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「念」、それは誰しもの心に備わる心の働きであり、仏教の修道において非常に重要視されるものです。
時にはこの一字をもって特定の修道法を示すなど、仏教では頻繁に使用される語の一つです。
しかし、にも関わらず、世間はもとより現在の日本仏教界においてすら、仏教の説く念の意義が案外正確に理解されていないように思われます。
これは、念という言葉が日本語として定着し、仏教にて意味する意味以外にも用いられるようになったことにも起因するのでしょう。
たとえば、現代日本語では、念について以下のような意味の言葉として用いられています。
ねん【念】
①〘造・名〙常に心の中を往来しているおもい。「悔恨の念」「念頭・心念・観念・断念・無念・残念・通念・怨念(おんねん)・疑念・懸念(けねん)・雑念・邪念・情念・概念」
②〘造・名〙気をつけること。注意すること。「念のため」(間違いがないように言っておく、という気持を表す言葉)「念が入る」(十分に注意する)「念には念を入れよ」(注意の上に注意せよ)「念を入れる」(十分に注意する)「念を押す」(確かめる)
③記憶して忘れない。深く思う。常に心から離れない。「念慮・念願・念仏・念力・記念・一念・失念・執念・放念・軫念(しんねん)・専念」
④口にとなえる。「念誦(ねんじゅ)・十念」
⑤「廿」(二十)の代用。「念八日」
『岩波 国語辞典 第五版』岩波書店
国語辞典では以上のような意味として解説されています。あるいはまた、『広辞苑』では以下のように解説されています。
ねん【念】
①おもい、考え。気持。日葡辞書「ネンヲチ(散)ラス」。「感謝の―」
②気をつけること。注意すること。「―のため」
③深く望むこと。深く思うこと。浄瑠璃、傾城酒呑童子「逢ひたいと思ふ―が届いて」
④(「廿」の俗音が「念」と同じであるから)日数を表すとき、「廿」の字の代りに用いる。「十月念八日」
⑤[仏](梵語smṛti)経験を明瞭に記憶して忘れない心の作用。憶。憶念。
『広辞苑 第六版』岩波書店
また参考までに、現代の支那・台湾において、念(支那語における発音はniàn)という語は、一般的に用いられる意味としては「声に出して読む・唱える」とされています。
あるいは念は、「学ぶ」・「(誰かを)寂しく思う」・「理想」・「記憶」・「廿(→発音がniànと同じであるため)」の意味のものとしても、彼の地では用いられることがあります。簡体字の場合、念は唸の省略形として用いられているのですが、台湾などで用いられる本来の繁体字の念でも、現代にてその意味するところは同様で変わりありません。
支那・台湾では基本的に、念という言葉単体としては、日本のそれと随分異なった意味の語として主に用いられているのです。
さて、上に引いたように、『広辞苑』ではすでに仏教の術語として、「経験を明瞭に記憶して忘れない心の作用」の意味を挙げています。けれどもそこは一般的な辞典であるということもあり、それだけでは少々舌足らずであって、そのような意味だけに留まるものではありません。
そこでここであらためて、冒頭述べたように仏教における「念とは何か」、その意味がいかなるものであるかを明瞭に知り把握しておくことは仏道を修める上で大変重要なことですので、念の原語からもう少し詳しく見ていきましょう。
以下しばらくの間、話が一般的でなくなって、少々専門的内容のものとなってしまいます。
いや、インド語に触れたことのあるような人でなければ、まるっきりチンプンカンプンの内容となってしまうでしょう。けれども、冒頭述べたように仏教で非常に重要な語である念のその原意を明確にするためには、どうしても必要なことなので敢えて続けていきます。
ここでまず、学術的・一般的な理解をも一応示すのに、主にバラモン教の典籍での用例・用法をカバーしつつ、仏教でのそれにも言及している梵英辞書(Ed. Monier Williams)を参照しましょう。
Smṛti f. remembrance, reminiscence, thinking of or upon (loc. or comp.), calling to mind (smṛtim api te na yānti, " they are not even thought of "), memory memory as one of the vyabhicāri-bhāvas, Memory (personified either as the daughter of dakṣa and wife of aṅgiras or as the daughter of dharma and medhā) the whole body of sacred tradition or what is remembered by human teachers (in contradistinction to śruti or what is directly heard or revealed to the ṛṣis ; in its widest acceptation this use of the term smṛti includes the 6 vedāṅgas , the sūtras both śrauta and gṛhya , the law-books of manu [see next]; the itihāsas [e.g. the mahābhārata and rāmāyaṇa] , the purāṇas and the nītiśāstras; iti smṛteḥ , "accord. to such and such a traditional precept or legal text"), the whole body of codes of law as handed down memoriter or by tradition (esp. the codes of manu, yājñavalkya and the 16 succeeding inspired lawgivers, viz. atri, viṣṇu, hārīta, uśanas or śukra, aṅgiras, yama, āpastamba, saṃvarta, kātyāyana, bṛhas-pati, parāśara, vyāsa, śaṅkha, likhīta, dakṣa and gautama; all these lawgivers being held to be inspired and to have based their precepts on the veda, symbolical N. for the number 18 (fr. the 18 lawgivers above) a kind of metre L. N. of the letter g Up. desire, wish.
Ed. Monier Williams. Sanskrit-English Dictionary
(* 原則として挙げられている用例の典拠は省略)
ここでは、smṛtiの基本的なその意味を、remembrance(追憶)・reminiscence(回想)・thinking of(考えてみること・想い起こすこと)・calling to mind(思い出すこと)・memory(記憶)等と記載しています。
あるいは、smṛtiという語の他の目立った用例として、紀元前二世紀から後二世紀頃にかけて成立したと現在推測されている、古代インドの代表的法典たるManusmṛti[マヌスムルティ](『マヌ法典』 / The codes of manu)のように、いわば記録・伝承を意味する語として用いられているのも挙げられます。
『マヌ法典』とは、人類の始祖たるManu[マヌ]から代々継承されたとされる、インド古来の教え・哲学、社会・人の義務や規定の記録で、インド古来の伝統・文化習慣を知るに非常に重要な書です。この書を読んでおくことは、仏教を理解するのにも屹度役立つものとなるでしょう。
さてまた、今からおよそ一世紀前にもなろうかという1925年に全ての編集が成ったものであるのにもかかわらず、以来いまだ世界で最も信頼され依用され続けている、サンスクリット(Vedic, Classcal, Buddhist Sanskrit)との対照もなしつつパーリ仏典の用例・用法そして典拠をも広範に示す、PTSのTHE PALI-ENGLISH DICTIONARY(『巴英辞書』)ではどうでしょうか。
Sati (f.) [vedic smṛti: see etym. under sarati2] memory, recognition, consciousness; intentness of mind, wakefulness of mind, mindfulness, alertness, lucidity of mind, self-possessioning, conscience, self-consciousness; upaṭṭhitā sati presence of mind, parimukhaŋ satiŋ upaṭṭhāpetuŋ to surround oneself with watchfulness of mind, satiŋ paccupaṭṭhāpetuŋ to preserve self-possession, kāyagatā sati intentness of mind on the body, realization of the impermanency of all things, muṭṭhasati forgetful, careless, maraṇasati mindfulness as to death, asati not thinking of, forgetfulness, asatiyā through forgetfulness, without thinking of it, not intentionally, sati (sammā˚) is one of the constituents of the 8-fold Ariyan Path, -âdhipateyya (sat˚) dominant mindfulness, -indriya the sense, faculty, of mindfulness, -uppāda arising, production of recollection, -ullapakāyika a class of devas, -paṭṭhāna [BSk. smṛty'upasthāna] intent contemplation and mindfulness earnest thought, application of mindfulness there are four satipaṭṭhānas, referring to the body, the sensations, the mind, and phenomena respectively, -vinaya disciplinary proceeding under appeal to the accused monk's own conscience, -vepullappatta having attained a clear conscience, -saŋvara restraint in mindfulness, -sampajañña mindfulness and self-possession, -sambojjhanga see (sam)bojjhanga. -sammosa loss of mindfulness or memory, lack of concentration or attention,
Sarati2 [smṛ;, cp. smṛti=sati] to remember;
Ed. T.W. Rhys Davids and William Stede. THE PALI-ENGLISH DICTIONARY
(* 挙げられている用例の典拠は全省略)
このように、その基本的な意味として、memory(記憶)・recognition(認識)・consciousness(意識)、あるいはintentness of mind(専念)・wakefulness of mind(用心深さ)・mindfulness(注意深さ)・alertness(用心深さ)・lucidity of mind(心の明晰さ)・self-possession(冷静)・conscience(良心)・self-consciousness(自意識)が挙げられています。
たとえば仏教の術語における、Dharma(Dhamma)すなわち法という語の多義性には及びませんが、それでもsatiという語が比較的広範な意味を持つ単語であることが示されています。
だいたい言葉というものは単純に、一語一義というわけにはいきません。
故にその訳語には、その多義性を表し得るものを選択するのが好ましいのですが、それはそう簡単なことではありません。
いま西洋の英語圏では一般に、仏教の修道法に関してのsmṛti(sati)の訳としてはmindfulness(マインドフルネス)があてられています。
近年の日本の文献学者には、これを特に訳さず「念」との旧来の漢訳語を用いるか、あるいは「気をつけること」という日本語訳をつける人もあります。
一応、日本語のものとしてはもっとも流通し一般的に用いられているパーリ語辞典ではどうかも示しておきましょう。
Sati f. [sk. smṛti.<sarati ②] 念、憶念、記憶、正念. satipaṭṭhānānaṃ upaṭṭhānaṭṭho 念住の近住の義. satibalañ ca samādhibalañ ca 念力と定力. satisampajaññena samannāgato 念正智を具足せる者. -a-sammuṭṭha 念覚不忘の念. -ākāra 念の行相. -indriya 念根. -uppāda 念の生起. -cariya 念行. -nepakka 念慧,念慮. -paṭṭhāna 念処,念住. -paṭṭhāna-bhāvanā 念処の修習. -bala 念力. -vinaya 憶念毘尼. -vepulla 念広大. -saṃvara 念律儀. -sacchikaraṇīya 念応証. -sampajañña 念正知,正念正知. -sambojjhaṅga 念等覚支. -sammosa, -sammoha 念忘失,忘念,失念
水野弘元『増補改訂 パーリ語辞典』春秋社
この辞典の編者たる水野弘元博士自身が言及されている通り、この辞典は初学者のための小辞典に過ぎず、よって簡便な記述しかされていません。そして博士もまた、satiを説明するにあたって、旧来の「念」という漢訳語をそのまま用いられています。故に、これに依るは、後述しますが、仏教における漢語・漢訳語としての「念」の有する意味を知らねばなりません。
では次に、翻って漢訳仏典での訳例を見てみましょう。
諸々の仏典において主に用いられてきた語は、旧訳以来の「念」です。あるいは「憶」・「意」との語も用いられています。また、古訳の仏典では、「念」という語が用いられているのと同時に、「守意」との訳語が用いられていることがあります。
この守意という訳語は、いま見てきたsmṛti (sati)の意味とは大きく異なったもののように思われるかも知れません。が、何故そのように訳されたについては後ほど触れます。
しかしなんといっても、すでに先程から私も専ら用いているわけですが、それらの中では「念」という語が一般的に用いられるものです。
では、それら訳語は果たして適切なものでしょうか。
…いや。いやいやいやいや!
それらは古今東西の先徳・碩学らによる偉大な業績であり、愚劣極まりない私がその可否を云々するなど甚だおこがましいというもの。それらは屹度、適切であるに違いない。
違いないものではあります。が、各自が確かにその意を把握するためには、やはり各自がその適切であることを確認しなければならない。
故にそれを以下、行っていきましょう。
さて、念の原語であるサンスクリットsmṛti[スムルティ](パーリ語ではsati[サティ])という語の意味を、その語根から見ていきましょう。
Smṛti (Sati)は、「憶える」・「思い出す」を意味する語根smṛ に、名詞語基を形成する接尾辞 -ti が付され成っている女性名詞です(以下、語根は√[ルート]を語頭に付して表す。パーリ語の場合は√sar)。
その原意は、「憶えること」「心に留めること」「記憶」、あるいは「思い出すこと」「想い起こすこと」。
これが転じて、「注意」「気を付ける」の意ともなっています。
(パーリ語の場合、√sar → 【過去分詞】 sata+【接尾辞】 -ti ⇒ satiと、語根から直接でなく過去分詞の名詞化と見ることも可。)
同根の現在動詞は、smārati(パーリ語はsarati)ですが、その意はやはり「憶える」・「思い出す」です。
また、同根同義の名詞にはsmaraṇa(saraṇa)があって、やはり「記憶」「注意」の意。派生した形容詞にはsmṛtimat(satimant)があって、「用心深い」「注意深い(者)」の意です。
ここで「念入り」に、先ずは漢訳語として用いられてきた「念」という語が、上に示したサンスクリットあるいはパーリ語の原意に対し、果たして適切なものであるか、その意を充分に伝えるものであるかを確認します。
そこで念という漢語の原義を知るため、これは一応ながら、後漢に初めて漢字字典を編纂し、漢字一字一字の部首・旁の構成からその意味の解明を試みた、許慎の『説文解字[せもんげじ]』に触れてみましょう。
念、常思也。從心今聲
許慎『説文解字』
許慎は念という文字について、ただ単に「常に思うこと」という意味を記すのみです。
ではここで更に、許慎の知らなかった、念の原字となる金文での字形(右図)をも参照しつつ、何故そのような意味とさるのかを考えてみましょう。
「念」という文字は、言うまでもなく、「今」と「心」という字から成っています。
しかし、この「今」は時間を示したものではなく「含」に通じるものとされます。いや、実はそもそも、「今」という文字は本来「ふくむ」「おさえる」を意味したものです。それが後に現在を表す文字となっています。もともと心臓の象形であった「心」は、今用いられている意味で文字通りの心、すなわち精神・意識です。
故に、漢字のなりたちからいうと、念という字は「心の中に含む」という意を表し、そこから、念とは「憶えること」・「想い起こすこと」・「考えること」・「心に留めること」・「注意」の義とされます。
先に、smṛti(sati)には、「記憶」「思い出すこと」「想い起こすこと」「考えること」と、「注意」「気をつけること」等々の意味であることを確認しました。
そして、それを「念」という漢語の解字とこの様に比較してみると、この訳語として当てられた念という語は、その全てとはいかぬものの、そのどれか一つではなく、それらを含意し表する、全く適訳であることがわかります。
世間には「念とは『今の心』のことである」だとか、「『今の心』を知るので念である」などという、もっともらしくそれっぽい、しかしながら根拠のまったくない通俗的解釈をふるう人があるようです。
が、それらは全く的外れな空言です。
さて、けれども漢訳仏典の中で「念」との訳語が用いられるのは、smṛtiにだけ対するものではありません。kṣaṇa[クシャナ]という語もまた、そのように訳されていることがあります(例えば玄奘三蔵による)。
このkṣaṇaという語はまた、「刹那[せつな]」と音写して訳されてもいます。
この刹那という語は現在の日本一般社会にいたってなお用いられている言葉で、その意を知っている人も多いでしょう。そう、その意とは、smṛtiのようにある心の働きを示すものでなく「極めて短い時間の単位」、アッというほどの間もないほどの瞬間を意味する語です。
伝統説では、弾指[たんじ]の間、すなわち親指と人差指とでもって指を弾き出す音の(いわゆる指をパチンと弾いて音を出す)間に、六十念あるとの説があります。ここで云われる念とは、すなわち刹那のことであり、「心が生じて滅するまでの最短の時間」であるとされるものです。
そのようなことから、漢語仏典において「念」との語を見た時、たとえば「一念」などとあったとき、ただちにこれをsmṛtiの訳であると捉えては大なる誤解が生じる可能性があります。この点、よくよく注意しておかなければなりません。
また、過去に支那や日本で撰述された仏教書などで用いられる念の用語が、どのような意味で用いられているか、例えば「思い」や「考え」というそれまでの漢語で普通に用いられてきた言葉であるのかなどにも、意を用いる必要があります。
古来、仏教が信仰され伝えられてきた国々には、satiという語をそのまま、日常的に使っている国があります。
たとえば南方のセイロンやビルマなどでは、(故中村元博士もその著において指摘していたように)年少の僧侶が粗相、例えば歩行中に足を躓かせたり、うっかり忘れ物などしたときなどには、上座や同法の僧侶が「チッチッチッ」と舌を鳴らすなどし、それはインド文化圏における得てして否定的驚きの一般的表現なのですが、「sati, sati(気をつけること、気をつけること)」と言ったり「sati(注意)が無いからだ」と言ったりして、たしなめることがあります。
この場合、それは「自分が行っていることを忘れない」、「うっかりしない」「よく気をつける」「注意」という意味で用いられます。
サンスクリットやパーリ語と同じインド語派のセイロンのシンハラ語、そしてまったく言語系統の異なるビルマ語にも、長年仏教が信仰されてきた影響により、これはインドから遠く離れた日本ですら同様のことが言えるのですが、多くのサンスクリットあるいはパーリ語の単語がそのままその語彙に採用されているのが見られます。
ビルマにおいてsatiは、ビルマ語のローマ字綴りの一例はhtatiで発音は「タティ」ですけれども、そのような単語の一つで、「気をつける」・「注意」という意味の単語として日常的に用いられています。
例えば、交差点などの黄色信号は「タティ」を意味するもので、黄色信号のところにまさにそう記されていることがしばしばあります。
そしてまた一方、satiはその原義通りの「憶える」という意味でも使われています。
例えば「憶える」「覚えておく」というのは、ビルマ語でthati tha de[タティ ター デー]といい、それを直訳したなら「記憶を置く」となります。あるいはまた、ビルマ語で「憶える」ということを他に、hma de[フマー デー]との言い方もありますが。
なお、セイロンではsatiはシンハラ語の語彙には直接は取り入れられていないものの、上述したように僧侶の間ではしばしば日常的に用いられています。なおパーリ語satiは、シンハラ語ではsihiya[シヒーヤ]と訳されており、その意味はやはり「記憶」と「気を付けること」の二通りとなっています。
(また、パーリ語の語尾に-yaを付してシンハラ語化させた、satiya[サティーヤ]という語もあって、同一の意味で用いられることが、あるにはあります。)
しかし、本邦では巷間、「気づき」という言葉をもってsmṛti(sati)の訳語に当て、あるいはその意味内容であるとし、安般念や四念処など念の語が付された仏教の修習法を、「気づきの瞑想」などと言って盛んに宣伝している一類の人々があるようです。
実際そのような理解をし、「サティを入れる」「気づきを入れる」などという、日本語の「念を入れる」という表現を変にもじったのなのでしょうか、なんとも奇妙奇天烈、珍奇なる表現を用いる人々に幾度か出会うことがあります。
いや、巷にはsmṛti(sati)に対する、引いてはvipaśyanā(vipassanā)という修習法に対する「気づき」という言葉がすでに独り歩きして久しいようで、猫も杓子も「気づきの瞑想」「気づきの云々」などといって毫も疑わず、何でもかんでもそのような言葉を冠した瞑想は高級でアリガタイものである、とするような風潮が一部にミられるようです。
まぁ、少々大げさに言い過ぎたでしょうか。いや、むしろこのくらいに言っておくのが妥当な所か。
なるほど確かに、「気づきの瞑想」などという語は、なにやら良い物に違いないといった気にさせる調子の、語呂の良いcatchy[キャッチー]なものです。
「気づきの仏教」・「気づきの瞑想」・「毎日を気づきつつ生きる」、「仏教は科学です!幸せに生きていくための、気づきというメソッド」などといったような言い回しさえして本のタイトルや講演の演題にでもしておけば、いわゆる抹香臭さも漂わず、怪しげな宗教にも思われず、なにやらそれっぽく聞こえてくるかもしれません。
…いや、充分に怪しい響きがあるか。
そもそも瞑想という言葉自体すら、いまだ日本社会ではそれほど馴染みなく、またそれに対する語感も何か不安定なものかもしれません。坐禅や修禅、あるいは単に修習や修行といった古来の言葉を使用するのが吉というものでしょうか。
されども、修行という語についてもまた、日本ではオウム真理教を筆頭とする超常現象・超能力を宣伝文句に使う新宗教、または怪しげな信者寺・拝み屋・修験者共など伝統宗教側にも色々とありすぎたようで、その語に妙な違和感を覚えて怪しいと思う人、拒絶反応を示す者も最近は少なくないでしょう。
また、修禅という言葉であれば、ただちに特に禅宗のみのそれに関するものとしてのみ理解されてしまうかもしれません。
言葉の意味、語感や解釈というものは、それを単に肯定するかどうかは別問題として、時代によって変動するものであるでしょう。
実に、言葉の選択というのは難しいものです。
しかしながら、そこに何か誤りがあるならば、その誤っている点はどこまでも誤っている。
この点については、分別説部自身の典籍をそれぞれ挙げることによって、分別説部における伝統的な「satiの定義と位置付け」を示し、その誤りであることを後述します。
さて、何者が、そしていつ頃からそのような理解をし始めたのかは知りません。
これはあくまで推測に過ぎません。が、そのようにsmṛti(sati)を「気づき」と訳すようになったのは、欧米のパーリ語やパーリ仏典の英訳者の一部が、その著作の中でsatiをawarenessなどと時として訳しているのを、何者かがその原意や伝統的仏教での定義などをさして検証することなしに、日本語で「気づき」と転じたことを嚆矢としているのかもしれません。
それはおそらく、仏教そのものからというよりも、1970年代頃からでしょうか、むしろ欧米で流行しだした仏教の修道法に基づく瞑想法、そしてそれから展開して生まれた新しい潮流(Healing・精神医療等)や、ある場合には暇つぶしの娯楽の一種、または旧来の様々な宗教や権威などの影響から脱せんとする啓蒙思想に触発されたものでもあるのでしょう。
(西洋における「Vipassanā Movement」とでも呼ぶべき運動の嚆矢、そしてその問題点や、それにもとづく「日本ヴィパッサナー一向宗」とでも評すべき人々が、上座部の名のもとに生じてきたことなどについては、別項“止観双運”を参照のこと。)
なお、先に示したように、いま西洋で一般的に用いられている、修道に関する用語としてのsmṛti(sati)の英訳語は、mindfullness(マインドフルネス)です。
この語は、冒頭示したようにsmṛti(sati)に対する訳語として学術的に認められ、辞書にも記載されているもので、また続いて示したようにsmṛti(sati)の訳語として、例外はあるものの適切なものです。
しかしまた、先ほど触れたようにすでに欧米において、70年代頃からインドやビルマ発祥のいわばVipassanā movement(ヴィパッサナー運動)が紹介され流行。それによって、次第にその瞑想法の用語そしてそれへの理解として、従来sati(サティ)の訳語として使用されてきたmindfulnessという語が用いられ、新たな意味内容を持つものとして、象徴的な語として定着。
そもそも、この場合のmindfulnessというのは、パーリ語でcattāro satipaṭṭhānaすなわち漢語で四念住(四念処)といわれる、仏教の瞑想でも最も根本的かつ核心的な四つの修習法のうち、特に身念住の修習内容に基づいて理解された言葉です。ただsatiという語だけについて、理解されたものではありません。
故に、本来的には、(分別説部における)四念住の修習と理解という文脈においてこそ、satiすなわちmindfulnessは理解されなければならないものです。
(四念住についての詳細は別項、“自灯明法灯明とは何か ―四念住(四念処)”を参照のこと。)
けれどもそれは、次第に仏教の要素が廃されていきます。
いや、そもそもそれは、欧米では仏教的・宗教的要素がかなり薄くされ紹介されてきたのですが、精神に健康的結果をもたらす瞑想の単なる技法(method)あるいは技術(technique)、ひいては精神セラピー(therapy)の一手段などとして取り入れられ、定着するにまで至っています。
今やmindfullnessという語は、それらは欧米での仏教への新しいアプローチの一つ、あるいは仏教だの東洋だのといった要素が排除され、その利点が科学的に保証された功利的で新しい精神修養法を象徴する言葉である、とまで言えるまでのものとなっています。
例えば面白いことに、分量としては世界最大の英英辞書Oxford English Dictionary (OED) では、今やmindfulnessという英単語自体が、仏教の、特に先に触れた欧米で受け入れられ流行するようになった仏教の瞑想と、そこから展開した心理学とのみに関連付けられて説明されており、ほとんどその術語として紹介されるようになっています。
mindfulness
▶noun [mass noun]
1 the quality or state of being conscious or aware of something:
2 a mental state achieved by focusing one's awareness on the present moment, while calmly acknowlegding and accepting one's feelings, thoughts, and bodily sensations, used as a therapeutic thechnigue.
Oxford English Dictionary
(例文は省略)
ここでは省略しましたが、それはその例文を見ればさらに明らかに、まさに現在のヴィパッサナーを標榜する人々(そこから展開したマインドフルネスという「技法」)のいう内容そのものであります。それは、OEDに載せられるほど、欧米社会に受け入れられて成功し、一般的になっているわけです。
実際、仏教の修道法としてのsmṛti(sati)を、いわゆる宗教臭さを除外したかったのでしょう、いや、結局は欧米発祥の流行に影響されてのことでしょうか、あえて日本語訳せず恣意的に「マインドフルネス」というカタカナ英語でもって紹介する日本の書籍もあるようです。
しかし同時に、先程述べたように、「仏教におけるsati(サティ)とは『気づき』の意である」・「そもそも我らこそが信奉する純正仏教(ぴゅあぶっでぃずむ)は『気づきという技法』をその最初から強調してきたのである。気づき、すなわちsatiこそ!」などと謳って盛んに布教する一群の輩があります。
そして、それをなんの不信も抱かず、単純に受け入れている人々がある。
「smṛti(sati)=気づき」などとしているわけです。
が、これは仏教の修道法や教学という観点からすると、誤謬である。
けれども、世間でそのように言われている二つのこと、すなわち英訳で「smṛti (sati)=mindfullness」と言われ、日本の一部で「smṛti(sati)=気づき」だと言われていることを、特に考えもせず、まったく単純に「smṛti(sati)=mindfullness=気づき」などと合してしまって理解し言う者らがあるようです。
ところで、そのような特別な内容のものとして用いられる以前の、そもそものmindfullnessという英単語の一般的意味は、日本語で「注意深さ」・「注意深いこと」あるいは「忘れないこと」です。
そして、先から示してきたように、仏教の修道法について言われる場合のsmṛti あるいはsatiに、「気付くこと」・「気づき」などという意味はありません。なぜそのように言えるかは、後に「伝統的仏教におけるsmṛti(sati)の理解・定義・位置付け」を様々に示すので、それによって理解できるでしょう。
いや、先ほど示したように、そもそも仏教が伝えられてきたビルマやセイロンなど諸国において受容され、日常的に用いられてきたsati(念)という語の意味・用例に、「気づき」などという意味が皆目ないことをもっても、その根拠と十分し得る。
しかし確かに、仏教の術語の英訳を参照する時、その訳語が適切かどうかを判じるのは色々難しいものがあります。
たとえばサンスクリットでMaitrī、パーリ語でMettāという語があります。支那以来、日本でもこの訳語は「慈」であり、現代語としてはこれを訓じた「慈しみ」でありましょう。そして、私自身もまったくそう思いますが、日本では「慈と愛とは同一のものではない」・「慈と愛とを混同してはならない」・「MettāをLoveと訳すのは不適切である」という意見が強くあるように思われます。
けれども欧米では、その一般的な訳語は、まったくキリスト教由来の造語たるLoving-kindness(ラヴィング・カインドネス)ですでに定着しています。
そして、南方の学僧や学者らは、高度な学問を修得するにはどうしてもイギリスかアメリカに渡らねばなりません。また、セイロンやビルマの国立大学であったとしても、母国語ではなくて英語で仏教を学び、論文も英語で書かなければならないことが多いため、そのような欧米人に依る英訳語をそのまま受け入れ、大体あたりまえのように使用しています。それは、一種のステータスともなっている場合すらある。
また、それは学問的というだけではなく、戦後にむしろ欧米で成功した瞑想法や瞑想道場の運営法・指導法などが東南アジア・南アジアに逆輸入され、英語によって書かれた本がそれぞれの言語に翻訳されて行われている場合もあります。
実際、今のsmṛti(sati)という語についての理解や修道法は、もともとは東南アジア(ビルマやタイ)から西洋に紹介されたものではあるでしょうが、むしろ西洋で彼ら自身によってその理解や手法・目的などが斟酌され受け入れられたものです。そして、それが南アジア・東南アジアに逆輸入され、さらに日本などでも広まったものであるように思われます。
事実、日本で「気づきだ」と言い始めた人、また続いてそう強調する人々は、まず必ず海外留学や生活の経験者で、そのような潮流に触れた人間がほとんどであるようです。
ところで、その昔、仏教を受け入れてつぎつぎその膨大な典籍を翻訳することが、国が傾くほどの大規模で行われた国家事業でもあった支那では、そのような翻訳に際して生じる諸問題に対処すべく、様々な原則・指針が立てられています。たとえば釈道安尊者による「五失本 三不易」、玄奘三蔵の「五種不翻」です。
しかし、それでもなお多くの難点が残りました。いまだ日本にもその弊害というべき影響が強く残っているほどに。
それに対して、現代の優れた諸学者によってなされたサンスクリットやチベット語、パーリ語仏典などからの英訳は、漢訳に見られるような修辞問題などがなく、ほとんど学究的になされたものであって、おおよそ信頼度の高いものではあります。
しかし、それでもそこには西洋版の、いわゆる格義仏教的な要素・理解が少々ながら、ところどころにひそんでもいます。
とは言え、であったとしても、欧米における科学的な、実証主義的な知見から理解された仏教というものには、我々に仏教の価値の再確認や新発見をももたらす、まこと有益なものが多くあります。いや、おそらくその影響をまったく受けていない仏教者など、現代の日本はもとより南方の分別説部の比丘らであっても、まず一人としてありはしないでしょう。
その少なからぬ影響、その恩恵ともいうべき様々な学的成果や、非常なる利便性をすら、我々は知ってか知らずか享受しているに違いない。
けれども、日本人は昔からそのような傾向が強いようですが、なんでもただ「海外(欧米)でそういわれているから」などと闇雲にありがたがって珍重するのではなく、重要な語や概念に関しては、やはり原典や注釈書類に直接あたって自ら理解しなければならないことがある。
そして、そのような事態は日本の伝統的理解についても全く同様に言えることでしょう。伝統的であるから正しい、などということは必ずしも無い。
でなければ言葉だけがひとり歩きしてしまうことがきっとある。
少々本題から離れてしまいました。
さて、「釈尊ご在世の昔から、我らが信奉し喧伝するぴゅあぶっでぃずむは『smṛti(sati)=気づき』と理解し、実践してきたのだ!」などと喧伝してきた人々も、今まであれだけ声高に言ってきた手前、それが実は妥当ではない、あるいは間違いであったと「気づいた」としても、もはや修正することが出来ず、「いやいや、気づきだ!気づきとも言えるはず!!やはり気づきなのだ!!!」などと強弁し続ける他、無いのかもしれません。
それが実は、近年の欧米での新解釈と新実践法であったなどと、いまさら認めるわけにもいかないのでしょう。
もはや、そんな彼らもその追従者等も、むしろ気の毒なことである、とすら言うべき状態でありましょう。
その故に、彼らがその布教に際してや修道法に関して、多くの怪しげな新興宗教や啓発団体などがそうしているような、種種様々で珍奇なる新造語や表現を用いていることも頷けない話ではありません。
まあ、そのような手法も行き過ぎなければ、娑婆の渡世に必要であることなのかもしれません。また、人がそれでなんらか良い方向へと変わり得るならば、一応は良いとしえることでもありましょうか。
しかし、この問題は、日本において「気づきだ」・「気づきを入れる!」・「ラベリングするのだ!」などという奇態な主張をする同じ人々が、「ヴィパッサナーこそ」・「ただヴィパッサナーだけを」・「我が信奉する、真に純粋なる仏教こそが仏教であって、覚りに至り得るのはこの我が信奉する教えだけ」云々と、きわめて一向的に布教したことに連なるものでもあります。
(別項“止観双運”を参照のこと。)
もっとも、現代の欧米において行われているMindfulnessという語に込められた、新しい解釈と実践法とが全然意味が無いだとか邪道だとかなど毛頭思いません。
彼らがMndfulnessの理解として好んでしばしば用いる「The here and now.(今、ここ)」だとか「The present moment(この今という瞬間)」や「The moment to moment(この瞬間、瞬間)」だとかという新しい表現や捉え方も、形而上学的な思考を厭う啓蒙思想がある程度浸透した現代人好みで受け入れやすい、いわば時代に適合したものであることも理解できます。
ただし、そのような西洋でもてはやされた「今、ここ」という理解・表現に影響され、浅はかにもそれにかこつけて、日本で「念とは、今の心を見るから念である」・「心を今に留めることから、念である」などと言った珍説を、さも昔からそうであったかのように言う者らは節操がなく、また愚かに過ぎるというものです。
(別項“伝統と流行のはざまで“を参照のこと。)
そして、そのような欧米における理解と表現は、ただ分別説部のみからの影響からそう言われているのでもありません。
それはまた、特に鈴木大拙など日本人によって「欧米に紹介されたZen」の西洋的理解や、ベトナム人禅僧 Thich Nhat Hanh[ティク・ナット・ハン]の活動の影響も相当に受けてのものであると、むしろ欧米人自身らによって理解されています。
私見では、そのような西洋で受け入れられた東洋人によって主張された大乗の思想と、先ほどから述べている分別説部の運動に端を発して西洋で受容されたMindfulnessに特別な意味を付す潮流とが、相互に影響しあって形成されたものというのが正確であろうと思います。
また事実として、その実践による様々な「効用」が西洋人等によってカガクテキに確認・証明されていることでもあり、人に大変有益なことであるでしょう。
ただし、それは欧米において、「解脱」などという仏教的・宗教的目標を目指すものでは到底なく、あくまでストレス軽減や精神の安定を目的として謳われている場合が多いようです。
けれども、それで人が少しでも余計な苦しみから逃れ得る、ならばそれは誠に結構な話です。
その程度がどれほどのものかは、しばらく置くとしても。
それはさておき、ではそれが日本の一部の人々によってなされている、「純正仏教(分別説部)が古来そのように理解し実践してきたこと」だとか、それが「仏教本来の理解であって、我が純正仏教のみがそれを正確に伝えてきたこと」とかいう主張が真であるかということについては、全然違うわけであります。
日本においてなぜそのような主張を盛んになす者等があるのかは、そのような西洋の潮流に乗じ、あるいはそれらが無自覚に併されて、日本でセイロンの分別説部が紹介されてきたという事情が大きく作用しているのでしょう。
それを行ってきた当人らも、おそらくビルマにおける新運動に端を発する西洋での新たな潮流・解釈というものに対する自覚や知識なども無く、「そもそもそういうものなのだ」などとまったく信じて疑わずにきてしまったのかもしれません。
その故に、「ヴィパッサナーだけ」などという一向的で偏向した主張を盛んになし、「日本の大乗諸宗や北伝の説一切有部などにおける『誤った理解』とは異なり、我が信奉する純正仏教は古来正しく念について理解し」云々といった軽々な物言いをしてきたのであろうと思われます。
またさらに、その独自性を強調して教線を拡張しようと急であったがあまり、大乗や説一切有部など他宗・他流に対してだけではなく、むしろ自身が信奉している分別説部への理解や知識も不十分であるのに関わらず、なんとか他派・他流を矮小化しようと努め、そのような誤認に基づく様々な排他的・先鋭的主張をなし、それをむしろ有効な布教の手段だと考えてしまったのかもしれません。
しかし、それが賢明な方法であったとは到底思えるものではありません。なんとも哀れであり、残念な話でありましょう。
それによってむしろ、日本における分別説部(上座部)全体に対する見方が否定的になってしまった向きも一部あるためです。分別説部は部派としてただ一つ現存するものであるという点においても、またその教義と伝統においてもすぐれて有益で尊く、須らく学ぶべき仏教の一派であるのに。
まぁ、それに似たようなことは、日本の鎌倉期に多く生じたいくつかの「新仏教」などといわれる宗派においても「連綿と」行われてきたわけですけれども。すなわち、浄土教徒や法華衆徒などのそれと同じようなものです。
…あ!?あぁ、そうか。なるほど。
このようにしていわゆる「祖師無謬説」は形成されてきたのでありましょう。「一端言い出し、そう信じてしまったならば、その正否がどうあれ止められない、止まれない」、そんな気質が日本人には色濃くあるのかもしれません。
小人の過つや必ず文[かざ]る。
(子夏は言った、)「(過ちは誰でも犯すものだけれども)小人は過ちを犯したならば、必ずその非を認めず、誤魔化しの言葉を述べる」と。
『論語』子張
人は誤って当たり前のものです。
困ったことに、愚かな私などしばしば誤って直すべき点があまりに多くあります。けれどももし、我々は、我がうちに誤りのあることが知れた時には、「直に」とは中々いかなくとも、努めて修正していけば良いだけのことでしょう。
それが本来の「君子豹変」というもの、でしょうに。
君子は豹変し、小人は面を革[あらた]む。
君子は自らに非のあることを気づいた時には、豹の毛が生え変わる時のように、たちまちに非を改める。しかし、小人はただ表面上取り繕うだけで我説・我流に固執する。
『易経』革卦・上六
仏教の説く菩提(覚り・悟り)というものを、「それまで知らなかった事物の真のあり方に『気づくこと』である」とし、その修道法としての念あるいは観の瞑想がそれを目指し、到達するのに必須のものであるということからそのように言うのだ、と反論する者があるかもしれません。
Buddha(仏陀)やBodhi(菩提)の語根はbudhで、その意味は「目覚める」です。故にBuddha(仏陀)とは「目覚めた人」であり、Bodhi(菩提)とは「目覚め」です。仏教とは、「人生の苦しみの由来・根源とその除滅、そしてその方法に関する真理」に対して目覚めることを目標とする宗教です。
今まで知らなかった真理について知るという点からすれば、厳密には不正確ではありますが、budhをまた「気づく」と訳し、Bodhi(菩提)を「気づき」すことも一応可能ではありましょう。
そのようなことから、「仏教は菩提という『大いなる気づき』を目標にするものであって、その修道においてsati(念)は不可欠であるから、『sati(念)=気づき』である」と。
であるならば、仮にそのように言うことは出来るでしょう。
しかし、おや、果たして当初からそうであったのでしょうか。仮に万一そうであったとしても、そのような言葉・表現は、事実として、世間の多くの人を甚だ誤解させるに充分のものであったようです。
なんとも浅ましく、また実にもったいのない話です。
もっとも、彼らがそうした背景には、近年はただ因襲としての祖先崇拝・葬祭儀礼を専らとするのみとなった、日本の伝統的宗派におけるほとんどの僧尼・寺家らの、あまりにもヒドイ不勉強や甚だしく墮落したあり方を公然と続けているという状況もあるのでしょう。
「日本の僧侶などという者等によっては、仏教というものが全然まともに説かれていないし、理解もされていない」、「あまりにもいい加減で、しばしば仏教とはまるで真逆のことを、その説法や著作などの中で恥ずかしげもなく『仏教では』・『大乗では』などと吹聴して回っている」、「もはや彼らに期待できることは全く無い」などといった、大多数の日本で僧を名乗る者らの惨憺たる有り様に対する不満、反動・反発でもあったのでしょう。
世間でルサンチマン(ressentiment)、などとフランス語で気取って言われてしまう心情に基づくものでしょうか。
事実、そのような日本で「大乗」を標榜する僧尼のほとんどのおサムイ有り様、大乗にとってまさに「獅子身中の虫」たる有り様を平然と続けている惨憺たる状態は、確かに否定しようもないものです。
仏教の修道について言われる場合のsmṛti(sati)あるいは念とは、「気をつけること」・「注意」を意味するものです。
まず「気づき」ではありません。
では、ここでまた「念入り」に、日本人であってもその意味を正確に把握していない可能性があるかもしれないために、そもそも「気付く」「気づき」という日本語の意味を確認しなければならないでしょう。
き・づ・く【気付く】
①ふと、思いがそこにいたる。気がつく。感づく。「手抜かりに―・く」
②意識をとりもどす。正気に戻る。「―・いたら病院にいた」
き・づき【気づき】
気が付くこと。心付くこと。「お―の点」
『広辞苑(第六版)」岩波書店
「気づく」は、頭の中に何かの考えが浮かぶこと、それまで何も考えていなかった状態・それまで知らなかった状態・考えても結論が出なかった状態などから、突然に何事かの考えが浮かぶことを意味し、そのような意味で用いられる動詞です。
それはいわば、「ハッと」することです。受動的・偶発的・突発的なニュアンスがある語と言えるでしょうか。その名詞が「気づき」です。
故に、先に述べたことの繰り返しとなりますが、仏陀(Buddha)とは覚者すなわち「目覚めた人」の意味でありますが、悟りとは「(大いなる)目覚め」「(全き)気づき」であると言うことが出来ます。
ただし、悟りとは、ある意味で受動的・突発的なものと表現することこそ出来ますが、しかし偶発的なものでは決してなく、あくまで自身のたゆまぬ努力と注意しつづける意識の上に現れるものですけれども。
悟りをして「気づき」であると、仏陀と一般のそれとはその対象と程度とが大幅に異なりますが、大まかに言うことには問題はないでしょう。
けれどもしかし、「念」と「覚り」・「悟り」とは同じものでは到底ない。それらは決して、イコールのものではない。
さて、では先程からsmṛti(sati)の意味であるとしてきた、「注意」・「気をつけること」という日本語の意味はどうかも確認しましょう。
ちゅう・い【注意】
①気をつけること。気をくばること。留意。「―して見る」「細心の―を払う」
②危険などにあわないように用心すること。警戒。「足元に―する」「子供の飛び出し―」
③相手に向かって、気をつけるように言うこと。「先生から―される」
④〔心〕心の働きを高めるため、特定の対象に選択的・持続的に意識を集中させる状態。
○ 気を付ける
①気づかせる。狂言、抜殻「はたと失念致いたれば、気を付けに帰った」
②あやまりがないように気をくばる。「今後は気を付けます」「気を付けてお帰り下さい」
③元気にさせる。勢い付かせる。
『広辞苑(第六版)」岩波書店
smṛti(sati)に対応するのは、「注意」では①と②の意味、「気を付ける」では②の意味です。
このように、「注意」「気をつけること」と「気づき」「気付くこと」とは、文字面やその響きこそ似たようなものですが、その意味は決定的に異なります。
サンスクリットならびにパーリ語で、日本語の「気づき」・「気付く」に該当する語は、smṛti(sati)ではありません。「気づき」をその原意どおりに「ふと、気がつくこと」「ハッとすること」という意味で言っているならば、それは心所としてのmanasikāra(作意)が該当するでしょう。
(心所については別項、“仏教における心の分析 ―分別説部の心所説”を参照のこと。)
あるいは、もし「気づき」という日本語を、「よく知ること」「よく知っていること」という(誤った)意味で使っているならば、それは漢語経典では「正知」「正智」あるいは「正慧」などと訳されている、サンスクリットsamprajñānaあるいはパーリ語sampajaññaが該当する、と言えましょう。
この語は、例えばパーリ経典では"satisampajañña"、あるいは"sampajāno satimā" (確かに知り、気をつけて)、漢訳経典では「正念正智」「正慧正念」などと、念(sati)と共にしばしば併用されるものです。
しかし結局、それらがいくら密接な関係にあるものであったとしても、それぞれが別の意味を持つ相異なる言葉であって、互いに区別して用いられるべきものです。
さて、先程から繰り返し述べていることですが、smṛti(sati)を「気づき」・「気づくこと」などと捉えるのは、語義的そして内容的にも誤ったものとなります。
smṛti(sati)とは「気づき」などではありません。
そのようなsmṛti(sati)の理解、それはまさに「僻事!僻事!!僻事ぉぉおおお!!!」というものです。
ん?おっと、これはなんたる失態、つい取り乱してしまいました。意識が別の方向へ飛んでしまった。
しかしさて、たった今しがた私が醜態を晒したように、私の心に念という働きが弱まって、今私がなしている語義の説明ということへの注意が離れてしまったならば、その他の思い、特に煩悩が心に生じて取り乱す、ということになってしまいます。
これを「失念」と言います。仏教の術語です。
この失念という言葉にはまた「忘れてしまう」という他の意味もあり、一般的にはこの意味でよく用いられているでしょう。この失念なる言葉は、「念」の両義を保持した言葉です。
ちなみに、私が取り乱しながら叫んだ言葉は、「ひがごと」と読みます。その意味は、「smṛti(sati)とは気づきの意である」などと理解し、「気づきの瞑想」などと言うようなことです。
では、ここでさらに、ただ「念とは気づきのことなどではない」と指摘するだけではなく、念がいかなることかを正確に、しかしながら人に平易に把握させるため、今までそうしてきた辞書などを用いた方法を離れ、拙いものながら私的な類比を用います。
仏教における念、それを譬えれば以下の様なものです。
ある男があって、彼から離れたところに、遠目に美しそうに見える女性があります。
彼女をもっと見たい、男はそう思います。はたして遠目にだけ美しく見えるのか、いや、美しいに違いない。より詳しく見たい、知りたい。けれども、その女性から距離があるのと、その女性があちこち動き回っているため、よく見て確かめたくともそのままではいかんともしがたい。
見えるのは見えるけれども、今ひとつぼんやりとしてよくわからない。
そこで男は、サッといつも携帯している双眼鏡を手にし、その女性を双眼鏡の視界に入れて注意深く、外れぬように追い続けます。対象を把握し続けるのです。そうして、双眼鏡の倍率を拡大していって、焦点をグッと合わせていきます。
双眼鏡を通しているため視界は限定され、それ以外のことは見えない。けれども、彼には今、その女性の姿・顔形ははっきりと明らかに見えるようになった。
しかしその瞬間、男は知ります。その美しそうに見えた女性が自分の母親、カアチャンであったことを。それを知った刹那、男の欲貪は、たちどころにして消え去るのでした。
むぅ・・・、少し頑張って噛み砕いた喩え話を開陳してみたのですが、困ったことにまったく面白くありません。笑いどころがない。ああ、いやいや、そもそも今ここで笑わせる必然性など全然無かった。どうやら私は馬鹿というだけではなく、絶望的にユーモアのセンスすら欠けているようです。
いやはや、いまさら気づきました。
さて、そのように、対象にあたかも双眼鏡を向けて視界から逃さぬように追って保持すること、すなわち対象を認識というフレームから外さないようにすること、それが念です。
倍率を拡大していき、レンズの焦点を対象に合わせること、それは心一境性(定・三昧・三摩地・等持)です。
そして、明らかとなったその対象を正しく知ること、それが正知です。
そのように、対象の(執着する価値の無い)実際を知ることによって、貪欲が消える。と、このような次第にあいなるわけです。
いや、このような私の拙くまた軽薄な喩えを出すだけではいけない。
やはりここは伝統的に、念がどのように譬えられ理解してきたかを示さなければならないでしょう。それには栄西禅師の言葉を徴することとします。
禪法要解云。譬如獼猴繋在於柱。終日馳走。鎖常攝還。極乃休息。所縁在柱。念則如鎖。心喩獼猴。行者觀心亦復如是。漸漸制心令住縁處。若心久住是應禪法文 是故欲成此禪。持戒清淨無有瑕疵。禁戒調心如彼獼猴。戒經云。繋心不放逸。亦如猴著鎖文
『禅法要解』はこのように云う。「譬えば猿が柱に繋がれてあるようなものである。(猿が)一日中駆けまわったとしても、常に鎖や縄に引き止められて、結局は柱のもとで休息するようになる。(修習の)対象が柱であり、念とは鎖であり、心は猿に喩えられるのである。行者が心を観じることもまた、そのようなものである。漸漸として心を制して対象に留めさせ、もし心が(対象に)久しく留まるようになったならば、それが禅法に応じたものとなる」と。
このようなことから、禅を成就しようと欲するならば、持戒すること清浄〈戒律における「清浄」とは、戒律に違反していないこと〉にして瑕疵なく、禁戒によって心を整えることを、その猿のようにしなければならない。
『戒経』〈『五分律』・『十誦律』・『摩訶僧祇律』等〉にはこう説かれる。「(念によって)心を繋いで放逸ならしめざることは、たとえば猿を鎖につなぐようなものである」と。
栄西『興禅護国論』巻中 (T80, P12a)
[現代語訳:沙門覺應]
もっとも、ここで栄西禅師は、念とはどのようなものであるかを説明するためではなく、むしろ禅法(三昧・修習)を成就するためには必ず須らく戒律を保つべきであること、戒律の最重要性を主張することを主眼として、この鳩摩羅什三蔵の書(『禅法要解』・『坐禅三昧経』)の一節を引いています。
が、この一節は「念とはいかなるものか」を理解するのに大変優れた譬えであるため、今ここにあえて孫引きして示しました。
ここでひかれる戒経では端的に、「念とは不放逸である」と説かれます。
念とは、「心を放逸ならしめざるもの」であるのです。
さて、「日本では念が正しく理解されなかった」などということはありません。
そして、ここでわざわざ孫引きしたのは、これによって鎌倉初期の日本における密教と禅との英傑だった栄西禅師も、ひいてはその他の修道者らも、「念とは何か」を以上のように(正しく)理解していたことが知られるであろうためです。
(支那および)日本において、「念」という言葉が多種多様な語義によって理解され、使用されてきたとはいえ、仏教の範疇においては以上のように、仏教として正しい理解がされていたことがわかるでしょう。
はてさて、先の私の拙い譬えなどまさしく蛇足もいいところで、嗚呼、まったく愚かな試みでありました。
このような喩えを以って、あるモノや思想の構造・仕組みや働きなどを示し、また理解することは、大変に有効な手段です。仏教では古来、このように様々な喩えによって教えが示され、また学ばれています。
さて、我々の普段の心とは、勝手気ままに木々を飛び回るエテ公にすぎません。それをしつけるのにどうしても必要な鎖、それが念です。
ところで、仏教、なかでも阿毘達磨を学びだしている者の中には、念と心一境性の違いがよくわからず、混同している人が多くあるようです。
実際、私もしばしばこれらの語の意味の相違について質問されることがありますが、念と心一境性とは、先ほど譬えによって示したように異なったものです。
仏教では、集中すること・集中している心の状態を、心一境性(cittaikāgratā)と言います。そして心一境性はまた、定や三昧・三摩地(samādhi)とも言われます。これらは全くの同義語です。
ここであらためて断じて置きますが、念には「集中すること」などという意味はありません。
また、付け加えて言うならば、「観察すること」などという意味も全くありません。
ついでにまた、vipaśyanā(vipassanā)すなわち「観」の定義というのも知る人は少ないようで、何でもかんでもただ観察することをもって「観」である、としてしまっている傾向が世間にはあるようです。
しかしながら、何事かをただ観察するだけであれば、どれほど詳細に、いわゆる客観的・科学的に観察したとしても、それがただちにvipaśyanā(vipassanā)であるなどと言えるものではありません。
観の修習とは、ただ単純に観ること、客観的に観察することを内容とするものではありません。
「ありのまま」だとか「如実に」という言葉もなかなか曲者で、そのなんとなく良いような語感に騙され、その語の実とは正反対の方向へ人を迷わせてしまうことがままあるようです。しかし、その語の実の通りにするということは、これがなかなかどうして、実に甚だムズカシイ。
いや、それを実に簡単でシンプルなのだと言い、そのように宣伝する人もあるでしょう。
そうであれば誠に結構なのですが、しかし現実にはそれは決して一筋縄で行くような、簡単でシンプルなものでは全くもってない。
では観(vipaśyanā / vipassanā)とは何か。
それは、「モノが無常・苦・無我であることを、そのありのままに観ること」です。
「なんだ、もったいぶって偉そうに、そんなことは疾うの昔から知っていることだ」と云う人があるかもしれない。
確かに言うだけならば、全くシンプルで簡単ですが、では本当にそれを観たのでしょうか?それを真から知っている、行なっているといえるのでしょうか?
それは、仏陀がそう説かれていたというから、何かの本でそのように書かれていたから、それが正しいと何者かからすでに聞いていることから、「すべてのモノは無常・苦・無我」であると考えたり、思い込んで見ようとすることでは、断じてありません。
吾人はすでに多くの仏教の教えに触れているために、むしろ盲になってしまったような場合すらある。なにか教えを聞いたことにより、むしろ盲目的に思い込んだり、狂信的に信じ込んだりするのを廃し、それが真実であると紛れもなく自身で見ることは、そう容易いことではない。
けれども、それがムズカシイのは至極もっともな話で、そんな単純で容易なことであれば、往古から世間には仏陀や菩薩、阿羅漢で満ち溢れていたことでしょう。しかし、世間がそのような有り難いことに未だかつてなったことがないのは、言を俟つまでもありません。もう仏教が説かれてから二千五百年ほどの時が経っているにも関わらず。
そもそも、これを説き伝えられてきた仏陀を始めとする往古の大徳たちが、それをはなはだ見難く理解し難いことである、と率直に語られていることで、そんなやすやすと軽々に出来るものではありません。あるはずがない。
しかし、まことに拙い我が身ながら、かたじけなくも仏陀の教えに触れ得、世の無上の宝であるその法を学び知ることが出来ることは幸いです。ただ、その教えを自ら聞き、自ら考え、自ら行なっていくことは容易いことではありません。とは言え、それを自ら行えば行ったなりのその功徳を、その真実性を、吾人は知ることが出来る。
なんと恐れ多い、しかし誠に有り難いことでしょうか。
南無本師釈迦牟尼仏
南無三宝
南無三世十方諸仏諸菩薩
南無過去現在諸賢聖諸大徳
などと、誰か人が突然として言いだしたならば、ほとんどの人はギョッとするに違いない。けれども、しかし、私にはそのように真底から思われ、またおのずと吐露されるのです。
まあ、声に出して言う必要は、大体ありませんけれども。
さて、真であると聞いていることと、自らが確かに真であると知見することとのその違いを、吾々ははっきりと知らなければならない。
時代が進むに連れ、多くの情報に吾人は接することが出来るようになっていくのでしょう。けれども、それは同時に、人が「言葉」に翻弄されるようになっていくことでもあるようです。いやはや、言葉に踊らされてこその世間と人、などと言うと乱暴であると言われるかもしれません。
が、どうせ踊るならば踊らされるのではなくて上手く踊らなければ損というものでございます。
さて、なぜ我々は「つい」ミスをしてしまうのでしょう。
それは多くの場合、いま己が行なっているところの行為、己がすべきと決定した行為を、その行為するなかで「忘れてしまう」ためでありましょう。その時、意識はそのすべき行為から完全に「離れ」、それに対する意識を「失い」、その他の事柄に現[うつつ]を抜かしてしまっている。
現を抜かす!
我々は往々にして、今すべきことがあってそれに専注すべき時にすら、余所に現を抜かすがために、多く過ちを犯してしまう。
もっとも、我々の心があちこち周りの環境の刺激に対して飛び回ること、心がここにあらずとなってあれこれ考えることは、人が生きるのに必要なことでもあります。であるからこそ、心はあちこち飛び回る。必要であるがために、その性として。
けれども、それと同時に、そのように心があちこちと飛び回ってせわしないがために、むしろ我々は自身の心に振り回され、懊悩するという羽目にもなっています。
なんたる自己撞着でしょうか。これではいけない。
けれども、そのような自己撞着したことを、吾人は日常的に行なっており、故にそれは人の性であると言い得るものです。人はまったく矛盾した存在でありましょう。かと言ってそれをただ「人間だもの」などと認めるだけに留めてしまえば、人に発展進歩、改善することの可能性は閉ざされてしまう。
吾々は往々にして、その正反対へと導く諸行為を行いつつ、どうにかしてそのような諸行為から生じる苦悩・懊悩から免れ、幸せになりたいと願います。
嗚呼、なんと人とは、いや、私というものはおかしなものでしょうか。
さて、仏教における念の意味、特に修習について云われる時の念とは、先ほどの拙い譬えによって示したように、あれで示し得たかどうかは甚だ疑問の余地がありますが、対象を「捉えること」「保持すること」であるとも換言できます。
さらに例えるならば、人がその両手で何かを確実に捉え保持している時、その他の物がその掌中に入ってくることはなく、掌中にすることも出来ません。そのように、人が何事か心に対象を保持して離すことがなければ、その心にその他のもの、たとえば煩悩などといった汚れが入り込むことがありません。
その意味で念とは「守意」、心を護るものです。
故に古代の三蔵らが用いた守意なる語は、まこと正鵠を射たものであることがわかるでしょう。実際、諸部派において念の働きが説明される時に、念をして守護者、(五根という門を護る)門衛と例えられることがしばしばあります。
ただし、その念の対象がいわば「愛欲」などいわゆる煩悩そのものであった場合、いずれか認識対象に対する愛欲・執着、すなわち五境ではなく五欲となってしまった場合には、話はまるで変わってしまいますけれども。それは、いわゆる邪念といわれるものです。
さて、また人が何かを確かに観察し、知ろうと思ったならば、そのように対象を保持していなければ観察しようがありません。念なくして慧はありえません。念は、智の基礎となるものです。また逆に、智によって念は確かなものともなります。
それは譬えば、以下のようなものです。
観察するのには先ず、その対象とするモノをしっかりと把持しなければならない。しかし、掴むといっても最初は、ただがさつに「むんず」と掴むにすぎないかもしれない。けれども、それでは対象のモノが微細になっていくに連れ、確かに観察することができなくなってくる。故に、微細なものを観察する為には、それを繊細に「そっと」、しかし確実につまむようにしなければならない。
観察することに習熟するにつれ、把持の仕方もまた自ずから、必然的に詳細に観察するに相応しいものとなっていく。
念と智の関係とはまた、そのようなものです。
我々は、楽を求めてむしろ苦をこそ掴むがごとき失態や過失を犯さないにようにするために、如何にするべきか。
それを仏陀は、仏教では如何様にすべきであると説かれているか。
いままで色々と述べましたが、それを確認するのには、漢訳経典であれパーリ語経典であれ、実際に契経を被覧するに如くものではありません。
いや、そもそも、仏教における念というものについて上述したのは、あくまで以下に示す諸経の所説や、後述する部派や大乗での定義に基いてのことです。
そこで、まずは説一切有部のĀgamaの漢訳であると伝えられる、『雑阿含経』所収の一経を示します。
譬如聚落邊。有奈林多諸棘刺。時有士夫。入於林中有所營作。入林中已。前後左右上下盡有棘刺。爾時士夫正念而行。正念來去。正念明目。正念端視。正念屈身。所以者何莫令利刺傷壞身故。多聞聖弟子亦復如是。
譬えば、町外れに林があり、その木々にはいばらが多くあったとする。ある時、一人の男がその林でなさなければならない仕事があって林に入ったけれども、その前後左右上下には無数のいばら。そこでその時、その男はよく気をつけて〈正念して〉進み、よく気をつけて戻り、よく気をつけて目を見開き、よく気をつけて見、よく気をつけて身を屈める。その理由は何故かと云えば、鋭い刺によって身体に怪我を負わぬようにする為である。多く(仏陀の教えを)学んだ聖弟子もまた、それと同様に(念を)行じるのである。
求那跋陀羅三蔵訳『雑阿含経』巻四十三 [No.1173] (T2, P314a)
[現代語訳:沙門覺應]
今は一応、漢訳経典を徴しましたが、パーリ三蔵にも対応する同内容の経典があります。Saṃyutta Nikāya, Saḷāyatanavagga, Saḷāyatanasaṃyutta(相応部 六処品 六処相応)のDhukkhadhammasutta (35.197)です。
以上の経説によって明瞭でしょうけれども、念とは感覚する対象に対して「よく気をつけること」「注意深いこと」です。
次は、分別説部がパーリ語によって伝持してきた経蔵から一つの小経を示しましょう。そこでは、念(特には身念住)をどのように理解し、どのように行なうべきかが譬喩によって説かれています。
evaṃ me sutaṃ — ekaṃ samayaṃ bhagavā sumbhesu viharati sedakaṃ nāma sumbhānaṃ nigamo. tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi — “bhikkhavo”ti. “bhadante”ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. bhagavā etadavoca — “seyyathāpi, bhikkhave, ‘janapadakalyāṇī, janapadakalyāṇī’ti kho, bhikkhave, mahājanakāyo sannipateyya. ‘sā kho panassa janapadakalyāṇī paramapāsāvinī nacce, paramapāsāvinī gīte. janapadakalyāṇī naccati gāyatī’ti kho, bhikkhave, bhiyyosomattāya mahājanakāyo sannipateyya. atha puriso jīvitukāmo amaritukāmo sukhakāmo dukkhappaṭikūlo. tamenaṃ evaṃ vadeyya — ‘ayaṃ te, ambho purisa, samatittiko telapatto antarena ca mahāsamajjaṃ antarena ca janapadakalyāṇiyā pariharitabbo. puriso ca te ukkhittāsiko piṭṭhito piṭṭhito anubandhissati. yattheva naṃ thokampi chaḍḍessati tattheva te siro pātessatī’ti. taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, api nu so puriso amuṃ telapattaṃ amanasikaritvā bahiddhā pamādaṃ āhareyyā”ti. “no hetaṃ, bhante”. “upamā kho myāyaṃ, bhikkhave, katā atthassa viññāpanāya. ayaṃ cevettha attho — samatittiko telapattoti kho, bhikkhave, kāyagatāya etaṃ satiyā adhivacanaṃ. tasmātiha, bhikkhave, evaṃ sikkhitabbaṃ — ‘kāyagatā sati no bhāvitā bhavissati bahulīkatā yānīkatā vatthukatā anuṭṭhitā paricitā susamāraddhā’ti. evañhi kho, bhikkhave, sikkhitabban”ti.
このように私は聞いた。ある時、世尊はスンバに留まっておられた。セーダカという名のスンバの街である。そこで世尊は比丘達に語りかけられた。
「比丘達よ!」
「尊者よ!」
と比丘達は世尊に応えた。
世尊はこのように語られた。
「比丘達よ、ちょうど『地方一番の美女だ!地方一番の美女だ!』と、比丘達よ、大勢の群衆が集まったとしよう。そこで地方一番の美女が優美に踊り、優美に歌う。すると『地方一番の美女が踊っている!歌っている!』と、比丘達よ、さらにまた大勢の群衆が集まってくるであろう。その時、生を望み、不死を望み、安楽を望み、苦しみを厭う、ある一人の男がやって来るとする。(そこで)ある者が(その男に)このように言うのである、『そこの汝!汝は、この縁までなみなみと油で満たした鉢を、群衆と地方一番の美女との間を、持ち運ばなければならない。すると、剣を抜いた男が汝のすぐ後ろをつけるであろう。そして何処であれ、汝がたった一滴であっても(鉢から油を)こぼしたならば、その場で彼は汝の頭を落とすであろう』と。そこで、どのように思うであろうか、比丘達よ、男は(持たされた)その油の鉢に気を払わず、外に気を逸らしてしまうであろうか?」
(比丘達は答えた)
「いえ、そのようなことはありません、大徳よ」
「さて、比丘達よ、私はその意味を(汝らに)教授するために、かく譬えたのである。これがその意味である。実に、比丘達よ、縁までなみなみと油で満たした鉢とは、身体についての念〈kāyagatā sati〉を示すものである。その故に、比丘達よ、このように修められなければならない。『身体についての念を増上させ、繰り返し行い、乗り物とし、礎とし、実行し、慣れ親しみ、よく努め励もう』と。実に、比丘達よ、このように(身体についての念は)修められなければならない。」
SN. Mahāvagga, Satipaṭṭhānasaṃyutta, Janapadakalyāṇīsutta (47.20)
[日本語訳:沙門覺應]
この短い経典で譬喩として説かれる「縁までなみなみと油で満たした鉢」、すなわち油鉢[ゆはつ]、あるいは持油鉢という語は、しばしば念を正しく持することの譬えとして用いられてきたものです。
この経典においても、先ほど挙げた『雑阿含経』に同じく、念とは「リラックスして、感覚する対象を気づく」などといった趣旨では、全然説かれていません。それは、むしろ緊張感をもって「感覚する対象に注意すること」、「認識対象についてよく気をつけ、他に気をそらさないようにすること」であると説かれています。
また、念についてだけではなく仏教の修道の上での全体的な説明・注意点としていう場合はともかくとして、あるいは四念住についての説明する場合はともかくとして、ただ心所としての念に焦点を当てる場合には「価値判断をせずに」だとか「中立的に」だとかいう、いわば余計な言葉を付して説明する必要もありません。
そのような心の働き(心所)は念とはまた別のもの、たとえば勝解(adhimokkha)であるとか尋(vitakka)などであって、それらは念と同時にしばしば生じることもある心の働きです。そもそも念とは、価値判断だとか中立的だとかいうものではないのだから。
もっとも、今時は「価値判断せず」だとか「中立的に」などと言っておきさえすれば、カガクテキに聞こえて世間的に良い感じがするのでありましょうが。
繰り返しますが、基本的な念(sati)の意味は、単に「忘れないこと」・「認識対象を失わないこと」、あるいは「注意」・「気をつけること」です。喩えていうならば、「対象を捉え続けること」・「対象を掴んで離さないこと」です。
あるいはまた、例えば「繋ぎ止めること(upanibandhana)」という譬喩によって、念を、ここではまさに四念住が説かれているのですが、説いている経説に以下のものがあります。
seyyathāpi, aggivessana, hatthidamako mahantaṃ thambhaṃ pathaviyaṃ nikhaṇitvā āraññakassa nāgassa gīvāyaṃ upanibandhati āraññakānañceva sīlānaṃ abhinimmadanāya āraññakānañceva sarasaṅkappānaṃ abhinimmadanāya āraññakānañceva darathakilamathapariḷāhānaṃ abhinimmadanāya gāmante abhiramāpanāya manussakantesu sīlesu samādapanāya; evameva kho, aggivessana, ariyasāvakassa ime cattāro satipaṭṭhānā cetaso upanibandhanā honti gehasitānañceva sīlānaṃ abhinimmadanāya gehasitānañceva sarasaṅkappānaṃ abhinimmadanāya gehasitānañceva darathakilamathapariḷāhānaṃ abhinimmadanāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya.
「アッギヴェッサナよ、あたかも象の調教師〈象師〉が、巨大な柱を大地に掘り立て、それに森(に住む野生)の象の首とを繋ぎ止めることによって、(その象の)森での(野生の)習慣を鎮め、森での記憶と思考とを鎮め、森での不安と疲労と熱〈消耗〉とを鎮める。そして、村での(生活を)楽しませ、人との(生活に)適応した習慣を教えこむようなものである。」
「実にそのように、アッギヴェッサナよ、四念住〈cattāro satipaṭṭhāna〉が聖なる弟子の心を繋ぎ止めることによって、家族と共に過ごした(在俗での)習慣を鎮め、家族と共に過ごした記憶と思考とを鎮め、家族と共に過ごした不安と疲労と熱〈消耗〉とを沈める。そのことによって、(聖なる弟子は)正道を獲得し、涅槃を現証するのである。」
MN. Uparipaṇṇāsapāḷi. Suññatavagga, Dantabhūmisutta (125)
[日本語訳:沙門覺應]
これは先に示した栄西禅師の『興禅護国論』に引用されていた、ここでは心の類比として用いられているのが猿ではなく象でありますが、念をして心を「対象に繋ぎ止めるもの」とする点ではまったく同様の譬喩が、釈尊によって説かれています。
さて、あるいは、これは正しく経典とは到底呼べないものではありますが、漢訳経典としては最初期のものである『大安般守意経』では、修道における念について、以下のように説いています。
(ただし、拙訳は少々恣意的となっているかもしれません。『大安般守意経』については、別項“『大安般守意経』”を参照のこと。)
守意者。無所著為守意。〔中略〕
守意者為離罪。守意者為不離因緣也。〔中略〕
守意者欲得止意。守意者念出入息。已念息不生惡故為守意。
守意〈念〉とは、(認識対象に)執着することが無い為に守意〈心を守護するもの〉である。〔中略〕
守意とは、罪を離れることであり、守意とは、因縁を離れないことである。〔中略〕
守意とは、心の静寂を得ようと求めることである。守意とは、吐く息・吸う息を念じる〈心に留めて失わない〉ことである。息を念じたならば(心に)悪が生じることがないために、守意である。
『大安般守意経』 (T15, P164a-P165b)
[現代語訳:沙門覺應]
念にはまた別に、古訳といわれる漢訳経典では守意との訳語もあることを先に触れておきました。それは以上に挙げたように、「心を守る」すなわち「心に煩悩の付け入る隙を与えない」という念の効用に基づいたものです。
故に、諸々の経典に頻繁に説かれている「五根を制する」とは、「感覚することを我慢する」とか「感覚を制御する」ということよりもむしろ、「物事を感覚するに、よく気を付け、その感覚した対象に囚われて自らを害することが無いようにする」ことを意味したものと解するのが適切です。
それはたとえば以下の、これは『仏遺教経』の一節で別段「念とは何か」「念ずるとはどのようなことか」などを明示して説いているものではありませんが、経説においても明らかとなるでしょう。
當制五根。勿令放逸入於五欲。譬如牧牛之人執杖視之。不令縱逸犯人苗稼。若縱五根。非唯五欲将無崖畔不可制也。亦如悪馬不以轡制。将當牽人墜於坑陷。
まさに(眼・耳・鼻・舌・身の)五根を制して、勝手気ままに(色・声・香・味・触への)五種の欲望に溺れさせぬように。たとえば牛飼いが、杖を持って牛を監視し、好き勝手に他人の農地を荒らさぬようにするようなものである。もし五根をほしいままにして制することがなければ、ただ単に五欲が際限ないものとなるばかりではない。それはまるで、人が暴れ馬に乗るときに、くつわを噛ませてそれを制御しなければ、畢竟その馬はその人を深い穴底に転落させようとするようなものである。
『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』 (T12, P1110c)
[現代語訳:沙門覺應]
また、これはまったく経典ではありませんが、紀元前二世紀後半の西北インドにまで侵攻し支配していたてギリシャ人王Milinda[ミリンダ](Menandros[メナンドロス])と北インド出身の僧Nāgasena[ナーガセーナ]との、仏教の教理についての質疑応答の記録であるMilindapañha[ミリンダパンハ](『ミリンダ王の問い』)があります。
ビルマの分別説部ではこの典籍をKhuddaka Nikāya(小部)を収め、ほとんど経典と同等の権威あるものとして扱っています。
しかし、それ以外の国、たとえばシャムやセイロンの分別説部では、その価値の高いことは認めつつも経典としては認めず、故に蔵外文献として扱っています。
実はこの『ミリンダ・パンハ』、そのいくつかの内容から、必ずしも分別説部の教学を正しく宣揚しているものではないとして、過去のビルマやセイロンにおいて幾度か争論の元となったような問題の書でもあります。
けれども、分別説部の教学の大成者とでも言うべき大徳Buddhaghosa[ブッダゴーサ]は、本書に大なる影響を受けたようで、それは大徳の著作にてそこここに認めることができます。
また実際、Milindapañhaという書が、仏教をまるで知らぬ、けれども教養あっていわば知的水準の高い人からの仏教の教義についての直截な疑問に、多彩な譬喩をもって平易に答えたものであることから、仏教の根本的教理を簡潔に示すものとして古来珍重され、現代においてもなお多くの人に愛好されている書です。
もっとも、パーリ語で伝わったMilindapañhaは、分別説部によって相当に内容が加上され編集されているものといわれてもいます。が、これには失訳ながら二本の漢訳本が伝わっています。
『那先比丘経』です。Milindapañhaに対して『那先比丘経』は、漢訳経典ならではの問題も多数あるものの、より簡潔な内容であってその分量も少ないことから、原型に近い古き内容を伝えるものとして重要視されています。
Milindapañhaと『那先比丘経』とは、サンガが諸部派が完全に分裂する以前、あるいはそれぞれ独自の教義を完全に打ち立てる以前のより古い見解を、断片的でも伝えているものであろうと目されています。中でも説一切有部の教義の片鱗が見られるなどと、文献学者らによって言われています。
さて、Milindapañhaにもまた「念とは何か」という問いに答えている一説があります。それは他の典籍と少々毛色が違ったものでもあるのでここに徴します。
rājā āha “bhante nāgasena, kiṃlakkhaṇā satī”ti. “apilāpanalakkhaṇā, mahārāja, sati, upaggaṇhanalakkhaṇā cā”ti. “kathaṃ, bhante, apilāpanalakkhaṇā satī”ti. “sati, mahārāja, uppajjamānā kusalākusalasāvajjānavajjahīnappaṇītakaṇhasukkasappaṭibhāgadhamme apilāpeti ‘ime cattāro satipaṭṭhānā, ime cattāro sammappadhānā, ime cattāro iddhipādā, imāni pañcindriyāni, imāni pañca balāni, ime satta bojjhaṅgā, ayaṃ ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, ayaṃ samatho, ayaṃ vipassanā, ayaṃ vijjā, ayaṃ vimuttī’ti. tato yogāvacaro sevitabbe dhamme sevati, asevitabbe dhamme na sevati. bhajitabbe dhamme bhajati abhajittabbe dhamme na bhajati. evaṃ kho, mahārāja, apilāpanalakkhaṇā satī”ti.
“opammaṃ karohī”ti. “yathā, mahārāja, rañño cakkavattissa bhaṇḍāgāriko rājānaṃ cakkavattiṃ sāyaṃ pātaṃ yasaṃ sarāpeti ‘ettakā, deva, te hatthī, ettakā assā, ettakā rathā, ettakā pattī, ettakaṃ hiraññaṃ, ettakaṃ suvaṇṇaṃ, ettakaṃ sāpateyyaṃ, taṃ devo saratū’ti rañño sāpateyyaṃ apilāpeti. evameva kho, mahārāja, sati uppajjamānā ...pe...”
“kathaṃ, bhante, upaggaṇhanalakkhaṇā satī”ti. “sati, mahārāja, uppajjamānā hitāhitānaṃ dhammānaṃ gatiyo samanveti ‘ime dhammā hitā, ime dhammā ahitā. ime dhammā upakārā, ime dhammā anupakārā’ti. tato yogāvacaro ahite dhamme apanudeti, hite dhamme upaggaṇhāti. anupakāre dhamme apanudeti, upakāre dhamme upaggaṇhāti. evaṃ kho, mahārāja, upaggaṇhanalakkhaṇā satī”ti.
“opammaṃ karohī”ti. “yathā, mahārāja, rañño cakkavattissa pariṇāyakaratanaṃ rañño hitāhite jānāti ‘ime rañño hitā, ime ahitā. ime upakārā, ime anupakārā’ti. tato ahite apanudeti, hite upaggaṇhāti. anupakāre apanudeti, upakāre upaggaṇhāti. evameva kho, mahārāja, sati uppajjamānā ...pe... bhāsitampetaṃ, mahārāja, bhagavatā — ‘satiñca khvāhaṃ, bhikkhave, sabbatthikaṃ vadāmī’”ti.
“kallosi, bhante nāgasenā”ti.
大王は言った、
「大徳ナーガセーナよ、念〈sati〉の特徴〈lakkhaṇa〉はなんでしょうか?」
(ナーガセーナは応えて言った、)
「大王よ、念は列挙〈数え上げること〉を特徴とし、また把持〈確かに掴むこと〉を特徴とするものです」
「大徳よ、どのように念は列挙〈apilāpana〉を特徴とするのでしょうか?」>
「大王よ、念が生じつつあるとき、彼は善と不善、有罪と無罪、劣等と優等、黒と白との対照的な法〈dhamma〉を枚挙する〈apilāpeti〉。『これらは四念住である。これらは四正勤である。これらは四神足である。これらは五根である。これらは五力である。これらは七覚支である。これらは八支聖道である。これは止である。これは観である。これは明である。これは解脱である』と。そこで、瑜伽行者は学ぶべき法を学び、学ぶべからざる法を学ばず、親しむべき法に親しみ、親しむべからざる法に親しまない。大王よ、そのように念は列挙を特徴とするのです」
「大徳よ、譬喩で示して下さい」
「大王よ、たとえば転輪王の財務官が、夕刻・晨朝に、その栄誉を転輪王に記憶させる〈sarāpeti〉。『王よ、貴方には象がこれだけあり、馬はこれだけあり、戦車はこれだけあり、歩兵はこれだけあり、金塊はこれだけあり、金貨はこれだけあり、財物はこれだけあります。王よ、どうかそれを記憶して下さい』と、王の財物を列挙するように。大王よ、そのように、(行者に)念が生じつつあるとき…〔同上〕」
「大徳よ、どのように念は把持〈upaggaṇhana〉を特徴とするのでしょうか?」
「大王よ、(行者に)念が生じつつあるとき、彼は利益・不利益なる法の道程を追従する。『これらは利益の法である。これらは不利益の法である。これらは資助の法である。これらは不資助の法である』と。そこで、瑜伽行者は不利益の法を排し、利益の法を把持し、不資助の法を排し、資助の法を把持する。大王よ、そのように念は把持を特徴とするのです」
「大徳よ、譬喩で示して下さい」
「大王よ、たとえば転輪王の財務大臣は、王にとっての利益・不利益を知る。『これらは王にとって利益である。これらは不利益である。これらは資助である。これらは不資助である』と。そこで、彼は不利益を排し、利益を把持し、不資助を排し、資助を把持する。大王よ、そのように、(行者に)念が生じつつあるとき…〔同上〕」
「大王よ、世尊によってこの(言葉が)説かれたのです、『実に、比丘達よ、私は念が、あらゆる場において有益なものと説くのである』と」
「賢明なり、大徳ナーガセーナよ!」
Milindapañha, Mahavagga, Satilakkhaṇapañha
[日本語訳:沙門覺應]
西北インドを中心としてインド最大の勢力を誇っていたという説一切有部(Sarvāstivāda)では、どのように念を理解していたか。
まず、説一切有部の論蔵の典籍いわゆる六足論の一つ、尊者シャーリープトラによって説かれたものと伝えられる『阿毘達磨集異門足論』には、以下の様に簡単な定義が行われています。
云何失念。答諸空念性虚念性失念性心外念性。是名失念。〔中略〕
云何念。答諸念隨念廣説乃至。心明記性是名念。
何が失念であろうか?答えるに、諸々の空念性・虚念性・失念性・心外念性、それらが失念である。〔中略〕
何が念であろうか?答えるに、諸々の念・随念であって、広説すれば乃至、心に明記する性を念というのである。
玄奘三蔵訳 舎利子尊者『阿毘達磨集異門足論』巻十七 (T29, P436c-437a)
[現代語訳:沙門覺應]
ここでは先に失念とは何かが云われ、後段において念とは何かが説かれています。これだけでは少々不明瞭ですが、ここでは要するに、「念とは心に明記すること」であると説かれています。
さて、説一切有部の教学を批判的にではあるものの、世親(Vasubandhu)菩薩によって非常によくまとめられた概説書である『阿毘達磨倶舎論』の本頌では、まず以下のように念の位置付けが示されます。
これはインド・チベット・支那・日本など、大乗を学ぶ者でも必須の基礎学として学ばれてきた書でもあります。
受想思觸欲 慧念與作意 勝解三摩地 遍於一切心
受・想・思・觸・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地は、すべての心に遍く伴って働くものである。
玄奘三蔵訳 世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』巻四 分別根品 (T29, P19a)
[現代語訳:沙門覺應]
ここでいわれる「遍於一切心」とは、大地法(Mahābhūmika)と名づけられる心の作用の分類で、すべての心の生じるあらゆる場所・瞬間に遍く伴って起こる心の作用(心所)のことです。
説一切有部では、念は、どのような心であれ必ず伴に働いている心所であるとされるのです。
さて、この偈頌に続き、それぞれの心所がどのようなものであるか、一つ一つ世親菩薩によって自註されている中に、念をごく簡単に定義する一節があります。
念謂於緣明記不忘。
念とは、認識対象を明記して忘れないことである。
玄奘三蔵訳 世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』巻四 分別根品 (T29, P19a)
[現代語訳:沙門覺應]
幸いにも、『倶舎論』はその原典たる梵本すなわちサンスクリット本(Pradhan Ed.)が伝わっているため、該当する一節の梵文も示します。
smṛtirālambanāsampramoṣaḥ ||
念とは、認識対象〈ālambana〉を失わないことである。
Ācārya Vasubandhu. Abhidharmakośabhāṣya
[日本語訳:沙門覺應]
そこでさらに、玄奘三蔵より先んじてこれを訳出されていた真諦三蔵の訳文はどうなっているか。
念謂不忘所縁境
念とは、認識対象を忘れないことである。
真諦三蔵訳 世親菩薩『阿毘達磨倶舍釋論』卷三 分別根品(T29, P178b)
[現代語訳:沙門覺應]
このようにしてみると、玄奘三蔵の訳文よりもむしろ真諦三蔵の訳文が梵本に合致しています。玄奘三蔵の訳文には、原文には見られない「明記」の語があるためです。
ここで少々本論からずれてしまいますが、玄奘三蔵の訳された『倶舎論』は、現在伝わてているPradhan版と比した時、しばしば語句の出入があることが知られます。そのことから、玄奘三蔵が翻訳時にその語句を斟酌して挿入あるいは削除した可能性と、もしくはそもそもそれぞれの訳した原典の語句自体が若干異なっていた可能性があることが言われています。
さて、また更に、説一切有部の教義を(主として経量部の立場から)批判的に概説した世親菩薩の『倶舎論』に激しく対抗し、その正統説を述べんとした衆賢(Samghabhadra)によって著された『阿毘達磨順正理論』における念の定義を示す一節も、併せ示しておきます。
於境明記不忘失因。説名爲念。
認識対象を明記して忘れないことの因を、念と名づけるのである。
玄奘三蔵訳 衆賢『阿毘達磨順正理論』巻十 辯差別品第二(T29, P384b)
[現代語訳:沙門覺應]
訳者が同じく玄奘三蔵ということもありましょうが、念の定義については『倶舎論』とほとんど同様です。
いずれにせよ「念とは、忘れないこと」と極簡略に示されていることで一貫しています。
ところで、この『倶舎論』には、唐の玄奘三蔵の弟子であった普光によって著されたすぐれた注釈書があります。『倶舎論記』です。普光によって著されたものであることから『光記』とも呼称されます。
この書が支那で著されて以来、仏教伝来後の日本においても、ほとんど必ず『倶舎論』を学ぶ者すなわち大乗の学徒のほとんど全員が、この書を参照してきたというほどのものです。そしてその『光記』では、『倶舎論』において念を定義している一節にも、他の典籍を援用しつつ注釈を加えています。
支那以来日本でも、古来仏教の説く「念とは何か」がいかに仏教者に理解されてきたかを示すものとなりますので、その一節を以下に徴しましょう。
念謂於縁明記不忘者。念之作用於所縁境分明記持。能爲後時不忘失因。非謂但念過去境也。故正理云。於境明記。不忘失因説名爲念 又入阿毘達摩云。念謂令心於境明記。即是不忘已・正・當作諸事業義解云彼論從強説心。理實亦令心所
「念とは、認識対象を明記して忘れないことである〈念謂於縁明記不忘〉」(という『倶舎論』の一節)は、念の作用を示したものである。現在認識している対象を、分明に記して持すことである。それが後に「忘れないこと」の因となるのである。(「忘れないこと」といっても)ただ過去の認識対象を念ずる〈記憶する・思い起こす〉だけと言うのではない。その故に『順正理論』に説かれるのである、「認識対象を明記して忘れないことの因を、念と名づけるのである〈於境明記不忘失因。説名爲念〉」と。または『入阿毘達磨論』にも云われるのである、「念とは、心の対象を明記させるものである。すなわちそれは、すでに為したこと〈巳〉・まさしく為していること〈正〉・まさに為そうとしていること〈當〉という諸々の事業を行なうを忘れないという意味である〈念謂令心於境明記。即是不忘。已正當作謂事業義〉」と。注釈するに、『入阿毘達磨論』では強ちに従いて「令心」と説くが、理実としては「令心所」である。
普光『倶舎論記』巻四 分別根品第二之ニ (T41, P74b)
[現代語訳:沙門覺應]
さて、ではあらためて、「念とは忘れないこと」とは具体的にどの様なことか。
それは、「(眼・耳・鼻・舌・身・意の)六根いずれかにて認識している対象を、失わないこと」です。そのような心の機能から展開した働きとして、あるいは別の表現として、現代日本語で云うところの「気を付ける」「注意する」ことがあります。
そしてそのような根本的な機能により、過去の出来事が記憶せられ、現在の事物・行動が認識し続けられ、未来にすべき、あるいは予定する行いを記憶することがある、ということでありましょう。
(説一切有部の心所説については、別項“仏教における心の分析(説一切有部の心所説)”を参照のこと。)
ところで、最初に示したように説一切有部では、念という心の働きを、大地法すなわち根本的な心の働きの一つとして分類し挙げています。
しかしながら、そのような説一切有部の「念を大地法の一つである」とする見解を、世親菩薩はその著『倶舎論』で紹介しておきながらも、それに疑問を投げかけていました。いや、それを実に批判的に見ていたことが、同じく『倶舎論』自身の記述から知られます。
では、菩薩は念の位置付けをどのように見ていたか。
後述しますが、大乗に転向して後に著された書(『大乗百法明門論』等)の中で、念をして「別境」の範疇に入れ、それは心の質の善悪は問わぬもののある一定の条件に生じるものとされる心所の範疇ですが、有部のように「根本的な心の働きの一つ」とはしていなかったことが解ります。
この世親菩薩による念についての所見は、大乗における心と心所への理解へと引き継がれています。
いま上座部(Theravāda)と通称される分別説部(Vibhajyavāda)では、どのように念(sati)を理解しているか。
それがもっとも簡便に説かれているのは、十一世紀にインド僧Anuruddhaによって著された、Abhidhammatthasaṅgaha[アビダンマッタサンガハ]です。
この書は、分別説部所伝の阿毘達磨の所説を非常に簡便にまとめ記されている、大変すぐれた概説書です。分別説部の初学者が、その特徴的な所説を学ぶには、まず必ずこの書から学び始められるほどの書となっています。その性格は少々異なりますが、説一切有部の『倶舎論』のようなものです。
さて、そこではまず、以下のようにsatiの位置付けが示されます。
saddhā sati hirī ottappaṃ alobho adoso tatramajjhattatā kāyapassaddhi cittapassaddhi kāyalahutā cittalahutā kāyamudutā cittamudutā kāyakammaññatā cittakammaññatā kāyapāguññatā cittapāguññatā kāyujukatā cittujukatā ceti ekūnavīsatime cetasikā sobhanasādhāraṇā nāma.
信・念・慚・愧・無貪・無瞋・中捨・身軽安・心軽安・身軽快性・心軽快性・身柔軟性・心柔軟性・身適業性・心適業性・信練達性・心練達性・信端直性・心端直性、これらの十九の心所を、「清らか(な心)と共通するもの」〈sobhanasādhāraṇa-cetasika〉という。
Bhadanta Anuruddha. Abhidhammatthasaṅgaha
[日本語訳:沙門覺應]
これはただ「心の働き」であるcetasika(心所・心数)を分類するなかで、念がどの範疇に含まれるかを示したものです。上記のように、satiはあくまで「清らかな心と共にのみ働く心の機能」であると位置付けられています。
(分別説部大寺派の心所説に関しては、別項“分別説部(上座部)の心所説”を参照のこと。)
しかし、これはただその位置付けが示されたものであって、「satiとは何か」を説明するものではありません。それは、この書の注釈書(Ṭīkā)において行われています。
saraṇaṃ sati, asammoso, sā sampayuttadhammānaṃ sāraṇalakkhaṇā.
念〈sati〉とは憶えること〈saraṇa〉、混乱のないこと〈asammosa〉である。それは相応する諸法〈sampayuttadhamma〉を憶えておかせるという特徴をもつ。
Abhidhammatthavibhāvinīṭīkā
[日本語訳:沙門覺應]
このように、分別説部においても、先に示した説一切有部とまったく同様、satiとは「憶えること」・「記憶」であると定義されています。
けれども、分別説部においても、satiはただ単に「何でも憶えること」とは理解されていません。分別説部での一般的な理解では「念とは、清らかな心においてのみ働くもの」であって「念とは、仏・法・僧、あるいはなんらか善なるものをこそ、憶えて置かせる心の働き」であるとされています。
このような念の位置付けと理解は、分別説部特有のものであって、この点にはしっかりと留意しておいたほうが良いでしょう。
さて、それがいくら優れているとはいえ、いわば概説書に過ぎないAbhidhammatthasaṅgahaとその注釈書における一節を示すだけでは十分とは到底言えないでしょう。そこで、さらにその根拠となっている諸典籍をさらに詳しく示していきましょう。
まず阿毘達磨蔵の典籍の一つ、Dhammasaṅgaṇī(『法集論』)では、念をこのように定義しています。
tattha katamā sati? yā sati anussati paṭissati sati saraṇatā dhāraṇatā apilāpanatā asammusanatā sati satindriyaṃ satibalaṃ sammāsati — ayaṃ vuccati sati.
そこで、何が念であろうか?念〈sati〉・随念〈anussati〉・憶念〈paṭissati sati〉・憶持性〈saraṇatā〉・留意性〈dhāraṇatā〉・不浅薄性〈apilāpanatā〉・不忘失性〈asammusanatā sati〉・念根〈satindriya〉・念力〈satibala〉・正念〈sammāsati〉―これが念であると云われる。
Dhammasaṅgaṇī, Nikkhepakaṇḍa, Suttantikadukanikkhepa 1358
[日本語訳:沙門覺應]
この一節はまた同じく阿毘達磨の典籍の一つであるVibhaṅga(『分別論』)でも全く同様に見られ、頻出するものです。
しかし、satiを説明するのにまたsatiが用いられ、あるいは単に言葉としてsatiが付随しているものが単純に列挙されたのでは、そもそもsatiという言葉の意義付けを知りたい者には、適当で無いように思われます。
率直に言って、これだけではちょっとわからない。
そこで、一応それらを除いてみましょう。すると、saraṇatā(憶持すること)、dhāraṇatā(意に留めること)、apilāpanatā(数え上げること/浮つかないこと)、asammusanatā(忘れないこと)が抽出されます。
やはり、念とはまず「忘れないこと」・「憶えていること」であるとされ、さらに「浮つかないこと」であるとされています。そして実は、この「数え上げること/浮つかないこと(apilāpanatā)」というのがsatiの主たる特徴であると、分別説部では一般に言われます。
このapilāpanatāという語は、先にMilindapañha[ミリンダパンハ]を紹介した中でも、satiの特徴として挙げられていた語です。ミリンダパンハでは明らかに「数え上げる・列挙すること」という意味で用いられていました。それはこの語の原義であります。しかし、この語はまた「浮つかないこと」の意でもあると理解されているので、いちおうその両義を挙げておきました。
次に、経蔵のKuddhaka Nikāya(小部)に編纂されているPaṭisambhidāmagga(『無碍解道』)にて、念に直結する念根・念力・念覚支の意義について端的に説いている一節があるため、それを以下に示します。
satindriyassa upaṭṭhānaṭṭho abhiññeyyo; ...
satibalassa pamāde akampiyaṭṭho abhiññeyyo; ...
satisambojjhaṅgassa upaṭṭhānaṭṭho abhiññeyyo;
念根〈satindriya〉の「随侍すること〈upaṭṭhāna〉」との意義が、了解せられるべきである。〔中略〕
念力〈satibala〉の「放逸に流されない」との意義が、了解せられるべきである。〔中略〕
念覚支〈satisambojjhaṅga〉の「随侍すること」との意義が、了解せられるべきである。
KN. Paṭisambhidāmagga, Mahāvagga, Ñāṇakathā 12
[日本語訳:沙門覺應]
さらにまた同じくPaṭisambhidāmaggaは後段において、さらに以下のように理解すべきことを説いています。
upaṭṭhānaṭṭhena satindriyaṃ abhiññeyyaṃ; ...
upaṭṭhānaṭṭhena satisambojjhaṅgo abhiññeyyo; ...
upaṭṭhānaṭṭhena sammāsati abhiññeyyā; ...
upaṭṭhānaṭṭhena satipaṭṭhānā abhiññeyyā;
「随侍すること〈upaṭṭhāna〉」の意義によって、念根〈satindriya〉は了解せられるべきである。〔中略〕
「随侍すること」の意義によって念覚支〈satisambojjhaṅga〉は了解せられるべきである。〔中略〕
「随侍すること」の意義によって正念〈sammāsati〉は了解せられるべきである。〔中略〕
「随侍すること」の意義によって念住〈satipaṭṭhāna〉は了解せられるべきである。
KN. Paṭisambhidāmagga, Mahāvagga, ñāṇakathā 19
[日本語訳:沙門覺應]
このように『無碍解道』では、念根(satindriya)・念覚支(satibojjhaṅga)・正念(sammāsati)・念住(satipaṭṭhāna)など、念に関する事柄は全てupaṭṭhānaという意味によって、今は一応これを「随侍(付き従うこと)」と訳しましたが、理解すべきことが繰り返し説かれています。
あるいは玄奘三蔵などの先例に習い、upaṭṭhānaを「住する(留まること)」と訳したほうが良いかもしれません。そうすることによって、その意味内容や解釈に大きな違いが出るわけでないでしょうけれども。
次に、漢訳の完本と部分的に西蔵訳のみが伝わっている、分別説部無畏山寺派の修道書、優波底沙(Upatissa)大徳による『解脱道論』(Vimuttimagga)ではどのように言っているかも確認しておきましょう。
云何為念。念隨念彼念覺憶持不忘。念者念根念力正念此謂念。問念者何相何味何起何處。答隨念為相。不忘為味。守護為起。四念為處。
何を念と云うのであろうか?念とは随念であり、それは念覚・憶持・不忘である。念とは念根・念力・正念であって、これを念と言う。
問: 念にはいかなる相〈特徴〉、いかなる味〈作用〉、いかなる起〈功用〉、いかなる処〈対象〉があるのであろうか?
答: 随念を相とし、不忘を味とし、守護を起とし、(身・受・心・法に対する)四念を処とするのである。
優波底沙『解脱道論』巻五 行門品 (T32, P419a)
[現代語訳:沙門覺應]
まずは、おそらく『法集論』の所説をそのまま受けたものが記され、その後に「念の作用」などについての想定問答が展開されて、念が定義されています。
ここでは、念とは随念(=念覚・憶持)が特徴であり、不忘が作用、その対象は(身・受・心・法の)四念であるとされています。
このような、念についての阿毘達磨の諸説を踏まえた上で、相(特徴)・味(作用)・起(功用)・処(対象)という四つの側面から理解を促す方法は、阿毘達磨の諸典籍に管見では見られず、今知る限りではウパティッサ大徳によって初められたように思われるものです。
人に確かな理解を促す、すぐれた方法でありましょう。
後述しますが実際この術は、後代にウパティッサ大徳の説に反駁と自説を加えていく、大徳ブッダゴーサによって踏襲されています。
さてまた、『解脱道論』の他の箇所では、より端的に以下のようにも説かれています。
念者是心守護如持油鉢。彼四念處足處。
念とは、それが心を守護することは、あたかも油鉢を持つようなものである。それは四念処の足処〈基体〉である。
優波底沙『解脱道論』巻十 五方便品 (T32, P447c)
[現代語訳:沙門覺應]
なお、ここにいう「油鉢を持つようなもの(如持油鉢)」とは、前述のSaṃyutta Nikāya, Mahāvagga, Satipaṭṭhānasaṃyutta(相応部大品念住相応)のJanapadakalyāṇīsuttaの所説が引き合いに出されているものです。漢訳にも対応する同内容の経典があり、それは『雑阿含経』(No.623)です。
先に述べたことの繰り返しとなりますが、Janapadakalyāṇīsuttaは、特に四念住のうち身念住をいかに行うべきかを譬喩によって説くものです。それは念というものを「リラックスし、ただ己の身体的動作などを気づく」などといったものとしては到底説かれていません。
むしろ、緊張感をもってなんら落ち度無く、身体に(まつわる諸行為に)ついての念、すなわち「落ち度がないように注意深いこと・よく気をつけていること」を修めるべきことが説かれた経です。
さて、では最後に、分別説部大寺派すなわちいま上座部と通称される部派の修道書であり、その教義と修行体系を知る上で最重要にして不可欠の典籍である、Buddhaghosa[ブッダゴーサ]によるVisuddhimagga(『清浄道論』)では、どのように念を規定しているかを示します。
saranti tāya, sayaṃ vā sarati saraṇamattameva vā esāti sati. sā apilāpanalakkhaṇā, asammosarasā, ārakkhapaccupaṭṭhānā, visayābhimukhabhāvapaccupaṭṭhānā vā, thirasaññāpadaṭṭhānā, kāyādisatipaṭṭhānapadaṭṭhānā vā. ārammaṇe daḷhapatiṭṭhitattā pana esikā viya, cakkhudvārādirakkhaṇato dovāriko viya ca daṭṭhabbā.
それらによって憶える〈saranti〉ために、あるいはそれ自らが憶する(sarati)ために、あるいは憶念〈saraṇa〉そのものであるために、念〈sati〉である。それは「列挙すること〈apilāpana〉」を相〈特徴〉とし、「混乱のないこと〈asammosa〉」を味〈作用〉とし、「防護〈ārakkha〉」の現出〈paccupaṭṭhānā〉、あるいは「境〈対象〉に直面していること〈visayābhimukhabhāva〉」の現出である。堅固なる想〈thirasaññā〉を直接因とし、あるいは身体等〈身・受・心・法〉の念住〈satipaṭṭhāna〉を直接因とする。さらにまた、(念とは)認識対象に堅固に屹立すること、あたかも門柱のようであり、眼門等〈眼・耳・鼻・舌・身・意〉を護ることは、あたかも門衛のようであると知るべきである。
Bhadanta Buddhaghosa. Visuddhimagga 2-14, khandhaniddeso 465.
[日本語訳:沙門覺應]
ここで大徳ブッダゴーサは、先に示した大徳ウパティッサの『解脱道論』での説を明らかに踏まえ、さらに自説を加上していることが理解されるでしょう。
さて、もはや改めて言う必要などないかもしれませんが、さらに重ねて誰でもわかるよう易しくこれを言えば、仏教の修道において用いられるsmṛti(sati)とは、まず「忘れない」ことです。
しかし、それはただ「忘れない」というのではありません。
更に具体的に言えば、「現在の注意の対象を失わないこと」、「(こころを)乱さぬよう用心していること」を言うものです。
(分別説部における四念住の理解については別項“自灯明法灯明とは ―四念住(四念処)”を参照のこと。)
実際、分別説部の心所説においても、念は、その認識対象や心の状態を問わずに「忘れないこと」「記憶すること」とは、ただ単純にされていません。
最初に示したように、分別説部においては、あくまでも「念の対象は仏法僧、あるいは善なるもの」であって、それを忘れないことです。あるいは、特に四念住(sati+upaṭṭhāna)とこそ関連付け、その意を限定したものとして把握されていることは、前掲の一説にても明らかでありましょう。
そこで、その対象そして心の状態が善(というより清らか)であるときに生じるものと限ったもの、あるいは念の働きが心にある時その心は善なる(清らかなる)ものであるとして、これをSobhana-sādhāraṇa-cetasika(共善心所)、すなわち「善なる心のみと共にある心の働き」の範疇に入れるという理解がされているのです。
繰り返しとなりますが、分別説部においては、念とはあくまでも清らかなる心の働きの一つであって、悪なる心には生じない働きとされるのです。もし煩悩と伴なる心において「憶えること」が生じたとしたら、それは邪念(Micchāsati)といわれます。
(分別説部大寺派の心所説に関しては、別項“分別説部(上座部)の心所説”を参照のこと。)
しかし、では人の一般的な「記憶」という働きは、分別説部ではどの心所に依るものとするのか。それは想(saññā)であると、分別説部では云います。
これは、念を特別なものと阿毘達磨で位置づけた結果、しかし念の本来の意味である「記憶」という働きを帰すべき心所が無くなってしまうことによる、やむを得ない結果だとも考えられるものです。
そのような分別説部大寺派における理解の故に、『清浄道論』は上に示した一節において、念をして「堅固なる想(thirasaññā)を直接因とし、あるいは身体等(身・受・心・法)の念住(satipaṭṭhāna)を直接因とする」ということをわざわざ言っているのでしょう。
最後に大乗における念の定義を示しましょう。
「大乗における」などと言うとあまりに対象が広くなりますが、しかし「念とは何か」と言ったことを定義する典籍はそれほど多くありません。
先に「説一切有部の典籍における念の定義」の項で触れたように、大乗ではそのような基本的理解は、ただそれらが恒常不変の実体的法として見ることを否定するものの、おおよそ説一切有部の教学がそのまま踏襲されています。
しかしながら、それも全面的に踏襲されているというのでもなく、やはり細かい点で見解の相違が見られます。
しかし、大乗にはいわゆる部派仏教のような、整備され体系だった論蔵すなわち阿毘達磨蔵などというものが存在しません。けれども、そのような「法(性相)の分析」に関しては、いわゆる瑜伽行唯識派が長じており、いくつかそれが論じられている典籍が伝わっています。
たとえば、先に示した『倶舎論』を著された世親菩薩自身によって、大乗に廻心した後に著された『大乗百法明門論』において異なる見解が示されています。
心所有法。略有五十一種。分爲六位。一遍行有五。二別境有五。三善有十一。四煩惱有六。五隨煩惱有二十。六不定有四。一遍行五者。一作意二觸三受四想五思。二別境五者。一欲二勝解三念四定五慧。
心所有の法には略して五十一種がある。これを分別すると六位ある。第一には遍行で、これに五種ある。ニには別境で、これに五種ある。三には善で、これに十一種ある。四には煩悩で、これに六種ある。五には随煩悩でこれに二十ある。六には不定で、これに四種ある。第一の遍行の五種とは、①作意・②触・③受・④想・⑤思である。第二の別境の五種とは、①欲・②勝解・③念・④定・⑤慧である。
玄奘三蔵訳 世親菩薩『大乗百法明門論』巻一 (T31, P855b)
[現代語訳:沙門覺應]
前述したように、説一切有部において、心所は四十六種が挙げられ六類に分類されていましたが、念はそのうちの大地法(Mahābhūmika)に分類されていました。大地法とは、すべての心の生じるあらゆる場所・瞬間に、遍く従って倶に起こる心の作用のことです。いま示した『大乗百法明門論』では、遍行といわれている心所の範疇です。
(説一切有部の心所説については、別項“仏教における心の分析(説一切有部の心所説)”を参照のこと。)
しかし、菩薩はまず心所を四十六種ではなく五十一種あるとし、菩薩自らが『倶舎論』の中でその説を紹介しながら反対していたように、念を遍行(大地法)ではなく、別境(prativiṣaya / vibhāvanā)に分類されています。ここで菩薩の言う別境とは、心の善悪の質に関わらず、ある条件下において生じる心所の範疇です。
すなわち菩薩の念についての所見は、念を普遍的な心の働きとした説一切有部の心所説とは異なったものでした。
ただし、この『大乗百法明門論』は、ただ百法を挙げ分類したのを列挙したのみの極々短い書であって、その意味内容など全く触れられていません。それは、同じく菩薩が著されたという小篇『大乗五蘊論』(Pañcaskandhaprakaraṇa)において、念などの定義がなされています。
その一説を以下に徴しましょう。
云何爲念。謂於串習事令心不忘明記爲性。〔中略〕
云何失念謂染汚念於諸善法不能明記爲性。
何が念であろうか?繰り返し修習したことを、心に明記して忘れさせないことがその本質である。〔中略〕
何が失念であろうか?(煩悩と伴なる)染汚の念である。諸々の善法を明記することができないことがその本質である。
玄奘三蔵訳 世親菩薩『大乗五蘊論』 (T31, P848c-P849b)
[日本語訳:沙門覺應]
ここでは一応、失念の定義箇所も挙げておきましたが、『大乗百法明門論』や『大乗五蘊論』などでは、失念とは単に「念のないこと」をいうものでなく、特定の心所として挙げられるもので、それは随煩悩の範疇に入れられています。
故に、念は別境であって善悪関係無いものですが、失念は随煩悩であって特に「善法を明記しえないもの」であるとされています。瑜伽行派では、「失念という心の働き」があると見ているわけです。
(詳細は別項“唯識の心所説 ―仏教における心の分析”を参照のこと。)
さて、この『大乗五蘊論』にはまた、玄奘三蔵よりやや後に中インド出身の地婆訶羅(Divākara)によって訳された『大乗廣五蘊論』があります。
これは、六世紀中頃に活躍された無相唯識の大論師、安慧(Sthiramati)によって著されたと伝えられるもので、『大乗五蘊論』の所論をさらに詳しく説明しています。
あるいはまた、四世紀中頃の無着(Asaṅga)菩薩による『大乗阿毘達磨集論』において、心所等を定義する一節があります。
無着菩薩とは、世親菩薩の実兄で、化地部にて出家していたものの後に大乗に転向し、後にやはり廻心して大乗の門に入った世親菩薩と共に瑜伽行唯識の立役者となった人です。
その『大乗阿毘達磨集論』においては、念は以下のように定義されています。これには幸運にも断片的ながら梵本(Abhidarmasamuccaya [Gokhale ed.])が現存しているので、その該当箇所も併記しておきます。
smṛtiḥ katamā | saṃstute vastuni cetaso'saṃpramoṣaḥ | avikṣepakarmikā ||
何等爲念。謂於串習事令心明記不忘爲體。不散亂爲業。
何が念であろうか?繰り返し修習したことを、心に明記して忘れさせないことがその本質であり、(心が)散乱しないことがその働きである。
Ācārya Asaṅga. Abhidarmasamuccaya
玄奘三蔵訳 無着菩薩『大乗阿毘達磨集論』巻一 (T31, P664b)
[現代語訳:沙門覺應]
『倶舎論』にて示されていた説一切有部での基本的な念の定義「明記して忘れないこと」に、まず串習(saṃstuta)すなわち「親しむこと・繰り返し修習すること」という一節が付せられています。そして、その業(働き)として「(心が)散乱しないこと(avikṣepa)」が付け加えられています。
分別説部は念の働きとして「混乱のないこと〈asammosa〉」を挙げていましたが、瑜伽行唯識もまた、用語こそ異なっていますが「(心が)散乱しないこと(avikṣepa)」をその働きとしています。どちらも同じ働きあるものと捉えていた、といって差し支えないようです。
いずれにせよ簡便なものですが、加増された点から察するに、瑜伽(Yoga)の修習というあくまで修道者の観点・経験的立場から説明されたものでもあるのでしょう。
以上、仏教における念の定義を、ごくいくつかの典籍を挙げることに依って示しました。
これは、我が怠惰と無能によって拙く不完全なものではあります。が、それは決して学術的目的からでも、好奇心を満たす目的からでもなく、仏教を実際に行うためにこそ為したものであります。
あるいは巷間、あまりに根拠無く、あるいは思い込みや誤解によって「仏教の」などといった枕詞を多用しつつ、むしろ単なる我説を振るうのみの者が多いようであるために、為したものでもあります。
これは別段、念についてだけのことではありません。
「仏教の」だとか「仏教における」というからには、先ずはどうしても仏教としての根拠が無ければならないでしょう。ならばそれは経・律・論いずれかの典籍か、もしくはそれらを解釈するなどしている注釈書、あるいはそれらを基にして立論され用いられてきた論書などに拠ったものでなければなりません。
もっとも、ただ多くの文書文字を追い、厳密な定義などといったことを追求したとて、それで自らの苦悩が解消されるはずもなく、ましてや生死輪廻より脱するなど望むべくもない虚しいこととなってしまうことは、決して忘れてはなりません。
実際、それは不可欠な要素ではありますが、ただ念だけに焦点を絞って理解し、実行したとしても全く不十分です。
仏教の目的は、ストレスを軽減することでも、健康になることでも、それで仕事を効率よくこなせるようになって幸せになることなどでも、まったくありません。
「そのような目的は達せられない」だとか、「そのような目的とした瞑想法なるものは邪道である」だとか「行なうべきでない」などと言っているのではありません。それらはそれらで有益であるでしょう。端からそれを目的とした動機によって、私は瞑想するのだというのもそれはそれで結構な話だと思います。
瞑想することは、その思想内容がどうであれ、例外ももちろん多くありますが、大体が人の心身両面に良い効果をもたらすものでありましょう。
しかし、ここではあくまで「仏教の」話をしています。
仏教の目的、それは正しく念を持つこと(正念)によって、対象を正しく知ること(正知)。そしてついには全てのモノの本質たる、無常・苦・空・無我であることを現観し、畢竟じて苦海から解脱することです。
それがすなわち仏陀が教えを垂れられ、ついには現代の我々に至るまで諸賢聖によって伝えられた、その目的でありましょう。
あるいはまた、頭脳明晰・優秀・弁舌巧みである人ほど、他に対する「思いやり」や「優しさ」など寛容さがなく、冷徹で冷笑的であり、仏教についても傍観者的・知的理解に留まってそれ以上進めないという傾向があるかもしれません。
古来、八難とされるものの中、「世智弁聡」が最たるものとされるのは、その由あってのことでしょう。
故にまた、慈悲喜捨の四無量心を心に育むことも忘れてはなりません。
(慈悲喜捨の四無量心については別項“四無量心観”を参照のこと。)
それらを踏まえた上で、念という、仏教を実際に修習する上で決して欠かすことの出来ないものを理解するのに、具体的な典拠を逐一示したことによって、いささかでも実際に仏道を歩み、ついには悉地を得る人の一助となればと願うばかりです。
さて最後に、以下に引くのは大乗の涅槃経にある一節ですが、特に「念とは云々」をいったものではありませんがその意図からすると、自ら正しく念をもって生きることを説いたものです。
すべからく仏者の金言として珍重し憶念すべき言葉である、と私は思います。
作心師不師於心
心の師となるも、心を師とせざれ。
曇無讖訳『大般涅槃経』巻廿八 師子吼菩薩品 (T12, P533c)
念を保つこととはすなわち、心を自らの主としてこれに従うのではなく、自ら心を守って従わせる主となることです。
非人沙門覺應(慧照) 敬識
(By Araññaka bhikkhu Ñāṇajoti)
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