戦争の加害性に向き合うこと以前に、事前準備や組織運営のあり方に大きな課題があったことが浮き彫りになってちます。直ちに、開かれた議論の場をあいトレ主催で用意するべきと切に思いますし、放ったらかしになってしまったアーティストの皆さんの声にも耳を傾けたいし、左右の対論から普遍的テーマへの昇華も目指したいですね」とした上で、別の視点から考えてみることの必要性も指摘する。


 「表現の自由」をめぐる議論、公金のあるべき使い途についての議論など、様々な切り口で議論がなされていますが、結局のところ、私たちの社会は戦争の加害性や、加害責任について考えるのが苦手ですよね、ということは確実に言えるのではないでしょうか。

 今回の問題が最初に報じられた時、僕自身はどういう情報発信をしようかと考えた末にツイートし、2000くらいシェアされたのが、ドイツ・ベルリンを訪ねたときのことを書いたものでした。

 街の中心部にある、かつてゲシュタポの本部だった建物が今、ナチスが1933年に政権を獲得して以来の様々なメディア戦略や非人道的な行為について振り返る資料館になっています。無料で観ることができ、SNSのシェアも含めて写真撮影が可能になっています。

 よく調べたなあと感心したのが、群衆が"ナチ式敬礼"をしている写真の中に写っている、たった一人だけ、それをしないでいる人物を探し出し、あのような空気の中でも意思を貫くのは容易ではなかったはずだという展示がしてありました。

 僕たちも、普段の実生活の中で周りの空気に流され、思わず自分の考えとは違うことを言ってしまったり、沈黙してしまったり、ということがありますよね。果たして自分はこういうときに自分の姿勢を貫けるだろうか。そんな問いかけがなされている。これはナチスや戦争の歴史考えるだけでなくて、過去に起きたことこそが今であり、未来なのだ、というメッセージでしょうね。

 人間の心というものは決して強くないので、気を抜くとすぐに引っ張られ、差別やヒエラルキーのようなものを生んでしまいがちです。そしてそれは今もいろいろなところで起きている。だからドイツとしては、なぜ間違いを犯してしまったか、そのプロセスを考えることこそが財産であり、税金を使って、それを映し出すことが普遍的な価値であると考えているからでしょう。さらに言えば、それはドイツという国の信頼のために過去を背負うという行いであって、愛国的なものだと思います。やはり歴史を知り、向き合い、検証する。次世代につなげることが尊い作業だと、僕はその姿勢に共感したものでした。

 「でも、それって敗戦国だから難しいでしょう」とか、「歴史修正だ」という意見ももらいましたが、では、戦勝国はどうでしょうか。

 アメリカ・カリフォルニアに砂漠の真ん中にある、各地の日系人を連行してきたマンザナー強制収容所の跡地が、今は当時の建物も含めて国立の施設として整備され、無料で公開されています。当時、非常に多くの日本人が、しかも太平洋戦争の開戦と同時に収容されていったのですから、いわばタイミングを待っていた、とも言えるわけですね。ひとりひとりナンバーを振られ、写真を撮られて。私たち米国人は、そのようにして日系人を差別したんだと。そのようにして、"レイシズムのルーツという大きなテーマについて問いかけています。

 どういう人が観覧に来るのかなと思って見ていたら、日系人の方が「うちの祖父がここに入っていたと聞いていますが、どのような経緯で収容されたのか、本人はすでに亡くなっていてわかりません」と職員に尋ねていました。するとすぐにデータベースで調べもらえて、「おそらくおじいさんはこの方じゃないですか」と、足跡を辿ることができたようでした。

 翻って、日本での強制労働に従事させられた、あるいは軍に連行されたとされる慰安婦の方々について、私たちの国は加害側としてデータベースを整備しているかといえば、それはない。そもそも書類を捨てたり焼いたりしていますしね。もしもそういうものがきちんと揃っていれば、当事者やその家族、後の世代の感情は違ったと思うんです。反省しているとかではなく、なぜそういうことが起きたかのかに向き合えないことが悲しいですよね。当時の人たちに言ってやりたいですよ。なんで燃やしたんですか、そんなことをしたから、私たちの世代は被害側も加害側もいまだに苛まれているんですよと。70年以上経っても、事実がわからないまま謝れと言われ、あったのかなかったで左右が撃ち合い、分断している…。

 だからこそ、せめて今の社会ではデータを残しておきましょうと思うんですが、残念ながら最近も裁判所が資料を破棄しました、原発事故の関係自治体の資料が保管期限が過ぎたからと捨てられていました、霞が関では公文書が改ざんされたり、破棄されたりということが相次いでいます。今生きている私たちが、そうやって事実から目を背けるようなことをしていけば、将来に禍根を残すことになると思います。

 あいちトリエンナーレの問題では、名古屋市の河村たかし市長が「日本人を貶めた」という主旨の発言をして論争に発展していますが、が、左右ともに、今も起きている戦争や差別という普遍的なテーマではなく、過去の責任の話としてしか見ていない気がします。

 子どもたちを連れてマンザナー強制収容所跡地を訪れていた人は、「残念ながら差別というものは無くならない。現に起きている。だからこそ、どんなことが起きたのか、どう対処していけばいいか。それを学んでおく必要があるんだ」と言っていました。戦争そのものや加害性について人類の普遍的なテーマとして向き合うようにすれば、"私たちは酷い民族だ"というような話ではなく、怖さを語ることができると思います。

 この夏も、今回の話題も含め、他の話題によって、あの戦争について考える機会や報道が一層減っているように思います。あいちトリエンナーレの展示内容や運営方針のあり方以前に、根底にはそうしたことについて日本人が考えないという問題が横たわっているように思います。

■プロフィール

1977年生まれ。ジャーナリスト・キャスター。NPO法人「8bitNews」代表。早稲田大学グローバル科学知融合研究所招聘研究員。立教大学卒業後の2001年、アナウンサーとしてNHK入局。岡山放送局、東京アナウンス室を経て2013 年4月、フリーに。現在、AbemaTV『AbemaPrime』(水曜レギュラー)などに出演中。

不自由展、愛知県に脅迫メール770通 職員射殺予告も

不自由展、愛知県に脅迫メール770通 職員射殺予告も

 県によると、メールは犯行予告ととれるものもあり、ほかに「県庁職員らを射殺する」「県内の小中学校、高校、保育園、幼稚園にガソリンを散布して着火する」などの内容だった。5日に届き始めたという。

 1日に始まった企画展では、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などを展示。テロ予告や脅迫も含め、抗議の電話やファクスなどが相次いだことを受け、3日に中止が発表された。


海外作家「不自由展中止は検閲」 展示休止や保留相次ぐ

表現の不自由展・その後

江向彩也夏、前川浩之

https://digital.asahi.com/articles/ASM8G4QJQM8GOIPE00D.html?iref=pc_extlink

 愛知県内で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)で、海外作家が作品公開の「保留」を求めたり、作品展示を「休止」したりする動きが出ている。企画展「表現の不自由展・その後」が、テロ予告や脅迫を含め、抗議が殺到したため、開幕3日で中止となったことに対し、作家らは表現の自由を重視する姿勢を示すためと説明している。

 90組以上の芸術祭参加作家のうち、11組の海外作家と芸術祭の国際現代美術展キュレーター(展示企画者)の1人が連名で、12日付の公開書簡を米美術ニュースサイトに発表。このうち2組は韓国人作家ですでに展示を閉鎖しているが、ほかの9組は展示の「保留」を求めた。9組の作品はまだ公開中で、芸術祭事務局は「作家と協議中」としている。

 書簡は企画展の中止を「検閲」と批判し、「検閲された作家への連帯を示すため」の保留だと強調。脅迫ファクスなどの安全上の理由で中止した判断に「同意しない」とし、警察など「対応すべき当局がスタッフや来場者らの安全を保護することが芸術祭の責任だ」と訴える。

 署名したキュレーターのペドロ・レイエス氏は朝日新聞の取材に「キューバで当局と闘って表現してきた作家もいる。私の母国メキシコでは表現の自由を行使した記者が亡くなっており、穏やかな立場は取れない。芸術祭スタッフや津田監督への攻撃ではない」と話した。

 また、現代美術作品としてスクープ記事をアニメ化した動画を出品していた米国の調査報道機関「The Center for Investigative Reporting」(CIR、調査報道センター)も作品の撤去を申し入れた。展示室にはロープが張られて「休止」となっており、芸術祭事務局は「作家と調整中」としている。CIRは「報道機関として表現の自由は我々の使命の核にあるもので、今となっては(芸術祭に)参加することが、表現の自由の価値と衝突しかねない立場になる」などと主張している。

     ◇

 【保留の声明に署名した作家(敬称略)】タニア・ブルゲラ(キューバ)、ハビエル・テジェス(ベネズエラ)、レジーナ・ホセ・ガリンド(グアテマラ)、モニカ・メイヤー(メキシコ)、ピア・カミル(メキシコ)、クラウディア・マルティネス・ガライ(ペルー)、イム・ミヌク(韓国、展示閉鎖中)、レニエール・レイバ・ノボ(キューバ)、パク・チャンキョン(韓国、展示閉鎖中)、ドラ・ガルシア(スペイン)、ウーゴ・ロンディノーネ(スイス)(江向彩也夏、前川浩之)


産経社説の妄論を駁す ― 「表現の不自由展・その後」について

ちきゅう座

産経社説の妄論を駁す ― 「表現の不自由展・その後」について



    「表現の不自由展・その後」の中止問題について、メディアがどんな見解を出しているか。すこし検索してみて、右派メディア状況の一端を見た。日本のメディアは、いつころからこんなにも劣化してしまったのだろう。

    8月7日【産経主張】(社説)のタイトルにはすこし驚いた。「愛知の企画展中止 ヘイトは『表現の自由』か」これに反論の形で、私の意見を語りたい。

    ヘイトと言えば、嫌韓・反中、そして在日バッシング。当然に右翼の専売である。一瞬、産経も改心して、「嫌韓・反中、在日バッシングのヘイト表現を許さない」立場を宣言したかと錯覚したが、どうもそうではない。産経の言うヘイトとは、日本や日本人に対する批判の言論をいうものの如くなのだ。書き手によって、言葉の意味まで違ってくる。

     芸術であると言い張れば「表現の自由」の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか。そうではあるまい。だから多くの人が強い違和感や疑問を抱き、批判したのではないか。憲法は「表現の自由」をうたうとともに、その濫用をいさめている。

    「芸術であると言い張れば『表現の自由』の名の下にヘイト(憎悪)行為が許される」と言っている誰かがいるのだろうか。芸術であるか否かに関わらず、「表現の自由」が保障されるべきは当然だし、民族差別や蔑視のヘイト言論が違法になることも論を待たない。

    産経その他の右派が、「表現の不自由展・その後」の展示中止を支持する根拠は、「多くの人の強い違和感や疑問」あるいは「批判」だという。その当否はともかく、ここで語られているものは、「少数派には多数派を不快にする表現の自由はない」という露骨な傲慢である。「自由を保障されるべきは、権力や多数派が嫌悪する表現である」という、自由や人権の基本についての理解が欠けている。

    産経はまことに乱暴に、「表現の自由の濫用」を濫用している。「表現の自由も濫用にわたる場合には制約を免れない」という一般論から、中間項を省いて唐突に「表現の不自由展・その後」の展示も制約しうるとの結論に至っている。「表現の自由の濫用として例外的に規制が可能なのは、いかなる場合に限られるか」を検討し吟味し続けてきた、学問的な営みにまったく関心も敬意も持っていない。粗雑というよりは、没論理。安倍首相のいうところの「印象操作」をしているに過ぎない。

     愛知県などが支援する国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕から3日で中止された。直接の理由は展示内容に対する脅迫だとされる。暴力や脅迫が決して許されないのは当然である。

    産経が「暴力や脅迫が決して許されないのは当然である」という枕詞のごとき一言には、怒りも本気も感じられない。はたして産経は、「暴力や脅迫が決して許されないのは当然である」と本気で思っているだろうか。怒っているだろうか。展示内容に対する賛否の意見はともかくとして、「暴力や脅迫によって、平穏な企画が中止に追い込まれた」という、この事態をどれほど深刻な問題として受けとめているだろうか。言論機関として、「暴力や脅迫による表現への攻撃」にこそ、由々しき事態として問題提起し、暴力の再発を戒めるべきではないのか。

     一方で、企画展の在り方には大きな問題があった。「日本国の象徴であり日本国民の統合」である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった。

    まるで、企画展に問題があったから暴力を招いたと論じているごとくである。のみならず、産経は、表現の自由のなんたるかをまったく理解していない。
    表現の自由とは、何よりも権力と権威を批判する自由を意味する。安倍政権も安倍政権支持者も、国民の政権批判の言論を甘受しなければならない。同様に、天皇も天皇支持者も、天皇制批判の言論を甘受しなければならない。それが、表現の自由保障の本来の意味である。憲法には、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとする記載がある。しかし、「日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴」を批判してはならないとする法理はあり得ない。表現の自由を含む基本的人権の尊重は、天皇存置よりもはるかに重い憲法理念である。むしろ、天皇は「日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴」であればこそ、国民の批判を免れない立場にあると考えねばならない。

     バーナーで昭和天皇の写真を燃え上がらせる映像を展示した。昭和天皇とみられる人物の顔が剥落した銅版画の題は「焼かれるべき絵」で、作品解説には「戦争責任を天皇という特定の人物だけでなく、日本人一般に広げる意味合いが生まれる」とあった。

    大日本帝国憲法は、天皇を「神聖にして侵すべからず」とした。その憲法下、刑法に不敬罪や大逆罪まで設けた。国体(天皇制)の否定は治安維持法でも苛酷に処罰された。出版法、治安警察法が、天皇批判のあらゆる言論を取り締まった。そのような暗黒の時代の再来を許してはならない。産経が、いかに天皇に敬愛の念深くとも、天皇や天皇の戦争責任追及の表現を中止に追い込む事態に賛意を表してはならない。それは、自らが拠って立つ、言論出版事業の自由の否定につながるからである。

     「慰安婦像」として知られる少女像も展示され、作品説明の英文に「Sexual Slavery」(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である。

    「史実をねじ曲げた表現」は当たらない。皇軍が、進軍するところに慰安所を設置し、組織的に「慰安婦」を管理したことは、否定することができない歴史的事実である。「史実をねじ曲げた表現」と決めつける前に、展示の内容に謙虚に耳を傾けてみるべきであろう。

     同芸術祭実行委員会の会長代行を務める河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として像の展示中止を求めた。これに対して実行委会長の大村秀章愛知県知事は、河村氏の要請を「表現の自由を保障した憲法第21条に違反する疑いが極めて濃厚」と非難した。これはおかしい。

    おかしいのは、明らかに河村たかし名古屋市長であり、大村秀章愛知県知事の批判は、常識的で真っ当なものである。これは、水掛け論ではない。憲法の定めがそうなっているのだ。

    憲法第12条は国民に「表現の自由」などの憲法上の権利を濫用してはならないとし、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と記している。今回の展示のようなヘイト行為が「表現の自由」の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい。大村氏は開催を反省し、謝罪すべきだろう。県や名古屋市、文化庁の公金支出は論外である。

    ものには、原則と例外とがある。これを取り違えてはならない。「表現の自由の保障」が幅の広い原則で、「表現の自由の濫用」が極めて限定された例外である。まず原則を語るべきが常識で、例外から語り始めるのは、何とか表現の自由を圧殺しようという予めの下心あっての論理の運び以外のなにものでもない。言うまでもなく、例外に当たるというためには挙証の責任を負担するが、「到底、理解しがたい」では、到底挙証責任を果たしているとは言えない。また、公金支出は、特定の政治思想の表現のためになされているのではなく、民主主義の土台をなす表現の自由の現状を世に問うためという公共性高い事業になされており、なんの問題もない。むしろ、公金の差し止めが、恣意的に国策に反する見解を狙い撃ちするものとして問題となろう。

     芸術祭の津田大介芸術監督は表現の自由を議論する場としたかったと語ったが、世間を騒がせ、対立をあおる「炎上商法」のようにしかみえない。

    これは、産経流のものの見方。理由のない結論は、まったく説得力をもたない。

     左右どちらの陣営であれ、ヘイト行為は「表現の自由」に含まれず、許されない。当然の常識を弁えるべきである。

    この産経論説の一番のイヤミは、「左右どちらの陣営であれ」と、公平を装っているところである。自他共に最右派をもって任じる産経が、中立を装っていることが、胡散臭いというよりは滑稽というべきだろう。

    産経論説子は、およそ日本国憲法のなんたるかを知らず、大日本帝国憲法への郷愁を「当然の常識」としてものを語っているに過ぎない。新聞の社説としては論証に欠けたお粗末なものというほかはないが、産経は、社説を読む読者を軽侮しているのではないか。

     おそらくは、社の大方針の下、結論ありきで書いている社説である。この論調なら、今の社会で、脅迫にも暴力も遭遇することはないという、温々とした、安全地帯で書いている表現。だから、読者の心を打たない。これに比して「表現の不自由展・その後」の表現者たちは、批判を覚悟、場合によっては脅迫や暴力もありうると覚悟のうえで、必死の表現をしているのだ。それだけで、その表現は貴重であり、表現者は尊敬に値する。
    (2019年8月11日)

    初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.8.11より許可を得て転載

    http://article9.jp/wordpress/?p=13141

    〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/

    〔opinion8893:190812〕

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