著者:

出版社:

発行年:

評価0 最悪!

未来にも残すべシ 個人的には超好ミ 初心者でも読めル

佐々木守論 番外編「『アイアンキング(72年)』が戦った時代【後編】

代替テキスト

 そして独立幻野党も滅んだ先に現れるのが、宇宙人(宇虫人)タイタニアン。
 一部マニアの間では、タイタニアン編になって敵組織がただの宇宙人に成り下がり、内容も低下したと言われているが、実は「その視点」は的外れなのである。
 考えてみよう。全シリーズで三種類しか敵組織が出て来ていないのに、一つだけ無思想の無配慮で設定されるという前提論の方が不自然なのだ。

 タイタニアンは、その姿は「白い仮面を被り、胸に(キリスト教を想起させる)十字架を記した魔人」で、話し方も外人らしい片言を使う異邦人(欧米人)だ。
 その目的は今までのテロ組織の「大和政府打倒」ではなく、「この地球を我々タイタニアンの植民地にする事」である。そしてその侵略方法の殆どは「人間(日本人)の身体に乗り移って味方にしてしまう(第23話『女に化けた虫人』弦太郎の台詞より)」である。
 ここでの「白い仮面を被った姿」は、佐々木氏観で読み解く時には「アメリカの暗喩」と同等かそれ以上に「ヤルタ・ポツダム体制に洗脳された先で、白人化することに入れ込んだ、戦後の『歪んだ日本人』の象徴」と読み取ることも可能だ。
 タイタニアンは「殺人ガス(米軍がベトナム戦争で使用した兵器)を使い、大量殺戮を狙う」戦術を意図的に何度も取り入れ(タイタニアン編初期4話は、全てなんらかの形で毒ガスが絡む)「(当時アメリカが支配を画策していた中東産出の)石油をエネルギー」にして「金の力(資本主義)で殺戮兵器やマンション(国土)を買い取り、子どもを洗脳するもいとわず、テレビ画面(メディア)を通じて威嚇してくる(第21話『カマギュラス殺人ガスを狙う』第24話『東京攻撃前線基地』)」という、アメリカ帝国主義・資本主義的な策略を行う。
 その「米国主義的資本と思想のテロ」が、いかに米国的な視点で構築されているかといえば、第25話『アイアンキング大ピンチ!』冒頭では、弦太郎とアイアンキングの等身大人形が十字架にかけられて火あぶりにされるところから物語がスタートするという念の入れよう。タイタニアンを「本性を現した米帝主義」として暗喩をそこに見出すのであれば、最終回『東京大戦争』の「アイアンキングの裏切」は「安保条約によって米軍に自在に操られ、日本自体を脅かす自衛隊」の象徴にも思える。

 さらにタイタニアンは、工作に於いてや弦・五コンビとの戦いの場では、しばしば「自らの目(思想)を見させることで、日本の民間人の内面を乗っ取る」のだ。
 これらの構図には後に脚本家上原正三氏が『宇宙刑事ギャバン(82年)』等で展開させた、宇宙犯罪組織による「広告代理店的洗脳侵略手法」を10年先取った先駆者性が見てとれる。筆者的には「上原正三『1973年の乱心』(註・筆者が勝手に命名)」は、佐々木守氏と、佐々木氏による『アイアンキング(72年)』の影響で発生し、その後も上原氏の作劇に大きな影響を与えたのではないかと考察しているのだが、それはそれでまた別の機会の話(『東京』における『戦争』や「裏切」の意味性の追求、そしてなにより上原氏自身が「大和朝廷に滅ぼされた原住民族」だという事実等々。そういえば、この作品より先に『帰ってきたウルトラマン(71年)』で上原氏が、石橋氏をゲストに招いて執筆した『大怪鳥テロチルスの謎』『怪鳥テロチルス 東京大空爆』の前後編で登場する石橋氏の幼馴染のヒロインの名前も「ゆきこ」であった)。

 重要な事は、これまで弦太郎・五郎コンビが戦ってきた、日本の内部から生まれ出て「大和政府に対する武装決起によるテロ」を企てた不知火一族や独立幻野党と違い、タイタニアンは「明確な異星(国)人」であると同時に、まるでバブル時代に日本人を揶揄した「バナナ人」のように「『黄色い顔』の上に『白い仮面』」を被っている侵略者であるという事。
 「バナナ人」の場合は、タイタニアンの持つ記号性とは逆で、黄色人種の外見のまま、中身は白人文化主義に侵されているという、独特の隠語として使われたが、さてタイタニアンは見たままの「米帝白人主義」なのか、それとも「米帝主義に侵され、白い仮面を被ってしまったヤルタ・ポツダム体制の日本人」が、自らの国土にテロを齎す構図を描いたのか。

「小笠原なんか行くとね、若い連中が海岸で肌を黒く焼いてるのよ。あれは白人が黒く焼くから彼らの美意識で美しいというんであってね。黄色人が白人の真似したってしようがないでしょ。そういう意味でヤルタ・ポツダム体制なんですよ。なんとなく肌を焼いたり、髪を染めたりしている若者を見るとね、あー、こいつら『ウルトラマン』見て育ってこうなったのかなと思うと、ひどく罪の意識を感じますよ(『ウルトラマン 怪獣墓場』大和書房 佐々木氏・談)」

ウルトラマン怪獣墓場

ウルトラマン怪獣墓場 著者: 佐々木 守

出版社:大和書房

発行年:1984

 その問いかけに呼応するかのように、これまでは弦太郎と五郎の「背景」として手ぬかりなく「描かれずに」物語世界のバックボーンとして作品世界に存在していた国家警備機構が、タイタニアン編からはその施設や内部や一般兵士も画面に登場し、弦太郎の育ての親でもあり、五郎をアイアンキングに改造した津島博士(演ずるは『人造人間キカイダー(72年)』での光明寺博士の他『仮面ライダー』劇場版(72年)や『シルバー仮面(71年)』でも科学者を演じる伊豆肇氏)と共に、二人をバックアップする組織として、明確に機能し始めるのである。  

 そこで(不知火一族編のゆき子に継ぐ)レギュラーヒロインとして、国家警備機構のウーマン・リヴ女性隊員・藤森典子(演ずるは右京千晶嬢)が登場し、弦・五コンビの股旅に、女子委員長よろしくの潔癖症性格のまま同行するのである。ここまでで、既に弦・五コンビの漫才弥次喜多道中は、阿吽の呼吸の完成形に達してるので、いきおい、典子だけが浮いてしまう展開になる。

 弦太郎も五郎も、何かにつけては典子を「てんこ」と呼び、そう呼ばれた典子が必ず「私は典子よ! 変な呼び方をしないでよ!」とヒステリックに叫び、そこで弦太郎と五郎がわざとおどけて「てーんこてんこ!」と、ふざけた節をつけながらからかうというルーティンギャグが挿入される。
 しかしこれは、安っぽい方向へ流された路線変更ではない。
 佐々木氏は常に(それも恐るべき多段構造の)計算を仕組んで構成するのだ(ちなみに佐々木守氏が後に原作を担当し、初期話以降何本か脚本を書いた、大映ドラマ『高校聖夫婦(83年)』伊藤麻衣子が演じたヒロインの名前も「典子」であり、劇中でのあだ名も「てんこ」であった)。

 独立幻野党編までにおいて、そこで登場するゲスト女性は全て「弦太郎にとっての母だ」と筆者は既に書き記したが、弦太郎はその「母の数」だけ自分がこれまで内面で蓄えてきた「しあわせ」「よろこび」「さびしさ」を自覚し続け、「人間」になりつつあった。五郎という「友人」も出来た。しかし「家族」だけは遡ってでっち上げる事は出来ない。
 そこで人は「寂しさ」を言い訳にして「国家」に依存してしまえば楽なのだろうが、国家は人を使役させ搾取する組織体でしかないことを、弦太郎は自分の半生で知っている。
 そこで、今までになく強大な「異国(星)から来た帝国主義」と闘わねばならない時、その「白人主義・ヤルタ・ポツダム体制主義に侵された静かなテロ」を前にした時、弦太郎と五郎は、「本当の『戦後民主主義社会の力』」を用いねばならなかった。
 そのためには、典子という女性が必要だったのである。
 しかし、登場した時に典子はまだ「国家に忠誠を尽くすだけの女軍人」であり、彼女を女性にして、母にすることで、初めて二人は国家を脱し「真なる自由」を得る。そしてそこで得た力があれば、米帝主義の思想侵略にすら負けずに、真の民主主義の中で人は生きられる、佐々木守氏は本当にそう思ったのではないか。

 また「深く考えすぎだ」「ただのタイアップだ」そう罵られるのを承知で書くならば、タイタニアン編、いや『アイアンキング』全編の終焉近くで弦太郎がギターで弾き語る歌は、当時石橋正次氏がリリースしていた『お嫁にもらおう』
 それまでは、劇中でギターで歌う事があっても、唱歌や民謡ばかりだった弦太郎が、血と体温と優しさと、幸せへの夢を持った先で歌う『お嫁にもらおう』。
 初登場時には明確に「戦うために育てられ、国家の為に命を賭けて戦争をする事しかインプットされていない欠格人間」だった弦太郎が、シリーズの最後半でこの歌を口遊む。それまでは「教科書に載るような歌」しか歌えず弾けなかった弦太郎が、自らの言葉と手で「愛する人と人生を共にしたいと願う歌」を弾き語る。

 その解釈を立証してくれるかのように『アイアンキング』最終回『東京大戦争』では、典子が「どっちのお嫁さんにいこうかなぁ」と冗談めかしてほのめかし、弦太郎と五郎が「勘弁してくれよ!」と、おどけて逃げ出すシーンで『アイアンキング』全編の幕は閉じるのだが(そこも佐々木氏一流の、タイアップへの配慮が生んだ、商業主義的な思想放り投げの終わり方なのだという異論もあろうが)そこで弦太郎と五郎が逃げ出したように、弦・五コンビにとって典子は妻にはならない。
 つまり「お嫁にもら」う対象とは見る事は出来ないのである。
 それは別に、典子がウーマン・リヴ派であるとか、器量が悪いとか(右京千晶嬢に失礼!)結婚対象として何か欠陥があるといった問題ゆえではないのである。
 結論を先に言ってしまえば、典子はあくまで「人間としてはまだまだよちよち歩きの幼児だった、弦・五コンビにとっての『母親』」だったからだ。
 正確に言えば、「人間としての条件を満たす人間」としての弦・五コンビにとっては、高村ゆき子が「生みの親」藤守典子が「育ての親」であったからなのだ。

 それは、独立原野党編のゲスト女性全員も含むのかもしれないが、彼女達が女性以前に母として、母が子どもに与える愛情を二人に注ぎ、現実の本当の厳しさを身を持って教えればこそ、弦・五コンビは人間になれたのである。
 その結論を前提に考えた時(またここでも「そういう路線変更や設定だったんだよ」とか野暮なことを言わずに向きあってみれば)シリーズ中盤以降の変化でもあり違和感でもあった「アイアンキングはなぜ単独でも勝てるようになったのか」「なぜ弦太郎は最終回近くまでアイアンキングの正体を知らなかったのか」という、二つの謎にも、素直に回答ができるのである。

 弦太郎と五郎、それぞれの中で「まだ人間でなかった『男の子』には無理な事、知らなくていい事」が、母の温もりの中で成長した先で、ようやく感じ取るアンテナも育ち、その結果、独り立ちしていくための準備期間を描いたのが『アイアンキング』の26本だったという仮定も成り立つだろう。
 その為には、まだ互いに機械でしかない二人の序盤では、どちらかだけの独力で、勝利を得てはいけなかったのだ。
 その証拠に弦太郎はタイタニアン編の第23話で純子(坂口良子)に向かって「残念ながら俺たちは、二人で一人前なんでね」と答えている。

 だからだろう。シリーズ開始当初は「クールで情愛を持たない冷酷な戦闘機械」と「愛嬌のあるロボット青年」でしかなかった二人が、最終シリーズのタイタニアン編ではどう見ても「悪ガキやんちゃ小僧コンビ」にしか見えなくなったのは。
 典子という「躾に厳しいうるさいママ」に守られた、「成長のやり直し」もバックボーンにあったのだろうと(裏番組の『マジンガーZ』に対抗する為に、幼児層視聴者を獲得しようとドラマレベルを落としたという指摘をせずに)ここではそう読み取る方が自然だし、そう読み取りでもしなければやるせない「核」を、ここまでの流れで、シリーズ全体が築いてきてしまった事も現実なのである。

 『アイアンキング』タイタニアン編は、ゲストの背負うテーマも希薄であるし、これといった悲劇も描かれず、娯楽性へ逃避したと思われがちだが、実はここで描かれたのは(もう既に人間になった)弦太郎と五郎の成長と再生ではなく「国家に殉ずる道を選んでしまった一人の女性」の典子を、母への恩返しとして(まるで自分達が過去の女性達に誘って救われたように)弦太郎と五郎が、改めてコンビの力で、「しあわせとよろこびとさびしさを知る人間」へと再生させる、そんな物語なのである。
 そして、人間に戻った終盤でも「五郎がロボットである事実」を受け入れる前には、弦太郎と五郎が二人で典子を「人間の女性」に戻す義務を果たさなければいけなかった。

 つまり弦・五コンビは最終編では「典子に育てられ」ながら「典子を一人の女性として育てなおす」役割を担うのだ。
 だからこそ、最終回で典子は弦太郎の歌う『お嫁にもらおう』に応じるように「どっちのお嫁さんにいこうかな」と、「女性のしあわせ」を求めて完結するのである。
 そしてまた、五郎もタイタニアンの謀略によって一度は死ぬも同然になり、その先でもう一度生き返り、弦太郎も窮地を脱する。そう、三人は三人三様の手法で「人として生き返った」のだ。

 子ども向けドラマとしての「敵」が壊滅した時に、三人は三人とも「人間」として、真なる自由をそこで得て、生きていくだけの蓄積を「経験で」蓄えた。
 その「経験」を違う言葉に置き換えるべきであれば、その言葉はきっと「戦後民主主義」であったのではないだろうか。アイアンキングと弦太郎の戦いは、戦後日本が真なる意味での民主主義を、勝ち取り活かすための陣痛のようなものであったのかもしれない。

「僕にとっての戦後民主主義とは、教室から教壇が無くなったことであり、先生の位置がその教卓と共に、教室の一番後ろに移ったことであり、そしてグループ授業がはじまり、勉強はそれぞれのグループで自由に進めて、わからないところだけ先生に訊くという方法であり、それまで口をきくことも憚っていた男と女が手を取り合って、フォークダンスを踊るということであった。あの『戦後民主主義』が五十年間着実に歩み続けていれば、イジメやそれによる自殺といった悲劇は、絶対に起こるはずがなかったと僕は思う。『戦後民主主義』は、いつ、なぜ崩壊してしまったのであろうか(『ウルトラマン 怪獣墓場』 あとがき佐々木守氏)」


「単なる『国家の為の戦う兵器』だった二人の男」が出会い、連れ合い、悲喜劇を共にして、その果てで人間へと生まれ変わり「本当の『戦後民主主義』の子」として生きていく。
 筆者による『アイアンキング』論は一応ここで幕を閉じるが、この時代の先を生きた佐々木守氏の「戦後民主主義」「子ども向け番組」に対する戦いと希望、そして絶望と手応えは『光の国から愛をこめて』Disk.2でも、充分に検証し、論じてみたいと思っている。

 『アイアンキング』それは筆者達「現代っ子」に、佐々木守氏がいっとき見せてくれた、「掴めたかもしれない、本当の『戦後民主主義』の行方」であったのかもしれない。

「しかしぼくはやはり子ども番組を愛しているし、これからも様々な方法によって子どもを主な対象とした番組を創りつづけたいと思っている。とはいえ子ども番組は世の『良識』ある人々の眉をひそめさせる対象でもあった。『お手軽だ』『言葉遣いや行動が悪くなる』『勉強しなくなる』『ちゃんとしたものの見方や筋道だった考え方が出来なくなる』……などなど。最近では子どもにテレビを見せない運動や主張も出て来ている。こういったすべての批判を受け入れつつもぼくは思う。それでも『多数決』や『話し合い』を金科玉条に、戦後日本をこんな馬鹿な世の中にしたあなた方より、子ども番組の方がよっぽどがんばって来た、と。そして、さまざまな意味をこめて、ぼくたちがまだ幼いころ親や教師やあらゆる媒体を通じていつもいわれて来た言葉を、いまあらためて思い出すのである。――『君たちはお国の将来をになう大切な少国民なのだ』(『ウルトラマン 怪獣墓場』 あとがき佐々木守氏)」


『アイアンキング(72年)』が戦った時代【完】


いいね! (9)

未ログインでも大丈夫!匿名で書き手さんに「いいね通知」を送れます。みんなで良い書き手さんを応援しよう!

※ランクアップや総いいね!数には反映されません。


コメント(0)

ログインするとコメントを投稿できます

ログイン or 新規登録

通報する

【08/01】公開しました

【08/07】新企画公開!

【08/12】新記事公開