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私達は、大宰府という名を冠した役所が筑前に置かれたこと、その名称が「嘘を言ったら舌を切り取るぞ」という意味の名称であったことを、厳粛に受け止める必要があります。 騙す人と騙される人がいたら、我が国は誰もが「騙すほうが悪い」と考えますが、そうでない国や人々も世の中にはあるからです。 |

画像出所=https://blogs.yahoo.co.jp/kashii_ucchan/69049368.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)九州の大宰府といえば、防人たちが活躍した、古代から中世にかけての我が国の国防の最前線として有名です。
この大宰府、いまではすっかり「だざいふ」と読むのが一般化していますが、もともとは訓読みして「おほ みこともち の つかさ」と呼ばれていました。今風に意訳すれば「大君の詔(みこと)をもって設置された府(つかさ)」という意味になります。「だざいふ」と言われても、なんのことだかピンときませんが、そのように訓読みで言われると、「なるほど」とわかりやすくなるのではないでしょうか。
問題は、その「おほ みこともち の つかさ」に「大宰府」という漢字が当てられたことです。「つかさ」は「君命をつかさどるところ」という意味ですから、お役所を意味する「府」でおかしくはありません。国府(くにのつかさ)といえば、中央から派遣された国司がいるところです。ちなみに国府も国司も、訓読みはどちらも「くにのつかさ」です。言い換えれば国司=国府であったわけです。
大宰府の置かれた筑前国には、ちゃんと大宰府の他に国府がありました。
たとえば万葉の時代なら、筑前の国司は山上憶良です。そして大宰府の帥(そち、長官のこと)は大伴旅人でした。大伴旅人は令和の歌で有名です。
つまり通常の国府としての行政をこなす国司の他に、筑前だけは、別途、大宰府が置かれていたわけです。
しかもその名の「大宰(おほ みこともち)」は、天皇の命令によって特別に設置された」とわざわざ宣言しているわけです。
では、漢字の「大宰」とは、どのような意味があるのでしょうか。『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |

「大」はわかりやすいと思いますので省略します。
「宰」は、「宀+辛」で成り立ちますが、つくりの「辛」は調理用の刃物の象形です。「辛」は「からい」と読みますが、食べ物の「辛(から)い」という食感は、実は舌が痛(いた)みを感じているからです。昔の人は、これを舌を刃物で切られる痛さと同じ種類のものだと考えたから辛(から)いという食感を「辛」と書いたわけです。
その「辛」に、屋敷を意味する「宀」をかぶせたものが「宰」です。つまり「宰」は、嘘を言ったら舌を切りとるぞ、という辛味のある屋敷という字というわけです。
ですから大宰府は、大君(おほきみ)の命令いよって厳しく監督し、嘘を許さず、ときに抜刀して処罰を下す役所だから大宰府です。
おもしろいのは、その「絶対に嘘を許さない」という大宰府は、九州の筑前にしか置かれていないことです。
歴史を振り返ると、吉備の国に、ほんの一時期、できたての渤海国との交易管理のための監督官庁として吉備大宰府が置かれたことがありますが、こちらはすぐになくなってしまいました。
渤海国との日本海交易には、大宰府は必要ないとみなされたからです。
他には、筑前以外に大宰という名を冠した政庁はありません。
対外的な人の出入りの監督官庁は唐の国にもありますが、唐での名称は「都督府」です。
わざわざ「嘘を言ったら舌を切り取るぞ」という大宰という用語は用いられていません。
私達は、大宰府という名を冠した役所が筑前に置かれたこと、その名称が「嘘を言ったら舌を切り取るぞ」という意味の名称であったことを、厳粛に受け止める必要があります。
騙す人と騙される人がいたら、我が国は誰もが「騙すほうが悪い」と考えますが、そうでない国や人々も世の中にはあるからです。
この時代、我が国の交易相手は、大陸と半島だけではありません。日本海のウラジオストックのあたりを交易拠点とする渤海国(ぼっかいこく)との交易が盛んに行われていました。
日本海は、日本列島沿いに暖かな対馬海流が北上し、樺太のあたりから大陸沿いに寒流のリマン海流が南下しています。
つまり日本海は、この二つの海流によって、反時計回りに潮流が回流しています。
この海流に乗って、日本は7世紀の終わり頃に生まれた渤海国と、さかんに交易をしていました。
当時ウラジオストックは東京龍原府と呼ばれ、そこには遠くペルシャからペルシャ商人がやってきました。
ペルシャは砂漠の国ですが、砂漠地帯というのは、砂漠への落雷によって、砂漠の中に多数のガラス片が生成します。
つまりペルシャではガラスが原始取得できたわけです。
ガラスは熱を加えると自在に加工できますので、そのガラスを用いた様々な工芸品が作られていました。
一方日本には砂漠がありませんから、ガラスは自然形成されません。
ですから透明なガラス製品は、たいへんに珍しいものでした。
その日本では、今度は東北地方を中心に、川で水を掬(すく)えば金色の砂がたくさん拾え、山中に入れば金色の成分を含む石がいくらでも原始取得できました。
つまり金(ゴールド)を大量に原始取得できました。
こうしてペルシャ人は元手ただで原始取得したガラス品を、日本人はやはり原始取得した金(Gold)を持ち寄って交換交易が行われました。この交易には、ペルシャ商人たちにとっては、たった一度の交易で一生遊んで暮らせるだけの金(Gold)を得ることができるというメリットがあり、日本人は、特に東北地方はお米が取りにくい代わりに、ペルシャ製のガラス品を中央に献上することによって減税を得るという節税対策ができました。
要するに日本の東北地方の人々と、ペルシャ商人、両方にたいへん大きなメリットがあったわけです。
ところがこの渤海国との交易について、我が国は「嘘を言ったら舌を切り取るぞ」という名の役所を置いていません。単に吉備や越前越後の国府が交易管理の任務にあたっただけです。
このことがこれがなにを意味しているかというと、それだけ半島との人の出入りには、嘘つきに気をつけなければならなかったということです。
そうでなければ、渤海や、その他唐や半島以外の諸国ともさかんに交易が行われていながら、半島に面した大宰府だけが、大宰という名称にされた合理的説明がつきません。
また大宰府がいまの九州福岡の太宰府市に置かれたのは、他にも「検疫」のための役所であったことも見逃すことができないことです。
細菌学があった時代ではありません。
ただ、何故かわからないけれど、大陸や半島からは伝染病がもたらされる。
実際、伝染病のほとんどは、九州から上陸して東に移動し、多くの人の命を奪うのです。
これを水際で阻止するためには、九州の大宰府が強権をもって、人の出入りを監督し、あきらかに不審な患者を持つ船は、非情なようだけれど、武力を用いてでも上陸させない必要があったわけです。そうでなければ、何万人もの死者が国内で出てしまうのです。
それでも伝染病は防ぎきれない。
大伴旅人にしてみれば、自分が全権をもって検疫に当たらなければならない職場において、結果として実の弟や愛する妻を失いました。
責任ある男として、その辛さ悲しさは、たとえようもないことであったことでしょう。
このとき、弔問に訪れた朝廷からの使者に、旅人はお礼の歌を詠んでいます。
涙をこらえて「かなしかりけり」と詠んだ武人の思い。
日頃は酒を愛し、武勇に優れ、教養も高くて人望の高い大伴旅人が、あまりに憔悴(しょうすい)したその姿を見て、友人の山上憶良が、長歌を読んでいます。
どちらも万葉集にその歌が掲載されています。
お読みいただき、ありがとうございました。

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