第555話 ニコルの一騎打ち
耳に届いたのは、カリカリと何かを引っ掻くような音。
それでいて音自体はかなり小さく、だというのに草を踏み分ける音は逆に大きい。
本体が立てる音と、周囲の摩擦によって発せられる音のずれが大きいということは、かなりの気配隠蔽能力を持っているということになる。
そして草を踏み分ける音の大きさから、俺は明らかに人でないと判断していた。
「敵だ。備えて」
端的に俺は仲間たちに接近を伝えた。ミシェルちゃんとクラウド、それにフィニアはその一言で敵の接近を察し、戦闘準備を整える。
背負っていた芋を詰めた袋を地面に置き、クラウドは剣と盾、ミシェルちゃんは弓を構えた。
フィニアも短剣を槍に切り替え、三人がセバスチャンたちを守るように隊形を組む。
「えっ? えっ?」
「セバスチャンたちはそこで待機。今回の敵はどう考えても君たちの手に負えない」
音で接近を感知できても、正確な距離ははっきりと掴めない。それだけ気配を消すのが上手い敵なら、新人の彼らでは相手は無理だ。
俺もカタナを抜き、敵襲に備えておく。もちろん、手甲も装備している。
「来た、こっちだ」
俺の声と視線を見て取り、クラウドが真っ先に進み出た。
ミシェルちゃんも愛用の狩猟弓に矢を番えて待ち構える。
森の中から素進み出てきたのは、全長が三メートルにも及ぼうかという巨大な蜘蛛だった。
「ヒイィ!?」
「く、蜘蛛……それもでけぇ!」
「うっ、ぐぷっ――!」
セバスチャンは悲鳴を上げ、フランシスは腰を抜かしてへたり込み、アンドリューはその異形に耐えられず嘔吐していた。
正直言うと、俺もこういう相手は苦手だ。好きな人には悪いが、巨大な蜘蛛というのは純粋に気持ち悪く感じてしまう。
昆虫というのはシンプルなもので、生態の維持や目的のために、その身体を最適化していく。ある意味最強の機能美とも言えるのだが、それは人間の美的感覚と相いれるとは限らない。
「あの、私蜘蛛は少し苦手で」
「うーん、昆虫系は美味しくないんだよねぇ」
「ねばねばした糸を飛ばしてくるから、俺も嫌いだよ」
フィニアは鳥肌を立てて腰が引けている。クラウドもメンドそうだ。こちらは、装備の後始末が面倒なのだろう。
あと、ミシェルちゃんはブレないなぁ……
「いいよ、あれくらいなら、わたしが一人で相手するから」
「え、いいの?」
蜘蛛というのはテリトリー意識が強いため、群れで襲ってくることは少ない。
目の前の
「なんでこんなところバケモノが……」
「そりゃいるでしょう。安全ならわたしたち冒険者に依頼する必要がないんだから」
俺はカタナをだらりと下げて、無造作に蜘蛛に近付いていく。
蜘蛛というのは巣を張り罠を仕掛けて獲物を捕らえる印象が強いが、実際は運動能力もかなり高い。
八本の長い脚は安定性が高く、それでいて多方向への多彩な機動が可能になる。
同じく八つの眼は上下左右を隙無く見渡し、死角も少ない。
そして何より、第六感的な感覚の鋭さを持ち、こちらの動きより早く回避行動をとることもある……らしい?
「蜘蛛は感覚が鋭い。だからこちらも無駄に構えをとると空振りすることになる」
極力気負わないように、背後に語り掛ける。
フィニアはもちろん、ミシェルちゃんとクラウドも、巨大蜘蛛とは今までに交戦した経験がある。
だからこれは、セバスチャンたち三人に向けた言葉だ。
無駄なく脱力した身体は、同時に瞬時にどの方向にも動ける体勢でもある。
そんな体勢をとる俺に困惑したのか、蜘蛛の方がギチギチと歯を軋ませ、威嚇の音を立てていた。
「蜘蛛を相手にするときは、先手を打っちゃいけない。目が良くて感覚が鋭い蜘蛛は、こっちの攻撃を確実に避ける。だから待ち受けるか、もしくは逃げ場をなくしてから攻撃する」
言いながら俺は、さらに一歩蜘蛛に近付く。直後、間合いに入った俺に、蜘蛛が一足飛びに襲い掛かってきた。
まるで予備動作を見せない動きに、俺以外の者は完全に虚を突かれていた。
しかし俺だけは違う。間合いに入れば襲い掛かって来るのはわかっている。なら足を踏み込んだその瞬間こそ、敵の攻撃のタイミングだと、前もってわかる。
攻撃のタイミングが分かれば、後の対処は容易い。
森の中の開けた場所で、正面から対峙しているのだから、襲い掛かって来るのも正面か上くらいしかない。
タイミングをこちらが掌握しているならば、反撃も可能だ。
だらりと下げた右腕を跳ね上げ、同時に身体は左へと跳ねる。
身体の動きから残された右腕が蜘蛛の右足を斬り裂き、一本宙に舞った。
「――フッ!」
鋭く呼気を吐きつつ、着地より早く身体を横に回転させる。
カタナを巻き込む動きでさらにもう一撃。もう一本、蜘蛛の足を斬り飛ばしてみせた。
右側の足を二本も失った蜘蛛は、着地の勢いを受け止めきれず、バランスを崩している。
完成された機能を持つがゆえに、欠損した場合のブレは大きい。
俺はあえて足の多い蜘蛛の左側面へと回り込む。もし蜘蛛が俺へと飛び掛かろうとするのなら、残された右足二本でそれを行わねばならない。
しかし実行するには、蜘蛛は巨体過ぎた。
「ギキッ!?」
反撃に出ようにも踏ん張れないことをようやく悟り、再び歯を噛み鳴らす蜘蛛。
もし自身の状態を正確に把握しているのならば、俺から離れる動きを取るべきだった。
それならば、左の足四本を全力で使えたのだから。
だが時すでに遅し。俺を相手に、その隙は致命的だ。
左側四本の足を掻い潜り、ガクリと傾いだ身体へ追撃の一閃を叩き込む。
ライエルから贈られたこのカタナは、決して切れ味のいい方ではないが、八年間使ってなお現役という頑丈さを誇っている。
もちろん、かなり傷みが出てきていて、整備の手間も増えているが、それでも手放すのは忍びない名品だ。
その刃が、容赦なく巨大蜘蛛の甲殻の隙間に滑り込む。
痛覚の鈍い昆虫にとって、斬撃の痛みは牽制にならない。肉体的破壊のみが有効打となる。
それを知るからこそ、俺が狙ったのは首元である。甲殻の隙間が存在し、身体を動かす神経が集中する場所。
一撃必殺を狙う上で、あらゆる生物にとって有効な箇所。
しかしさすがに巨大蜘蛛の肉は堅く、一撃で断ち切ることはできなかった。
左足による反撃の一撃が、俺の頭上より降りかかってくる。
それを間一髪で躱しつつ、反対側からもう一撃を加えた。
さしもの巨大蜘蛛も、この一撃には耐えられなかった。
左右から肉を絶たれ、数本の筋繊維でのみ繋がっている状態。
それもやがて頭部の重さに耐えきれず、ブチブチと千切れ、地に落ちた。
胴体の方はしばらくもぞもぞと動いていたが、これもやがて停止する。
俺は剣を構えたまま、万が一の反撃に備えている。これは残心と言って、敵を斬ったとしても反撃に備える心構えの一つだ。
完全に生命活動を停止し、動きが止まってから、俺は剣を血振りしてから袖でひと拭きし、納刀する。
こうして俺は、前世でもやっかいなはずの巨大蜘蛛に圧勝したのだった。
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