こんばんは。
あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの
はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わをん
はい、このくらい書けば、Fellows以外には見えませんね。
明日、2019年8月25日でCHAGE and ASKAは、40周年を迎えます。
まず、最初に、この「Fellows」にメディア関係の方が会員になられていることも存じております。
その上で、僕がこれからお伝えいたしますことは、
どうか、明日の12時07分までは、決して記事にされないようお願いいたします。
その時間までに記事を書き上げてくれていても構いません。
しかし、その記事の掲載は、
「12:07」にしてください。
ここは、「僕とFellowsの絆の場」です。
心から大切にしたい。
どうかご協力をお願いいたします。
私ASKAは、明日、8月25日12時07分をもちまして、
「CHAGE and ASKA」からの脱退を表明いたします。
「解散について」、または「話し合い」に関しましては、
「Chageサイド」から、会話する時間も場も設けて頂けませんでしたので、
このような形を取らざるを得ませんでした。
甚だ、不本意な形ではございますが、このブログを持ちまして「脱退」を表明させてください。
これまで40年間、「CHAGE and ASKA」として活動をして参りました。
日本の音楽シーンの一角を担って来れたという自負があります。
僕たち「CHAGE and ASKA」が「CHAGE and ASKA」でいられましたのは、2004年の秋頃まででした。
それまで数々の出来事がありながらも、僕は、僕の立場でくぐり抜けて来たつもりです。
僕は、「CHAGE and ASKA」というグループの「アーティストとしてのイメージ」を強く持っていました。
楽曲制作においても、2人の見え方に関しても、スタッフには発信する取材内容など、細部に渡って指示提案をしてきました。例えそれがソロ活動であっても、そのソロ活動が最終的には「CHAGE and ASKA」に返ってくることを念頭に、常に考えて行動していました。
二人組ですが、
それが自称リーダーの役目だと思ってきたからです。
こう書くと、「自分がCHAGE and ASKAを作ってきたのだ」と言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、
ChageはChageで、あいつにしかできない役割というものがあったのです。
Chageにしか熟し出すことのできない役割、そして技でした。
僕は、自分の中に見えた景色に向い、時には大鉈(なた)を振り上げながらも切り拓いていく。
Chageは、そのビジョンにのってくれる。
そのバランスでCHAGE and ASKAは成り立っていたのです。
「CHAGE and ASKA」の最強のバランスは「7:3」でした。
僕の「7」に対して、Chageの「3」。しかし、この「3」をして「5:5」となる絶妙なバランスとなっていました。
それが、僕たち「CHAGE and ASKA」の黄金比でした。
僕は「7」である立場から「3」への気遣いだけは、決して怠らないように気を配らせて来ました。
なに分「気遣い」ですので、社内、社外、世間、そして何よりも相棒のプライドを傷つけないよう、
それを感じさせないよう努めてきたつもりです。
そんなバランスが崩れ始めたのが2004年頃からでした。
僕は、常に「CHAGE and ASKA」というものを根底にした発言と行動をしてきましたが、
40年間、いま尚、あいつの本音を聞いたことがありません。
決して他人に心を開くことをしない男ですからね。
それでも、それはそれで良かったのです。
世間に映る「Chage」が「Chage」に見えれば、それで良かったのです。
ところが、環境の変化もあり、「5:5」の裏に隠れていた絶妙の「7:3」を、「5:5」へ主張するようになり、
バランスは崩れてしまいました。
一重に、僕らの歴史を知らないあいつの周りが、あいつを主張に導いたのだと思っています。
僕は、2007年に、一度「解散」を決意しましたが、土壇場であいつが、例え「上っ面」であったとしても、
心を見せてくれましたので、踏みとどまりました。
その後、何とか気持ちをごましながら活動をつづけて参りましたが、
そのような精神状態の中でステージに立つことは、僕にとって、心の「摩耗」以外ありませんでした。
グループに最も大切なのは、何があっても揺るがない「信頼関係」と「思いやり」です。
その二つが見えなくなってしまったんですね。
それでも、
福岡からたった二人だけで東京に出てきたグループです。
「このような時期もあるだろう。そして、時間が解決することもあるだろう」
と、思ってもいましたが、そうはならず、気持ちは日に日に濃くなるばかりでした。
とうとう2009年2月に、僕らは「無期限活動停止」を、世の中に発表いたしました。
僕の「解散要求」に応じてくれないChageの意見を受け入れ、
「無期限活動停止」を選択することとなりました。
振りかえれば、あれが、事実上の「解散」でしたね。
なぜ、そうなったのかは僕の口から語ることではありません。
2013年、「代々木体育館」での復活ライブは、ソロ活動に、あまりの差がついてしまったことから、
グループとして、僕から投げかけてしまったライブでした。
人としての甘さが招いたライブでした。
しかし、どんな理由であれ、僕抜きの話し合いで「中止決定」して欲しくはなかったな。
当時の社長、Chageには、「復活ライブ」の「中止決定」するならば、せめて僕には声をかけて欲しかった。
僕に同意をさせて欲しかった。あの頃、僕は頻繁に「立ちくらみ」が起きていたのも事実です。
しかし、振りかえれば、そのようなことは子供の頃からありました。
医師は「ライブには問題ない」とのことでした。
それを表向きの理由に、「中止決定」されてしまったことは、残念で仕方がない。
そして、僕に直接ではなく、週刊誌面で、
「ファンとの約束を果たしたい」
と、大衆に向けて発信するやり方は、僕の生き方にはありません。
カメラの前で帽子を取って頭を下げることや、活動を拒否する僕に、
あのような誌面で、あのような言葉を用いれば、大衆の気持ちが僕に対して、
どのような形で向けられるか・・・。
2014年に、僕が引き起こした事件は、僕が悪い。
しかし、これは「CHAGE and ASKA」が積み上げてきた歴史や、
これまで応援してくださった方々、家族、スタッフに対しての気持ちであって、
「Chageに対して」という気持ちにはなれませんでした。
このような日には、もっと好感度の高い発言をするべきなのでしょうが、
それができないのは、僕の人として欠落した部分なのでしょう。
それでも、どうしても、この気持ちには嘘がつけないのです。
なぜなら、あの様なことを起こしてしまった僕を、「馬鹿やろう!」と言いながらも、
待っていてくれるChageがいると、僕はあの時、僅かながらも信じていたんですね。
しかし、そうではありませんでした。
連絡すらも取れない状況が今なお続いています。
その後、また決定的なことが起こりました。
これも、僕からは語ってはならないと思っています。
僕とChageは違いすぎた・・・。
「僕は、いったい何と戦っているのだろう?」と、デビュー後、間もなくしてから、ずっと思い続けてきました。
若い頃は、それでも未来に向かい、耐えることができました。
そんな「耐え」があったからこそ、自分の音楽は成長できたのだと思っています。
それでも、今後、
僕が今の声でシャウトできるのは、後10年でしょう。
「これからは、自分の歌を自分のために歌いたい。
自分の時間を自分のために使いたい」
このような表現で幕を下ろすのが、いちばん綺麗でしょう。
世界70億の民。
よくもまぁ、あれほど、薄っぺらくバカで軽薄で薄情で、
イイかっこしいと、巡り会ったもんです。
そんなビンゴと知り合うことができたことに関しては、
僕は「選ばれた人間」でしたね。
ここは笑うとこですよ(笑)。
ここまで、書きましたが、
やっぱりみなさんには、隠している事だらけです。
でも、それでいいんじゃないかな。
僕は、あいつのこと、
「グループとしては、どうしょうもない最低なヤツだ」
と、思っていますが、嫌いではありませんよ。
そういうヤツなんです。そこを受け入れれば、
愛すべきヤツだと思っています。
これは、2015年12月25日、僕があいつの弁護士を通して、あいつに送ったメールの締めの文章です。
「オマエが潰れることは許さん。C&AのChageだぞ。いままで、グループとして楽しいこともあった。オマエでなければ、その楽しさもなかったろう。感謝している。C&Aは誰にも真似のできなかったことを、やってのけた。大きな勲章だ。その勲章を首に掛けながら活動してきたが、それを首から外して壁に飾るところへ来た。良い想い出にしよう。ありがとう。」
皆さま、これまで40年間「CHAGE and ASKA」を応援してくださいまして、ありがとうございました。
苦楽を共にしながらも家を去る夫婦のどちらかのようですが、
本当にそうかもしれません。
あいつは、誌面で、
「Chage and ASKAは、僕の人生です」
と、語っていました。
その言葉を受けるならば、僕は、
「僕の人生には、決して消えることのないCHAGE and ASKAがある」
と、過去形ではない言葉で、お答えさせてください。
僕は、あいつの今後の音楽人生を、
嘘偽り無く、心から応援します。
オマエも応援しろよChage。
僕は「0」から「9」までの数字が書かれた「未来を語るおはじき」を持っています。
その「おはじき」を投げましたら、
「1207」
と、出ました。
明日、デビュー40周年の8月25日「12:07」に、
世間に発表いたします。
どうか、みなさん、他言なきようお付き合いください。
メディアの皆さまも、どうか「40年の脱退劇」。
「報道協定ごっこ」にお付き合いください。
ありがとうございました。
飛鳥 涼
ASUKA
ASKA
P.S.
このお知らせは、今年も例に漏れず「解散」を伝えた「株主総会」後、
今年来年と、僕の活動スケージュールが、どんどん埋まっていく、7月15日に書いたものです。
決心しなくては、先が決められない状態になりましたので「決意表明」として、書きました。
気持ちも何も、すべて一新できました。
踏ん切りがついたということです。
6月28日、その「株主総会」の夜、Chageの弁護士さんに宛て、
揺るがない「解散の意」を、メールで送らせていただいておりました。
僕には、弁護士さんを通すという方法しかなかったからです。
その後、7月19日に、Chageの弁護士さんより、
とてもご丁寧で、お気遣いのこもったメールをいただきました。
その中に、初めてChageの言葉が入っていました。
「できれば、二人で会いたい」
本当に、そうなんだ。ずっと、そうだった・・・。
僕の電話番号も、メールアドレスも知っているあいつです。
あいつの弁護士さんは、ご尽力の限りを尽くしてくださった。
ある意味、あいつの代わりに「C&A」となって動いてくださいました。感謝しかありません。
そして、そんな大事な言葉さえ、弁護士を経由して伝えてくるあいつとの信頼関係は、もう築けません。
「遠くを見て歩いていく」
これだけです。
ここまで書いて、今一度、書いた文章を読み直してみました。
あくまで、この文章は、僕の気持ちを書いたものです。
あいつにも言い分があるはずですので、
どうか、この一方的な文章が「全て」だと思わないでいただきたいと願います。
最後に、もう一度。
40年間の「CHAGE and ASKA」を、ありがとうございました。
はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わをん
はい、このくらい書けば、Fellows以外には見えませんね。
明日、2019年8月25日でCHAGE and ASKAは、40周年を迎えます。
まず、最初に、この「Fellows」にメディア関係の方が会員になられていることも存じております。
その上で、僕がこれからお伝えいたしますことは、
どうか、明日の12時07分までは、決して記事にされないようお願いいたします。
その時間までに記事を書き上げてくれていても構いません。
しかし、その記事の掲載は、
「12:07」にしてください。
ここは、「僕とFellowsの絆の場」です。
心から大切にしたい。
どうかご協力をお願いいたします。
私ASKAは、明日、8月25日12時07分をもちまして、
「CHAGE and ASKA」からの脱退を表明いたします。
「解散について」、または「話し合い」に関しましては、
「Chageサイド」から、会話する時間も場も設けて頂けませんでしたので、
このような形を取らざるを得ませんでした。
甚だ、不本意な形ではございますが、このブログを持ちまして「脱退」を表明させてください。
これまで40年間、「CHAGE and ASKA」として活動をして参りました。
日本の音楽シーンの一角を担って来れたという自負があります。
僕たち「CHAGE and ASKA」が「CHAGE and ASKA」でいられましたのは、2004年の秋頃まででした。
それまで数々の出来事がありながらも、僕は、僕の立場でくぐり抜けて来たつもりです。
僕は、「CHAGE and ASKA」というグループの「アーティストとしてのイメージ」を強く持っていました。
楽曲制作においても、2人の見え方に関しても、スタッフには発信する取材内容など、細部に渡って指示提案をしてきました。例えそれがソロ活動であっても、そのソロ活動が最終的には「CHAGE and ASKA」に返ってくることを念頭に、常に考えて行動していました。
二人組ですが、
それが自称リーダーの役目だと思ってきたからです。
こう書くと、「自分がCHAGE and ASKAを作ってきたのだ」と言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、
ChageはChageで、あいつにしかできない役割というものがあったのです。
Chageにしか熟し出すことのできない役割、そして技でした。
僕は、自分の中に見えた景色に向い、時には大鉈(なた)を振り上げながらも切り拓いていく。
Chageは、そのビジョンにのってくれる。
そのバランスでCHAGE and ASKAは成り立っていたのです。
「CHAGE and ASKA」の最強のバランスは「7:3」でした。
僕の「7」に対して、Chageの「3」。しかし、この「3」をして「5:5」となる絶妙なバランスとなっていました。
それが、僕たち「CHAGE and ASKA」の黄金比でした。
僕は「7」である立場から「3」への気遣いだけは、決して怠らないように気を配らせて来ました。
なに分「気遣い」ですので、社内、社外、世間、そして何よりも相棒のプライドを傷つけないよう、
それを感じさせないよう努めてきたつもりです。
そんなバランスが崩れ始めたのが2004年頃からでした。
僕は、常に「CHAGE and ASKA」というものを根底にした発言と行動をしてきましたが、
40年間、いま尚、あいつの本音を聞いたことがありません。
決して他人に心を開くことをしない男ですからね。
それでも、それはそれで良かったのです。
世間に映る「Chage」が「Chage」に見えれば、それで良かったのです。
ところが、環境の変化もあり、「5:5」の裏に隠れていた絶妙の「7:3」を、「5:5」へ主張するようになり、
バランスは崩れてしまいました。
一重に、僕らの歴史を知らないあいつの周りが、あいつを主張に導いたのだと思っています。
僕は、2007年に、一度「解散」を決意しましたが、土壇場であいつが、例え「上っ面」であったとしても、
心を見せてくれましたので、踏みとどまりました。
その後、何とか気持ちをごましながら活動をつづけて参りましたが、
そのような精神状態の中でステージに立つことは、僕にとって、心の「摩耗」以外ありませんでした。
グループに最も大切なのは、何があっても揺るがない「信頼関係」と「思いやり」です。
その二つが見えなくなってしまったんですね。
それでも、
福岡からたった二人だけで東京に出てきたグループです。
「このような時期もあるだろう。そして、時間が解決することもあるだろう」
と、思ってもいましたが、そうはならず、気持ちは日に日に濃くなるばかりでした。
とうとう2009年2月に、僕らは「無期限活動停止」を、世の中に発表いたしました。
僕の「解散要求」に応じてくれないChageの意見を受け入れ、
「無期限活動停止」を選択することとなりました。
振りかえれば、あれが、事実上の「解散」でしたね。
なぜ、そうなったのかは僕の口から語ることではありません。
2013年、「代々木体育館」での復活ライブは、ソロ活動に、あまりの差がついてしまったことから、
グループとして、僕から投げかけてしまったライブでした。
人としての甘さが招いたライブでした。
しかし、どんな理由であれ、僕抜きの話し合いで「中止決定」して欲しくはなかったな。
当時の社長、Chageには、「復活ライブ」の「中止決定」するならば、せめて僕には声をかけて欲しかった。
僕に同意をさせて欲しかった。あの頃、僕は頻繁に「立ちくらみ」が起きていたのも事実です。
しかし、振りかえれば、そのようなことは子供の頃からありました。
医師は「ライブには問題ない」とのことでした。
それを表向きの理由に、「中止決定」されてしまったことは、残念で仕方がない。
そして、僕に直接ではなく、週刊誌面で、
「ファンとの約束を果たしたい」
と、大衆に向けて発信するやり方は、僕の生き方にはありません。
カメラの前で帽子を取って頭を下げることや、活動を拒否する僕に、
あのような誌面で、あのような言葉を用いれば、大衆の気持ちが僕に対して、
どのような形で向けられるか・・・。
2014年に、僕が引き起こした事件は、僕が悪い。
しかし、これは「CHAGE and ASKA」が積み上げてきた歴史や、
これまで応援してくださった方々、家族、スタッフに対しての気持ちであって、
「Chageに対して」という気持ちにはなれませんでした。
このような日には、もっと好感度の高い発言をするべきなのでしょうが、
それができないのは、僕の人として欠落した部分なのでしょう。
それでも、どうしても、この気持ちには嘘がつけないのです。
なぜなら、あの様なことを起こしてしまった僕を、「馬鹿やろう!」と言いながらも、
待っていてくれるChageがいると、僕はあの時、僅かながらも信じていたんですね。
しかし、そうではありませんでした。
連絡すらも取れない状況が今なお続いています。
その後、また決定的なことが起こりました。
これも、僕からは語ってはならないと思っています。
僕とChageは違いすぎた・・・。
「僕は、いったい何と戦っているのだろう?」と、デビュー後、間もなくしてから、ずっと思い続けてきました。
若い頃は、それでも未来に向かい、耐えることができました。
そんな「耐え」があったからこそ、自分の音楽は成長できたのだと思っています。
それでも、今後、
僕が今の声でシャウトできるのは、後10年でしょう。
「これからは、自分の歌を自分のために歌いたい。
自分の時間を自分のために使いたい」
このような表現で幕を下ろすのが、いちばん綺麗でしょう。
世界70億の民。
よくもまぁ、あれほど、薄っぺらくバカで軽薄で薄情で、
イイかっこしいと、巡り会ったもんです。
そんなビンゴと知り合うことができたことに関しては、
僕は「選ばれた人間」でしたね。
ここは笑うとこですよ(笑)。
ここまで、書きましたが、
やっぱりみなさんには、隠している事だらけです。
でも、それでいいんじゃないかな。
僕は、あいつのこと、
「グループとしては、どうしょうもない最低なヤツだ」
と、思っていますが、嫌いではありませんよ。
そういうヤツなんです。そこを受け入れれば、
愛すべきヤツだと思っています。
これは、2015年12月25日、僕があいつの弁護士を通して、あいつに送ったメールの締めの文章です。
「オマエが潰れることは許さん。C&AのChageだぞ。いままで、グループとして楽しいこともあった。オマエでなければ、その楽しさもなかったろう。感謝している。C&Aは誰にも真似のできなかったことを、やってのけた。大きな勲章だ。その勲章を首に掛けながら活動してきたが、それを首から外して壁に飾るところへ来た。良い想い出にしよう。ありがとう。」
皆さま、これまで40年間「CHAGE and ASKA」を応援してくださいまして、ありがとうございました。
苦楽を共にしながらも家を去る夫婦のどちらかのようですが、
本当にそうかもしれません。
あいつは、誌面で、
「Chage and ASKAは、僕の人生です」
と、語っていました。
その言葉を受けるならば、僕は、
「僕の人生には、決して消えることのないCHAGE and ASKAがある」
と、過去形ではない言葉で、お答えさせてください。
僕は、あいつの今後の音楽人生を、
嘘偽り無く、心から応援します。
オマエも応援しろよChage。
僕は「0」から「9」までの数字が書かれた「未来を語るおはじき」を持っています。
その「おはじき」を投げましたら、
「1207」
と、出ました。
明日、デビュー40周年の8月25日「12:07」に、
世間に発表いたします。
どうか、みなさん、他言なきようお付き合いください。
メディアの皆さまも、どうか「40年の脱退劇」。
「報道協定ごっこ」にお付き合いください。
ありがとうございました。
飛鳥 涼
ASUKA
ASKA
P.S.
このお知らせは、今年も例に漏れず「解散」を伝えた「株主総会」後、
今年来年と、僕の活動スケージュールが、どんどん埋まっていく、7月15日に書いたものです。
決心しなくては、先が決められない状態になりましたので「決意表明」として、書きました。
気持ちも何も、すべて一新できました。
踏ん切りがついたということです。
6月28日、その「株主総会」の夜、Chageの弁護士さんに宛て、
揺るがない「解散の意」を、メールで送らせていただいておりました。
僕には、弁護士さんを通すという方法しかなかったからです。
その後、7月19日に、Chageの弁護士さんより、
とてもご丁寧で、お気遣いのこもったメールをいただきました。
その中に、初めてChageの言葉が入っていました。
「できれば、二人で会いたい」
本当に、そうなんだ。ずっと、そうだった・・・。
僕の電話番号も、メールアドレスも知っているあいつです。
あいつの弁護士さんは、ご尽力の限りを尽くしてくださった。
ある意味、あいつの代わりに「C&A」となって動いてくださいました。感謝しかありません。
そして、そんな大事な言葉さえ、弁護士を経由して伝えてくるあいつとの信頼関係は、もう築けません。
「遠くを見て歩いていく」
これだけです。
ここまで書いて、今一度、書いた文章を読み直してみました。
あくまで、この文章は、僕の気持ちを書いたものです。
あいつにも言い分があるはずですので、
どうか、この一方的な文章が「全て」だと思わないでいただきたいと願います。
最後に、もう一度。
40年間の「CHAGE and ASKA」を、ありがとうございました。
COMMENT
こんばんは。のコメント
- ニックネーム:tapirASKAさんの大切な胸のうちをあかしてくださり嬉しいです。二人だからできること、二人だからできないこと、二人だからいつか別れは来るもの。CHAGE&ASKAと同じ40歳の私は30年お二人を楽しませて頂きました。今でもこの先も変わりません。応援しています。
- ニックネーム:芋杏-imoan.s枷?箍?外れましたね。
歩んできた人生より、先の人生の方が、もう短いのです。
私もそうです。
枷、箍、自分で外すのは容易じゃない。
物凄い力がいりますよね。
ましてやそれが、錆び付いてたりしたら、もう外せない…(私)
ASKAさんのは、ずっと研いてきたから、きっと外せたんですね。
これからは、自由に歩けますね。
私もダメ元で、今から研いてみようかな…(*´-`)
勇気を有り難うございます。 - ニックネーム: hiyaka♡Fellows私が中学生の頃CHAGE&ASKAを知りCHAGE&ASKAの音楽に触れ、2人の音楽が大好きになりました。チャゲアスは自分にとって青春でした。ASKAさんの辛い決断受け取りました。ASKAさんの気持ちを伝えて下さりありがとうございます。
- ニックネーム:ムース同じ舞台に立つはしくれ、私も思います。同じ方向を向いてないと、いい作品など、出来ない。今の状態で戻った所でプラスになどならないなら、この結果が最善で、お互いの為になると思います。待っていた人もいるでしょうが、これが一番良いと。やっと、ハッキリ答えを出し、向いてる場所は違えど、お互いそれぞれ前を向いて歩き出せばよいと。足踏みだけでは進めないんだよ。私はASKAさんの軌跡をずっと追って行きます。
- ニックネーム:りょうこあなたのせいでチャゲさんイメージダウンですね。