成人映画をかける劇場も減りつつある。写真は上野オークラ劇場。
photo by Dick Thomas Johnson via flickr(CC BY 2.0)

◆ヌーヴェルヴァーグやピンク映画を経て「日活ロマンポルノ」へ
 昨今、日本におけるポルノグラフィと言えばアダルトビデオエロ漫画が主流だが、それ以前、1960年代から80年代に家庭用ビデオデッキが普及する以前はピンク映画が日本中の映画館をハイジャックしていた。

 古いものが学術的価値を帯びるという定説は、アカデミアに内在する問題だが、ピンク映画もその例外ではない。特にピンク映画の表現の豊かさとその政治的・社会的メッセージ性は格別のものだ。

 今回は日本のピンク映画がどのような文脈で発展したのか、その前史からピンク映画の魅力を紹介したい。

◆戦後の個人主義を象徴する「太陽の季節
 映画史において、日本は敗戦後、民主的な映画を作るようにというGHQ連合国軍最高司令官総司令部)の司令のもと、戦時中の国策映画に比べて自由な表現で映画を撮ることができた。黒澤明監督の「わが青春に悔なし」(1946年東宝)では、日本を代表する名女優・原節子が自己の信念を貫き通す女性を演じ、おまけにそれまで清純派で売っていた原の乳首まで透けて見えるシーンもあるが、このような奔放な女性像は戦中には不可能だったであろう。

 戦後日本における民主化の中、特に芸術の分野で新たな日本人の「主体性」を巡る問題が重要視された。戦中戦前は天皇の名の下、全体主義によって日本人アイデンティティは保たれていたが、戦後は「個人の意思」というものがそれに代わって議論されるようになった。

 坂口安吾の著名な随筆「堕落論」(1946年)には「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身、日本自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは、上皮だけの愚にもつかないものなのだ」と論じている。敗戦による挫折感、信じていたものが突然目の前から無くなるという絶望感が蔓延していた時代に、結局自分を救うのは政治でも何でもない、自分なのだ、と説いた。

 この個人主義的な考えを表現するかのように、当時はまだ作家だった石原慎太郎・元東京都知事原作の「太陽の季節」が1956年に日活より公開されると、その奔放な若者の描写が問題視された。酒、タバコ、そしてセックスに溺れていく若者の姿は一定の支持を得、「太陽の季節」に続き公開された石原氏原作の「狂った果実」(1956 日活)、「処刑の部屋」(1956年 大映)は「太陽族映画」と称され、一部の映画館自主規制され、現在の映像倫理委員会(映倫)が作られるきっかけとなった。「太陽族映画」に象徴されるような若者は「太陽族」と称され、社会現象ともなった。

 石原裕次郎のような代表的なアイコンに象徴されるように、サングラスにアロハシャツで神奈川・葉山周辺で遊び歩く中産階級の若者達。戦争が終わり、日本が高度経済成長に向けて走り出す中、アメリカ式生活様式に影響された消費文化により享楽的な日常を過ごす若者達。これが「太陽族」である。

◆大島渚から始まる松竹ヌーヴェルヴァーグの時代
 1960年代前後に入ると日本映画のニューウェーブとして大島渚が「青春残酷物語」(1960年松竹)を発表。太陽族映画が比較的裕福な中産階級の家庭の若者だったのに対し、大島の作品は低所得層の若者をテーマにした。

 ちなみに、フランス映画の巨匠、ジャンリュック・ゴダールは大島渚の「青春残酷物語」をニューウェーブ映画の始まりと考察している。ここでいうニューウェーブ(仏語でヌーヴェルヴァーグ)とはそれ以前のスタジオで撮影、というものではなく、オールロケ・同時録音・即効演出といったリアリズムへの追求というものである。

 その後大島は「太陽の墓場」(1960年松竹)で、大阪・釜ヶ崎を舞台とし、売血、売春、戸籍売買に溢れる当時のドヤ街を巡る戦後日本の最底辺の人々の生活を描いた。これはタイトルからも明らかなように「太陽族映画」を揶揄するものとも取れる。主演の炎加世子は松竹ヌーヴェルヴァーグを代表する女優であり、彼女が演じる売血に従事する花子は、自身の利害関係の為には売春も辞さない男勝り強い女として描かれている。これは「太陽族映画」で男性に連れ回され弄ばされる女性像とは違う。

テレビの普及による映画の衰退と「ピンク映画」の隆盛
 この時期になると、一世代前の映画とは異なり、より政治的な、社会的メッセージの強いものが性と暴力をメタファーにして出てくるようになる。またそれらの映画は大手五社、大映・松竹・東宝・東映・日活からではなく、大蔵、国映といった、独立系プロダクションで、低予算・少人数で製作された。

 また、60年代に入ると、家庭用テレビの普及と娯楽の多様化で、映画業界はそれ以前に比べると厳しい状況になった。例えば、1960年日本国内で製作された総映画数が7457であるのに対して、1970年にはその半分になっている。そしその内の半数はピンク映画といわれる、新しいジャンルの映画だった。

 現存するフィルム完全版49分のうち21分しか残っていないが、ピンク映画の第一号とされる小林悟監督の「肉体の市場」(1962年 大蔵)は六本木族による暴力や強姦シーンが猥褻として公開直後、上映禁止を言い渡された。8シーンカットの後、上映されたが、一連の警察沙汰によって話題性を帯び、多くの人が劇場に足を運んだという。

 ピンク映画という名前が普及する前には、女性の入浴シーンや少し肌が露出したりするような描写があるものを「お色気映画」、「エロダクション」や「愛欲映画」と呼んだりしていたが、1963年の「情欲の洞窟」(国映)が発表された際に夕刊紙「内外タイムス」の文化芸能記者村井実が「おピンク映画」と呼んだ事がその起源とされる。

 シネマコンプレックスなどの映画施設ができる以前、映画館にはヒエラルキーがあった。封切館という大手5社の新作映画を上映するものと、それらを2〜3週間遅れて上映する二番館・三番館と呼ばれるものがあった。

 ピンク映画は基本二番館・三番館で上映されたが、ニューウェーブ映画の人気で性表現が恒久化した後、二番館・三番館ではピンク映画を割安な値段で二本立て、三本立て上映でその経営を保っていた。前述したように、映画業界が厳しい状況の中、全国の封切館は1960年の7450館から1969年には3600館に激減した。しかし、ピンク映画の総興行収入は1964年が1億円だったのが、翌年の1965年には5億円と急成長を遂げていた。

◆若松孝二、武智鉄二の登場と大映・日活の路線変更
 「ピンク映画界の黒澤明」とも呼ばれる若松孝二監督は、1963年に「甘い罠」でデビューし、1965年の「壁の中の秘事」(若松プロダクション)はその年のベルリン国際映画祭にその他の大手5社の映画を差し置いて出展され「国辱」と罵られた。

 しかし、その内容は当時の社会問題ベトナム戦争、60年代安保、原爆後遺症、スターリニズム・・)といった様々な問題が団地という閉塞的な、とても日常的なエコロジーの中で反映される、というものである。

 この「国辱発言」は当時の日本社会が(もしかしたら今も)、性表現を猥褻としてしか認識できないことを物語っている。人間を描く芸術に、性的なものは必然だ。なぜなら、性は人間の(動物や植物にとっても)重要なファクターであるからだ。

 同じように、1965年に発表された武智鉄二監督の「黒い雪」(日活)は横須賀米軍基地の隣にある米軍向けの売春宿を舞台とし、猥褻物として起訴された。これは日活という大手5社の1つが一般映画として性表現が多い映画を製作・公開した事が所以とされる。

 しかし、武智監督はこれを「反米映画の民主的な映画」と主張し、第二審で無罪を獲得した。武智監督が「これが今の日本の象徴だ」と語った、全裸の女性が米軍基地の横を逃げ回り、その上を米軍の飛行機が飛び去るというシーンは圧巻だ。

 確かに、ピンク映画の中には娯楽重視で芸術性に欠けるものもあるかもしれない。しかし、それは一般映画でもありうる話である。さらに言うと、ピンク映画の功績があってこそ現在の表現の幅があるのかもしれない。

 様々なファクターが考えられるとは思うが、前述した通り、1960年代後半にはピンク映画の勢いは大手5社を脅かすようになっていた。最初はヤクザものや時代劇で知られる東映がピンク映画の真似事をし、1967年に「大奥㊙︎物語」(中島貞夫監督)を製作し、ヒットした。

 しかし、東映所属の女優はあまり脱いでくれなかった為、当時の岡田茂プロデューサーピンク映画経験者を積極的に登用し、翌年1968年に「徳川女系図」を発表。俗に言う「東映ポルノ」の始まりである。その後東映は拷問・処刑、グロテスクな独自路線でエログロをエスカレートさせていった。

 当時日活も試験的に「女浮世風呂」(1968年 井田探監督)を発表した。これは後の日活ロマンポルノへの布石である。

 大手5社の中で、東映・東宝・松竹は大映・日活に比べて比較的規模が大きかった。いくらエログロものを作っているとはいえ、東映の専門は時代劇ヤクザ映画であったし、東宝は「ゴジラ」に代表されるような特撮でピンク映画は一切作らず、健全なイメージを保っていた。また、松竹は歌舞伎の興行を独占していたので、経営難にはさして至らなかった。その中で大映と日活はピンク映画の影響を直に受け、ダイニチ映配という会社を設立したが、それも長くは続かなかった。1971年に大映は倒産。

◆「日活ロマンポルノ」の誕生
 そして1950年代に「太陽族映画」で一斉を風靡した日活は1971年からピンク映画一本に路線を変更した。これが「日活ロマンポルノ」である。日活のピンク映画界への参入はその人気を考えると不可避であったと同時にピンク映画というジャンル自体に多大なる影響を与えた。

 「日活ロマンポルノ」は当時予算300万円ピンク映画を撮っていた独立系プロダクションとの差別化を図り、1本当たりの製作費を750万円とした。また、日活は自社スタジオや衣装を既に持っていたため、制作者にとってクオリティの高い環境を用意できた。映画の尺を70分で10分に一回の濡れ場を固定ルールとし、それさえ守ればどんな映画でも作る事ができた。その為、若手監督の登竜門にもなった。

 中でも神代辰巳監督の「四畳半襖の裏張り」(1973年)は永井荷風の「四畳半襖の下張」を原作とし、大正時代の芸者とその客とそれを取り巻く時代の社会政治状況をコミカルに描いたもので、日常生活と世情の交差にハッとさせられるものがある。また、田中登監督の「㊙︎色情めす市場」(1974年)は大阪・釜ヶ崎を舞台とし、立ちんぼの女性から当時のドヤ街を描いたものである。これは前出の「太陽の墓場」を想起させる。

 日活ロマンポルノ1988年に当時興隆してきたアダルトビデオの勢いを受け終焉してしまうが、2016年にはリブート(再始動)プロジェクトとして、園子温・中田秀夫・行定勲・白石和彌・塩田明彦という現在日本を代表するような監督陣が日活ロマンポルノを製作した。

 とはいえ、ピンク映画自体はその後、今でも製作はされてはいるが、やはりアダルトビデオに比べるとその光は失ってしまったと言っても過言ではない。しかし、ピンク映画が日本の映画史の中でとても重要な位置を占めるという事は否めない事実である。また、今後も技術の発展と共ない、多様な性コンテンツの中で社会・政治的なメッセージを包含するものがもっと出てきても良いのではないかと考える。性を性だけで切り取るのではなく、生活の一部として認識する事が重要なのである。

【小高麻衣子】
ロンドン大学東洋アフリカ研究学院人類学・社会学PhD在籍。ジェンダー・メディアという視点からポルノスタディーズを推進し、女性の性のあり方について考える若手研究者。

成人映画をかける劇場も減りつつある。写真は上野オークラ劇場。 photo by Dick Thomas Johnson via flickr(CC BY 2.0)