【江川紹子の事件簿】FIFA汚職と刑事訴訟法改正案──改めて問われる取り調べ可視化
ヨーゼフ・〝ゼップ〟・ブラッター元FIFA会長
【6月15日、mulan=東京】
■FIFA汚職摘発で司法取引に追い風が
国際サッカー連盟(FIFA)の幹部ら14人が、ワールドカップ開催や放送権などを巡って賄賂を受け取ったり、資金洗浄などで米司法当局に起訴された事件。強制捜査の最中に行われた会長選挙で5選目を果たし、当初は強気だったブラッター会長も、4日後に辞任を表明した。
この展開に、日本の法務省も色めきだっているのではないか。というのは、今国会では、同省が提出している刑事訴訟法等の改正法案が審議されている。その中に、日本版司法取引の導入が含まれているが、これについては「冤罪を生む」などの批判が絶えない。そんな中で、司法取引の威力が見えやすいFIFA汚職摘発は、まさに法務省への追い風のように見える。
米当局の捜査は、FIFA元理事のチャック・ブレイザー被告が、司法取引を見込んで、協力したことが効果的だったようだ。
報道によれば、2011年米連邦捜査局(FBI)と税務当局の訪問を受け、10年にわたって巨額の脱税の証拠があると告げられたブレイザー被告は、すぐに捜査への協力を決めた。自身の犯罪関与の証拠は当局に押さえられており、重罰必至。それを回避するためには捜査協力しかない、と踏んだのだろう。彼は自分のもとにある情報を提供しただけでなく、自らがおとりとなって、小型マイクでFIFA幹部らとの会話を録音するなど、積極的な協力を行っている。脱税に加えて資金洗浄や詐欺などで2013年11月に起訴されたブレイザー被告は、罪を認めて司法取引を行い、190万ドルを没収されたうえで、判決の際に、さらなる罰金を支払うこととなった。
さらに、FIFA副会長のジャック・ワーナー被告も、「雪崩のような暴露」を行うと宣言。彼の2人の息子も、すでに起訴され、司法取引に応じているという。ブラッター会長の側近であるFIFA事務局長が、ワーナー被告への送金に関与していた疑惑も浮上しており、ブラッター会長自身への捜査もとりざたされる。
日本の国会に提出されている法案は、会社ぐるみの経済事犯や振り込め詐欺などの組織的な犯罪に、この司法取引の手法を導入しようというものだ。ただ、法務省はなぜか「司法取引」ではなく、「合意制度」(正式には「証拠収集等への協力及び訴追に関する合意制度」)と呼ぶ。確かに両者には、違いもある。
■合意制度は、他人の犯罪をバラすことで見返りを受ける
米国の「司法取引」は、被疑者・被告人が主に《自分の犯罪》について、事実を認める代わりに、罪名の変更や刑の軽減などを受ける、という形で使われる。それに対して、日本の「合意制度」は、《他人の犯罪》に関する供述や証拠提出などの捜査協力をした場合のみに適用される。要するに、他人の犯罪をばらせば、自分は刑の免除や軽減の見返りを受けられる、という制度なのだ。
ただ、これを導入すれば、刑を軽くしてもらおうと、嘘の証言をして、無関係の人を事件に巻き込んだり、他人の関与を実際以上に重く見せる輩が出て来くるだろう。
実際、これまでにも、刑の軽減を狙って嘘の証言で”捜査協力”をしたとみられるケースはいくつもある。
その典型が、2004年に福岡県北九州市起きた引野口事件。火災の焼け跡から見つかった男性の胸に刺し傷があったことから、放火殺人事件として捜査が行われ、被害者の妹のA子さんが逮捕された。A子さんは否認を貫いたが起訴され、裁判で無罪を主張。
その裁判で、警察の留置場で同房だったB子が、検察側証人として出廷し、A子さんから「兄の首を刺した」と告白された、と証言した。B子は、覚せい剤中毒のうえ、窃盗の余罪が多数あったが、起訴されたのは2件だけ。自分の弁護人に「警察に協力したから(私には)今回も執行猶予がつく」と話していた、という。
裁判で、A子さんは無罪となり、裁判所は判決で、B子供述について「代用監獄への身柄拘束を捜査に利用したとの誹(そし)りを免れない」と警察を批判した。捜査機関がB子を利用して、虚偽供述をさせていたことを認めた格好だ。
こんな風に、被疑者は自分の罪を軽くしたい、捜査機関は有力な有罪証拠が欲しい、という両者の利害が一致して虚偽の証言がなされ、冤罪につながる心配は、「合意制度」にもある。
■冤罪につなげない「合意」とは
そうした懸念に対し法務省側は、「合意」をするには、
・弁護人の同意が必要であり、
・検察は、裏付け証拠がなければ、合意に基づく供述を証拠として使わないし、
・証拠として使われる時には、裁判で合意内容がオープンにされ、
・嘘の証言が明らかになれば処罰される
などとして、虚偽証言による冤罪が生まれる懸念はない、と主張する。
果たしてどうだろうか。
賄賂30万円を受け取ったとして収賄罪で起訴され、3月に名古屋地裁で無罪とされた美濃加茂市長のケースを見ていると、あまり大丈夫ではないような気がする。
この事件で、贈賄を自白した業者Nは当初、融資詐欺で逮捕・起訴されていた。自治体の公印や契約書を偽造して10の金融機関から合計約4億円の融資をだまし取るという悪質なものだったが、その捜査の途中で贈収賄事件を自白。検察は、詐欺に関しては、2件2100万円分の起訴にとどめ、Nを市長を有罪にする最重要証人として活用した。
Nは知人に出した手紙の中で、「私の公判では、検察側は、一切難しい事や批判めいた事は言わないそうです。すんなり終わらせるそうです」とも書いてあり、執行猶予を期待する言葉も綴られていた。市長が逮捕され、贈収賄事件の強制捜査が始まった段階で、Nには弁護人がついていた。この弁護士は元検事。Nの手紙によれば、「私の弁護士と検事は知り合いです。色々と交渉してくれてる様です」とのこと。
■弁護人と検察官の距離関係
こんな風に、弁護人が検察官と極めて近しい関係にある場合、「合意」内容の真実性や妥当性について、弁護人が十分チェック機能を果たせるだろうか。それでなくても、密室の中で検察官と被疑者が合意に達した時に、そこにおらず、検察側の証拠を見ているわけでもない弁護人が、妥当性を正しく判断できるのか、非常に心許ない、というのに……。
美濃加茂市長に対する判決で、裁判所はN証言の問題を縷々指摘し、「詐欺事件の処分を軽くするため、捜査機関の関心を他の重大事件に向けたり、意向に沿う行動に出たりすることは十分あり得る」として退けた。N証言は虚偽との判断だ。
検察側は控訴しているが、無罪が確定しても、検察がN証言を虚偽と認めることはあるまい。
今でも、法廷で虚偽の証言をした場合には、偽証罪の制裁はある。けれども、検察側証人となった者が、事実に反する証言をしたからといって、偽証罪に問われた例を、私は聞いたことがない。そうしたケースがないのは、偽証を認めれば、検察はそれに基づいて行った自分たちの起訴や公判活動が間違っていたことも認めざるをえなくなるからだろう。
検察が、自分たちの過ちを素直に認められない状況をそのままにして、「合意制度」に虚偽供述を罰する規定を作っても、あまり意味はないのではないか。
それでも、「裏取引があっても証拠に残らない現状より、取引の事実が裁判で明らかになる方がまし」と、「合意制度」を肯定的に評価する見方もある。取引があったことを顕在化させ、そのうえで証言の信用性を吟味した方が、裁判所の判断は誤りにくくなる、と考えるからだ。それはその通りだろう、と私も思う。ただ、そう考えるにしても、取り調べの録音・録画(可視化)をして、「合意」に至るまでに、不正なやりとりがないか、そのプロセスを透明化することは必要ではないか。
■村木事件で暴かれた検察側ストーリーに沿った供述
現在は厚生労働事務次官を務める村木厚子さんが巻き込まれた事件では、”共犯者”たちが、村木さんの関与を認める供述調書を作成している。不幸中の幸いで、重要証人が法廷でその調書を覆す証言としたが、捜査段階では検察側ストーリーに沿った供述をするよう、あの手この手が使われていた。
そのような取り調べの末に「合意」がなされ、弁護人もチェックできず、法廷でも虚偽供述が維持されたら……。このような事態は想定しておかなければならない。これを防ぐためには、可視化するしかないだろう。
今回の法案では、取り調べの可視化に関しても法制化がなされることになっている。しかし、その対象は裁判員対象事件と検察の独自捜査事件(いわゆる特捜事件)のみ。全事件の2%であり、「合意制度」の対象事件は可視化法制化の対象ではない。
「合意制度」を活用する可能性のある事件の被疑者の取り調べは、可視化するべきではないか。少なくとも、音声の録音だけでも行って、その「合意」が適切に行われたと示せるようにしておくべきだ。
司法取引的手法が、捜査に役立つことは、今回のFIFAでよく分かった。犯罪の手口が進化してくれば、新しい捜査手法も必要だろう。ただ、新しい制度を導入する時には、その弱点はできるだけ克服しておきたい。
「可視化なくして『合意』なし」——これを原則にして、日本版の司法取引をスタートさせて欲しい。【了】
注・引野口事件で検察側証人となったB子は、覚せい剤の前歴があり、実刑判決になった。また、美濃加茂市長の事件で、業者のNは、その後、市長の弁護人が融資詐欺の余罪を告発され、そのうち4000万円分が追加起訴されることになって、実刑判決を受けた。
江川紹子(えがわ・しょうこ)
1958年、東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒。1982年〜87年まで神奈川新聞社に勤務。警察・裁判取材や連載企画などを担当した後、29歳で独立。1989年から本格的にオウム真理教についての取材を開始。「オウム真理教追跡2200日」(文藝春秋)、「勇気ってなんだろう」(岩波ジュニア新書)等、著書多数。菊池寛賞受賞。行刑改革会議、検察の在り方検討会議の各委員を経験。オペラ愛好家としても知られる。