第61話 空は既に茜雲
異界から脱出した先で待っていたのは、青いビニールシートの壁だった。その向こうに救急車などの緊急車両が放つ赤色灯や、大勢の人が集まる喧噪の存在が分かる。
そっと様子を窺うと、マイクを握った女性がカメラに向かい興奮気味にレポートする様子が見えた。どうやらマスコミが来ているらしい。
「事件のあった美術館前から中継します。放火事件の発生した美術館から、多数の見学者が搬送されていきます。命に別状はなく目立った外傷もありません。消防によりますと、煙や消化ガスにより気分が悪くなったとのことです。また、犯人については依然として不明ということです」
複数のレポーターたちの声からすると、どうやら放火事件の発生ばかり口にしており、異界のことなど一欠片も話題にあがっていなかった。
駅に近いということで大勢の野次馬も集まっている。一様にスマホなどを構え熱心に撮影する様子が分かる。もしこれがテロ事件で、集まった野次馬を狙ったセカンドテロが計画されていたら大被害が発生するに違いない。
事件事故――それは、言ってみれば他人の不幸――に面白半分で集まって騒ぎ立て、あまつさえ撮影までするなど亘には全く理解できない行動だ。
それは新藤社長も同様のようで、皮肉な笑みを浮かべ隙間から外を眺めている。
「やれやれ野次馬の多いことですね。ま、仕方ありません。少し揉まれてくるとしましょうか。それでは五条君、また後日にでもお礼をさせて貰いますよ」
言い置いた新藤社長が堂々とブルーシートの向こうへと歩きだす。たちまち気付いたマスコミがどよめき声をあげ、警官たちの制止を押しのけ詰め寄る。野次馬たちも有名人の新藤社長を撮影しようと、ドッと歓声をあげた。
「あっ、キセノン社の新藤社長です! 大変です。たった今、新藤社長が現場から姿を現わしました」「新藤社長どうしてこちらに。お怪我はありませんか」「中の状況はどうなんですか」「美術館スタッフの対応に問題はありませんか」「今のお気持ちを」「怪我人は」「事件の原因と責任について一言」「新藤社長」「新藤社長」「新藤社長」
バカみたいに押し寄せるマスコミや野次馬に翻弄されることもなく、突き出される無数のマイクや瞬くフラッシュに怯みもせず、新藤社長は堂々と受け答えをしていく。
「ご心配ありがとうございます。私は美術館を見学しておりましたが、この一連の騒ぎで内部に閉じ込められておりました。こうして無事でいられましたのは、一重に皆様や救助に当たられた方々のお陰です。私と同じく閉じ込められていた見学者の方は互いに声を掛け合って助け合っておられました。美術館スタッフの方については、この大変な状況の中でも、毅然とした態度で行動されており非常に感銘を受けました」
滔々と述べていく新藤社長の姿は流石であった。自分も閉じ込められたことにして、講演会のドタキャンを有耶無耶にするのも流石だろう。事件事故に巻き込まれた相手に誰も文句は言えまい。
しかし亘はそんなことに感心している余裕などなかった。隙を見てブルーシートを出たのはいいが、押し寄せる報道陣とやじ馬たちに、もみくちゃにされていたのだ。
「っう」
なんとか脱出した亘だが、意識は朦朧としていた。
まだ身体が重い気がすると、思いきや七海と志緒に抱き着かれていた。本来であれば両手に花で、感触を楽しみたい状況だが、青い顔の亘はそれどころではない。
亘が浅い息をすると、七海が労って背中を撫でてくれる。
「五条さん大丈夫ですか。顔色が悪いようですが」
「ああ、大丈夫だ。少し……人いきれにやられただけだ」
「まったくマスコミときたら、他人の迷惑などお構いなしなんだから。もっと他人に気を使うべきでしょ。ああもう、ボタンが取れてる。酷いわ」
志緒は自分のスーツを見ながら悲しそうな顔をした。
その傍らでゲッソリする亘だが、少しずつ気分が落ち着いて来ている。背中に触れた七海の手から温かなものが、体温以外の別の何かが伝わってきて、少しずつ気分が楽になっているのだ。手を当てると書いて手当てだが、本当にその通りであった。
「あなたたち。とりあえずここを離れるわよ。さあ、私の後を付いてきなさい」
「お前さんは異界を出たとたん、妙に強気だな」
「ふふん。何とでも言うといいわ。さあ、行くわよ」
志緒が颯爽と歩きだし、その後を付いていくが亘は七海に支えて貰いながら歩いている。異界の中と外で、まったく逆の立場だった。
そのまま緊急車両などがある区域に近づいていくと、規制線の前に立った警官が制止しようとした。だが、それに志緒が威張りくさった態度で手帳をみせると、警官は驚いた顔で敬礼をして道を開けてくれた。志緒は亘と七海を指差し、私の連れだと言い放ち堂々とした態度で歩いて行く。
異界の中の残念美人ぶりをを知る亘からすれば、なんとも小物感漂う姿だ。しかし何も知らない警官からすると、エリート捜査官に見えるのかもしれない。憧れのような目で見られている。
亘と七海は頭を下げお疲れ様ですと言いつつ通り過ぎた。
「ここまで来ればもう大丈夫よね。それで、うちの課長がここに来るのよ。だから、良ければ会ってくれないかしら」
大きな消防関係の車両の陰で志緒が立ち止まる。喧噪が少し遠のいたおかげで、亘も少し息をつくことができた。
「嫌だ。今日はもう疲れたから帰らせて貰う」
「そんなこと言わないで、お願いよ。だって私一人で報告なんてしたら怒……ほら、細かい部分の報告漏れとか、あると困るでしょ。ねっ、いいでしょ」
「だが断る」
縋るような顔をする志緒に亘はあくまで冷たく言い放った。昼から異界化に巻き込まれ、特に最後の人混みでいい加減ウンザリした気分だ。ここで状況説明とかに付き合わされると、長時間拘束され面倒事になるのは目に見えている。
それに志緒の所属する組織は公安警察だ。亘の経験からすると、警察関係者と学校関係者はとにかく人当たりが悪く態度が悪いのだ。好んで関わり合いになりたいとは思わなかった。
志緒はそれ以上無理強いはせず、悲しそうな顔で引き下がった。
「そ、そう。無理強いは出来ないから仕方がないわね。デートの邪魔されたら、気分が悪くて当然よね。引き留めてごめんなさいね」
「それは気にしなくていいさ。詳細はおいとくが、七海にはデートのフリをして貰っただけだから」
「そうなのかしら?」
驚いた志緒が七海を見やる。すると七海が軽く頭を横に傾け肩を竦めてみせた。それに応じた志緒が何度か頷き、お互いに肯きあっていた。
何か女同士での意思疎通がはかられたようだが、しかし亘にはさっぱりだ。もとよりそこに口を出す気はないので放っておく。
「そうね、デートの邪魔して悪かったわね。七海さんも、私を気にせず続きをしてね」
「はい。ありがとうございます」
「だからフリ……」
「でも今日は本当に助かったわ。二人がいなければどうなっていたかしら。できれば、今度NATSにも顔を出して欲しいわ。歓迎するわよ」
無視された亘は解せぬと呟きながら、これは何を言っても無駄だろうと判断し諦めた。
「まあいいか。でも公安とか警察とかは嫌いなんだ。顔を出す気はない」
「そ、そう。悪い組織ではないのよ……まあ、いいわ。いずれ連絡して協力をお願いすることもあるだろうから。その時は頼むわね」
「協力料は高いから覚悟しておけ」
素っ気なく言って亘は歩き出した。なお、もし協力をお願いされたら本気でお金を取るつもりである。そこに妥協とか容赦とかする気はない。
「それじゃあ、長谷部さん。また」
「ええ、また。頑張ってね」
志緒が軽く手を振ると、七海も同じく笑顔で手を振った。なんだか急に仲良くなったようで、一時は覚悟完了してとどめを刺す気だったとは思えないではないか。
なお、微笑ましい気持ちで見送った志緒であったが、その後で上司から何故引き留めなかったと、がっつり怒られることになった。
◆◆◆
空は既に茜雲となっている。
すれ違う子供たちが、何か事件だから見に行こうと野次馬しに駆けていく。遠くに緊急車両のサイレンも聞こえれば、報道ヘリが空を飛んでいる。大騒ぎだ。
駅前から離れた場所でも、いつもよりざわついた雰囲気があった。
「やれやれ、もう夕方になっているじゃないか」
「あっという間でしたけど、思ったより時間が経っていましたよね」
「それにしても、今日は付き合ってくれて助かったよ。何だかんだで異界に行くことにもなったし、すまなかったな」
「五条さん……そうですか、悪いと思っているんですね?」
七海は桜色の唇に右手の人差し指をあて思案顔をしていたが、やがて悪戯っぽそうな笑顔を浮かべる。
「ああ、勿論だ。面倒かけたからな」
「そうですか。じゃあ、デートの続きをしましょう。そしたら許してあげます」
フリなんだがなと呟こうとした亘だが、その言葉を出すのは止めておいた。
晴れやかな笑みにほだされ、まあいいかという気分だ。それに今日一日の七海を見て、案外と嫌がられてないと気付いていた。もちろん勘違いかもしれないが。
「そうか。お詫びといったら、食事ぐらいしか思いつかないけど、いいかな」
「はい、食事して少しブラブラしましょう」
「だったら醤油豚骨ラーメンなんてどうだ。お勧めだぞ」
亘はまだ諦めていなかった。神楽がスマホから出ていたら、迷わず跳び蹴りを放っていたに違いない。
優しい七海はその言葉をスルーしてくれた。
「……ええっと、お母さんと行ったお店なんですけど、どうでしょうか。美味しいイタリアンなのですが」
「そ、そう? じゃあソコにするか。イタリアン、イタリアン。まあイタリアンも良いな。そういや夕飯まで食べることは大丈夫なのか、親御さんは心配しないのか」
「大丈夫です。連絡を入れておきますから。そうすれば、えっと、その……何時になっても大丈夫ですよ」
「そうか、じゃあゆっくり食べられるな」
言葉の意味を深く考えもせず亘は頷いた。外付け思考回路の神楽がいなければ、こんな程度なのだ。そしてちょっと頬を膨らませた七海の様子に首を捻りながら歩き出したのだった。
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