閑12話 お仕事場

「へー。ここがマスターのお仕事場なんだね。思ったより狭いし、ボロッちいとこだね」

「飛ぶな騒ぐな弄らない。他のフロアには、まだ人がいるから見つかるなよ」

「はいはい。あーもう、机の上が汚いじゃないのさ。ちゃんと掃除しなきゃダメだよ」

 そんなことを言いながら、神楽は書類の山に腰かけると物珍しそうに辺りを眺めた。一応は言われたことを守って大人しくするつもりらしい。


 ここは亘が勤務する庁舎の中だ。時刻は草木も眠るなんとやらで、課長から急に頼まれた仕事で徹夜中である。流石にこのフロアの同僚たちも帰宅しており、そのため神楽も堂々と姿を現せるのだ。

 もっとも不夜城フロアもあるので、庁舎内に誰もいないわけではない。

 神楽は緋袴に足袋の足をぶらぶらとさせていたが、両腕を掻き抱いて震えてみせた

「ここって寒いよね、暖房とか付けないの?」

「残念ながら暖房は集中管理になっていてな、深夜を過ぎると強制的に自動停止するんだ」

「なにそれ酷ーい。マスターがいるのに止めちゃうなんてさ、酷いよね」

「照明の電気が消されないだけマシだろ」

 築五十年を数える庁舎に保温性を期待する方が間違っている。隙間風も酷いもので原因は、例えば壁に配線の為に開けられた穴や、昔のダクトに使われていた穴などだ。ある程度はガムテープで塞いであるが、完全ではない。

 そんなことを話しながら、亘はマウスを操りキーボードを叩いては作業を続けている。神楽がお仕事模様を興味深げに見てくるので少し面はゆい。

「ねえねえ。マスターはさ、眠くなんないの?」

「そりゃ眠い。でも仕上げないと明日に障るから頑張っているだけだ。眠いならスマホに戻って寝てもいいぞ」

「だいじょーぶだよ、ボク起きてるもん。マスターをおいてボクだけ寝てられないよ」

 健気なことを言う神楽に亘は口元を綻ばせた。

 もっとも神楽の目はトロンとしており、時折欠伸さえしている。しばらくすると眠気覚ましのつもりか、いつの間にか覚えたシャドーボクシングをしだした。見ていて飽きないが、それを見ていると仕事にならない。

 困り笑いを浮かべながら仕事をしていると、神楽が動きを止め顔をあげた。

「んっ、誰か近づいて来るよ。こんな時間に来るなんて怪しいね。倒すならやっちゃうけどさ、どうすんの」

「お前は何を言っとるんだ。いいから隠れろ」

「はーい」

 神楽は明るい声をあげ、スマホではなく亘の懐の中へと潜り込んだ。中でゴソゴソとポジショニングしてくすぐったいが、やがて大人しくなる。


 コツコツとした足音が聞こえてきた。

 ほどなくして現れたのは高田係長だ。飲み会で醜態を晒して以来、『マーライオン』とあだ名されている。なお、本人は酔っている間の記憶がないので、どう呼ばれようと気にしていない。

「先生先生、五条大先生。遅くまでお疲れ様でございます。今日は珍しく遅くまで仕事されてますが、徹夜でございましょうか?」

 ねちっこい喋り方だ。鬱陶しいが、だからといって職場でつんけんするわけもいかない。纏わり付くような、擦り寄ってくるような態度を我慢し相手をするしかない。

「見てのとおりですよ。課長から明日までって、夕方に頼まれましてね」

「ははあ、あの課長の相手は大変ですね。是非、先生の刀でぶった斬ってやって下さい」

「自分でやって下さいよ」

 我慢して相手をする。

 日本刀を持っていると知られて以来、顔を合わす度に『ぶった斬る』を連発してくる。話す相手を間違えたと、今では後悔している。やはり自分のことを迂闊に話すものではない。

 四月に配属されたばかりの頃はふっくらしていた高田係長の顔も、今ではやつれ気味で頬がこけている。医者が見たらイエローカードを出すぐらいだ。そうした点は気の毒であって、あまり邪険にも出来ないと思って相手をしている。

「おっ、これが五条先生のスマホでございますか」

 机上にあったスマホを高田係長が手に取ると、勝手に操作して弄りだした。亘にとって命綱とも言える大事なもので少し慌てる。そんな大切なものを迂闊に置いていたことは悪かったが、しかし他人のスマホを勝手に触る奴がいるとは思ってなかったのだ。

「そうですけど、勝手に弄るの止めて貰えますか。本気で怒りますよ」

「やだなあ怒らないで下さいよ、いいじゃないですか。それより新型ケイフォン? ちょっと見たことないタイプですね」

「先行生産品の未販売モデルですよ。製品テスターの応募に当選しましてね」

 決められている台詞を喋る。契約者専用の特製スマホを貰う時に説明用として教えられた言葉だ。

 高田係長はスマホを懐に入れる真似をした。

「いいですね。私、新しいスマホが欲しかったんですよ。これ譲って下さいよ。タダで手に入れたならいいでしょう」

「バカ言わないで下さい。あげるわけないじゃないですか」

「ああ酷い、酷いなあ。五条先生はケチですね」

 ウザイ。

 あまりのウザさに、やや強引にスマホを取り返し視線を向けず仕事に集中することにした。


 しかし軽く無視していても、高田係長は立ち去ろうとはしなかった。亘のすぐ横に椅子を持ってくると、そこに座り顔を突き出し無言でひたすら見つめてくる。纏わりつく小虫並みのウザさだ。

 耐えきれず声をかけてしまう。

「なにか?」

「五条先生の部下って、水田選手ですよね。彼って真面目で頑張り屋でしょう。いいなー、うちの部下とトレードしませんか?」

「あげませんよ。でも、課長とセットだったら喜んでトレードしますけど」

「じゃあ、いりません。あの課長は本当ダメですからね。是非、先生がぶった斬ってやって下さいよ」

 もう日本刀云々はスルーするのが一番だ。

「そういや、高田係長の部下は産休明けでしたね。仕事復帰した彼女は頑張ってますか」

「それがですねぇ、何と言いましょうかねえ。数年のブランクがあるんで、仕事のやり方とか全部忘れてるんですよ……それに子供のお風呂があるって、すぐ帰っちゃうんですよね。でもですね、私にだって同い歳の子供がいるんですよ。おかしいと思いませんか」

「はあ、そうですか」

 亘は出産祝いを払ったことを思いだす。確かにほぼ同時でお財布に痛かった。

「私だって自分の子供をお風呂に入れたいのに……何で男は帰れないんですかね。理不尽ってもんですよ。五条先生が偉い人にガツンと言ってやって下さいよ。なぁに、日本刀持って押しかけてやれば言う事聞きますよ。是非やって下さい」

「自分は独身なんで、関係ありませんね」

 理不尽を口にするなら、亘だって理不尽と言いたいことがある。なんで職場で出産祝いや結婚祝いを集めるのだろうか。独身者には、それこそ理不尽極まりないではないか。

「えーっ、でも五条先生は、もうじき独身じゃなくなるんですよね。ほら、えらく可愛い娘と付き合ってるって噂ですよ。なんか、飲み会で私が写真を見せて貰ったそうですけど」

「ま、まあ……そうですね。はははっ」

「未だに岩戸係長が信じられないとか、仕事中でもブツブツ言っておられますよ。ああそうだ、最近は御大が妙に岩戸係長にご執心らしくてですね。そのせいか余計にストレスが溜まってるそうで、扱いが大変なんですよ」

「それは気の毒に」

 異界から脱出すると記憶は失われる。しかし、御大が岩戸係長に執心ということからすると、どうやら感情は残っているのかもしれない。

 記憶は消えるものではなく、単に思い出せなくなるものだと聞いたことがある。つまり、頭の中に記憶が残っていることになる。それが影響しているのだろうか。

 亘が謀った勘違いが御大の頭の中で、蛇の如き執念深さで感情に作用しているのかもしれない。それならめでたしめでたしだ。

 軽く苦笑した亘の顔を高田係長がじっと見つめてくる。

「しかし五条先生の雰囲気が随分と変わったって噂ですけど、それは本当ですねえ」

「ほう? 良い話ならいいけど」

「実際、私も思うんですけどね。なんだか風格が出たというか威厳? そんなのが出た感じですよ。女性陣の間でも、急に格好良くなったって噂ですからね。いやあ本当、彼女が出来ると違うもんですかね?」

「はははっ、まさか」

 亘は笑ってみせるが、頭の中では思うことがある。

 それはレベルアップ効果のことだ。異界でしか作用しないはずだが、存在の位階が高まっていることは間違いがない。それが日常世界の中で現れている可能性は充分にある。

「おおっと、すっかり無駄話で邪魔しちゃっいましたね。申し訳ございませんです。邪魔だからって、ぶった斬らないで下さいよ」

 そうは言うが、そろそろ辻斬りでもしたい気分だ。

「私、仮眠とりますんで。一足先にお疲れ様ですと言っておきましょう」

「自分も、もう少し片付けたら帰ります。お疲れ様」

 高田係長がトボトボ去っていく後ろ姿を見ても、ウザさが上回っているため気の毒と言う気分は欠片もない。


 どんなにウザイ相手のウザイ会話でも我慢して付き合わねばならない。人間関係というものは職場でも重要で、困った時に同僚が助けてくれるか、助けてくれるにしてもどこまで手を貸してくれるか、それは日頃の付き合いによるところが大きいのだ。

 もっとも、普段を思い出すと亘が助けることはあっても、亘が助けられることはあまりない。亘に限っては、自分のミスは自分一人で対処ということが多いのだ。

 ふうっと息をついてマウスを動かす手を止める。

「神楽出てきていいぞ……神楽?」

 反応がないため懐の中を覗いてみると、そこには安らかな寝息を立てる姿があった。安心しきった幸せな顔で、見ている前でムニャムニャ言いながら口をモグモグさせている。何か食べる夢をみているに違いない。

 亘はやれやれと――しかしどこか嬉しそうなため息をついた。

 そっと姿勢を直し資料づくりを再開する。一人黙々と仕事をするが、不思議と眠気は感じなかった。懐の中で寝返りを打つ気配を感じれば、それだけで頬が綻んでしまう。


 ひと段落できるまで資料が整ったのは、空が白みだす時間だった。

 そのまま職場で仮眠してももいいが、アパートに戻る。移動するだけ睡眠時間は減ってしまうが、やはり一度自分のアパートの部屋に戻った方が休まるのだ。

 薄らと明るみだした街中を歩きだす。気の早い雀の鳴き声を聞きながらアパートへと戻り、少しだけ仮眠をとるとシャワーを浴びる。そしてまた身支度を整えると、出勤したのだった。

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