もし、半生を費やすほどの多大なる労力を掛けて挑んだものが、そもそも意味がないことだったら。
金メダルを目指した少年は、青春のすべてを競技に費やし、1年365日朝から晩まで練習をして、ついにオリンピック出場を果たす。
死闘を繰り広げた試合が終了した時、審判はこう言いました。
「勝敗は不明。判定は次回のオリンピックへ持ち越し」
心が折れそうになったが、再び4年間の過酷な練習。
そしてふたたびのオリンピック。今度こそ金メダルを獲得できるかと思った瞬間、また、
「勝敗は不明。判定は次回のオリンピックへ持ち越し」
──実は、そもそもこの競技は誰も金メダルを決して獲得することができないのだが、そのこと自体世界中の誰にもわからないので、選手たちは挑戦し続けてしまう。
こんなこと、実際はありません。
しかし、スポーツ選手にはなくても、数学者にはこのような悪夢があります──「ゲーデルの不完全性定理」、この定理をご存じでしょうか。
この難問についてわたくしのような素人が文章を書くのは大変力不足で恐縮ですが、当初からテーマに取り上げたかった。
ゲーデルが1931年にこの定理を証明したとき、数学者はもちろん哲学者たちも大いなる衝撃を受けました。
ゲーデルの不完全性定理とは一体どういう定理なのか。
(記事後半につづく...)
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数学の歴史は、証明の歴史と言ってもいい。
ある時誰かが、たとえば「直角三角形はa² + b² = c²じゃないかな~?」と思いつく。
それを誰かが証明しようとする。
そして証明が成功した瞬間、それは「定理」となり、未来永劫変わらない真理となる。
数学者たちは、すべての「じゃないかな~?」は真か偽かどちら判別できると当然のように思ってきました。いずれは、すべてが証明され、定理が全部載った『数学定理全集』が作れるかもしれない、と。
しかし、これをひっくり返す事実を、1931年ゲーデルが発見しました。
真か偽か判別ができない「じゃないかな~?」が存在するという、ということを証明したのです。
そもそも金メダルを獲ることのできない競技。そもそも鍵のないコインロッカー。
じゃあじゃあ、そもそも真か偽か判別できない命題が一体どれなのか。それさえ見分けることさえできれば、挑戦を避け、労力を無駄にせずに済むんじゃないか。
...それもできません...っ!
それを証明したのが、イギリスの数学者アラン・チューリングです。
ちなみに、このことを証明する過程で、チューリングは「チューリング・マシン」という想像上の機械を発想したのですが、このことが「コンピュータ」の原点となりました。チューリングは同性愛者だったのですが、当時イギリスはホモセクシャル違法だったので逮捕され、強制的にホルモン治療を受けさせられ、最期は青酸カリで自殺したと言われています。
そもそも金メダルを獲ることのできない競技──が、どれかはわからない。
そもそも鍵のないコインロッカー──が、どれかはわからない。
数学の命題には、そういう悪夢が潜んでいるんです。
普段生活をしていて神の存在を感じるような特別な体験はしたことはありません。ぶっちゃけ神社仏閣で賽銭を投げ手を合わせている時でさえ、そうです。
しかし、こうやって不完全性定理について考え、「真か偽か証明できないことがある」ということについてイメージを膨らませようとする時、人間はその「真偽」にたどり着けないものであっても、その「真偽」を知る超越した存在としてやはり「神」というものを自然と思い浮かばずにはいられません。
バラエティで「真面目かっ」とツッコミを受けるように、数学はその厳密さのために時に嫌われてしまいますが、ゲーデルやチューリングが証明したことは、この世界の成り立ちの謎を少しずつ解いていくようで面白くありませんか。
本来数学の姿とはきっとそういうもので、あーなんで学校の授業は無味乾燥の数式を繰り返すような、しょうもないものなんだろう。
あ、マンガの中で、愛ちゃんは「知性の限界!」と叫んではいますが、人間にはまだ自分たちもはっきり自覚していない能力があるかもしれませんし、ゲーデルが証明した限界と人間の知性の限界は必ずしも一致しません。
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