IT人材のためのキャリアライフスタイルマガジン

「働けど働けど」の歌の意味・石川啄木の心理状態や生活について

言葉の意味

「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」この歌の作者石川啄木は天才歌人とうたわれた人ですが、貧苦と不遇にさいなまれた人生でした。今回は啄木の代表作である「働けど働けど」の意味や、「働けど働けど」が生まれた背景などをご紹介していきます。

更新日時:

「働けど働けど」とは

「働けど働けど」の作品は、歌集「一握の砂」の中の1首です。歌の作者は天才歌人とうたわれた石川啄木です。 「一握の砂」は1910年(明治43年)12月1日に刊行されました。新聞や雑誌のメディアに発表した、「働けど働けど」の作を含む551首の短歌を編集した作品が載せられています。 タイトルには、時が刻々と過ぎて流れ移り変わっていくうちに、はかなく消える目立たない生という意味が込められています。

「働けど働けど」の全文

「働けど働けど」の全文は「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」です。歌の意味は、どれほど働いても我が暮らしは楽にならず、少しも変わらない。我が手をじっと見つめるという、率直に生活苦を歌った素朴な心情を吐露した短歌です。 抒情性があり、作者の心情を思うと胸に迫るものがあります。

解説

「働けど働けど」をふくむ「一握の砂」は、主題別に5章から構成されています。一首を三行書きにした表記が特徴です。 「働けど働けど」は、短歌という文学形式で自らの感情をオブラートに包むことなくストレートに表現し、読む人に衝撃を与えています。厳しい生活の現実を直視した歌は、現在も多くの人に感動をもたらしています。

「働けど働けど」の歌ができた背景

「働けど働けど」の歌には、シビアな都会暮らしの悲喜こもごも、故郷渋民村や盛岡への追憶、小樽市や函館市などの北海道での生活など、石川啄木がつづった想いが載せられています。 「働けど働けど」の歌には、世間に認められたいという強い想いが、貧困活の中から出たわかりやすい言葉で、ごまかすことなく率直に語られています。

石川啄木の人生

26歳の若さで早世した石川啄木は、各地を転々とする、波乱万丈な流浪の人生を送りました。石川啄木はたぐいまれなる短歌の才能とともに、多額の借金や貧乏生活が有名な歌人です。 啄木は妻子を顧みずに遊びにお金を費やしながら、素晴らしい短歌の数々を世に送り出した複雑な運命の持ち主です。感情のままに歌を詠み、生きた、石川啄木の人生を振り返ってみましょう。

出生地・おいたち

「働けど働けど」の作者石川啄木、本名一(はじめ)は1886(明治19年)~1912(明治45年)、南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市)生まれです。 石川啄木は盛岡中学時代に友人の影響で文学に興味をもち、短歌や詩を発表し、才能に目覚めてゆきました。 中学を退学して、文学で身を起こそうと上京した石川啄木ですが、就職がうまくいかず、もともと体が弱かったため病にかかり、挫折して帰郷しています。

この俳句を詠んだ時の心境/暮らし

石川啄木が「働けど働けど」を詠んだ背景には、自らの貧困と労働者階級の立場に立つ社会主義思想の影響がありました。石川啄木は21歳で故郷盛岡を去り、北海道へ渡ります。 そして、一家の大黒柱として教員や記者の職に就きながら、道内を点々と流浪します。啄木はもともと病弱なうえ、北海道という厳寒地の環境に苦しめられました。 「働けど働けど」は、自らの不遇と貧困を、労働者階級の手と結びつけた画期的な短歌です。

啄木と交流のあった歌人

石川啄木は、与謝野鉄幹や与謝野晶子、宮崎郁雨らの歌人と深い交流がありました。後に啄木は与謝野鉄幹に認められ、東京新詩社の同門となりました。 彼の弟子として教えを受けて文壇にデビューをし、将来有望な天才新人歌人として注目されていました。また、鉄幹の妻の与謝野晶子とも交流がありました。 宮崎郁雨は石川啄木を物心両面から支えた親友の歌人で、啄木の妻の妹の夫です。

啄木の最期

石川啄木は「働けど働けど」など、貧苦と不遇の青春を短歌や詩にこめた作品が認められ、ようやく逆境から抜け出せるという矢先、肺結核に侵され26歳で夭折しました。 東京朝日新聞の校正係の職が決まった石川啄木は、北海道から家族を呼びよせ、校正や歌壇の選者を勤めながら創作を続けていました。 第2歌集「悲しき玩具(がんぐ)」は死後刊行されました。啄木の生涯は、貧しく不遇な青春にして漂泊の人生でした。

「一握の砂」のあらすじ

「働けど働けど」をふくむ「一握の砂」は、主題別に5章から構成されています。「我を愛するうた」、「煙」、「秋風のこころよさに」、「手套(てぶくろ)を脱ぐ時」、「忘れがたき人」の5章で成り立ち、編集されています。 ふるさと岩手への郷愁や、北海道生活の回想、ひっ迫した生活や鬱屈(うっくつ)とした心情を、たくみなリズムと親しみやすい言葉でつづり、若い世代を中心にヒットした名作です。

「一握の砂」から他の有名な歌

「一握の砂」には教科書などにも載っている有名な歌がたくさんあります。以下にその代表的な歌を表記します。 ・ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく  ・ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな ・石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし 生活と郷愁がにじみ出た素晴らしい作品は、いつの時代も人々の心を打ち、共感を呼ぶ名作です。

石川啄木は家族に内緒にしておきたかったことをローマ字日記として書き残しています。石川啄木は有名な歌を数多く残した人気の歌人ですが、道楽の限りをつくした人物としても後世に名を轟かす人物です。 せきららに語られたそれらの体験集である日記を、死の床で処分するようにと妻に言い残した石川啄木ですが、その遺志は叶いませんでした。妻の手から金田一京助に渡り出版されたローマ字日記は、今も読む人に衝撃を与えています。

啄木・ローマ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)
啄木・ローマ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)

現代も「働けど働けど」に似た状況?

石川啄木の生きた明治の日本は、自らの利益を優先するブルジョアと、激烈な競争力に負けた人との格差が拡大した時代です。「働けど働けど」の状況は、石川啄木だけの問題ではありませんでした。 石川啄木の時代から100年以上たった現代、明治のころと同じように格差が広がり、「働けど働けど」生活が楽にならない状況に戻っています。リストラ、非正規労働者など悪化する雇用面においても、その現象が顕著に表れています。

格差社会

石川啄木の生きた明治時代の日本は、ヨーロッパに追いつき肩を並べようと、近代化に力を入れた結果、他人を搾取し、自分の利益さえ得られればかまわないという金銭欲に取りつかれた人間が増え、格差社会になりました。 明治時代の格差は現代まで続き、一億総中流という概念は幻想となり、勝ち組と失業者の見えない格差が、階級社会としての現代日本の問題点になりはじめています。

子供の貧困問題

現在、子供たちの7人に1人が貧困にあえいでいます。見えない格差社会が日本に起きた結果、外側からは見えない子供の貧困がひろがっています。 階級差により貧困層が増えており、その階級の子供たちが十分な学問を受けられる可能性が低くなりつつあります。子供の貧困は現時点だけでなく、将来に向けた大きな社会問題として注目されています。

大変な時ほど文学に親しむゆとりをもとう

貧困は自己責任だけではありません。「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」という状況を生み出しているのは、日本の社会構造にあることも間違いありません。 石川啄木は貧しさや不遇な運命にあっても、最期まで夢と希望を失わずに創作活動を続けました。その根底を支えたのが、文学を愛する心です。わたしたちも文学に親しみ、心にゆとりをもち、明日への活力を養いましょう。

無職や下積みの大変な時こそ夢をもとう

石川啄木の生きた明治時代は、賃金や勤務時間などの改善を図ることが最大の課題でした。グローバルな現代は、もっと複雑で解決が難しくなっています。 職はあっても働けない、働いても働いても生活がらくにはならないなどの悩みを、具体的な夢へと転換する考えが必要です。無職や下積みで大変な今こそ、未来への展望を明らかにして、気持を切り替えて生きていきましょう。夢に向かって生きる姿勢こそが、もっともな解決方法です。

関連タグ

アクセスランキング