故郷は地球 子ども番組シナリオ集

出版社:三一書房

発行年:1995

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佐々木守論・1 故郷は地球 怪奇大作戦 お荷物小荷物

『ウルトラマン』(1966年)は、毎回悪い怪獣が現れて平和な人間社会を荒らし、颯爽と現れたウルトラマンが退治するのが定石であり、全てであった。
その不文律に初めてアンチテーゼを掲げたのが、実相寺昭雄・佐々木守コンビだった。

「ウルトラマンが怪獣を、最後に退治するのは決まりでしたから、ライターとしては、怪獣をいかに面白く描くか、それをテーマにするしか手がなかったんです。そこで考えたのは、怪獣は果たして、ウルトラマンに殺される理由があるのだろうかということでした。(佐々木氏・談)」

『ウルトラマン』第23話『故郷は地球』は、そんな佐々木氏の精神が、初めて子ども番組に風穴を開けた瞬間だった。
この話で科特隊の尽力によって撃墜されたUFOから現れたのは

皮膚の全ては頭から顔まで毛一本もなく、まるでひび割れた如く無数の筋が血管のように入り乱れ、目玉なき目からは激しい光が二条。
そして動くたびに、関節という関節から煙を吹き出すようである。
しかも全身、厚いうろこ状で覆われているようだ。(佐々木守『故郷は地球』脚本より)

という怪獣ジャミラだった。
人類の宇宙開発競争という、輝かしい名目の元に見捨てられ、怪獣となって生き延びたジャミラ。
そして人類に復讐する為、自分達の犠牲の上に胡坐をかいていた、国際平和会議を潰す為に、ジャミラは『故郷の地球』に帰ってきたのだ。
その事実を知った科特隊のイデ隊員は、武器を放り捨てて戦いを放棄する。
怪獣とは、人間社会が、人の社会が、表面上の規律と均衡を保つ為に、意識的に排除した存在にすぎないのだと、佐々木氏の脚本は訴えた。
何も悪い事はしていない。身に覚えは何もない。
なのにある日突然に、社会の、場の都合とルールで排除される者は決定し、石を投げられる。
それが「怪獣」なのだと、佐々木氏は暴いた。

それでも。科特隊パリ本部からの使者・アランは、ジャミラを抹殺するように言い放った。
紅蓮の炎を吐いて暴れ狂うジャミラを前に、イデが叫ぶ。

「ジャミラてめぇ! 人間らしい心はもう、失くなっちまったのかよ!」

やがてウルトラマンが登場。ウルトラマンは圧倒的なパワーでジャミラをねじ伏せる。
やがて苦しげな泣き声をあげながら、絶命していくジャミラ。
この話をはじめ、ずっと佐々木氏とコンビを組んでいた実相寺昭雄監督は、佐々木氏のウルトラマンについて後年こう語っている。

「ウルトラマンの万博的反自然に、最初に目をつけたのは佐々木守であり、彼はレーニンへの道程としてのアナーキズムを、あの夜七時台に持ち込んだ男である。
怪獣を退治するという行為は、いかなる意味でも正義の闘いではなく、また、人間の自由といった相対性の範疇を出ないものだということを、彼の作品ははっきりと指し示していた」

テレビの青春

テレビの青春 著者: 今野 勉

出版社:エヌティティ出版

発行年:2009

日本の刑事ドラマの基礎を築いた名作が『七人の刑事』(1961年~1969年)であるが、佐々木氏はその第265話『ふたりだけの銀座(監督・今野勉)』で、テレビドラマ界に伝説を残すことになった。

都会の不良青年たちによって恋人をさらわれた、青年・清二の上京から、その物語はスタートする。
清二は出合った刑事と共に、恋人の行方を捜しさすらう。
刑事と清二の間には友情が芽生える。やがて恋人の行方は判明する。
恋人は、誘拐されたままの勢いで、都会に馴染んでしまっていたのだ。
自分を探し当てた清二を拒絶し、嘲笑するように振舞う恋人。
清二は狂ったように走り去り、いつか恋人と訪れるはずだった銀座の街角で、行きずりの他人を、すれ違いざまに刺し殺してしまう。
追いついた刑事はこう叫ぶしかなかった。

「なんで俺が、お前に手錠をはめなければならないんだっ!」

この衝撃的な問題作はたちまち波紋を呼び、『七人の刑事』という作品を、伝説的なドラマへと押し上げた。
清二もまた、ジャミラのように「怪獣」だったに違いない。
佐々木作品にはそんな「怪獣」たちが、いつも悲痛な叫びを見せていた。

円谷プロが1968年に、大人向け特撮ドラマとして製作したのが『怪奇大作戦』である。
作品世界は、毎回起こる怪奇な心霊事件をテーマに、それを特務機関SRIが暴いていくと、必ずその裏には、人間が生み出した科学と怨念が犯罪を生んでいたという物であり、多少の例外(それは特に市川森一作品に多かったが)を除いては、毎回その基本フォーマット通りに話が作られていた。
佐々木氏がその『怪奇大作戦』で執筆した第5話『死神の子守唄』もまた、もう一人のジャミラを描いた作品だった。

毎晩毎晩都内で、若い女性が一瞬にして氷漬けになって死んでしまうという、怪奇事件が巻き起こった。
早速調査に乗り出すSRI。
やがてSRIの捜査員・牧(岸田森)は、若き科学者吉野(草野大悟)の存在に辿り着く。
恐怖の連続殺人事件は、吉野による人体実験だったのだ。
吉野の妹は戦時中、母のお腹の中で体内被曝を受けて、白血病で余命がいくばくもない。
吉野は妹を治療する為の冷凍光線を開発。
毎晩それを実験する為に、関係もない娘達を標的にしていたのだ。
追い詰めた吉野に、一人の科学者として良心を問う牧に、吉野は答える。

「科学が何をした? 原爆や水爆を、発明しただけじゃないか!」

しかしだからといってそのやり方は……と口ごもる牧。

「間違いだと? しかし俺がやらなかったら、いったい誰が妹の白血病を治してくれるんだ!? 日本の国がか? 原爆を落としたアメリカがか? お笑いだ! 誰も何もしてくれやしない!」

だからといって、罪もない娘達を巻き添えにするべきだったか?
その牧の問いに吉野は反論した。

「じゃあ俺の妹に罪があったのか!? あの子はまだ母親の腹にいる時に……。誰だ! 誰があの子を犠牲にしたんだ! 答えられるか君に!」

絶句するしかない牧。
やがて吉野は機動隊に包囲され、押し潰されて、パトカーに乗せられて去っていく。
それを呆然と見つめていた吉野の妹は「死ぬのはいや! 」と叫んで、冷凍光線を自らに浴びて凍って死んでいく。
シナリオの最後には「その周りに樹氷が美しい」とだけ書かれてあった。

ジャミラが襲った山村も、清二が刺し殺したサラリーマンも、吉野が殺した娘達も、皆、彼らを悲しみと絶望に包ませた直接の加害者ではなかった。
しかし佐々木氏は「そこに哀しみと、排除があった事実を知らずに、のうのうと生きている者こそが、復讐の対象になるのだ」という真実を知っていたのだ。
クラスでイジメを受けている子どもが真に呪うのは、自分をイジメた同級生ではない。
自分の悲劇を想像もしないで街を歩くカップルや、テレビの中でおどけてみせるタレントなのだ。
そしてジャミラを、清二を、吉野を最終的にねじ伏せたのは、ウルトラマンや官権力といった、圧倒的な「力」それだけだった。
人間社会が皮膚感覚としてもたらす差別という認知を、佐々木氏は後にこう述べている。

「差別されてきた人間の抗議は全て正しい。私が抗議されるようなものをつい書いてしまうのは、差別されたことがないからですよ。経験のないものは抗議に反論することはできない。そう思うことにしているんです。差別はいけないなどと言うと、偽善的に聞こえるかもしれないけれど、それは僕自身への戒めでもあるんです。つまり僕にも差別意識はあるんです。人間には悲しいかな、自分とは違う存在を認めたくないという気持ちが、程度の差はあってもあると思うんです。それといかに戦っていくか、それを問題にしたいんです。(佐々木氏・談『怪獣使いと少年』切通理作著)」

しかし佐々木守作品で描かれたのは、差別され排除されたまま、息絶えていく者たちだけではなかった。
そこで恐るべきバイタリティでのし上がり、高笑いをする猛者も描いていたのである。

佐々木守氏は戦前の石川県に生まれ。その土地で小学三年生の時に終戦を迎えた。

「僕はやはり天皇制こそが、日本の諸悪の根源だと思います。
あの8月15日。それまで『神国日本は負けない!天皇陛下万歳!』などと言って、威張り散らしていた大人たちが、突然オロオロし始めた8月15日。僕の目には大人たちは、皆日本を駄目にした犯人に見えたんです。(佐々木氏・談『怪獣使いと少年』切通理作著)」

そんな終戦直後からの日本社会を佐々木氏の筆によって、スイスイスーダララッタスイスイスイと、植木等氏演ずる日の本太郎に無責任に泳がせきったのが映画『日本一の裏切り男』(1968年)だ。
東宝映画の王道健全娯楽路線として、ヒットしていた植木等氏のシリーズも、『野獣死すべし』(1959年)の監督・須川栄三氏と佐々木氏にかかると、なんとも不気味でブラックな「ピカレスクロマン映画」に仕立てあがる。

佐々木氏が大人に絶望した8月15日の玉音放送を「天皇陛下は我々に死んで来いと、ご命令なされたのである!」と勘違いした上官・大和(ハナ肇)の命令で特攻出撃させられた太郎は、生死不明の果てになぜかマッカーサーのお供となって、厚木基地に降り立った。
自分を見捨て、殺そうとした祖国日本で、太郎はありとあらゆる口八丁手八丁でのし上がっていく。
軍隊時代の闇取引で、戦後はヤクザの組長になった大和の前に何回も現れては、復讐のようにだまくらかして、彼を何度も丸裸にする。
朝鮮戦争特需やオリンピック景気。
日本の戦後史の裏を暗躍し、裏切り裏切られの連続劇。
最終的には70年安保闘争が吹き荒れる中「日本にももう一度軍隊を!」大和をそう主張する政治家に仕立て上げ、対立する政党両方から金を巻き上げる太郎。
クライマックスには反対デモが国会に突入し、しっちゃかめっちゃかの大乱闘へ。
そんな光景を見つめていた太郎は高笑いしながら国会議事堂のてっぺんに登りつめる。
ラストは太郎のこの一言。

「まぁ! だいたいこんな国だがね。決して損のない買い物だ! どうかね! ひとつ!」

そこには圧倒的かつ、底知れない恐怖を伴った「無責任男」の真の姿だった。

佐々木氏がテレビドラマ界に残した功績は数知れないが、その中の一つに「脱ドラマ」という手法があった。
ドラマの最中にいきなりキャストが役者の立場で 、カメラに向かって語りかけてみたり、ドタバタシーンの最中に、カメラがふいにセットの陰のスタッフを写したり。
この手法は後に『時間ですよ』(1970年)を経て、『ムー一族』(1978年)などで鬼才演出家・久世光彦氏によって完成されるが、そもそものその手法が編み出された、原点とも言えるドラマが、佐々木氏の最高傑作とも呼ばれている『お荷物小荷物』(1970年)なのだ。
この一見、バラエティ風味に溢れたコメディドラマ。
実は先述の『日本一の裏切り男』と同じく、戦後日本が抱えた暗部を切り裂いて、白日の下に晒した名作なのである。

物語は、とある一家に一人のお手伝いさんが、やってくるところから始まる。
一家の家長は忠太郎(志村喬)。日露戦争で手にしていた日本刀と日の丸国旗を何よりも愛し、大和魂と日本男児の精神を尊ぶ老傑。徹底した男尊女卑の思想の持ち主であり、愛国心に溢れた頑固者だ。
一家は忠太郎とその息子、そして五人の孫という構成で、女性は誰一人としていない。
そこに女中としてやってきたのが、田の中菊(中山千夏)だった。
菊がこの家にやってきたのには、実は深い目的があった。
菊の姉がかつてこの家でやはり女中をやっていて、五人の兄弟の中の誰かと恋仲になり、子どもを身ごもったのだが、忠太郎の「女中ごときに我が家の大事な跡取りを産ませるわけにはいかん!」という怒りに触れて、追い出されてしまった。
姉はその後故郷に帰り、子どもを産むが病死してしまう。
そう、菊の目的は、残された姉の忘れ形見の父親探しと、姉をおいやった一家への復讐だったのだ。
物語は菊がその魅力と笑顔で、次々と一家の兄弟達を手なずけていく展開になる。
菊は本名を今帰仁菊(なきじん・きく)といい、琉球・沖縄の出身である。
「日の丸の一家に蹂躙された沖縄の復讐」
この物語は、毎回菊と、菊の尻を追いかける、五人の兄弟達のドタバタで構成されてはいたが、そこには痛烈な、日本風土・天皇制への批判が込められていた。

「子どもの時分に、軍国教育の名の下に、ある特定の価値観や、秩序を叩き込まれた経験が災いしているのか、絶対的な価値観を押し付けられるのが苦手なんです。だから組織とかシステムというものもどうも肌に合わない。一番身近な例を挙げれば家庭ですよ。家庭を維持するためには、家族は大なり小なり我慢しなくちゃならない。もちろん、それがどうしても耐えられるわけじゃないけど、出来る事ならそういう、ある秩序の中に放り込まれたくない。という気持ちがあるんです。(佐々木氏・談)」

『お荷物小荷物』最終回。
ついに忠太郎に姉の子どもを認知させた菊が、沖縄に帰ることを決意する。
それを引きとめようと、必死になる五人の兄弟たち。

「私は沖縄の女。本土のあなた方に頼らずに、たった一人で生きていきます」

とキッパリ菊がはねつけると、ドラマの展開があれよあれよと急転し、なぜか日本は外国と戦争状態に突入。
五人の兄弟たちは皆、出征兵士として戦地へ送られて全員戦死。
ラストシーンは、崩壊していく家が映し出され、国旗日の丸だけがスポットライトを浴びて、エンドロールであった。

日の本太郎と田の中菊。
「日本という国家。擬似天皇制としてのい家長制度」から排除されつつも、この二人はその、溢れんばかりのバイタリティで、狭量な枠組みを超越して、物語を駆け抜けていった。

ジャミラ・清二・吉野・太郎・菊。
佐々木氏はどの心情とも決して同調することなく、彼らと彼らを取り巻く環境の描写に勤め、ドラマという混沌がはじき出す化学反応の結果のように、ラストシーンまでを描き続けたのである。
「日本という国家が体裁と秩序を保つ為に、排除していった者達の行く末」は、佐々木作品に常に流れていたテーマだった。
それは『日本春歌考』(1967年)等の大島渚監督作品の脚本についても同等であり、『男どアホウ甲子園』のような、野球漫画でも普遍のテーマだった。

筆者やあなた方が今生きられているのは、誰のおかげで、どんな犠牲の上に成り立っていたのか。
それを知らないという罪こそが、最大の悲劇なのだということを、佐々木守氏は常に問いかけていたのだ。
ならば我々は何を尊び、何を大切にすればよかったのだろう。
フィクションの世界で、そして現実で起きた悲喜劇は、どうすれば避けられたのだろうか。
その答えはきっと、70年代という時代を駆け抜けた、佐々木守作品の全てに散りばめられていたのだろう。

(この項続く)
佐々木守論・2 大江健三郎と『破壊者ウルトラマン』


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