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猿を野放しにして、人間も猿になるか。 それとも人間社会を護るために、猿を射殺すか。 私は後者を選ぶべきだと思っています。 |

画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)文久2年(1862)の今日起きた事件が「生麦事件」です。(新暦ですと9月14日になります。)
この事件は、江戸から京都に向かう薩摩藩の行列に、前方を横浜在住の英国人4人が乗馬のまま横切り、薩摩藩士がこれを静止したけれど、4人の英国人は馬上のままどんどん行列の中に侵入。やむなく警護役の薩摩藩士がこの4人を無礼討ちにし、1人が死亡、2人を負傷させたという事件です。
この時代、王族や貴族のこうした隊列を荒らす行為は、一種のテロ行為に等しく、犯人はその場で全員現行犯で殺害されても仕方がないというのが世界の常識です。
ですから薩摩藩の行為には国際社会において完全に正当性があり、本来ならこれを咎めることは誰にもできません。
ところがこの事件後英国は、幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドの要求、薩摩藩に対しても犯人の処罰と賠償金2万5千ポンドを要求しました。
幕府は屈服し、薩摩は屈服を拒否したために薩英戦争が起き、薩摩は敗北した・・・というのが戦後的歴史認識です。
事実はぜんぜん違います。
詳しく見てみます。
まず薩英戦争です。
支払いを拒否したことを理由に、英国は、翌年7月2日の未明、旗艦ユーライアラスを先頭に、7隻の艦隊で薩摩湾に侵入。薩摩藩の汽船3隻を拿捕しました。
これは薩摩湾への無許可侵入であり、薩摩藩の汽船の不法拿捕という明らかな国際法違反です。つまり、無法行為です。
さらに英国艦隊は艦上から、21門のアームストロング砲を含む合計100門の砲で、薩摩の陸上砲台を砲撃しました。
これに対し薩摩藩は、正午、湾内各所に設置した陸上砲台80門で、英国艦隊に向けて反撃のための砲撃を行いました。『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |

そして同時に英国艦隊司令長官のクーパー提督は、拿捕した薩摩の蒸気船3艦に火をつけ、これを燃やして沈没させる。
また英国艦隊による砲撃は、鹿児島城や城下町に対しても無差別に行われ、これにより城下で大規模な火災が発生する。
結局、薩摩側が戦いに敗北したのだけれど、あきらかに火力の勝る英国艦隊に対し、旧式の大砲しか持たない薩摩が果敢な戦いをしたことで、英国は薩摩の戦力を高く評価するようになり、英国のそれまでの幕府支持の方針を転換させ、英国と薩摩との連携を促進させ、英国は、以後全面的に薩摩を応援し、バックアプするようになった・・・というのが、一般によく知られる生麦事件から翌年にかけての薩英戦争に至るあらましです。
ところが薩英戦争による損害を見ると、英国側は艦隊7隻の戦艦のうち、大破が1、中破2隻。死傷者63人です。
一方、薩摩側の損害は、非戦闘員の死者5~8人(死亡の時点のずれによって人数が異なる)、負傷者18人。
および鹿児島城内の櫓、門など損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻の焼失です。
客観的に見れば、薩摩藩士の奮闘により、英国艦隊を見事撃退したということであって、勝敗を言うなら、薩摩が勝ったともいえる戦況となっています。
実は、このとき英国艦隊は、当時としては国際的最新鋭最先端最強とされるアームストロング砲を装備していました。
アームストロング砲は、炸裂弾を発射できる大砲です。
それまでの大砲が、単に鉄球を発射するだけのものでしたから、これは画期的な兵器といえます。
普通に考えて、砲筒の中で火薬を燃焼させて、砲弾を発射することは簡単に理解できると思います。
ところが炸裂弾を発射するということは、砲筒の中で火薬を燃焼させて爆弾を発射するのです。当然のことながら、発射しようとした瞬間に、砲筒の中で爆弾が炸裂してしまうリスクがあるわけです。
薩英戦争は、世界で初めてこのアームストロング砲が用いられた戦争だったのですが、この時代の爆弾の精度がよくありません。結果、ほとんどの砲弾が、発射時に自爆してしまったのです。
薩摩側から見ると、これは驚くべき事態でした。
大砲を発射すると、なぜか英国戦艦がで爆発が起こるのです。
実際には英国戦艦が自爆しているわけです。
それで7隻の戦艦のうち、3隻が大破・中破してしまいました。
英国海軍が薩摩湾までやってきたのは、砲撃によってお金を出させることが目的です。
それが戦争に負けたとなると、賠償金どころではなくなってしまう。
そもそも国際法違反を犯しているのは英国側なのです。
そこで英国海軍、日本が持つあらゆる交通手段よりも、英国艦隊の方が足が速いことを活かして、即座に江戸にとって返すと、幕府に対して、薩摩も焦土になった。江戸も焦土にするぞ、だからカネを出せ!とやってきたわけです。
そこで「困った幕府は・・・」と言いたいところですが、まったくそうではなくて、実はこの頃、鐚銭(びたせん)といって、本来流通してはいけない民間ベースの純度の低い銀銭が出回っていたのです。
これは放置すれば、通貨体制を混乱させますから、幕府は全国的な鐚銭取締を行い、見つけ次第、これを回収していました。
しかし回収しても、これを改鋳して、正規の銀貨にしようとすると、費用が倍かかる。
つまり回収しても、その処分のしようがありません。
つまり、粗大ごみでしかない。
これがちょうど、10万ポンド分。
英国海軍が言ってきている額が、同じく10万ポンド分。
というわけで、幕府は英国にそのゴミを渡して、英国も喜び、幕府も喜んだというのが、実際の話しです。
ちなみにこのときの鐚銭のことを、なぜか「レアル銀貨」と美しい言葉に置き換えて、「幕府は英国の要請に屈して英国の求めるレアル銀貨を支払った」などと書いているものがありますが、まあ、ものは言いようというべきでしょうね。
それにしても、当時の10万ポンドは、いまのお金に換算したら、およそ20億円程度であったといわれています(諸説あって300億円相当という説もあります)。
それだけの銀を、粗大ごみと思っていた幕府もすごい!(笑)
この一連の事件は、そもそも論として8月21日の生麦事件に端を発しますが、このときの英国人の行動は、あまりにも非常識です。
なぜなら、世界中どこの国においてもその王族や諸侯の行列に馬上で割って入るのは、その場で殺害されても文句の言えない行為だからです。
ところが英国人4名は、薩摩の隊列が乱れても、まるでそれをおもしろがるかのように、藩主の座乗する籠に向かって侵入しました。
米国の上院議会の会議中の議場に、銃を持った4人組が馬で議長席まで侵入を試みたら、議会の警備員は具体的にどのような態度を取るでしょうか。
それでも薩摩藩は、当初は英国人を制止するにとどめました。誰も刀さえ抜かなかったのです。
ところが、それをよいことに英国人は、隊列深くまで行列の中を逆行してどんどん侵入していきました。
そして鉄砲隊も突っ切りついに藩公の乗る籠の近くまでやってきました。
やむなく藩主の警護役の数名の剣士が抜刀して、英国人を斬っています。
このときなぜ4人の英国人が薩摩藩の行列に侵入したかについては、諸説あります。
川崎大師の見学に行こうとしていただけだったいうものもあるし、日本人に英国人の偉大さを見せつけようとしたのいうものもあります。動機は、いまだに不明です。
ただひとついえることは、この時代、英国人(白人)からみて、東洋人は、野生の猿でしかなかったということです。
猿の世界にも、集団としての秩序やきまりがあります。
けれど、よほどの研究者でもない限り、一般の人が猿の社会の秩序に配慮することはありません。
英国人にしてみれば、馬上で猿の隊列に分け入ることは、むしろ楽しみであったろうし、それに狼狽して、身振り手振りで彼らを道路脇に避けさせようとする黄色い猿たちの狼狽は、見ていて愉快なもの以外のなにものでもなかったわけです。
この事件の前に、日英修好通商条約が締結されていました。
そのなかには治外法権の規定があります。
つまり、日本にいても英国人が日本の法に従う必要はないとされていたのです。
「猿の世界のルールは、人間には適用されない。」
これが治外法権の本質です。
これに幕府は屈して、賠償金の支払いに応じました。
薩摩藩は、断固として「自分たちは人間である」として賠償金の支払いを拒否し、これを咎めて薩摩湾に侵入し、攻撃を加えてきた英国艦隊に対しても、敢然と戦いを挑みました。
そしてこの薩英戦争の4年後、朝廷から王政復古の大号令が下されました。
そして日本は、艱難辛苦の上、ようやく明治44(1911)年、関税自主権を回復し、世界と対等な国を実現しています。
それは生麦事件から49年後のことでした。
平和は大切なことです。しかし、結果として軽々に賠償に応じた幕府は潰れ、及ばずながらも力一杯戦った薩摩は生残り、維新の立役者となりました。
いざというときに、戦う覚悟と実行力を持つこと。無法は許さない。
そのことは、わたしたちがこの世界を生きて行く上で、実はとっても重要なことです。
そして藩にしても国家にしても、藩や国家が先にあるのではありません。人が集まって国や藩があるのです。
そしてその集団には、自分の妻や子、あるいは恋人、親兄弟、友人たちや恩人たちがいます。
そういう自分をとりまく人々を愛するという心は、およそ畜生でなく人の身ならば、あたりまえに存在する心です。
そうした自分をとりまく人々の集団が国であり、それを守ることが、国を守ることならば、守るという心を持てるのは、それが人であって畜生でないからです。人としてあたりまえのことです。
国など守る必要がない。壊れてしまえば良いなどと公然と発言する者は、人としての心、愛する心を失った人です。
人の心を失ったのなら、それはもはや人ではありません。
人でないなら、人の形をしていても、中身はケモノです。
これを「人の皮をかぶったケダモノ」といいます。
生麦事件において、英国人が大名行列を猿の行列とみなしたことは、けっして褒めた話ではありません。
しかし世界には、人の皮をかぶったケダモノがいることは事実です。
そういうケダモノは、やはりケダモノとして扱わなけれなりません。
そうしなければ、人の世の平穏を保つことができないのです。
人の皮をかぶったケダモノを、町中に放置することは、市中に野生の猿を放つのと同じです。
捕まえて野に戻すか、さもなくば射殺しなけれなりません。
猿を野放しにして、人間も猿になるか。
それとも人間社会を護るために、猿を射殺すか。
私は後者を選ぶべきだと思っています。
・・・・
ペアトという人が当時の生麦のあたりの写真を撮っています。
道路をよくご覧になってください。
チリひとつおちていません。
これが当時の日本の民度です。
最近の日本はどうでしょうか。
※この記事は2009年9月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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それにしても、リチャードソン他の実に無礼な振る舞い。
英国人ですら非難してます。
当然だと思います。
不埒な輩による赦せない事件は、現在も日常茶飯事です。
国家には、毅然として立ち向かってほしいと思います。