2019/08/16
憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰か
憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰か
あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた。憲法が保障する「表現の自由」の問題として考えた時に、どのような意味があるのか。行政による文化芸術活動への助成に詳しい慶応大学の横大道聡(よこだいどうさとし)教授(憲法学)に聞いた。
「誰の」表現の自由が、「どのように」制約されたのか
――今回の件は、どこに注目していますか。
「<誰の>表現の自由が、<いつ><誰によって><何を理由として><どのように>制約されたのかを整理しなければ、問題の核心・焦点がぼやけてしまうと思います」
――まず、「誰の」表現の自由が「どのように」侵害されたのでしょうか。
「影響を受けた可能性がある主体として、大きく分けて、①展示作品の製作者②不自由展担当の実行委員会(民間のメンバー)③作品を見られなかった観客④社会全体の四つを考えることができます」
「もともと表現の自由は、戦前のように政府批判をしたら逮捕されるなど、あからさまでわかりやすい圧力を想定したものでした。基本的な発想は、刑事罰などによって、表現活動を妨げられないということです。一方で表現の自由は、発表の機会を提供したり、作品を購入・展示したりすることまで、行政に義務付けるものではないというのが、判例や憲法学の通説的な理解です。そのため、不自由展を担当した実行委員会や展示作品の作者の『表現の自由』の問題であるとする議論の立て方は、少なくとも裁判では、簡単には通用しないと思います。自分のお金・時間・場所で同じ表現を行うことは何も規制されていないからです。誰かがお金を出さない、場所を貸さないなどの微妙なやり方で表現の自由に対して影響を与えようとしてきたとき、それを直ちに表現の自由の侵害ということは困難を伴います」
――法的には「表現の自由」の問題ではないということですか。
「『表現の自由』が保障する自由な情報の流通によって、個別の観客を超えて社会全体が得られるはずだった価値が傷つけられた、ということは言えると思います。作品がトリエンナーレという場で発表されることによって、多くの人が見て考えを深めるきっかけになるといった意味があったはずです」
「ただ、これも訴訟になると、仮に憲法上保障された価値が損なわれていても、『誰の』『どの権利』が具体的に『侵害』されたという風に、個人に還元できないと難しいのです。たとえば、首相の靖国参拝は政教分離上の問題があったとしても、違憲国賠訴訟で裁判所が、訴えたあなた個人の権利は侵害されていない、と訴えを退けるのと同様です」
「いつ」「誰によって」「何を理由として」表現の自由は制約されたのか
――制約されたのが社会全体にとっての表現の自由だとして、それは「いつ」「誰によって」「何を理由として」制約されたのでしょうか。
「制約が生じたのは、開催中止の段階です。制約したのは、トリエンナーレ実行委員会であり、その理由は専ら『安全』でした。政治家による発言もありましたが、それが中止の理由ではないと芸術監督の津田大介さんが明言しています」
「トリエンナーレの事業主体は実行委員会であり、実行委員会の中には知事や市長も入っている。津田さんは実行委員会の依頼で総監督として責任を負っている。官民混合の組織であることが問題を複雑にしていますが、芸術監督自身が実行委員会と一体となって中止の判断をしたことが、今回の問題だと思います」
――なぜでしょうか。
「本来、外部の圧力から展示を守るべき立場にいたからです。芸術への援助をする場合、使えるお金には限りがありますから、どこにどれだけの援助をするかといった内容にわたる判断が不可避的に求められます。しかし、それを政治的なよしあしで判断してしまうことには問題がある。そこで憲法学では、芸術助成に対する政治からの介入を避けるためには、専門職が展示について自律的に判断して、その判断を尊重する体制をつくるのが、あるべき姿だと考えられてきました。イギリスでは、行政が芸術に助成する際に、行政と距離を置いた専門家らによる第三者機関が助成対象を審査して助成先を決める『アーツカウンシル』という仕組みがあります。アメリカでも基本的な考え方は同じで、日本でもこれを参考に議論していたのです。日本の文化芸術基本法にも、このような考え方が反映されています」
「しかし今回、芸術監督という専門職の立場であるはずの津田さんが中心になって、中止の判断をしました。専門職の自律的判断に任せれば表現の自由の侵害から芸術が守られる、という議論の前提が崩れているのです」
――それは異例のことなのでしょうか。
「実は日本ではこれまでも、専門職であるはずの美術館などの館長が、展示をやめる判断を主導する事例がありました。たとえば、今回も展示された昭和天皇の写真をコラージュした『遠近を抱えて』という作品の場合です。富山県立近代美術館で一度展示して購入した後、県議からの批判を受けて、(再展示せず)売却することや図版の焼却を決めました。その判断は館長が行いました。その後同じ作品を、沖縄県立美術館での企画展で展示する話が持ち上がった際に展示しない判断をしたのも、やはり館長でした」
「安全」は中止の理由になるか
――安全を理由にした中止決定の妥当性について、参考になる判例はありますか。
「表現の自由と同じ21条の『集会の自由』についての判例があります。1980年代にある政治団体が集会のために市民会館を借りようとして、市が、反対者が来て乱闘が起こり『公の秩序をみだすおそれがある』と判断して貸さなかったことについての訴訟です(泉佐野市民会館事件)。裁判所は、集会の自由の実現に関わるため、人の生命や財産などに対する明らかな差し迫った危険が具体的に予見できるような場合に初めて公の秩序をみだす場合といえる、と条件を非常に絞り込みました。その時に、『主催者が平穏に集会をしようとしているのに、反対者が来ることによって混乱が起きるからやめるというのは反対者に拒否権を与えるのに等しく、騒ぎを起こしたもの勝ちになる。それを理由に貸さないという判断をしてはならず、警察などが守る義務があるのだ』という趣旨のことを述べています。ただしこのケースは、主催者の側と反対者の側が暴力的抗争を繰り返していたため、本当に差し迫った危険があったと判断されましたが」
――表現の自由に関する判例はありますか。
「今回も出品されていましたが、元慰安婦の女性の写真展がニコンの写真サロンで行われる予定が中止になったという2012年の事件があります。主たる争点は、会場提供の契約を結んでおきながらその債務を履行しなかったという民事上のものでしたが、ニコン側が、契約上の債務を履行しないことについて正当な理由があると主張する中で会場の安全の問題を述べています。これに対して、裁判所が『抗議活動があることが予想されても、契約履行に向けた努力をする義務があり、それを履行せずに一方的に開催中止とした』と判断し、損害賠償請求が認められました」
――それらを踏まえて、今回の判断については。
「警察に警備の強化をお願いしたり、手荷物検査を厳格化したりするなど、中止よりも穏当なやり方では本当に安全管理できないか、きちんと検討してから中止という判断に至ったのかどうかがポイントになると思います」
政治家の発言に問題はないのか
――政治家が公金支出をしないことをにおわせる発言をしたのは、法的には問題ないのでしょうか。
「公金支出をもって、援助を受けた表現が自動的に国や自治体の見解になるわけではないということへの、誤解があるようです。政治的に気に食わない作品の展示に公金が用いられたとしても、その表現を支持したことにはなりません」
「先ほど、芸術助成のあり方として、行政が政治的なよしあしで対象作品を決めるのではなく専門家が決めるべきだという考え方を紹介しました。『金は出しても口は出さない』という原則であり、今回の政治家の発言はこれに反しています」
――政治家は、美術館や芸術祭に対して、口を出してはいけないのでしょうか。
「どういうイベントを開くかに全く関与できないというのは非現実的です。例えば今回のように大きな美術展にお金を出すとか、舞台演劇か彫刻かといったジャンルの選択のレベルにおいては、当然口を出すことができるでしょう。また、文化多様性を促進するための美術展だからそうした作品を中心に取り上げる、といった作品選定の基準までは、言っていけないということはないでしょう」
「しかし、芸術監督を置き、芸術的なすばらしさのみを根拠に作品のセレクションをしたかのような外観を作りながら、政治的見解を忍び込ませるのは、表現空間にゆがみを生じさせることになります。観客は、芸術のプロが良いと判断したという目で見るのに、後ろから腹話術人形みたいに言わされていたということになると評価がゆがめられてしまいます」
――「芸術的なすばらしさのみを根拠に作品のセレクションをした外観を作りながら、政治的見解を忍び込ませる」ということでいえば、表現の不自由展の作品についてもそのように批判する意見があります。
「本来、そのような批判ではなく建設的な議論を起こすことが、芸術の専門家の腕の見せどころであったはずであり、キュレーションの工夫などによって技術的に不可能ではなかったと思います。ただ、批判や攻撃を避けるためにあえて『両論併記』して、制約されていない作品まで不当に持ち上げることは、結果として表現の空間をゆがめることに注意しなくてはいけないでしょう」
今回の出来事が問いかけたもの
――今回の問題が残した課題とは。
「専門職自身が中止の判断をしたことの意味は問い続けるべきでしょう。そのためには、芸術は何のためにあるのか、なぜ国家や自治体が特定の文化や芸術に税金を支出することが許されるのかを、確認しておく必要があります」
「芸術は何のためにあるのでしょうか。経済学的な発想ならば、国家に対して芸術立国として威信を与える、観光資源になる、教育のためなど、いろいろなメリットがあるから補助金を出す、と考えるでしょう。一方、そうした短期的な経済的メリットでなく、社会全体が豊かになる、ものの見方そのものに良い影響を与える、その意味で非常に基底的な価値を育てる、だからこそ芸術助成が国家の役割として正当化できるのではないか、という議論もできます」
「芸術助成というものが一体何のために行われているかという目的にかんがみれば、専門職の判断であれば何でも認められるというのではなく、芸術の振興が目指そうとすることとは逆の方向に向かわないよう一定の縛りをかけるべきです。芸術の本質的な役割については文化芸術基本法にも書かれているので、そうした法律も生かしながら、どのように縛るか議論を進めないといけないと思います」
――政治家の発言の中には、「表現の自由」をほとんど顧みていないように聞こえるものもありました。日本社会の中で、表現の自由はどれだけ重みを持っているのでしょうか。
「むしろ当たり前すぎるんですかね。水や空気みたいに。新聞が好きなことを書いて、テレビもそれなりに政権批判ができて、そういう状況が当たり前すぎて、むしろ大切と思っていない。『こういうけしからん表現が規制されたって自分には関係ない』という感覚もあるのでしょうか。あの介入を認めてしまうと別の介入も認めることになり、さらにこちらも、という想像力が働かないということに危惧を感じます」
――表現の自由で保障されない表現はありますが。
「児童ポルノなどの犯罪や、名誉毀損(きそん)にあたるものがそうですね。今回の脅迫も表現の自由によって保障されないことは明らかです。難しいのは、人種差別的な表象をした彫刻があるとして、それがヘイト表現か、そうした表現に対する風刺か、判断に迷うような場合です」
「アメリカでは、弁護士らがつくる自由人権協会という団体が会員を大幅に減らした事件がありました。1970年代に、ナチスドイツから命からがら逃れてきた人が大勢住んでいる村で、あるネオナチ団体がナチスを称賛するパレードを計画し、それを止めるために村は条例を作るなどして阻止しようとしました。それに対する訴訟で、協会は表現の自由を守るためとして団体の弁護に参加しましたが、それに反対するリベラル系の会員が大量に脱退したのです。難しい問題ですが、立場にかかわらず表現の自由を守るために、そこまでするという人たちもいます」
――なぜ、自分と反対の考えまで守らないといけないのでしょうか。
「哲学者のジョン・スチュアート・ミルは次のようなことを言いました。気に食わない表現を規制するというのは、その表現が気に食わないと思っている人に対して害を与える。なぜかと言うとそれと自分の見解を比べて、自分が正しいのだと確認する機会が奪われるし、自分が間違っているかもしれないと考え直す機会すらなくなる。だから、反対する表現は反対する人のためにこそ重要だ、と。気に食わないから自分とは関係ない、ではなく、そういう表現が流通していることによって、自分も利益を得ているのではないか。そういった想像力を持つことが必要だと思います」(聞き手・高重治香)