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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

「聖石ベチルは世界の定礎 」とある『ゾーハル』でもカイン(菜食バラモン的)系は悪。 悪の母ナアマはカインの末裔でトバルカイン(鍛冶の祖)の妹。 カインの刻印崇拝はユダヤ・カバラ(正統派。肉食ゾロアスター的アベル)ではなく新キリスト教(異端少数派が源流)系思想!  

ねこた
フリーメイソンで特別の聖人といえば、
カインとトバルカイン。
カインは罪人やけど、鍛冶屋の祖でもある。
鍛冶屋などの特別な技術を持ったギルドの祖なのよ わかる?

また、せんじろうさんの話では
もののけ姫のたたら場(多々良は百済だよ)みたいに鍛冶をやってると
目をやられるんだってさー。おめめー”

重要個所抜粋+要約
(本ブログ読者が興味を持ちそうな個所)


学者の重訳『ゾーハル』(イルミネーション=光輝の書)でもカイン(菜食バラモン的)系は悪。
タルムードで悪の母として知られる四大悪霊の一つナアマ
(ナアマに惚れたアザはソロモンに知恵を授けた)はカインの末裔で
トバルカイン(鍛冶の祖)の妹。

カインの刻印を結社は「十」と解釈しているが
「M」とも解釈しているかもしれないし
「M」はカインとは異なる別の刻印かもしれない。

学者の重訳『ゾーハル』(光輝の書)でもカインは悪。
タルムードで悪の母として知られる四大悪霊の一つナアマはカインの末裔でトバルカインの妹。
カインの刻印崇拝はユダヤ・カバラではありえない。

『光輝の書』ゾーハルの英訳はイルミネーション!

ゾハルはアラム語で書かれているのでありヘブライ語ではない。

ゾハルのユダヤ・カバラではカインの領域から生まれたナアマ(トバルカインの妹)は
タルムードで悪の母として知られる四大悪霊の一人。
カイン系は悪なので
カインの刻印を重視=善とするする支配層が採用しているカバラは
基本的にキリスト・新キリスト教カバラであり
ユダヤ・カバラは都合が良いところだけ採用。
ユダヤ・カバラで悪とされるものを善とすることがある。

「神々の息子たちアザとアザエルはナアマに狂った」

エノク書(エノクはカインの子)の悪魔の長アザエル(本来は天使)はナアマと交わり、
彼女に魔術を教えて神に罰せられた。
旧約ではレビ記第16章にのみ登場。

アザエルの仲間のアザはでソロモンに知恵を授けたといわれる。

∴ソロモンと鍛冶(の祖トバルカイン=カインの子孫)を重視する
メイソン=新キリスト教がユダヤ・カバラに忠実でない。

トバルカインは鍛冶の始祖とされる。
アダムより数えて7代目の子孫で
カインの子孫レメクとチラの子なのでカインの子孫。

ナアマは悪霊の母。
なぜなら、彼女はカインの領域から生まれ、
リリトの仲間になって子らの悪習を助長したから。

リリトはユダヤ民間信仰における女のデーモン。
血を吸う夜の魔女と考えられている。
タルムードの伝承によれば、
アダムの最初の妻とされる。
イザヤ書34・14参照。

カインの刻印と子孫のトバルカインを優遇する新キリスト教が菜食バラモン寄り(カインは農民)だから、
今の支配層が重視しているカバラはユダヤカバラではなくクリスチャンカバラの方だぞ。

「トバルカインの妹はナアマ〔可愛らしい女の義〕といった」
(創世記4・22)と書かれていますが、
この名で何を教えようというのか。
人の息子たちが、
いやそれどころか霊やデーモンまでもが
彼女に誘惑されたということです。」

トバルカイン
=カインの子孫レメクが
二人の妻のひとりツィラとのあいだにもうけた子。

カインの刻印には
トバルカイン(鍛冶の始祖)の意味も込められているだろう。
鍛冶、冶金をメイソンは特に重視。
化学であり科学だから。
ナアマの扱いを見るに
正統なユダヤ教ではカインもその末裔も悪だとみなす。

菜食のバラモンよりも
肉食(肉の生贄)のゾロアスターを選んだヤハウェ。

カインの刻印を崇めている派閥は
正統なユダヤ教の否定
+菜食派のカイン(バラモン的)の肯定だから
キリスト教の異端少数派や
メイソンなど新キリスト教あたりだろう。

カインの子孫のトバルカインの妹ナアマ(悪霊どもの母)に惚れたアザは
ソロモンに知恵を授けたといわれるしメイソンはカインが好きなのだろう。


カインの刻印を崇めている者の思想は正統なユダヤ教ではないと書いたのは
ユダヤ・カバラも正当なユダヤ教の解釈学だから。

・世界の礎=シオン(という家)
=世界の中心
=七つの柱の土台
=定礎の石 (火と空気と水でできている。 世界の中心の目印)
=ヤコブの石(柱)
=神の家(ベチル)
=(十戒が記された)「石板」の素材

七つの柱を切り出した(作った)のが
第二のセフィラ―である「知恵」(コクマー)
(グノーシス的にはソフィア)。

しかもミュラーの注釈いわく
アガーダー(タルムード)では この石の場所でイサクの犠牲とヤコブの夢が起こった。
しかものちに燔祭の祭壇の場所となる。
ダビデがここに祭壇を設けていた。
ヤコブの礎石(ベチル)=「大地のへそ」
=最初の創造物のひとつ。
世界の柱である七番目の柱の上に 残りの六本の柱は乗っている。

タロットの塔はマルセイユ版では「神の家」という名で
神の家はベチルなので
塔=聖なる石柱=世界の中心
と解釈できる。





スピ系のインチキ・架薔薇に気を付けろ!

ラビ・アルイェフ・キャプラン(Aryeh Kaplan)は
ゾーハルの注釈書を書いていないし、
(ゾーハル自体が長いのと、
彼は早死にしている)
英訳を読む手があるがそれだと文自体の意味の把握が
すんなりできないのでその後の自分なりの解釈がしにくくなる。
なので私は学者(つまりラビではない)の日本語訳を読んだ。

ゾハールはpritzker版が一番学術的には正確と評価されているらしい。
ただし、pritzker版はラビによる解説書ではないのが難点。
ラビがどう考えているかわからないと
ユダヤ・カバラを学んだことにならないのが困りもの。

カバラ文献は抽象的すぎる暗号みたいなものなので
口伝を知っているラビの説明(かいどく)が必要。

schottenstein版は保守的伝統系らしい。

今回のミュラーが使ったのはヴィルナ版。

カバラ本はカルト信者製のものが意外とあるので注意。
ゼヴ・ベン・シモン・ハレヴィはハイアーセルフやソウルメイトなど
伝統的ユダヤ教徒のラビが絶対使わないスピ用語を使うから偽物確定。

ユダヤ・カバラ教典に書いてないことを古代ユダヤからの伝統だと誤解させるように
インチキ禍薔薇を布教して恥ずかしくないの?


遠回しに隠すよりは、ちゃんと「私は力ル卜です」宣言しているだけマシ。
ミュラーもシュタイナーの薫陶を受けたとか解説にあるが

ミュラーが入れている注釈(量は少ない)にはシュタイナーが登場する個所は
これ↓など少数で記述もたいへん短いので問題ないと判断した。

(5)ルードルフ・シュタイナーも『神智学』で
三つの魂について語っている。
知覚の魂、
理性または感情の魂、
そして意識の魂である。
これらの区分はゾーハルのそれと、
完全にではないが、ほぼ一致する。
以下では、ヘブライ語の名称に近づけて
「原動魂」、「霊魂」(霊気とも)、「魂の気息」という用語を用いる。


中身を捻じ曲げていない、
仮に捻じ曲げていてもわずかだと判断。
ミュラーの序文にもハイアーセルフや、ソウルメイト(ドイツ語でどういうのか知らないが)などという
単語は出なかった。




『ゾーハル: カバラーの聖典』 (叢書・ウニベルシタス) 単行本 – 2012/7/5
Ernst M¨uller (原著), エルンスト ミュラー (翻訳), 石丸 昭二 (翻訳)


本文ならびに注の文中に挿入されている〔〕内の記述はすべて訳者が付した注である。


著者はエルンスト・ミュラー
1880年チェコ生まれ。
1910年ユダヤ人教区の図書館司書職に就く。
1938年ナチスの進出によってロンドンに亡命。
1954年死去。
本翻訳は
ミュラーの
『ゾーハルとその教義』(1920)と
『ゾーハル』抄訳(1932年)の翻訳。
つまりドイツ語からの重訳。


訳者あとがき

本書はヘブライ語の姉妹語アラム語で書かれた『ゾーハル』の
ミュラーによるドイツ語訳の全訳である。
(ドイツ語訳自体がゾーハルの全文訳ではないのに注意)


編訳者エルンスト・ミュラーは
第一次世界大戦の始まる数年前に、
彼の友人で、カフカともプラハで長年親交を育んだ、
エルサレムのヘブライ大学哲学教授フーゴ・ベルクマンとともに
1912年頃からゾーハルを読む手探りの試みを開始し、
1932年にその成果をウィーンで公刊した。

本訳書では加えて、
それ以前に執筆された彼のカバラ―研究入門書『ゾーハルとその教義』から
巻頭の緒言と巻末に付されたゾーハル本文の試訳(11篇と若干の小篇)とを除く本論部分を、
ごく一部省略してほぼ完全に訳出、
ゾーハルの思想を理解する一助に、
合わせて掲載することとした。

ミュラーは人智学のシュタイナーの薫陶を受けたことが指摘されている。

(ミュラーの時代でカバラ関係で神智学も人智学も無関係な人はほぼいないだろうね)

『セーファル・ハ・ゾーハル』は印刷では全五巻、2400ページに及ぶ。
1558年に初めてクレモナで、
そしてほぼ同時にマントヴァで印刷された。

ゾーハルの執筆時期は1280-86年と見られている。

ゾーハルという名は(天の)光輝を意味し
聖書にもその意味で僅か二か所だけ、
エゼキエル書8・2、
ダニエル書12・3に現れる。
とくに後者の文言
「分別ある者たちは大空の
輝き(ゾーハル)のように輝いた」は
ゾーハル書の最初のページの論究の冒頭に置かれており、
この署名がそれから取られていることは明らかである。
本訳書の116-122ページにそれにかんする記述がある。
そこではゾーハルは
「それからすべての言葉が造られた原初の輝き」とされている。


ここから翻訳

序(ゾハル本文ではない)
p.13
セフィロースの最上位である「王冠」(ケセル)は
言語に絶する高みで直接「無限」に移行する。
それはしばしば無限と一体だとみなされる。
最下位をなすのは人間の国――
キリスト教の「主の祈り」でいわれるのと似通った意味で
「国」そのもの
(元来はマルクース=王国)、
直接人間に触れ、人間を取り巻くあの精神領域である。
といってもこの段階づけは本来価値の高低を含んでいない。
「王冠」が木全体を萌芽として含んでいるように、
「国」のなかにも木全体が圧縮されている。
それでよく最初のセフィロースと最後のセフィロースが
結びつけられて、
「ケセル・マルクース」と呼ばれる。

一番上の三幅対はケセルのほかに
ホクマー(知恵)とビーナー(識別する「理性」)を含んでいる。

中間はヘセド(愛)またはゲドゥラー(偉大さ)、

ディーン(裁きの公正さ)またはゲブーラー(強さ)と
ティーフェレース(素晴らしさ、実際にはあらゆるものの調和)、
別名ラハミーム(慈悲)。

一番下はネーツァハ(持続力)、
ホード(美しさ)、
イェソード(基盤)。


p.15の図と文章
(生命の樹のセフィロト配置。
文字はヘブライ語。
番号がふってある)

隠蔽から現れ出る神の顕現

1 ケセル
神性の「最高の王冠」


2 ホクマー
原初の創造的意味での「神の知恵」
(読者視点でケセルの右下)

3 ビーナー
識別する理性


4 ヘセド
神の愛
またはゲドゥラー(偉大さ)、栄光

5 ゲブーラー(強さ)またはディーン(裁きの公正さ)
神の「権力」。
それは刑罰をあたえる権力と
裁く厳格さとして現れる


6 ラハミーム、調停する神の「慈悲」
またはティーフェレース(素晴らしさ、実際にはあらゆるものの調和)、
天の栄光、心臓

7 ネーツァハ、神の「恒常的存続」(持続力)

8 ホード 神の美しさと威厳

9 イェソード、神のあらゆる活動力と生殖力の基盤

10 マルクース、精神的な人間世界としての神の「王国」


(ユダヤ・カバラのゾーハルのセフィロトでは
イエソドは生殖器、つまり男性器と女性器。
クリスチャンまたは魔術カバラが月としているのと随分違う。
生命の樹ではない)


(連中が6好きな理由の一つが
ティファレトが6番目でキリスト中枢と呼ばれるからだろう。
ユダヤ・カバラにはもちろんキリスト中枢という概念はない)


p.18から

こんにちまでまだ完全なゾーハルのドイツ語訳はない。
遺憾ながら、本書の編者も全訳を刊行する機会に恵まれなかった。
作品を読み進めながら本文の相当量を訳出することで我慢したが、
そのさい たくまずしていろいろなテーマから選び出すこととなった。
(多くを訳しているが抄訳)

この巻にはモーセ五書につながる主要部分の本文が含まれている。
もちろん個々の個所を取り出したことによって、
ただ大まかにトーラー読誦の慣用の週間章節にしたがって
分けられているだけの、
それ以外はまったく区分されていないテクストが人為的にばらばらにされてしまったが、
それでも表題がつけられたことは多少とも
読者の参考になるかもしれない。

各部分において、右上に記してあるのはテクストが終始準拠している
モーセ五書の個所であり
(たまたまそういうモーセ五書の個所を含まない部分はそのかぎりではない)、
右下のはヴィルナ版
(セーフェル・ハ・ゾーハル、全三巻。
1882年)でゾーハル原文に付されている番号
(fol.は両ページにわたることを示す)である。

聖書の引用個所を訳すさいにはしばしばゾーハルの解釈にのっとってする必要が生じたが、
そのばあいには通常なされている訳を別途掲げた。

「聖なる者、あなたに誉れあれ」はなにかぎごちないので、
(ぎ「ご」ちない は原文ママ。「ご」も正しい)
同様の畏敬の念を抱いた気持ちに一致する言い方「至聖」に代えた。
聖四文字自体は「JHWH」というかたちで表した。
これは通常アドナイと読まれる。

序文終わり
ここから本文(の翻訳)

p.48の図
4のセフィロースについてはヘブライ語とその転写が一致していない。
ヘブライ語にしたがうなら、
Gedula(〔神の〕栄光、偉大さ)とすべき。
図の4のセフィロースにあるヘブライ語の下にある
アルファベット表記はChessed(ケセド)は
ダレス・サメク・ヘス
d・s・ch(〔神の〕慈悲、慈愛)と綴る。


(※メモ元ではヘブライ文字
4ケセドをゲドゥラーと呼ぶと
5ゲブラーGeburaと混同してしまうから
ケセドと呼ぶのだろう。
特に日本語話者はrとlを区別しないし。

この図ってゾーハル原典にあるの?
この図の径にあてはめられているヘブライ語アルファベットが
↓と同じ




p.52
「義人(ツァディーク)、世界の礎」(箴言10・25)

p.63
アガーダーまたはハッガーダーは
タルムードの説話、聖書釈義に類する部分で、
律法部分のハラハーに対するもの。

p.71
モーセはどうして石板を投げ落としてしまうことができたのか。
(十戒はモーセの十指説ではないのね)

右側に生命〔許可を指す〕
左側に死〔禁止を指す〕

右に向く賢者の心
左に向く愚者の心

(左は悪
右は善)


p.72から
全ての生き物にとってヨードは頭の原型で、
二つのヘーは五本指をそなえた左右の腕の原型、
ヴァーヴは胴体の原型である
〔神ヤハウェを表す聖四文字ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘー〕


海の水は海から生まれるかぎりは枠も形も持たない。
それが広がって、地球という容器に収容されたときに初めて、
イメージが成立し、推し量ることができる。
このように、まずその広さのままヨードの丸みをおびた容器にすっぽり
収められる源泉がある――この源泉が「一」である。
そしてそこからほとばしり出る泉が「二」である。
それらがあって初めてひとつの大きな容器が作られる。
いうなれば、大きな穴を掘ると、そこに泉の水がたまるようなものである。
この容器は「海」と呼ばれる。
これが「三つ目」である。
この大きな容器は七つに分かれ、
ちょうど延ばして広げた容器にたとえられる。
そして海の水が七つの川になって広がる。
これらで「一〇」である。
だが、親方が自分で作った容器をこなごなに壊してしまったら、
水は源泉に帰り、毀れた容器は水がなくなってひからびてしまうだろう。
このように、「原因のなかの原因」は一〇のセフィロースを生み出し、
「王冠」を源泉と名づけた。
そのなかでは流出と湧出は終わることがない。
それゆえかれは自らを「無限なる者」と呼んだ。
したがって、かれは像も形も持たない。
いかなる容器もかれをとらえられず、
かれについて何か知ることすらできない。

それからかれは小さな容器をひとつ作った。
それがヨードで、そこに水がたまる。
かれはそれをほとばしる泉にして「知恵」と呼び
そのなかの自分自身を「賢い者」といった。
次にかれは大きな容器を作り、
それを「海」と呼び、
そしてそれを「明識」と呼んで、
そのなかの自分自身を「明識なる者」、
かれの本質によって「賢い者」と呼んだ。

かれの本質によって「明識なる者」。
なぜなら「知恵」はそれ自身から「明識」と呼ばれるのではなく、
それをみたす「明識なる者」にちなんで
そのように呼ばれるからである。
なぜなら、もしかれが消え去ったら、
それはひからびてしまうだろうから。

「そしてかれはそれ〔川、ここではユーフラテス川〕を
打って七つの小川として」
(イザヤ書11・15)
――つまり、七つの貴重な容器にしたのである。
そしてそれらを、
偉大さ、
強さ、
栄光、
勝利、
美しさ、
礎、
王国と名づけた。

そして自分自身を「偉大さ」のなかでは
「偉大な」、

「強さ」のなかでは「強い」、
「栄光」のなかでは「栄えある」、
「勝利」のなかでは「無敵な」者といった。

「美しさ」のなかではかれは自分の名を「彫刻家の美しさ」と称したが、
「礎」のなかでは「義人」と呼んだ(箴言10・25参照)。

そして礎のなかではすべてが、すべての容器、
すべての世界がしっかりささえられている。

最後に
「王国」のなかでは
かれは自分の名を「王」と称し、
「偉大さ、強さ、栄光、勝利、美しさ」はかれのものである。


(木ではなく海水の流れで表現している。
新プラトン主義。
セフィロトが木のイメージになったのはいつからだろう)



容器を減らしたり、そのなかの泉を増やしたりするのも意のままである。
しかし、かれの上に増やしたり減らしたりできる神はいない。
それからかれは仕える存在をあれらの容器に造った。
すなわち、玉座をささえる四つの柱と玉座の六つの階段を。
これらで一〇である。
玉座全体は祝杯のようである。
それには一〇の言葉であたえられたトーラーのために
一〇の言葉が記されている。
なぜなら原始の創造物である世界も一〇の言葉で創られたからである
(父たちの箴言
〔ピルケー・アヴォース。
聖書学者やタナイートたちの箴言を集めたトラクト。
ミシュナーの口伝伝承〕
第五章参照)。

それからかれは玉座のためにそれに仕える天使集団(7)をもうけた。
天使、
アルエリム、
セラフィム、
獣、
オファニム、
ハシュマリム、
エリム、
エロヒーム、
エロヒームの息子たち、
個人。

そしてまたかれはサマエルとその一団全員をこれらの下僕にした――
彼らは地上へ降りるために乗って行く雲か馬のようである。
そして馬が乗馬といわれたことは次の言葉が証している。

「見よ、ヤハウェは脚早の雲に乗って、
エジプトに来られる」
(イザヤ書19・1)。
これはエジプトの支配体制である。
人びとはそれを至聖が乗りまわす馬のイメージで見たのだ。
そうすることでエジプトの偶像は揺らぎ、
エジプトの心臓は溶けてなくなったのである。

(ヤハウェの乗り物の一つが雲なのは雷神だからだろう)


(7)一〇の「位階」をなしている。
この位階はユダヤ文学のいろいろな個所でいろいろな名前やグループ別に異なった名前がつけられている。
ほかにもディオニシオス・アレオパギタ
〔紀元一世紀のアテネ最初の司教といわれる。
500年にあるシリアの作者が彼の名で一連の著作を著した。
『天の位階』、『教会の位階』、
『神の名』、『神秘神学』など〕
によってキリスト教に導入されたものがあり、
近年人智学でも使われている。

(天使の位階は二次創作。

ミュラーは神智学より人智学寄り。



p.77
至聖は世界を創造したとき、
世界を七つの柱の上に築いた。
しかし、これらの柱の礎はただ一つである。
このことは次の文に証明されている。

「知恵は一軒の家を建て、七つの柱の上にそれを置いた」
(箴言9・1)
しかし、これらの柱はただ一つの段の上にあります。
「義人は世界の礎」(箴言10・25)。

なぜなら、世界は、それが創られたとき、
世界の完成と幸福である、
そして世界の一点にしてすべてのものの中心であるあの場所から創造されたからです。
この場所とはどこか。シオンである。

シオンは世界全体を固める原点なのである。
ここから全世界は完成へと向かう。

(シオンが世界の中心説)


p.97から

〔イサクとリベカ、
ヤコブとラケル、
モーセとツィポラなどに見られるように、
井戸はしばしば出会いの場となる〕

イサクがアブラハムの死後キルヤト・アルバ
〔別名ヘブロン。
アブラハムはヘト(ヒッタイト)人からこの地を買い取り、
妻サラの墓地とした。
彼自身もイサクによってこの地に埋葬された〕
にいたことに注意せよ。

(アルバ)

「生きた魂(14)」

(14)
動物界にもあり、原人間が人間となって降りて行く
下の段階の魂。


p.99から

「その土台は何の上に沈められたか」
(ヨブ記38・6)。

至聖がこの言葉を言ったのは世界を七つの柱の上に置いたことにかんしてである。
「彼女(15)は七つの柱を切り出した」といわれているように。

(15)
すなわち第二のセフィラ―である「知恵」


だが、これらの柱が何の上に立っているかは知られぬままであった。
このことは深い、極秘の秘密だからである。
そして「定礎の石」と呼ばれる石が切り出されぬうちは、
世界は創造されなかった。
至聖はその石をとって、深淵へそれを投げ入れた。
その結果、石は上から下へ勢いよく入りこんだ。
そしてその石からかれは世界を建立した。
かれは世界の中心であり、
世界の真ん中に至聖は立っている。
つづいて「だれがその隅石を投げ入れたのか」といわれているように
(ヨブ記同所)。
それでなるほど
「試みを経た石、礎石としての尊い隅石」
(イザヤ書28・16)ともいわれているのだ。
そしてさらに
「大工たちが馬鹿にした石が隅石となった」
(詩篇118・22)
と。

この石は火と空気と水から造られ、
あらゆるもので固められている。
それによってそれは石となり、
深淵の上方にある。
この石は世界の中心に目印としてある。
そしてそれはヤコブが立てて置いた石でもある。

「ヤコブは石を持ってきて、
それを柱として立てた」
(創世記31・45)とか
さらに
「わたしが柱として据えたこの石を神の家とします」
(創世記28・22)といわれているように。
それにしてもヤコブは、
至聖が世界を創造した当初にすでに造られていたこの石を立てたのだろうか。
むしろヤコブはそれを上と下の基礎にしたのだ。
だから
「わたしはそれを柱(16)として据えた」のである。
なぜ「わたしはそれを据えた」のか。
それはこうもいわれているからである。
「それを神の家とします」、
上から下へ居を移した神の。

この石は七つの泉を持っている。
「ひとつの石には七つの泉がある」
(ゼカリヤ書3・9)といわれているように。
そしてなぜその石は
「シェティヤハ」
〔H・Y・T・Sh「飲むこと」の謂〕
といわれたのか。
ひとつには、その石によって世界が立てられたからである。

さらには、至聖がそれを据えたからである。
それによって世界が祝福されるように。

(16)
エルサレムの神殿(現在は回教寺院)の岩塊から
そそり立つ石の地理的祭祀的象徴。
アガーダーによれば、
ここでイサクの犠牲とヤコブの夢が起こった。
この石はのちに燔祭の祭壇の場所となるが、
そのまえにすでにダビデがここに祭壇を設けていた。
ここは「大地のへそ」とみなされており、
最初の創造物のひとつである。


(結社が好みそうな個所。
知恵をソフィアと言い換えれば
グノーシス主義者が大喜びだな。

ユダヤ・カバラも神聖な石が好きなのね。
石を土台とする七本の柱で
FGOの空想樹を想起。
石の上ではないけど。
樹は柱ともいえる。

FGOのシオンが通常では行けないところにいるのが意味深。

これに再掲するが
p.77
至聖は世界を創造したとき、
世界を七つの柱の上に築いた。
しかし、これらの柱の礎はただ一つである。
このことは次の文に証明されている。

「知恵は一軒の家を建て、七つの柱の上にそれを置いた」
(箴言9・1)
しかし、これらの柱はただ一つの段の上にあります。
「義人は世界の礎」(箴言10・25)。

なぜなら、世界は、それが創られたとき、
世界の完成と幸福である、
そして世界の一点にしてすべてのものの中心であるあの場所から創造されたからです。
この場所とはどこか。シオンである。

シオンは世界全体を固める原点なのである。
ここから全世界は完成へと向かう。

(シオンが世界の中心説)
をあわせると

世界の礎=シオン(という家)
=世界の中心
=七つの柱の土台

=定礎の石
(火と空気と水でできている。
世界の中心の目印)

=ヤコブの石(柱)
=神の家(ベチル)
=(おそらくモーセの十戒が記された)「石板」の素材
七つの柱を切り出した(作った)のが
第二のセフィラ―である「知恵」(コクマー)で
グノーシス的に言い換えるとソフィア。

しかもミュラーの注釈いわく
アガーダー(タルムード)では
この石の場所でイサクの犠牲とヤコブの夢が起こった。

しかものちに燔祭の祭壇の場所となる。
ダビデがここに祭壇を設けていた。
ヤコブの礎石(ベチル)=「大地のへそ」
=最初の創造物のひとつ。

p.348より
世界の柱である七番目の柱の上に
残りの六本の柱は乗っているとある。


ユダヤ・カバラでもベチルは超重要!

石屋の石はヤコブとスクーンの石!







日の沈んだ刻限に、
あの場所にあって「しるし」を居所にしていたあのケルビムたちが翼を広げて
羽ばたき、彼らの翼の調べが上の仲間たちの

至聖の賛美が下と上からあがる。
下の昼のイスラエルからも、
上の夜の天使たちからも。
こうして聖なる名が四方八方へ行きわたる。

そしてあの石、上のすべての天使と
下のイスラエルはそれによって強くなるのだが、
それは父たちのところで王冠を戴くために昼に上昇する。
しかし夜には至聖が義人たちとエデンの園で興ずるためにやってくる。

あの石は「良き石」である。
これが

「そしてあなたは、
そこに枠付けを施した宝石を嵌めこみ、
それらの宝石が四列になるようにしなさい」
(出エジプト記28・17)

という言葉の秘密の意味である。

これは「良き石」の配列、
「貴重な石」の仕上げなのである。
なぜならほかにも、
「わたしは石の心を取り除くだろう」
(エゼキエル書36・26)といわれる石があるからである。
そこにはまた
「そしてわが霊をおまえたちの内に授ける」。
だが、あの石については
「試みを経た石、礎石としての尊い隅石」
(イザヤ書28・16)
といわれている。
この石から切り出されている「石板」もこの秘密に従って命名されている。
「そしてそこからイスラエルの石なる牧夫が来る」
(創世記49・24)
というのも同じ意味でいわれている。


p.108から

神はノアに言った。
「わたしがわたしとあなたがたのあいだに置く契約のしるしがこれである。
わたしは雲のなかに虹を置いた」。

「また、彼らの頭上にある広がりの上側にはサファイア石のようにも見える玉座の形をした物がある」
(エゼキエル書1・26)。

虹〔T・Sh・Q ケシェト〕
弓〔T・Sh・Q ケシェト〕

ヨセフは義人だといわれ、
ヨセフの弓は義人においてなしとげられる虹の結びつきを表しています。

ノアは義人だったので彼の虹も永くつづきます。

「それ〔虹〕は神とすべての生き物とのあいだに立てられた契約のしるしとなるであろう」。

「そして彼らの頭上の広がりの上にはサファイア石のようなもの」。
これは全世界の中心をなす、至聖のおわす「礎石」です。


(他の個所もだがヘブライ語の個所は私がカタカナに直したりしている。

ユダヤ・カバラは契約の証の虹=弓と解釈している。

fate grand orderおもろセリフまとめ6 - knznymmmy code777
http://codetripleseven.blogspot.com/2017/01/fate-grand-order55.html
”リンク先で面白い指摘がある。
創世記9章でノアの洪水の後に
神が「契約の印」と称して虹について語る。
なぜ虹をかける事が契約の印かというと
ヘブライ語で考えると納得できる。
虹はヘブライ語で「ケシェト」
弓もヘブライ語で「ケシェト」
虹をかけるのは弓=武器を、置く=手放す事の象徴

よって「今後人類滅亡はしません」という誓いの象徴。
まあ、その誓いも新約聖書時代になると
あっさり忘れて「最後の審判ガー」「アルマゲドンガー」
という謎のヤクザビジネスが始まっちゃうんだけどな!”)


p.113から

ベヘマー〔けもの〕


「実を結ぶ果樹」という言い回しは一つ上の段階、
すなわち男と女を表している。
果樹が実を結ぶ木の本然的力を自身の内から生じさせるように、
生き物たちはあのケルビムと「柱」、
すなわち
供えられた香の煙となって立ち昇ってでき上がるあの柱から生まれ出る。
こうして彼らは人間のつとめによってしあわせに到達する。
栄養物にされる「草」はそれほど安定した身分ではない。
それについてはこのようにいわれている。

「とくと見よ、
ベヘモート
〔本来はベヘマーの複数形であるが
ヨブ記では他の野生動物を圧倒する怪獣として登場する〕
を、わたしがあなたと共に造ったもの、
家畜のように草を食むものを」
(ヨブ記40・15)

「果樹」と「実を生じさせる木」は男と女の形像をなし、
人間の顔をしている。
といっても、
あのケルビムのようではなく、
小さい子供の顔のようで、
そのなかにはすべての顔が含まれている。
そのなかへ神の名の刻印のようなものが世界の四つの方角、
東、西、北、南に向けて刻みつけられている。

男女〔同体〕の人間、この形姿だけが本来人と呼ばれる。
それが模しているのは数万の神の戦車。

(両性具有の人間こそが本来、つまり完全完璧な人間。
錬金術思想に影響された?
ユダヤ・カバラはユダヤ教の男尊女卑が弱くなっている)


無限(18)

(18)
ヘブライ語で「エン・ソーフ」、
セフィロースの上方にあると
おぼろに予感される原領域。

レーシート(はじめ)

『はじめ』(レーシート)でもって
〔レーシートの前にある(語頭)ベートは前置詞で
通常時間を表して はじめに の謂であるが
ベートはまた手段も表し、ここではその意味で使われている〕

創造する(バーラー)


〔ベレーシート はじめに
バーラー 創造した
エロヒーム 神は
エート 目的語を表す「……を」
ハ=シャーマイム 天
ヴェエート 「そして……を」
ハ=アーレツ 地
はじめに神は天と地を創造した
創世記1・1

はじめに神は天を
そして地を創造した〕


地は「むなしく漠(トーフー ボーフー)」としていた。

ルーアハ〔風〕

頭(30)

(30)
ヘブライ語では「始まり」の義。
この個所は贖罪の日の供犠と関係している
〔大祭司アロンは浄罪の供犠である生きた雄山羊の頭に両手を押しつけて
イスラエルの子らのすべての罪科を告白し、
それらを雄山羊の頭の上にのせて荒野に送り出す。
その雄山羊は彼らのすべての罪責を負って、
人里離れた土地に運ぶ。
それによって彼らのもろもろの穢れ、
罪が贖われるのである。
レビ記16・11-22参照。〕

〔大祭司が執り行う贖罪の日は
ユダヤ暦第七の月ティシュリの10日。
この月はユダヤ暦では1年の始まり、新年である。〕

(スケープゴート)

p.142の絵が本書の表紙の絵

セフィロースの系統樹。木版画。
パウルス・リキウス『光の門』
Portae Lucis, アウグスブルク 1516
――13世紀のカバリスト,ヨセフ・ギカティッラの
『シャアーレ・オーラー』(光の門)の最初のラテン語訳より

p.143から
「そしてわたし」は男性的なものと
女性的なものをかねそなえている。

(完全な神は父だけではなく母でもあるという思想)

p.153から
生の魂は三段階にまとめられています。
そのためそれには上の秘密にしたがって三つの名がそなわっています。
ネフェシュ〔生命〕、
ルーアハ〔精神〕、
ネシャーマー〔魂そのもの〕です。

ネフェシュは下の段階です。
ルーアハは魂を統治するもので、
すべてのものにしかるべくそなわっています。

ネシャーマーは高い段階、すべてのものを統治する――
神聖な、上の段階です。

(3)周知のアガーダーの教えでは、
アダムの寿命は930年。
もともとアダムの寿命とされた1000年から70年が
ダビデに贈られた。
彼はその年数しか生きられなかった。

ネフェシュという言葉は夜支配するあの種の魂を言うのだ。
ルーアハ(霊魂)は日中支配する。
両者を支配し、それらを包摂する
もうひとつさらに高い段階がネシャーマー(神の気息)といわれている。

(5)ルードルフ・シュタイナーも『神智学』で
三つの魂について語っている。
知覚の魂、
理性または感情の魂、
そして意識の魂である。
これらの区分はゾーハルのそれと、
完全にではないが、ほぼ一致する。
以下では、ヘブライ語の名称に近づけて
「原動魂」、「霊魂」(霊気とも)、「魂の気息」という用語を用いる。


p.184
十三歳
〔青年となる年。
当時は父祖アブラハムの息子イシュマエルのように、
この歳までに割礼が行なわれた〕


p.186から
シェト
〔アダムがエヴァとのあいだにもうけた、
アベル、カインに次ぐ第三子。ノアの先祖〕の誕生のときだけこういわれています。
「アダムは自分の姿に、
自分の像(かたち)に似た息子をもうけた」。
このことは、他の息子たちは彼の姿、彼の像になっていなかったことを示しています。

他の息子たちは蛇とそれに跨がるサマエルの毒に触れていたので
アダムの像になっていなかったのです。

「トバルカイン
〔カインの子孫レメクが
二人の妻のひとりツィラとのあいだにもうけた子〕
の妹はナアマ〔可愛らしい女の義〕といった」
(創世記4・22)と書かれていますが、
この名で何を教えようというのか。
人の息子たちが、
いやそれどころか霊やデーモンまでもが
彼女に誘惑されたということです。」

(カインの刻印には
トバルカイン(鍛冶の始祖)の意味も込められているだろう。
鍛冶、冶金をメイソンは特に重視。
化学であり科学だから。
ナアマの扱いを見るに
正統なユダヤ教ではカインもその末裔も悪だとみなす。

菜食のバラモンよりも
肉食のゾロアスターを選んだヤハウェ。

カインの刻印を崇めている派閥は
正統なユダヤ教の否定
+菜食派のカイン(バラモン的)の肯定だから
キリスト教の異端少数派や
メイソンなど新キリスト教あたりだろう。

カインの子孫のトバルカインの妹ナアマ(悪霊どもの母)に惚れたアザは
ソロモンに知恵を授けたといわれるしメイソンはカインが好きなのだろう。

悪魔たちの首長アザエルもナアマに惚れて交わり、魔術を教える。

カインの刻印を崇めている者の思想は正統なユダヤ教ではないし
ゾーハルのユダヤ・カバラというユダヤ教の解釈書でもカイン系は悪。



「神々の息子たちアザとアザエルは彼女に狂った」。

アザエル
〔旧約聖書偽典エチオピア語エノク書
(第三章、第一〇章など)に悪魔たちの首長として現れる。
本来は天使であるが、
地上でナアマと交わり、
彼女に魔術を教えて神に罰せられ、
荒野で岩に鎖でつながれた。
旧約ではレビ記第16章にのみ登場。

アザもアザエルの仲間でソロモンに知恵を授けたといわれる〕

トバルカインの妹ナアマ
=彼女は悪霊どもの母です。
なぜなら、彼女はカインの領域から生まれ、
リリトの仲間になって子らの悪習を助長したからです」。

リリト
〔ユダヤ民間信仰における女のデーモン。
血を吸う夜の魔女と考えられている。
タルムードの伝承によれば、
アダムの最初の妻とされる。
イザヤ書34・14参照〕

ラビ・アッバ
「悪霊どもは人と同じように死にます。
だとすれば、どうして彼女がこんにちまで生きられるでしょうか」。

ラビ・シモン
「たしかに、それもそうです。
リリトとナアマと、
彼女らの領域から出たマハラト
の娘イグラト――
彼女らだけは至聖が穢れの霊をこの世から追放するまで
生きつづけます。
このことについてはこういわれています。
「わたしは穢れた霊をこの世から取り除く」
(ゼカリヤ書13・2)」。

〔リリト、ナアマ、マハラト、イグラトの四人は
タルムードで悪の母として知られる四大悪霊たち〕

ナアマは悪霊どもの母。
(なんと悪霊は死ぬと断言)


p.202から

「ヨブは使いを送って……
全焼の供儀
〔オーラー。
語源はアーラー「上がる、昇る」。
家畜を焼き尽くし、その煙が空へ立ち昇るさまから。
すべてを焼き尽くすという点で、
神への全面的帰依を表す。
最も重視された供儀〕を献げた……」。

全焼の供儀は男性的な性質のものであり、
女性的ではない
〔犠牲の獣は雄に限られた〕。


p.224から
タルグム
〔律法、聖書のアラム語訳〕

レヴィラト婚姻の禁止は材料混合の禁止にたいする
ツィツィトの秘密と同じ秘密にある。
兄弟の妻は禁止されているが、
義姉妹〔自分の妻の姉妹のことであろう〕は許されている。

レヴィラト婚姻
〔義兄弟婚。
子のない未亡人は亡夫の子孫を残すため、
その兄弟と再婚せねばならぬことを律法は定めているが
(申命記25・5、
創世記38・8参照)、
のちに禁止された(レビ記18・16参照)〕

ツィツィト
〔祈祷の際に着用する祭服タリスの四隅を飾る房。
神とその律法の思い出のしるし〕


p.229から

忠実な牧夫は言った。
肝臓はエサウの段階に属している。
それは清い血であれ、
濁った血であれ、
すべての血を自分に集め、
善と悪とを分けていないエドムである。

エサウ
〔イスラエルの祖先イサクの双子の息子の一方、
ヤコブの兄。
弟ヤコブは兄エサウの「かかと」をつかんで生まれた。
これは「押しのけて奪う」意味であり、
その名のとおり、
ヤコブは兄と父を欺き、
兄にあたえられるはずの祝福を策略を用いて我が物とする。
そのため兄エサウは怒り、
命を狙われた弟ヤコブは逃亡する〕

エドム
〔死海からアカバ湾にいたる地域と
そこに住んでいた民族。
兄エサウの子孫。
弟ヤコブの子孫で形成されたイスラエルの支配下に置かれる〕



それに対し、
心臓はイスラエルである。
それは善と悪、
不純な血と清い血とを分け、
選別された純粋な血だけを吸収する。

ヤコブにあたる心臓がより高い血を選り分けたら、
肝臓はいつも屑のなかにある。

胆汁によって肝臓(29)の怒りが
呼び起されたので、
ラビたちは、
怒っている人たちのことを偶像崇拝者のようだと言った。

(29)
肝臓はオカルト伝承によればジュピターに属するものであり
偶像崇拝の在処である。

(肝臓かわいそう。
発達した医学はカバラの敵だな。
選別された純粋な血だけを吸収するなど選民思想がある。
遊牧民は結束の基盤に土地が使えないから
血縁を基盤にするための血統重視なのだろう)

p.232

「神の霊気(31)が水の面をつつんでいた」
(創世記1・2)

(31)
気息と霊の二重の意味は
とくにイェツィーラー書に現れる。


「賢者の心は右に、
愚者の心は左に」
(コーヘレト書10・2)

七二の顔
〔七二の神の名のことか〕


肺臓の白い胆汁(35)

火星のせいで赤い肝臓の赤い胆汁

同様に肝臓についていて、
死の天使の剣をつくっている緑の胆汁

土星(36)が支配する黒い胆汁

人のこれら四つの「殻」が消えると、
七二の顔を持つ「生命の木」が彼を支配するようになる。

(殻はクリフォト?
当時はクリフォトも木のイメージではないのでは?
生命の木と殻がセットで登場する個所が
クリフォトも木では?という発想を生んだのかも)

(35)
この四つの胆汁はヒポクラテス医学の、
四つの気質が依存する四大体液を思い出させる。

(36)
オカルト説によれば、
わけても四つの器官、
脾臓、肝臓、胆汁、肺臓
(ルードルフ・シュタイナーによればこれらはひとつの
「内的世界体系」に属している)は
土星、木星、火星、水星に相当する。

(シュタイナーがまた登場するが豆知識コーナーみたいな感じ)

p.260から 供儀の秘義

人がはじめに罪を犯し、
あとからその罪をつぐなうために供儀を献げるのは至聖の望むところではない。
むしろ罪なくして献げられるあの供儀こそ完全な供儀であり、
それゆえ「完成」とか不断の供儀とか呼ばれる。……

供儀の秘密とはあの聖なる動物の秘密のことである。
玉座にはそれによって聖なる王に基(もとい)と養分ができるように
四つの原像が彫りこまれている。
雄牛の顔、
鷲の顔、
獅子の顔、
そして人の顔である。
人の顔は全部を含んでいる。

玉座に彫りこまれている獅子――
供儀が遂行されたとき、
それは降りてゆき、
生贄を焼く火のなかへ入って、
そこで生け贄を賞味する。

玉座に彫りこまれている人間、彼は全体の根である。
彼はそこで霊と魂を犠牲として献げる。
すると上の人は下の者を享受し、
類が類を呼ぶように彼に近づき、
自分の仲間、自分の基を楽しむ。


((ケルビムの)獅子の部分が火の中の生贄を食べることが
供儀の秘義らしい。
天使がくべられている生贄を食べる。

生贄の肉体だけでなく
霊魂も生贄、捧げもの。
霊魂を奉げるのはケルビムの人間の部分。)


p.262から

下の深淵の真っ赤な火は絶えず新しい火炎を繰り出す。
炎も世界の裁きの座につく。
罪人を焼き尽くすために――
あの「火の河」(ダニエル書7・10)から流れ出す火でもって。
あの生き物の外見は完全に燃え上がる火で、
その立ち位置は上の世界と
下の世界のあいだである。
だが、生け贄を焼く煙が祭壇から立ち昇ると、
彼らは鎮まり、
破壊と殲滅につとめていた段階から上昇する。
しかし、あの強力な火の流れはそのあるべき場所へ戻る。
こうしてみんなは正しく天の王に向かって立ち昇る祭壇の煙の喜びを知り、
自らかれに近づくことができるのである。

もうひとつの煙が祭壇から一人ひとりが上へ向けた意志の向かう方へ、
つまり聖なる王の前へ昇っていく。
そのとき祭壇の上方に
獲物にかぶさる巨大な獅子を彷彿させるウリエルの姿が見られるという。
僧や民衆はそれを見て喜んだ。
それというのも、
彼らはこのしるしを見て生け贄が聖なる王に歓迎されたことをさとったからである。
だが同時に、
もうひとつの火が下の火を受け入れるために高みから下る。
それはあたかも人が震えおののきながら主人に近づき、
それからくるっと向きを変えて戻るような感じである。

これを お気に召す贈答品を送られた王にたとえてみよ。
彼は召使にこう言う。

「行って、わたしに献じられた贈り物を取ってきなさい」。

――このように大祭司と祭司と犠牲を献げる個々人とが
完全に一つになって正しく生け贄を献げることができたときには、
至る所に大きな喜びがあり、
神聖な香気がみちあふれる。

「ヤハウェから火が出て、
祭壇の上で全焼の供儀と脂肪を焼き尽くした」
(レビ記9・24)という文にも注意せよ。

生け贄の燃える炎のなかの火の幻となって献げ物を取りに祭壇まで降りていくのは
 かの人、犠牲の上に横たわる巨大な獅子として顕現したウリエルである。


しかし、イスラエルが自分はふさわしくないと思ったり、
生け贄を献げるひとが正しい手続きを踏まず、
生け贄が受け入れられなかったりすると、
煙はまっすぐ上へ昇らない――
北のくぼみから一陣の風が起こり、
祭壇の上を吹き抜ける。
それによって生け贄の願いが聞き届けられなかったことがわかる。
これを贈り物を献じられた王にたとえてみよ。
王はそれを自分には不足だと思った。
そこで言う。

「この贈り物を持ってゆき、
犬にやってしまえ。
こんなものはわたしに献げる値打ちはない」。

このように、受け取られなかった生け贄は犬にあたえられた。

それでこういわれているのである。

「ヤハウェから火が出て、
祭壇の上で全焼の供儀と脂肪を焼き尽くした」と。

火の炎となって祭壇の上へ生け贄にのしかかるようにして顕われたのはウリエルである。
至る所喜びにつつまれた。

「するとヤハウェの栄光が民全員に顕われた」
(レビ記9・23)といわれているように。

アロンの子らとの騒動
〔アロンの子らであるナダブとアビフは祭儀の規則にのっとらずに
ヤハウェに火を献げたためにヤハウェに焼き尽くされて死んだ〕がなかったら、
エジプト脱出の日々よりのち、
同じような喜びは見られなかっただろう――下でも上でも。

焼くのは煙を発生させる手段として必要。
煙は天に昇るから煙が儀式に採用される。

ヤハウェは火で裁く。

ケルビムの獅子の部分はウリエルらしい。


神道カルト(和風ヤソ)結社ゲームのサイレンでウリエルの火を放てる土偶が登場。
ケルビムの剣も登場。

カトリックでは認可されないウリエル。
つまりウリエル優遇は反カトリック的でもある。

ゾハルのユダヤ・カバラで明確に重視されている天使は
ケルビムとウリエル。

また日本語訳がない時代のユダヤ・カバラ文献が元ネタかもしれない設定が登場。
英訳やドイツ語訳は昔からあるけどね。
ゲームの設定を考える人が日本語以外のカバラ聖典を読むかどうかということ。
話を考えたと公表されている人がどの程度外国語ができるのか知りたい。
もし日本語以外はまともに外国語が読めないと公言しているなら
どうやってこれを知った?ということになる。
誰かに教えてもらったって?
誰に?

ミュラーのドイツ語抄訳を
石丸が日本語重訳した本書は
初版第1刷発行が
2012年7月10日。










p.265から

神の名の最後のヘー〔H〕
白い光であるヤハウェの三文字につながっている青黒い光なのです。
しかし、
この光はあるときはダーレト〔ヘブライ語の四番目の字母D〕で、
あるときはヘーで表される。


前者は、
イスラエルが下でそれと結合して
白い光でそれを発火させることをしないときである。
しかしながら、
ヘーはそれが目覚めて白い光と結びつくときである。

その証拠は次の文にある。
「ある娘が処女で……」
(申命記22・23)。
ここでは「ナアラー」(娘)〔R・A・N〕という語は
ヘーなしに書かれている。
〔R・A・N
 ナアル「少年、男児」の義で、
娘はH・R・A・Nと綴る〕

それは彼女がまだ男と結ばれていないからにほかならない
〔この例のように、
男性形にヘーをつけると女性形になる。
シン・ヨッド・アレフ「男」

ヘー・シン・ヨッド・アレフ「女」〕。

男と女の合一が行なわれなかったところには
ヘーは入る場所がなく、
そこから立ち去って、
ダーレトだけが残る。
白い光との合一が行なわれるや、
文字ヘーが有効になる。
それというのも、
そのときにはすべてがひとつに結ばれ、
白い光に密着するからである。
イスラエルもいっしょに結びつき、
その下に立ってそれに火をつける。
このようにすべてが一つになる。
これは、立ち昇って青い光を呼び覚ます生け贄の煙の秘密でもある――
呼び覚まされた青い光は白い光と結びついて、
炎が一致団結して燃え上がる。

下から接触してくるものをすべて焼き尽くすのが
この青い光のやり方
なので、
生け贄が喜ばれ、炎が結束して燃え上がるばあいについて
こう書かれている。

「ヤハウェの火が降(くだ)り、
全焼の供儀を焼き尽くした」
(列王記上18・38)。

これによって、火が一体となって燃えていることがわかる。
白い光と結びついた青い光は
その下で脂肪と生け贄のかけらをことごとく焼き尽くす。
それは青い光が立ち昇って、
そのすべてが白い光と結びついたときにのみできることである。
そのとき世界の平和が生まれ、
すべてが結びついて一つになる。

だが、この青い光がその下ですべてを焼き尽くしたとたん、
それに下から大祭司、レビ人、そしてイスラエルが歓び歌いながら、
ある者は心からの喜びにつつまれて、
ある者は祈りをささげつつ結びつく。
彼らの上では明りが燃え、
世界のすべての光が一つになり、
上も下もしあわせになる。

それでこのようにいわれている。

「そしてあなたたちはあなたたちの神ヤハウェに愛着し、
今日も全員そろって生きている」
(申命記4・4)。
そして(傍点)
あなたたちは、といわれているのはなぜか。

接続詞ヴァーヴ〔V,U= and〕が脂肪と生贄に結びつくと、
それらはぴったり結合して完全に焼き尽くされる。
それに対して「あなたたち」は、
あの焼き尽くす青黒い光に結びついていると、
滅びずに残り、
「今日も全員そろって生きている」。
(申命記4・4)

いったいに消耗性の青色以外はどんな色も夢のなかでは
好もしく見える。
(好もしという形容詞は実在する)
青色は死の木を意味する。
なぜなら、この木が下界にはびこると、
すべてのものがその下で朽ち果てることになるからである。

しかし、
ひとは言うかもしれない、
この色は空にもみなぎっており、
多くの生き物の群れが上で暮らし、
生きつづけているのではないかと。
だが、この上の生き物たちはみな青い光につつまれていることに注意せよ。
粗野な性質の下の生き物たちはそうではない。
なぜなら、下にはほかに破壊されないようなものは
ひとつもないからだ。
青い光はそれ自身の存在の基になっているすべてを焼き尽くすのである。

(神聖四文字の二つ目のヘー
=青黒い光。
あるときは青黒い光=ダーレト。
青い光は
下から接触してくるものをすべて焼き尽くす。

ヘー
=男性形に女性性を与え(男女の合一)女性形にする。
白い光と合一するとヘーが有効になる。

白い光
=ヤハウェの三文字
=ヨッド・ヘー(一番目)・ヴァーヴ。

神聖四文字
=青黒い光(JHW)
 +白い光(H。女性性を与える)

ヤハウェの両性具有性も意味する。

ヴァーヴは鉤や釘(供儀ではない)を意味する文字なので
鉤や釘を突き刺したら燃えるという話は出なかった)


p.315
トーラーは「生命の木」とも「義」とも呼ばれている。

ツェダーカー
〔「義」の謂であるが
とくに義務的な慈善をさす語として使用される〕

人の子らのなかで最も賢いソロモン王


p.323
「あなたの父と母を敬いなさい」と、
かしこ〔創世記1.14〕の
「天の蒼穹に輝くものがあれ……」。
「あなたの父と母」、これは太陽と月である。
太陽は至聖自身にほかならない。
「なぜなら、神ヤハウェは太陽にして楯だからである」
(詩篇84.12)

といわれているように、
そして月は「イスラエル共同体」にほかならない。
「あなたの月は陰ることがない」
(イザヤ書60.20)といわれているように。
こうしてすべてが一つになる。

(ユダヤ・カバラではヤハウェは雷雨神だけでなく
太陽神でもある。

赤盾系が好きそうな記述。
FGOマシュ(女版マタイ)の丸に十字の盾。
丸に十字はグノーシスであり太陽である。
マシュは右目隠し左目出し=月なので
マシュは明)


p.328から
世界は一〇の言葉で創造されました。
でも、よく見ると、
世界は三つのもので創造されました。
すなわち、
「知恵、分別、そして認識(20)」です。
世界はもっぱらイスラエルのためにのみ創造されました。

神が世界を存在させようとしたとき、
かれは知恵の秘密でアブラハムを、

区別する分別の秘密でイサクを、

認識の秘密でヤコブを創造しました。

「知恵によって家は建てられ、
分別によって家具調度が整えられ、
認識によって部屋はみたされる」
(箴言24・3-4)。

そしてヤコブから十二部族が生まれたとき、
世界が完成し、
上を手本にしてすべてが完成しました。

(20)
セフィロース体系における認識能力が三幅対
〔ホクマーChochma(知恵)
ビーナーBina(知性、分別)
Daat(認識)の三つであろう。
因みにこの三つを縮めたChabadという
カバラ―回帰運動が1800年以前ハシディズムのなかにあった〕。


(ゾーハルのユダヤ・カバラでは
コクマーがアブラハム、
ビナーがイサク、
ダートがヤコブに対応)


p.335から

(23)
ミシュナーはタルムード
〔ユダヤ教の発達史において聖書に次ぐ重要な文書で
ユダヤ古来の伝説、
いわゆる口伝を集大成したもの〕の教理的・規範的部分、
ゲマーラーはそれについての討議や自由な談論、説明を含む。


p.336から

創世記32・7

「彼もあなたに会いに来られます」。
彼ひとりで来たと思われないように、
「四〇〇人が彼といっしょです」といわれている。
だが、これはみなどういう意味でいわれているのか。
至聖はつねに義人の祈りを喜びとし、
それで身を飾るからである。
イスラエルの祈りの上に置かれている。

ザンダルフォンと呼ばれるあの天使はその祈りをすべて受け取って、
それで永遠の生のための冠をこしらえる、といわれているように。
至聖が喜んだあの祈りがあって初めて――
それで至聖を讃えるための冠が作られるのである。

ザンダルフォン
(24)
最高の天使であるメータトローンに次ぐ天使で、
その名(ギリシャの語のアデルフォス)は
友愛を指しているといわれる。


p.342から

「あなたたちは血のついたまま食べてはならない。
あなたたちは蛇の術や罪深い魔法を行なってはならない」
(レビ記19.26)。

まえもって祈祷をせずに血の付いた食べ物を摂取する者は
蛇術師や魔術師の類いとみなさざるをえないという点にひそかなつながりがある。

夜、魂は上の栄光の秘密が明らかにされるかぎり、
それを観ようとして、てんでに昇っていく。
そのとき人は身体が維持されているように、
彼の血のなかに広がっているあの力の領域にとどまっている。
それによって彼は死の味を味わうことになる。
あの力はより高位の魂の力のなかで目覚め、
それを摂取することを予期していないからである。
そのあと人が目覚めたとき、
彼の身体は不浄で、水で浄めねばならない。
なぜなら、魂の去った場所を統治しているのは「反対側」であると
教えられているからである。

たとえ人がトーラーに励んでも、
その場所を統治できるのはあの「ネシャーマー」〔聖なる霊魂〕ではなく、
「ネフェシュ」〔生命〕と呼ばれる血の力、
つねに血といっしょに広がる力だけである。
人が礼拝の祈りを果たしたときだけ、血の力は鎮まる。
そしてネシャーマーの優勢になり、
あの場所に広がって平らかにする。
人は主の前で本当の調和に達する。
ネフェシュは下に自分の場所があり、
ネシャーマーは上の自分自身の在所にいる。
こうして人は食事のまえにお祈りをすれば、
行い正しく、
彼の魂はそれ自身の場所へ昇っていく。
しかし、人がお祈りをせずに食事をすると、
彼の道は聖性の領域を弱めるために「反対側」へ向かう魔術師の道にひとしいとみなされる。
それにしても、「反対側」のために尽くす人が「蛇使い」といわれるのはどうしてか。

彼の労力が蛇の力を強めることを狙いとしているからである。
したがって、彼はほかの神々に仕える者のようである。
彼は血の力に仕えるのであって、
聖性の領域を高めるために至聖に仕えるのではない。
そして彼は「罪作り」とも呼ばれる。

彼の骨折りは罪のなかで行なわれ、
称賛に値する行いのなかでなされるのではないからである。

だがそれに対して、
あなたがこの語の真ん中にあるヌーンの文字を指摘するなら、それは正しい。
なぜなら「反対側」にも、
もしそれに、一本の細い糸のように聖性の側から多少とも混ぜ入れていなかったら、
力は存在しえないからである。

”嘘を成り立たせようと思ったら、
そこに真実のひと言を混ぜこまなくてはならない。”
『ゾーハル』p.343

こうして罪という言葉にもヌーンが混ぜ入れてあるのである。
〔真実という単語に含まれるヌーンか〕

(モーセがエジプトに使った魔術のように
ヤハウェ由来なら魔術師にしか見えなくても魔術ではない。
キリスト教も同様。
ご都合主義。

ユダヤ・カバラでは
「反対側」は左と同じく悪。

”嘘を成り立たせようと思ったら、
そこに真実のひと言を混ぜこまなくてはならない。”
はゾーハルで一番の名言。
悪が成り立つためには善要素がわずかでも必要ということを言うための文脈。


p.345から
「長引いた期待は心の病。
だが、かなう願いは生命の木」
(箴言13.12)。

わたしたちが学んだのはこうである。
人は至聖にたいする願いがかなうかかなわないか考えてはならない。
なぜか。
そうすると大勢の裁きの軍団が彼の行いを見にやってくるからである。
これが願いを考えることが心の病を引き起こす秘密である。
それにしても、「心の病」とはなんのことか。
いつも人の上に立って、
上でも下でも人に障害をもたらすあの〔生き物〕である。
「かなう願いは生命の木」。

わたしたちも学んだように、
至聖が祈りを聞き届けてくれることを願う者はトーラーに励むがよい、
トーラーは生命の木なのだから。
「かなう願い」もそうである。

別の解釈。
もうひとつ別の解釈。
(これら二つ目と三つ目の解釈のメモは省略。
複数の解釈を併記する解釈書がゾーハル。


生命の木への言及があってもセフィラと一緒には出ないことがあることが重要。


p.348
より

世界はただひとりのツァッディークの上に成り立っています。
「義人は世界の礎である」(箴言1.25)といわれているように。
彼の上に世界は基を置き、
世界はその上にささえられ、立てられているのです。

世界は七つの柱にささえられている。

「彼女は七つの柱を切り出した」(箴言9.1)。

それは本当にそうですが、
でも、ほかの柱はみな世界の柱である七番目の柱の上にのっているのです。
世界を潤し、実り豊かにするのはそれです。
それからすべてのものの養分が出るのです。

「一つの川がエデンから流れ出し、
園を潤していた」
(創世記2.10)と書かれている。
これは世界をささえている柱です。
園はそれによって潤され、
それによって実りを生み出します。
それらの実りはすべて世界に広がり、
これらが世界の存在、すなわちトーラーの存在を作りあげます。
これらは何物でしょうか。
義人の魂です。
なぜなら、それらは
至聖の業の結実(全て傍点)
だからです。

(義人(ツァッディーク)
=世界の礎

世界の柱である七番目の柱の上に
残りの六本の柱は乗っているとある。

義人の上に一本柱、
その一本柱の上に六本柱があるのだろう。

世界を支える柱=エデンから流れ出ている一つの川。
一つのとあるから六本柱を支える柱だろう。
え、世界を支える柱って液体なの?
単なる比喩だよね?
箱みたいなもので中身が水?)


p.352から

法を一方に偏らせずに、
釣り合いを保ち、人びとが法〔の効力〕を受けられるようにしなければならない。
そうすればだれしも自分の行いによって裁かれよう。

ミシュナーの教師たちはこう教えている。
義人を裁くのは善の衝動、
悪人を裁くのは悪の衝動、
中間の人を裁くのは両方であると。

生命の木から出た者はまったく裁きを知らない。
彼は悪の衝動を持たない。
「よいものを持っている義人」といわれている完全な「ツァッディーク」である。
だが、よいものといえばトーラーをおいてほかにない。

悪いものを持ってい義人は善悪の認識の木の側から来たものである。
彼に悪いもの、つまり悪の衝動がついているのなら、
どうして彼は義人といわれるのか。
それは善が彼を支配し、
悪はその力に抑えられているからである。

悪人が善を足蹴にしているからといって彼を罰してはならない。
なぜなら、彼だって悔い改めるかもしれないし、
自分の衝動を抑えるかもしれないからである。

完璧な義人たちのもとには「部外者」はいないし、悪の衝動はない。
完璧な悪人のもとにはシェキーナーの分け前はない。
なぜなら、人は善の側からしかシェキーナーの分け前に与れないからである。
それでも、シェキーナーのすべての部分が同じ重さではない。
なぜなら、シェキーナーは善悪の木から出たものであるかぎり、
柱の
台座(ペデスタル)をなしているからである。
しかし、生命の木から出たシェキーナー、
彼女について「悪はあなたに宿らない」(詩篇5.5)といわれている。
彼女については「かれの王国(28)はすべてを統治する」(詩篇103.19)ともいわれている。

それゆえ、彼女の場所に汚点をつける者は
天の女主人を侮辱するようなものである。
彼女の場所を汚すということは王の妃を凌辱することを意味する。

(28)
一〇番目のセフィラ―であるマルクース(「王国」)はシェキーナーと同一である。
(これはミュラーの注釈だから注意。

生命の木と王国が登場するから生命の木とセフィラがセットで出たと言える。
ゾーハルでは生命の木とセフィラがセットで出る箇所あり。
ただしセフィラという単語ではなくあくまで「王国」)


p.364から
雌鹿
(34)
メスの鹿はシェキーナーの象徴的名称


p.387
「あなたの神ヤハウェは焼き尽くす火だからです」
(申命記4.24)。

火を焼き尽くす火がある。

聖なる合一の知恵を識ろうとするひとは
炭あるいは燃える火から上がる炎を見てください。
この炎が上がるのはそれがほかの粗い素材と結びついたときです。

立ち昇る炎には二種類の光があります。
ひとつは白く輝く光で、
もうひとつはそれと結びついている黒ないしは青い光です。
前者が後者をおおっています。
白い光はまっすぐ立ち昇り、
青ないし黒い光のほうはその下にとどまっています。
それは白い光の玉座をなしているからです。
その上に白い光が座し、
そのようにしてそれらは一つになり、
黒い光は玉座として白い光の栄光をささえています。

この点に「テヘレート(41)」の秘密の意味があります。
つまり青い光は〔全体の〕支えとして、
白い光と結びつくことができるようになるには、
ほかの、それ自体死んでいるものを必要とするのです。


(41)
青、古代ユダヤの祭祀でしばしば用いられた色。
精神面での白い光と
物質面での死んだ黒い素材との
あいだを完全に結びつけるものである。

(ヤハウェは火で裁くことが強調されている。
焼く形式の生贄が好きなユダヤ教)


また両種の光は次の点によっても異なります。
下側の光は時とともに変わり、
あるときは青く、
あるときは黒くなり、
それからまた赤(42)に戻ったりしますが、
白い光はけっして変わらず、一定です。

青い光は両方へ結びつきます。
上へは白い光と、
下へはその下にあるあの、青い光がそれによって初めて
光ることができるものと結びつきます。
青い光はそれと結びつくことによって、
青い光の下にあるものも燃やし尽くします。

白い光が結びついているもの、
白い光が座しているもの、
すなわち青い光はそれを燃やし尽くします。
燃やし尽くすことがそれの性分だからです。

このように、すべてのものを食らい尽くすこと、
つまりすべてのものの死は、それにかかっています。
青い光は下からつきしたがういっさいのものを燃やし尽くします。
しかし、それをおおっているあの白い光はけっして焼き尽くしたり、
滅ぼしたりせず、それ自体いつまでも変わりません。
それでモーセは言います、

「あなたの神ヤハウェは焼き尽くす火である」と。
これは文字通りまったくそうです。
それはその下にあるものを燃やし尽くします。
それで「あなたの神」ともいわれているのです。
「わたしたちの神」ではなくて。
モーセは焼き尽くしたり滅ぼしたりしないあの白い光の一員だからです。

でも、いいですか、
青い光が白い一人と一つになる(43)のを呼び覚ますには、
下からそれにつきしたがうイスラエルによるしかありません。
そしてさらに、もっぱら下からつきしたがうものを焼き尽くすのが
あの黒い光の流儀であるにもかかわらず、
イスラエルはそれにもつきしたがい、なお生きつづけています。

ですから、あなたたちの神ヤハウェにつきしたがったあなたたちは生きている、と
はっきりいわれているのです――
「あなたたちの神に」であって、
「わたしたちの神に」ではありません。
つまり、もっぱら下からそれにつきしたがうものを焼き尽くすあの黒い光に
あなたたちは結びつきながら、
それでもなお生きているのです。
それで「あなたたちは全員そろって今日も生きている」といわれているのです。

白い光もさらにそれをつつむある隠れたものに支配されています。
これはより高度な秘密です。
でもすべてのものは燃え上がる炎につつまれていることがわかるでしょう。
高いところの知恵がそのなかにあります。

(42)
赤色は最も根源的な色で、
光とは反対の「黒い炎」から直接発生する。

(43)
おそらく、「下の火」がそれ自身の燃料を焼き尽くさないということを
前提にした不断の合一のことであろう。

(モーセは白い光でできているの?比喩?

焼き尽くす火が黒いってナルトの天照の元ネタ?)


「天が下のすべての事には期間があり、
すべての意志には時(エト)がある」
(コーヘレト書3・1)。

至聖は下でなした事すべてに時と一定のテンポを定めた。
光と闇に時間を、いま世界を支配している他民族の光に時間を、
そしてもろもろの民族の支配下におけるイスラエルの追放という闇に時間を。
至聖はすべてに時を定めた。

「行なう時です、ヤハウェのために――
彼らはあなたの律法を破ったのです
(詩篇119・126)。

「時」はイスラエル共同体を意味しています。

トーラーに精励する者はあたかも至聖に結びつけんがために
あの「時間」に従事するかのようだからです。
これはみななぜするのか。
「彼らがあなたの律法を破ったからです」
(詩篇119・126)。

彼らがもしあなたの教えに背かなかったら、
至聖はけっしてイスラエルから離れなかったでしょう。

「わたし、ヤハウェが、その時になれば、すみやかにそれをする」
(イザヤ書60・22)という言葉も同じ意味で理解できます。
「その時になれば」という言葉は何を意味するのか。
H〔ヤハウェのことか。
タルムードでは通常聖四文字は
H(ヘー)で略記される〕の時になれば、ということです。

(東京グールのエトの名前の由来?
時計が大量にある場面がある。
思想はヤハウェを巨大な力を持った子供(善ではない劣悪神)と考えるグノーシス主義。
結社作品では時間系は最強クラスであることが多い)



ミュラー『ゾーハルとその教義』抄

p.404
南フランスにおける、
原初の神性を人間界と結びつける四つの世界と
一〇の圏域にかんする教義
(アブラハム・ベン・ダヴィドと
その息子の盲人イサアク、『バーヒール』書を生んだサークル)



p.426から
木全体の心臓部をなす「ティーフェレース」

生殖力を持つ根源イェソード

短い顔の人(セイール・アフィーン)

長い顔の人(アーラク・アフィーン)


「ツァッディークは世界の基(「イェソード」)である」
(箴言10.25)


天上の人間の原型、アダム・カドモン
〔太古の人間の謂。原人間〕と、
最初の人間アダム、アダム・ハ=リション。

神秘的・超時間的な考え方では
原人間はより高い領域から下りてくるが
同様に人類の父祖であるアダムも現し身として大地を踏むまえは
エデンの永遠の泉に潤されているあの天の「園」に住んでいる。

ゾーハルは個々の人間にたいしても
その魂が地上に生まれるまえは天上に先在していたことを説いている。

セフィロースの木の世界有機体そのものは
人間の精神的な原初の形態。
個々のセフィロースに人体の主な領域が割り当てられ、
(たとえば
知恵には額が
中間の三つ組には両腕と心臓部が)
それに抜きん出るものは組織全体を超えて高められた王冠の原理しかない。

精神的人間は反対原理マルクースによって
さながら足で立つように地上界に結びつけられている。
「人間の姿はそのなかに」
ゾーハルの言によれば
「天と地上にあるものを、
上の生き物も下の生き物もすべて含んでいる」。
それにも
「神の名が刻まれている」。

ゾーハルも時に身体をまさに魂の印字だという。

小宇宙と大宇宙の形状の一致

園(ガン)は
カバラ―の解釈によれば
肉体と魂にほかならず、
しかも一体。
〔両語の頭文字をくっつけるとガンになる〕

ほとんどすべての神智学的教義におけるように
魂はネシャーマーにさらに
ルーアハと
ネフェシュが結びついている三部構成でえがかれる。
聖書で用いられるこれら三つの名称は、
上の世界や下の世界との関係における魂の三つの段階を指している。

ネフェシュは人の感情と欲動の生活全体、
外的に人を感覚世界と結びつけ、
内的に人が動物界と共有しているすべてのものの器官をなしている。

翻って、ネシャーマーは人の精神性の担い手、
天との関係をつなぐ架け橋、
いわば人の神出自そのものを表す器官である。
(神出自は原文ママ。
人の神性の出自や人の神聖の間違い?)

両者をつなぐ要素としてあるのがルーアハ、
それ自身のなかで回っている人間の内面生活の器官、
普遍的な精神生活の息吹(その名もこれから来ている)の
切り離された一部にすぎない個人的な魂の息吹、
知的思考と情緒的感情の担い手である。

しかし実際にはこれら三部分は本来魂の「構成部分」ではない。
それらの本質は分けられない一つであり、
それらのはたらきはたがいに混ざり合って同一になっている。


オーメル
(言葉。レシュ、メム、アレフRMO)は
三つのより高い自然元素

(エーシュ。Sh、e)

水(マイム。MYM)
空気(ルーアハ。Ch(ア)UR)が一つに結合して現れた。
(頭文字を組み合わせれば言葉になる)

(メモ元ではヘブライ文字だが
私がカタカナにしたりアルファベット変換したりしているが
正式な変換と同じか不明)

「上にあるものは下にもあり、
下にある者は上にもある」。
(者はものの間違いだろう)
ゾーハルのきわめて意味深い言葉のひとつは
こううたっている。
ちなみにこの言葉の響きには古代エジプトを思わせるものがある。
両世界の一方で起きることは
――この考えはこう続く――
もう一方の相応の場所で起きた出来事として現れているのである。
(ヘルメス主義)

p.443から
アダム・ハ=リションは地上の
アダム・カドモンは天上の原人間。
いずれも最初の人間。
フィロは二重の人間の創造を説いた。
ひとつは天地創造に先立つ精神的人間、
もうひとつは大地の塵で造られた人間である。
カバラ―ではアダム・カドモンは神の第二原理(「短い顔の人」)として
したがってまた具象的にその「身+区マイナスメ+品」(要は体)の器官として描かれた
10のセフィロートの総体として現れる。

エノク
アダムの子カインの息子

(だから新ヤソ優遇されるのか。カインの刻印がありそう。
ユダヤカバラではカインの子孫は悪なる者と扱っているがエノクも悪扱いか不明)

父祖たち
(アブラハム、
アブラハムの子イサク、
イサクの子ヤコブの三人。
アブラハム、イサク、ヤコブ)


ベテルのヤコブに、
聖書ではただ「男」とだけ呼ばれるあの生き物との格闘
〔ヤコブは長子権を奪われて憤る兄エサウの殺意を逃れて旅する途中、
夢のなかで天と地を結ぶ梯子を神の使いたちが上り下りしているのを見て、
その場所をベテル「神の家」と名づけた。
創世記28・10以下


「男」とは天使で
戦いに勝ったヤコブはイスラエルの名を授かる。
創世記32・23以下〕


カイン
アダムとエヴァの子、アベルの兄

テラ
アブラハムの父

ロト
アブラハムの甥

ラバン
リベカの兄、
イサクの義兄、
レアとラケルの父

エサウ
ヤコブの双子の兄

カナン
ノアの子ハムの息子

はさまざまな段階で「反対側」の原理に、

サラ
アブラハムの妻

リベカ
イサクの妻

ラケル
姉レアとともにヤコブの妻

レア

はある種の女性的な根源的力に相当する。

ヨセフ
イスラエル十二部族の祖


ヘブロン
ダビデの統治した南王国の首都。

ダビデはアガーダーの解釈によれば
アダムから1000年分の寿命を分けてもらったのである。

エルサレム
南北両王国を統一したダビデはここに首都を置き
ダビデの町といわれる。

シェロモー(ソロモン)

タルムードの見解によれば
トーラーは原型として世界の創造に先立つものなのだ。


元旦と贖罪の日
ユダヤ暦では太陽暦の九月、十月にあたるティシュリの月が正月。
元日から十日目が贖罪の日。
元日の祈年祭りと贖罪の日は神を畏れる日として祝祭日のなかで最も重視される。


ゴールース
〔ガールースの俗称。
魂の追放ギルグールに対して肉体の追放を指す。
ユダヤ人がイスラエル外の諸国に滞在することであり、
その歴史は聖書時代に始まり、
第二神殿の破壊からイスラエル国家建設までのユダヤ史に相当する〕


10番目の領域
〔神の王国マルクース、
シェキーナーとも呼ばれる。
ゾーハルではイスラエル共同体の神秘的な原像〕

p.456から
メシアの到来 ※21 についてはそれとなく示唆されるだけである。
そこからメシアが来ることになっている天の領域は鳥の巣と呼ばれ
メシアがこの世に現れる場所としてガリレアが名指される。
時どきタルムードの
二重メシア観
〔まずヨセフ家のメシアが現れ、
離散したイスラエルの子らを呼び集めて
敵を一掃したエルサレムに破壊された神殿を建設するが、
そのあと神に抵抗する勢力との最終決戦に敗れて死ぬ。
そののちダビデ家のメシアが現れ、
悪魔の勢力に最終的に勝利して平和が訪れるというもの〕に
話が結びつけられ、
最終的な平和の国の樹立に先立つ巨大な、
イスラエルの存在を脅かす戦争について語られる。

※21
メシアの到来、神人のこの世における実現は完全に世の終わりに設定されており、
その点にカバラ―の教義とキリスト教の教義との原則的な相違のひとつがあるといえよう。

ゾーハルにもタルムードの解釈方法の四区分が繰り返される。
ペシャートは忠実に語義に基づく方法

レメズは型にはまった解釈

デルーシュは寓意的

ソードは秘教的 を意味する。
これら四語の頭文字を取ればパルデス(果樹園)という名称ができる。
これは深い完全な理解の楽園(パラダイス)を表し、
アガーダーの伝説によれば、
共に励む四人のタルムード学者のうち
ラビ・アキバだけが身も心も損なわれずにそのなかに出入りすることができ、
ほかの三人は危険だらけの道で破滅した。

〔タルムードの内容は
律法にかかわるハラハーと
教えや訓戒、思索・瞑想に類する実際的な部分アガーダーの二つに分かれる〕
ゾーハルはタルムードのハラハー的要素から別れると同時に
アガーダー的要素と密接に結び付く。

ミシュナー教師(タナイートたち)
〔ミシュナーは聖書とは別に
古来ユダヤ人社会に伝わる口伝(慣習律とか訓戒、昔話など〕を集大成したもの、
全六巻。タナイートはそれを教授する人〕

「聖なる獅子」ラビ・イサアク・ルーリア

メモ以上。





参考資料(ユダヤ・カバラ編)




ぐだトマト@pteras14
2017年5月14日

「エドムの王」ってのはね、モーセや
ダビデ達がイスラエルを建国する前に
あの辺りを陣取ってた現地人の王様
達の総称なんだけど、カバラ上は
「根源悪」。で、セフィロトの玉と
同じ数あるの。


で、ヤハウェ君(神の事)が天地創造
するにあたりこの「エドムの王」達を
まず惨殺するとこからスタートする。
つまり「悪のセフィロト」の玉を
全部粉砕するんだ。

そして「天地」は悪の死骸の上に
初めて打ち建てられる。

#FGO
#FateGO

2016年7月29日
この庵野の「スクラップ&ビルド」論、
コレ、ユダヤカバラから来てる。

ユダヤカバラの創造論では神が
創造を行う前に必ず既存の物
(7人のエドムの王)をぶっ壊して
からじゃないと出来ないという
理論がある。

これも元ネタはアーリアの
創造、維持、破壊サイクル論ね。






現在のヤハウェが創造した世界の
前の世界は「イスラエルの王が支配する前にエドムを支配していた王達(エドムの王)」と呼ばれる。
当然、ヤハウェは完全に善なので
前の世界を破壊するのは善。
つまり前の世界は悪とされる。
善なる世界の創造のために(前に)
悪なる世界を破壊する思想。
まず破壊してから理想郷創造。



旧約聖書~士師記より~@BibleJP_Jud
5月31日
そしてイスラエルは使者をエドムの王につかわして
「どうぞ、われわれにあなたの国を通らせてください」と言わせましたが、エドムの王は聞きいれませんでした。
(士師記 11章 17節)


↓を読むと本書は全訳でないとよくわかる。


カバラの三大経典
https://phenix2772.exblog.jp/9906402/
"『 創造の書 』 
「形成の書」セフェル・イエツィラー(Sepher Yetzirah、"Book of Formation)ともいう。
 カバラにおいて最も重要な書が「ゾハール」とこの「創造の書」である。
この「創造の書」の成立は2~6世紀頃と思われる。G・ショーレムは3世紀頃に成立したのではないかと考えている。現存する最古の写本はカイロのシナゴーグから発見された11世紀頃のものである。 

学者によっては、8~9世紀、あるいは9~10世紀頃と考える者もいた。それによると、ヘブライ語言語学の創始者で、アラビヤ語で「創造の書」の注釈を書いたサアディア・ガオンこそが「創造の書」の著者ではないかという説もある。が、これには証拠は無い。

ともあれ、タルムートにも「創造の書」の記述があることからも、この書の歴史は、思いのほか非常に古いと考えられる。「創造の書」には複数種のテキストがあり、それを集めた本もあるほどである。だが、一般的に短い本文だけの版、長文の版、サディア版などのテキストが知られている。

また、訳者や注釈者によっても、その意訳は大きく変わり、研究者は複数のバージョンを調査する。なお、短文版は全文が邦訳されており、下記の参考文献で読むことができる。

カバラは、初期においては神学的な思索に偏りがちだった。
しかし、この「創造の書」は神学的な考察よりも、一種の宇宙論の立場からカバラを論じているのが大きな特徴であろう。ここにおいて、宇宙の始まり、創造と宇宙を形作る要素の働きについて解説される。

それは非常に理論的かつ体系的であり、カバラを大きく発展させた。
13世紀に入って、この宇宙論と神学的考察が、完全な形で融合を遂げ、我々の知っているカバラが生まれるのであるが、その土台となるべき書であった。

「創造の書」の著者は、言葉と言葉によって表現される事物は、がっちりと結びつき、1つの統一体を作っているという。そして、言葉は「文字」という一種の「元素」から作られている。これはとりもなおさず、22のヘブライ文字は、「言葉で表現される事物」の元素であることをも意味している。カバリストが文字の研究を重視する理由がここにあるのである。

「セフィロト」という言葉を最初に用いたのは、この「創造の書」である。「そこには無形の十のセフィロトおよび基礎となる22の文字がある。」このセフィロトの語源は、ヘブライ語の「セフィラ」から来る。その意味は「範疇」である。我々はセフィラを「球」と訳したくもなるが、これは「ゾハール」以降の「樹」における考え方からくる。

カバラの歴史において「セフィロト」の概念は、形を変えて進化する。少なくとも「創造の書」が書かれた当時、我々の知っているような「生命の樹」のような高度な体系化は、まだ成されていなかった。しかしながら、ずっと後世のカバリスト達は、「樹」を説明するために、この「創造の書」の記述を利用した。このことには、特に矛盾は無い。「生命の樹」は、もともと「創造の書」の思想に従った図式であり、完全に一致する概念なのだから。

「創造の書」には宇宙創造の思想が含まれる。これによると、宇宙の構成要素は3つあり、それは「世界」と「時間」と「人間」である。創造のごく初期には、これが潜在的に存在している状態にあり、これは「原始物質」である。宇宙の創造、これは虚無からの創造であり、二重創造の思想である。一つは「理想的な世界」として創造され、次に「現実的な創造」が成されたという思想である。

宇宙は確かに神からの流出によって創造された。しかし、先の3つの宇宙の構成要素、「原始物質」から現実的な世界が創造される前に、実在しない理想的な世界がプロトタイプとして作られた。まず空間が形成され、そこは3次元の世界である。要素として先の3つの「原始物質」がある。それが鏡に写されて合計して6つの象となり、そこから世界が創造されると考えた。

セフィロトは合計して10あるわけだが、最初の4つのセフィロトは創造する力であり、神の内部からの流出ではない。これはエゼキエル書の「4つの生き物」とも照応されるが、世界を創造するための4つのエレメンツを表現している。しかし、「創造の書」の段階では、この4つのエレメンツは錬金術的なそれではなく、「生きた神の霊」、「全宇宙にあまねく存在する空間に充満した精霊、エーテル」、「水」、「火」を意味している。

この10のセフィロトは非現実的な存在である。これが現実の存在物となるためには、先の鏡像を結びつける神秘的ナ数値が必用である。それは「1」である。セフィロトの2から10までの数値は、いずれも「1」から生み出されたものである。

「1」は生きている神の息であり、ここから「精霊のなかの精霊」であり「声」である「2」が生まれ、これは自然界のエーテルであり、そこから水(海)と土(大地)が生じ、「3」と「4」が生じる……
かくして「1」という数値は、「神」と同一である。こうして10のセフィロトが結合されると、そこに「神」の霊が存在すると考えられた。

この思想を後世のカバリスト達が深く考察し、図式化して行った結果、「生命の樹」の思想が形成されてゆくことになるのである。また「創造の書」は、ユダヤ歴についても触れられており、さらには7つの惑星についても触れられている。早くもこの書の頃から、一種の占星術的なシンボルがカバラに用いられていたことも分るであろう。


「カバラ Q&A」 エーリッヒ・ビショップ 三交社
「カバラ」 箱崎総一 青土社 (「創造の書」の邦訳あり)
「ユダヤの秘儀」 ベン・シモン・ハレヴィ 平凡社
「ユダヤ教神秘主義」 G・ショーレム 法政大学出版局

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『 ゾーハル 』
「光輝の書」セフェル・ハ・ゾハール(Sepher ha-Zohar、"Book of Splendor)ともいう。
 ゾハールとは、アラム語の「ジハラ(輝き)」から派生した言葉で、そのため「光輝の書」とも訳される。1280年から86年にかけて、スペインのカタロニア地方のゲロナ市のゲットーに突如出現した。それは、1冊だけの本ではない。複数の小冊子の断章で、それがバラバラになった形で発見された。

カバリスト達は、この「ゾハール」を読んで仰天した。何しろ、カバラの秘密の奥義ともいうべき知識が、ぎっしりと詰め込まれていたのだから。言うまでもなく、この本は、秘伝書とされ、珍重された。この本が印刷されるようになったのは、やっと16世紀になってからである。

しかも、もともとバラバラになった形で出てきたこの本は、なかなか1冊の本には、まとめられなかった。この「ゾハール」の完全な全集が出るのは、やっと20世紀に入ってからである。

この「ゾハール」の著者は、紀元150年頃に活躍したユダヤ教神秘主義者のシメオン・ベン・ヨハイだとされる。しかし、最近の研究で、これは否定されている。本当の著者として、一番有力なのは、モーゼス・デ・レオン(1250~1305)なるラビである。

「ゾハール」は、2~6世紀に成立したと考えられる「創造の書」より、思想的にも発展しており、それより古いとは考えられない。また、新プラトン主義の影響も顕著である。さらに、書誌学者達は、その文法上のミスからも、13世紀以前のものとは考えられないと言う。

「ゾハール」の内容を、一言でまとめるなど、不可能である。量があまりに膨大なのだ。さらに、内容は、暗喩と寓意に満ちており、素人がいきなり読んでも、チンプンカンプンのアホダラ経にしか見えないであろう。注釈書が無ければ、まず理解できまい。

ゾハルは、「大ゾハル」と「小ゾハル」の2種のテキストが長らく利用された。無論、これは全集ではない。「大ゾハル」とは、16世紀にマントウアとインマヌエルなるカバリストがまとめた物で、10種類の写本をもとに最良の手稿を選別し、各章ごとに配列しなおしたもので、別名を「章別ゾハル」と呼ぶ。 もう一つの「小ゾハル」は、クレモナとエリアーノによって、6種類の写本を編集したものである。

こうした「ゾハール」に収録されている章本の中でも特に重要なものが、以下の5つである。

 「隠された神秘の書」
 「大聖集会」
 「小聖集会」
 「エロヒムの家」
 「魂の革命の書」

  最初の3つは、主に創造の神が発展してゆく段階と神による天地創造を語る。これは、象徴と暗喩の塊で、おそろしく難解ではあるが、かの「生命の樹・・・神から流出する創造の過程」を理解しようと思ったら、必読にして要研究の重要な書物である。

「エロヒムの家」は、主に霊を解説した書であり、天使、悪魔、四大精霊について記されている。
「魂の革命の書」は、盲人イサクの神学を語った本だ。

当然のごとく、魔術師にとって重要なのは、生命の樹の理解と直接関わる前三者の
「隠された神秘」、「大聖集会」、「小聖集会」である。これらは、かのマグレガー・メイザースによって、「ヴェールを脱いだカバラ」と言う題で英訳され、これの日本語版も国書刊行会より出版されている。

他に重要とされる章本に「モーセ五書に関する詳細な注釈」、「真の羊飼い」、「補説」、「新ゾハール」などが挙げられるが、どれを重要視するかは、流派や立場によって異なる。「ゾハル」が画期的とされる理由は、いくつもある。 一つは、これまでバラバラだったカバラの各流派の教義を網羅的に取り上げ、統一させたこと。

輪廻転生の思想を持ち込んだこと。
そして、「命題(テーゼ)」と「反定位(アンチテーゼ)」を「第三の原理(ジンテーゼ)」によって調停させたことである。「創造の書」において、「第三の原理(ジンテーゼ)」は、宇宙の生成論に応用されただけだが、
「ゾハール」においては、完成した形を持つ形而上学として扱われている。

もっと、分かりやすく言うなら、これら3つの原理の働きによって、創造の「流出」の過程を説明しているのである。・・・・まだ分かりにくい? つまり、「男性原理(父)」と「女性原理(母)」の対立を、「第三の原理(子)」で調停し、中和させる、という考え方を明示したのである。

ここにおいて、「男性原理」は、聖四字名のヨッドに、「女性原理」はへーに、「第三原理」はヴァウに当てはめられている。これは、しばしば、キリスト教の三位一体思想と混同されがちだが、あきらかに異質だ。キリスト教の「父」は厳格、「子」は慈しみ、「聖霊」は慈悲深い全てを包み込む原理、である。

それに対し、カバラでは「父」は忍耐、「母」は粛厳、「子」は慈悲をあらわす。そう、「生命の樹」のシンボリズムそのものなのである。

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『 バヒルの書 』
「光明の書」セフェル・ハ・バヒル(Sefer ha-Bahir、"Book of Illumination")ともいう。
  カバラにおける重要な原典を3つあげるとすれば、やはり「創造の書」、「ゾハール」、そしてこの「バヒルの書」であろう。この「セフェル・ハ・バーヒル」とは、「光明の書」という意味である。30~40ページほどの小冊子で、ヘブライ語とアラム語が混在しており、旧約聖書の注解書の形式を取っている。

この書物の成立は例によって、謎に満ちている。少なくとも、1180年以来のカバリスト達の間で伝承されてきたのは事実である。著者は一説には盲人イサクとも言われるが、かなり怪しい。おそらく12世紀に南フランス(プロヴァンス)で書かれたものと思われるが、はっきりとしたことは分からない。

この書物は、第3期(前期完成期)の幕開け的な書物であり、非常に重要なカバラ文書である。
かのG・ショーレムのデビュー的な論文が、この「バヒルの書」のドイツ語訳と注釈だった。
だが同時に、この「バヒルの書」の内容は、乱雑で統一が取れておらず、混乱しているとの批判を浴びることもある。これは編集が杜撰であるためのようである。

ただ、重要なことは、この書物が、カバラにおける神学的考察と宇宙論、宇宙の創造論、これらの一体化の完成・成熟に大きく寄与していることであろう。
この書はカバラの思想の変遷において、第2期(成長期)と第3期(前期完成期)の境界線の役割を果たしているとも言える。実際、「バヒル」登場以前のユダヤ教の宇宙創造論は、まったく別物だとも言われている。

「私がこの「樹」を植えた。
全ての世界がその中で大いに喜ぶ。
それは全てを紡ぎそれは「総て」と呼ばれた。樹の上に総てがかかり、
この樹から総てが流出し、総てのものがそれを必要とし、
その樹を仰ぎみる。そしてその樹のためにあこがれる。
この樹から総ての霊魂が導かれる(箱崎総一訳)」

また、このような記述もある。
「この樹とは何か? 彼は語った。神の諸力は、
すべて重なり合って貯えられており、さながら一本の樹に似る。
樹が水によって実を結ぶように、神もまた水によって樹の諸力を増やされる。
では神の水とは何か? それは智恵のことであり、
樹の果実は源泉から大運河へと飛翔する義なる人々の魂のことである(小岸昭・岡部仁訳)。」

つまり、この「樹」は、宇宙を現す樹であると同時に、
人間の魂の進化の樹でもあるのだ。
「バヒルの書」の記述の中には、この「樹」の記述が論じられる。
「バヒルの書」では、この「樹」は、神の植えた樹ではなく、
神の神秘的な構造がこれを生じさせたと解釈すべきであると指摘される。

ここまで言えば、この書の重要性は言わずもがなであろう。そう、セフィロト論を「樹」の形で説明しているのだ。そして、この書では難解な象徴的な表現ではあるが、セフィロト論についても述べられる。これはやがて、現在我々が用いている「生命の樹」の大本となってゆくのである。

カバラにおいて、ゾハール的な象徴表現が盛んに用いられるようになるのも、どうやらこの「バヒルの書」が、きっかけの1つらしい。また、「バヒルの書」には、すべての人間の肢体に照応する「神の7つの聖なる形」の記述がある。これは、かのアダム・カドモンの思想を意味する。

さらに、カバラにおける輪廻転生の思想ギルグールも、
早くもこの書物に現れている。それゆえに、
この書を初期グノーシス主義における新プラトン主義と
伝統的なユダヤ教神秘主義とを繋ぐリングとして重要である、と考えられることも多い。

この書は、登場した当初から正統派のラビ達から異端として、激しい非難を浴びた。
神に関するあけすけな神話的な記述が、一種の冒涜として捕らえられたらしい。
また、悪は神自身の内部の一原理あるいは一特性である、との主張もあり、
これも正統派のラビ達から、反発を受ける原因ともなったらしい。

さらに、この書は編集が杜撰で、文章も拙劣であるといわれる。
内容的にも、ユダヤ教神秘主義におけるメルカバ瞑想の思想と東洋の思想の剽窃・混合であるとの指摘もあり、それはそれで正しいのかもしれない。しかし、この書が、カバラの思想に一種の革命をもたらし、
発展に大きく寄与したこともまた、厳然たる事実である。なにより重要なのは、この点であろう。 "





参考資料(GDカバラ編)(の方が魔術の実践的に重要だな今回の記事は)


Angeliqua@nap master
@Ripple1975
7月
科学に問題点があるとすれば、知識や技術が必ずしもひとの幸福に寄与しないということなのかも知れない。けれどこれはそれを扱う人の問題だよね。感情によってそれを否定している以上、いくら論理的に説得しようとしても無駄なこと。まずは拒絶反応を示す原因を取り除かないといけないのです。

こころが豊かでないと何かを吸収することは出来ないの。おなかがすいていないとご飯が食べられないように。精神的にまいってしまってるひとは食欲不振に陥ったりするの。要するにそういうことだと思う。

似非科学が蔓延するのって真実を、知を求めてるのではなくてそれによって得られるであろうと誤認している心の満足感がほしいんだと思います。
納得するのってそういうことでしょう?

理解はしても納得できないところからきてるのでしょうね。要するにおなすいてるのです。


もし地球が丸くなかったら? 短波による地球の裏側との電離層通信が成り立たないの。わたしはそれを実感としてしってるから地球が丸いことを信じてる、心からね。

たとえば裏側あたりに位置する国と通信を行うとき、アンテナの前方の電波と後ろから回ってくる電波に時間のずれが生じてエコーがかかったようになることがあるんです。これなんて地球が丸くないと成り立たないお話。実体験ってだから強いのです。


わたしたちは学校で習うことが多すぎて「知識では知ってるけど・・・」というのが多すぎるんです。頭では理解しても心が納得してないの。


何かを学ぶには心の豊かさが必要なのでしょう。現代のわたしたちはあまりにも多くのことを学ぶけれどそれを机上だけでなく日常で再発見する体験をそんなにもってはない。りんごさんが木から落ちてきてもみんな「それはしってる」で終わっちゃうのが問題なのです。


大きくなった大人がりんごさんが木から落ちるのをみて感動してる姿を笑うのはもうやめませんか? そんな当たり前のことを? なんてわたしは思わないの。寧ろその感性を大人になっても保持してることを高く評価します。それは魔法使いが生まれる瞬間だからです。

祭壇は収納スペースのあるサイドテーブルのようなのが一般的かも?
立方体を二重に重ねたくらいの寸法ならばいうことなし。
あとはアルター・クロスかけるだけですから。キャスター付ならばいうことなし。

GD系だとこういうの自作するのです、日曜大工的な?

一般的には魔法の道具っていうと
四大武器やロータスワンドのようなのを思い浮かべるでしょうけれど、
最も重要なのはアルターなんです。
その一番上、道具が配置される天板というのがそのひとの意識そのものを意味してるからね。

何故二重立方体なのか?
それはひとの心には顕在意識と潜在意識があるから。

それだから祭壇の基底部からオポフィス(テュポーン)が上昇してくるなんていう表現が成り立つの。

よくこれを宇宙の二重立法さ祭壇なんて言い方するのだけど、
ここでいう宇宙とは小宇宙のこと、すなわちそのひとの心の全領域を意味してるの。

それだから魔法使いがローブ以外に一番最初につくるものといえばまずアルターってことになりますね。



テーブルの高さはご本人が立ったときにちょうどおへそのあたりにくるくらいでちょうどいいかも? 低すぎた場合には下に何かのせて調整してください。どうせ大きな黒い布かけちゃぅからみえなければいいの。あとは倒れないようにね、祭壇が。

ぶっちゃけ、
背の高い丸テーブル(ハイティー・テーブル)に布をかけただけのもので間に合わせちゃう人もいますけどねー。


GDは象徴詰め込みすぎというのは確かにあるかもね。
二重立方祭壇も「上のごとく下も然り」というヘルメス・トリスメギストスのあれからきてるし、
そもそも立方体ひとつが六面体であること。
二つが重なれば二面がなくなるからその合計が10面でセフィロトの数となる。


正方形が六つということはそれを展開するとカルヴァリー・クロスとなるの。
だから契約の十字架が二つ重なってる姿ということにもなる。のっけからこれですからね。

最初はあまりたくさんの象徴を使わないほうがいいの。たぶんわかんなくなる。
タロットも単純な形でなれたほうがいいし占星術もね。
一度慣れてしまえば覚えきれないと思うようなものでもどんどん吸収していく。最後には何も見ずに本何冊もかけるくらいにはなるから心配は要らない。

こういうのに単純な記憶量を自慢したところで意味はなく。
むしろ遠回りしてしまうから。
単純な象徴からどのくらい豊かなイメージを展開できるかが問われてるのだから
知識としての意味解釈のみ増やしていけばとても不毛なことになっちゃう。


象徴って生きた文字だから育てていくものなの。
本に書かれてるのはその代表的な物でしかなくて。現実の単語もそうだよね。実際に日常の中で使って少しずつその中に意味を加えていく。本で意味を知る段階は小さな子供が言葉を覚えてそれを何度も繰り返すのに似てるの。


セフィロトに意味を書き込んでそれでおしまいみたいになるのが一番いけない。その意味のひとつひとつが自分の中で息づくように体験として活性化していくの。だから必然的に何年も、何十年もかかることがわかるでしょうね。


どこかのセフィラーをイメージして神名を振動させるという儀式的手順は、だからその意味をかみ締めて深化させるための工夫でしかないということができるの。
常に何をしようとしてるのかを意識しなければ恐らくは勘違いが訓練のさまだけになっていく。


セフィロトは生きていなければいけないの。「生命の木」といわれるように知識で出来た張りぼてのようであってはいけない。


その「木」は毎日水を与え育てていくものですから。それに何年も費やすものなの。

ダアトがなぜセフィロトに数えられないかわかる? それは流産の子なのです。
「木」において生み出されるのは知恵でなくてはいけないからです。

だからダアトがアビスに配置され、知識と呼ばれることはとても意味深い教えなの。

カバラーの学習なんてダムからお水を引き入れるための配管を設置してるだけよ?
だから水門を開き、自由にお水が流れ込むようにしないといけないの。
それがマルクトまで到達するように各セフィラーの弁を開いていく。
どこかに滞りがあると思考の流れが阻害されちゃう。知識というお水はただの結果なの。

ダムとわたしがよんでるのは「霊的力の貯水池」のこと。
そこからお水を引いてコップにお水をくんでいるだけなのです。


ものごとを順を追って考え説明できるようにするためにそういう心の工夫が必要になる。それはダムであり発電所ともいえるかもね。電気は発電所で作られて変電所で減圧されていく。
手元の家庭用コンセントにはたったの100~300Vくらいしかないでしょ。もとは数十キロボルトもあるのです。

それだからいきなり高圧電線をつかんで幻惑されないでね。



霊的知識に本来、著作権なんてあるわけがない。それはパブリック・ドメインであり著作権者はすべてかみさまなの。

それだから古のカバリストたちはみんなその身分を隠して本を書いてきた。みんなそうなの。だって著作権者はかみさまだから。


そうだと思いますよ。大切な精神的文化というものはその著作権を神様に帰属させるのがこの世界の伝統です。だから著者がヘルメースやそのほか、伝説の人物だったりするの。
ポールから盗んでマイクに与えるような真似はしない。聖書だってそういうものだと思います。おやすみ。



大切なことは堅苦しいとわかってても面倒でも正規表現するの。
「この手紙をオフィスに届けてね」という表現は通用しない。
「この手紙をこのままの状態でどこから(住所)
どこまで(住所)自動車を使って(手段)あなたが(誰が明日までに(いつ))届けてねっていう表現を使います。魔法でもそうなんだけどね。

大切なことをいうとき、これを守らないと曖昧さが命取りになるからです。物事に意識的になるっていうのはそういうことだからなの。

常識的にというのは通用しない。だってそれはわたしの常識なんだもの。


本当に怖いのよ、勘違いに行き違いって。第三者が読んでもわかるような言葉にしないとね、そういうときは。プログラミングのソースコードでもそうだと思うんだけどね。それからお仕事の契約関係なども。

常識が通用しない例として、たとえば子供にお使いを頼むときなどがそうね。大体が初めての体験の場合は一定の常識がないものと判断するの。だから何かをお願いするときにはそういう表現を使います。


だれにだって最初があるの。それを決して悪いとは思わないのだけどそれをいつも念頭においておくことは必要でしょう。


うーん、わたしの場合だとそのひとの人となりで判断するかしら? いくら技術がよくても基本的なことが出来ていないとお仕事は頼めないの。約束が守れない場合、最悪すべてが台無しになっちゃうからね。


いつも約束を守ってくれて説明は明示的。決して曖昧なところがないというのはとても高評価を与えられます。どんなに安価な製品やサービスであっても長く安心して使えなければお取引は嫌かも?
これはパートナーにも求めるところだけど。


曖昧さがないというのは納得して取引できるからです。あとでトラブルって嫌じゃない? 自分が完全に納得した上でならばそれでいいんだけどね。

うん、だってそれが誠実さってものだから。

(
鍵だがプライベートな話ではないし
本記事は人気なさそうだから引用。
洗礼を解除する手段がないから
洗礼されると思想がクリスチャンじゃなくても
クリスチャン扱いされてしまう。
洗礼解除ってどうやってするのだろう?
解呪法求む。

鍵amon bonbon princesse
‏@mryensrh11
魔術の道具で一番大事なのは祭壇
それが二重立方体であるのは
顕在意識と潜在意識を示す

そして魔術の道具は手作りをするのが大事


さらさらっとえげつない事を書いてくるw

この人クリスチャンでしょ
しかもイギリス系のGD系でしょ?

その意味じゃ私の目指す方向とは全然違うんだけど
(あ、いや、そういえば 私もクリスチャンだったっけ??)
なにしろレベルがクソ高いんでね
参考になる事が多い

わたしゃー どっちかっつーと
タロットだってマルセイユタロット系が好きなんだよねー

ドイツフランス系の方がさ
エゲレス系よりも上級の気がするんだよね

単に上級下級が優劣につながるのか?
って疑問はさておき

上級って表現がまずけりゃ
源流とでも言おうか?

以下amon bonbon princesseさんがリツイート
Angeliqua@nap master
@Ripple1975
大切なことは堅苦しいとわかってても面倒でも正規表現するの。
「この手紙をオフィスに届けてね」という表現は通用しない。
「この手紙をこのままの状態で
どこから(住所)
どこまで(住所)
自動車を使って(手段)
あなたが(誰が
明日までに(いつ))届けてねっていう表現を使います。
魔法でもそうなんだけどね。

大切なことをいうとき、これを守らないと曖昧さが命取りになるからです。物事に意識的になるっていうのはそういうことだからなの。
常識的にというのは通用しない。だってそれはわたしの常識なんだもの。

本当に怖いのよ、勘違いに行き違いって。第三者が読んでもわかるような言葉にしないとね、そういうときは。プログラミングのソースコードでもそうだと思うんだけどね。それからお仕事の契約関係なども。

7月5日
そうだと思いますよ。大切な精神的文化というものはその著作権を神様に帰属させるのがこの世界の伝統です。だから著者がヘルメースやそのほか、伝説の人物だったりするの。ポールから盗んでマイクに与えるような真似はしない。聖書だってそういうものだと思います。おやすみ。


7月4日
それだから古のカバリストたちはみんなその身分を隠して本を書いてきた。みんなそうなの。だって著作権者はかみさまだから。

7月4日
その他
霊的知識に本来、著作権なんてあるわけがない。それはパブリック・ドメインであり著作権者はすべてかみさまなの。


7月4日
だからダアトがアビスに配置され、知識と呼ばれることはとても意味深い教えなの。

7月4日
ダアトがなぜセフィロトに数えられないかわかる? それは流産の子なのです。「木」において生み出されるのは知恵でなくてはいけないからです。

7月4日
その「木」は毎日水を与え育てていくものですから。それに何年も費やすものなの。


7月4日
セフィロトは生きていなければいけないの。「生命の木」といわれるように知識で出来た張りぼてのようであってはいけない。

7月4日
どこかのセフィラーをイメージして神名を振動させるという儀式的手順は、だからその意味をかみ締めて深化させるための工夫でしかないということができるの。常に何をしようとしてるのかを意識しなければ恐らくは勘違いが訓練のさまだけになっていく。

7月4日
セフィロトに意味を書き込んでそれでおしまいみたいになるのが一番いけない。その意味のひとつひとつが自分の中で息づくように体験として活性化していくの。だから必然的に何年も、何十年もかかることがわかるでしょうね。

7月4日
象徴って生きた文字だから育てていくものなの。本に書かれてるのはその代表的な物でしかなくて。現実の単語もそうだよね。実際に日常の中で使って少しずつその中に意味を加えていく。本で意味を知る段階は小さな子供が言葉を覚えてそれを何度も繰り返すのに似てるの。

7月4日
こういうのに単純な記憶量を自慢したところで意味はなく。むしろ遠回りしてしまうから。単純な象徴からどのくらい豊かなイメージを展開できるかが問われてるのだから知識としての意味解釈のみ増やしていけばとても不毛なことになっちゃう。

7月4日
最初はあまりたくさんの象徴を使わないほうがいいの。たぶんわかんなくなる。タロットも単純な形でなれたほうがいいし占星術もね。一度慣れてしまえば覚えきれないと思うようなものでもどんどん吸収していく。最後には何も見ずに本何冊もかけるくらいにはなるから心配は要らない。

7月4日
正方形が六つということはそれを展開するとカルヴァリー・クロスとなるの。だから契約の十字架が二つ重なってる姿ということにもなる。のっけからこれですからね。

7月4日
GDは象徴詰め込みすぎというのは確かにあるかもね。二重立方祭壇も「上のごとく下も然り」というヘルメス・トリスメギストスのあれからきてるし、そもそも立方体ひとつが六面体であること。二つが重なれば二面がなくなるからその合計が10面でセフィロトの数となる。

7月4日
テーブルの高さはご本人が立ったときにちょうどおへそのあたりにくるくらいでちょうどいいかも? 低すぎた場合には下に何かのせて調整してください。どうせ大きな黒い布かけちゃぅからみえなければいいの。あとは倒れないようにね、祭壇が。


@Ripple1975
7月4日
ぶっちゃけ、背の高い丸テーブル(ハイティー・テーブル)に布をかけただけのもので間に合わせちゃう人もいますけどねー。



7月4日
それだから魔法使いがローブ以外に一番最初につくるものといえばまずアルターってことになりますね。



7月4日
よくこれを宇宙の二重立法さ祭壇なんて言い方するのだけど、ここでいう宇宙とは小宇宙のこと、すなわちそのひとの心の全領域を意味してるの。


7月4日
何故二重立方体なのか? それはひとの心には顕在意識と潜在意識があるから。

7月4日
一般的には魔法の道具っていうと四大武器やロータスワンドのようなのを思い浮かべるでしょうけれど、最も重要なのはアルターなんです。その一番上、道具が配置される天板というのがそのひとの意識そのものを意味してるからね。

7月4日
GD系だとこういうの自作するのです、日曜大工的な?

7月4日
祭壇は収納スペースのあるサイドテーブルのようなのが一般的かも? 立方体を二重に重ねたくらいの寸法ならばいうことなし。あとはアルター・クロスかけるだけですから。キャスター付ならばいうことなし。

(アモンたんRTここまで)
(ここから単なる私のコピペ保存)

2019年7月11日
何かが別の何かに見えたということは、見た本人の意識が何かを捉えようとしたサインなのです。
その様にカードが配置されたのは偶然なの。
但し、そのように読み取ろうとした心は偶然ではないから。

偶然の産物から意識の中にあるメタ情報を読み取ろうとするのが占いの妙味。

わたしにとってはかき混ぜて出てきたカードや星の配置などは偶然によるものでしかない。
問題はそれに付与する無意識から出てくるイメージのほうが大切ですから。

錯覚を起こすのは物理的事実によるもの。
それが偶然であるのならまったくその通りなのでしょう。
けれど、錯覚を起こす心のほうについては偶然などではないのです。

ひとつの例をとりましょう。その辺の石ころを拾って手に取ると、さまざまな模様が出てるよね。その模様がでた理由は明らかに偶然によるものなのです。でもね、その模様が何かに見えるという現象はひとの心によるもの。占いとは、その偶然に付与する心のイメージを紐解くものなのです。

何かがそのように見えるのは無意識が恣意的に選択してる結果なの。決してそれは偶然ではないから。

カードや星が直接的に何かをあらわしてるというのならば
わたしはそれを迷信だと思ってるの。
けれど、そこからイメージされた内的理解は迷信などではない。
わたしはこうして偶然とそうでないものをはっきりと分けて占いを見てる。


これはオカルトにおいて一般的に信じられてる信仰とはちがうんですけどね。
それは星やカードが教えてくれるというもの。
万物照応がある理由というのはこうした情報を心が整理するためのものだと思うの。

タロットの製作者さんもその解釈によってさまざまな形でデッキを構成してる。
それでも一定の成果をあげられるのは
実際に重要になってるのがタロットそれ自体ではなくひとの心によるものだからです。

もし象徴に正解があるのならあるものは効果的に働き、
あるものはその効果がなくなるはずなの。けれど現実にはそうはなっていない。

占いの手段というのは金魚すくいの網ですからね。金魚さんがどのようにして掬えるのかが重要なんだから。

占いって無意識と顕在意識による答え合わせという側面が強いのです。

それだから自分を信じられなくなったとき、占いはしばしば失敗します。

星座というのは占う人の心の中にあるの。
占うときに物理天体と比較して反映させるのは心理的な工夫によるもの。


それで何をしてるのかというとゼロ点調整をしてるのだと思う。そこから生じるかすかな違和感を見つけるために。

変動してるのは天体というよりはひとの心のほうだから。

星やカードがすべて教えてくれるのならコンピューター占いで全て間に合っちゃうからね。


偶然にあまり運命をかぶせてしまうと失敗するの。誰か他人がそのような考え、うまれを持っていたとしてもそれが自分と関係あるなんて言い出しかねないからです。

それだから偶然はそのまま感謝して受け入れることにしてるの。嫌な偶然はただ逃げるだけ。

わたしにとっては運命ってあまりありがたみがないんだよね。かえって偶然のほうがありがたいのです。自ら選んで選択できるから。そのままにしてもいいし手を伸ばしてもいい。だから偶然であうものはありがたくいただくことにしてるの。

偶然というのはママ(自然)からの贈り物だと思ってるから。

運命は自ら造る物だって思ってるのです。偶然を手繰り寄せることでそれを行うの。

それだから運命とは偶然を手繰り寄せた結果に与えられる名前のこと。偶然が変化したものですね。

子供産むときも最初は男の子か女の子かもわからない。
五体満足ならいいなとは思うけど全てはママ(自然)によるもの。恣意的に産み分けたりなどできないけどそれでいいと思ってる。どんな子なのかはどうでもよくて「かみさま、そんなこといいからさっさと逢わせて下さい」ってお願いするだけだった。

‏子供に対してただ元気であること以外望むものですか。

運命論で自分を縛るのは自分の自由意志の否定につながりますからね、そういうのは信じないことにしてるの。

たとえば大好きな人に運命によって導かれ、運命によって好きになったといわれても嬉しくないの。そのひとの自由意志によるから価値があり嬉しいんだから。

7月9日
宗教の言葉はしばしば専門用語が用いられるからその意味はつまびらかにされない。
だから民衆に説くには誰にでもその場で理解できる言葉を用いるのが望ましいとわたしは思ってるの。
それだから辞書に載っていないような言葉は出来るだけ使わないの。

魔法の用語でもそうなんだよね。どのような意味かを理解することが前提で門内では語られるけれど、
本当に理解してるのかは常に確認しなくてはけけない。
この確認を怠れば誤解が容易く生まれその伝承は失われる。

それだから準備が整っていなければ口伝は行われないと思うの。誤解が生まれる可能性があるのだから。

7月9日
ムーンストーンがなぜ月の石なんて呼ばれるのか?
半透明で曖昧だからです。神秘性というのは見えそうで見えないもの。だから余計によく見ようとします。月の満ち欠けは変動する影、その神秘性による。知性って不明瞭なものを嫌い白黒はっきりさせるのがその特徴だからです。

それだから月の魔術というのは結局なんのことかというとチラリズムのことですね。別に性に必ずしも関係があることではなくてすべてのことにおいてのお話。

対太陽、つまり知性に対するチラリズムのことです。

これで女性と月の魔法がなんで関係あるの? っていう質問の答えはおしまい。

さて、ここでミステリー小説のことを思い出してみて? 知性が何を望んでるのかその答えがわかるから。

ミステリー好きって月の魔法が大好物なんですよ。

月の魔法の女司祭、月の神秘の開陳者は常に女性であったというのはそういうことなの。
誰でも少女時代にしてきたことなんだからそりゃ知らないのはとても変なのです。

知性って曖昧なものを明瞭に照らしたときにカタルシスを起こすもの。ミステリー好きっていうのはそういうものなんですから。

月の魔法の基本は幻想だから相手にどんな幻想を抱かせるのかの問題なの。
だから美貌にあまり自信がなくてもパートナーを得ることは出来るでしょうねる。もし月の魔法に長けているのだとしたら。

ダイアン・フォーチュンの『海の女司祭』というのはそういうお話。おばあちゃんがいかにして若い男性をとりこにしたかっていうそんなお話。これ、月の魔法のお話なのです。

月の魔法ってあくまでもアクセサリーだから使いすぎては駄目。幻想は常に中をのぞくための呼び水であるべきで、知性が集中して中身を理解したときに何が起こるのかを想像するの。魔法が解けたときにどうなるかを想像しないと月の魔法は無駄になってしまうからです。

月の魔法は開陳する時期があるからそこが一番の問題になるんだけど、
いつがいいかは自分の身体にきくのが一番です。基礎体温をつけてるのなら。

月にとっては太陽の周囲を地球と一緒に回ってるのだけど、
太陽にとっては月の周囲を回ってるの。
このように太陽が錯覚したとき、つきの魔法は効いてるから。

一般にそれは好きな人を視線で追いかけるっていうのだけど。

月の魔法というのはあくまでも主観を変化させるものだから客観は変化しないのです。
好き嫌いというのは主観によるもの。だから効果があるの。


占星術におけるムーンサインってそういうものでしょ? 主観を支配してるのです。

月の魔法は見せ方であり魅せ方の魔法なんだよね。
月は満ち欠けするけれど物理的に欠けたりはしない。どう見えるかを調整する考え方だから。

お化粧して服を着てどう見えるか鏡に映すよね? だから鏡も月の象徴となるのです。

単純にいって、相手にとって好ましいと思える一面を相手に見せ続けるという魔法。
だからそれが不可能なときは影に完全にこもってしまうのです。これが新月なの。


月の魔法の実践は結構大変なんですけどね。準備にとにかく時間かかるから。

それだから月の魔法はそんなに長く続かない。なのできりのいいところでゴールインしちゃえばってお話になる。

女性としての魅力の大部分が月に由来するものだから、月の魔法を学ぶことが早道だとはいえるかもね。

相手の見たいものを速やかに掌握してそれを見せ続けるの。

勿論、いつも控えめに。


地球からみて月面っていつも表を見せてるって事です。
事実、物理的天体である月もそうなんだけどね。月は裏側を見せない。

そして月の満ち欠けは魅力の増減をあらわしてる。
それが提供できなくなったらさっさとひっこみます。


自然の中にある以上はすばらしい美貌は天然の奇跡。
だけど誰もがそれで勝負するわけにもいかないのですから、月の魔法が重要になってくるの。

月は装いの魔法。
金星は各種技芸。感性の魔法。
どれも重要なんだよね。

月の魔法を使うときは必ずターゲットを絞ることです。
相手にとって魅力的に見えることが肝心なのだから当然のこと。誰にでも魅力的に見えるようにするというのは相当な難易度を伴うからターゲットを絞るほうが戦略としては簡単なのです。好き嫌いが主観である以上、目移りは失敗のもとです。

そのひとの魅力というリソースは有限だからなの。リソースをほかに割けば失敗もするでしょうね。

月にとっては地球の位置というのはそのひとの視点のこと。だから相手の視点を意識するのがポイントなの。

一度理解してしまえば結構簡単なことなんですよね。

(月の魔法は主観を変化させ、
相手が見たいものを見せ続ける幻想魔法。
このGD流月魔術がナルトの無限月読という幻術の元ネタだろう。
(黄金の G)暁(D)というモロな秘密結社が登場するし)


7月9日
わたしは転生はいらないかな? 寿命が尽きて死んじゃったら永遠の安息に入りたい。だからこそ今はしっかりと生きなくてはいけないんだけど。

というか、転生するかしないかで選ばせてくれればいいのにね。

天国の厚生福利ってどうなってるんだろう?

天国にいってまた戻ることになったらサービス悪いぞーって文句いってこよう。

エジプトの死者の書では永遠の余生を約束してくれる。やはりこうでなくちゃね。

天国にいったら何万年もの間、うららかな春のお天気の中でお昼寝し続けるのがいいです。

この世界でこうして生きてるのがお昼寝かもしれないですけどね。
過ぎ去ってしまえば夢のようなもの。魂にとってはすべては夢だったのかも知れないと思うのでしょうね。

この世を夢と見るのかあの世を夢と見るのかは恐らくは相対的問題だから。

永遠の霊にとってはわたしたちは夢を見ており、かれらにとってはそこが現実なのでしょう。

わたしたちは毎晩のように夢をみるのだけど、受肉するのってそういうことなのかも知れないの。

7月10日
それはヒューリスティック過程だと思います。
経験則による仮定はとてもはやく答えを出せるんだけど個人の認知バ゛イアスが厄介よね。
わたしがセフィロトを利用するのはこうした問題に対して係留と調整を行うためなの。
バイアス補正を行わないとベターな答えは出せないからです。

これはセフィロト自体がアドホックな認知モデルだから出来ること。
よくよく考えてみると結構面白いのです。

しかしこういうのっていつ誰が考えたのだか。

なぜヒューリスティックなのかって?
物事には正解がないからです。だから妥当な回答を常に調整の中から得ようとします。
1か0、正しいか間違いかで分けられる問題はこの世界では希少ですからね。

セフィロト自体が左右の柱の均衡によって成り立ってるのを思い出してみて?

そう、静的均衡ではなくて動的均衡なの。
ここが肝心ですから。

セフィロトに貫通してるライトニング・ソードはわたしの言葉を使えば「脳内高速阿弥陀くじ」ですから。

瞬間的に訪れる論理的回答というのはまるで落雷に似てるの。

これを行うにはセフィロトを下から上っていき
蛇行しながら答えにいきつくというのを何度も繰り返さないといけない。
そうするとあるとき、
上から下に瞬間的に下降する知恵というのを体験することになるでしょうね。

(この人よくエアリプするから誰に言っているのかわからないことがよくある。
エアリプ相手が鍵アカならお手上げ。

アドホック
=特定の目的のための、その場限りの
 (つまり普遍性や客観性を最優先にしない)。

ヒューリスティックス(英語表記)heuristics
https://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-23094
”発見法ともいわれる。いつも正解するとは限らないがおおむね正解する、という直感的な思考方法。
理詰めで正しい解を求める方法であるアルゴリズムと対比される概念。
例えば、服装からその人の性格や職業を判断するなどは、ヒューリステックスな方法といえる。

heuristics
常に正しい方法とはかぎらなくても問題解決に有効であると思われる経験的原理や方法。
発見的方法,常識的方法ともいう。
最終結果を得るまでの探索量を平均的に減少させるための原理や方法,
あるいは試行錯誤的な推測によって問題を解く方法もヒューリスティックスである。
たとえば,
探索による問題解決を行なう場合,すべての状態をしらみつぶしに探索していたのでは処理量が膨大になって,すべての探索は不可能であることが多い。そのような場合に,
与えられている問題についての固有の情報 (ヒューリスティック情報) を有効に利用して,途中で不要な部分の探索を中止する (枝刈り) などを行なうと,
効率のよい探索が実現できる。このような探索をヒューリスティック探索 (発見的探索) という。”



だんだんわかってくるとカバラーに夢中になるでしょう。だってすごく面白いんだから。

月の魔法は無意識に印象を残す技術が主だから作用するの。
だから香水などもぷんぷん匂わせるようではいけない。
無意識に残すというのはどういうのかというと、ふと頭に浮かんだ情景や言葉が
「あれなんだったっけ、思い出せない」というのを作り出すこと。すごく気になるでしょ? それでいいの。

簡単にわかってしまうようでは印象に残らない。
ちょっと不明確なくらいの羅列をまるでキーワードのようにちりばめておくのです。
関係ありそうでなさそうなのをたくさん用意しておくといいの。

真ん中にあるものを直接言わないで周囲を関係あるので囲い込むようにします。
そうしておくと真ん中にぽっとイメージが浮かぶから。
その真ん中におくのを自分のイメージにするっていう方法をよく使ってた。
もういらないけどね、そういうの。

もうミステリアス少女ごっこするような年齢でもありませんからね。(^^;

(この精神操作術=月の魔法を恋愛に用いる方法を伝授している。
恋愛なら良いが
支配術にも使われている。
もぐらさん定義のヘーゲルの弁証法
(Xを推進、強化するために
わざとかませの、失敗する反Xをする)や、
極端な左翼と極端な右翼をぶつけて
大衆をその中間あたり(本命の結論、地獄への入り口)に誘導する技術なども月の魔術
=無意識に印象を残す技術。


そういうのは占いをするようになってしばらくして自然に身についたこと。
血筋なのか環境なのかは知りません。お友達に直接やり方を教えたことはなかったけど服やアクセなどはよく選んであげたっけ。常用してるものを組み合わせるのがポイントなんだけどね。

端的に言えばそのひとの共通のカラー、共通のイメージを構築することかしら? あまりふらふらイメージを拡散してしまうとそれは相手の心に根付かないから。

相手の視線がその子に釘付けになってきたら第二段階でその子が自分でこう見せたいというイメージに寄せていくの。相手が注目していなければこれは不発に終わるからです。

いくらお洒落しても相手が見てくれないとね、効果ないから。

相手の心を無理に振り向かせるのはあまり意味がないのだけど、相手の視界にいつも入るように努力するのは必要なこと。たくさん見てもらうほどその子の魅力を見てもらえる機会が増えてきます。だからその機会を増やすことに尽力するの。

アイドルだってCM契約をたくさんとるでしょ? とりあえずメディアに露出しないと評価も何もないからです。

それがたら月の魔法によって相手を無理に振り向かせるなんてことは出来ません。
相手の認識を変化させることで勝負するからです。
見えてないものを見えるようにするの。

大切なのはそのひと固有の魅力を探し、それに気付いてもらう努力をすることかな? 月の魔法ってそういうものだから。

そのひと固有の魅力は誰にでもあるはずなの。大事なのは鑑賞のセンス。いいなっていうところを見つける能力のこと。あとはそれが引き立つように整えていくこと。勿論、その魅力を理解する人しかよってはこないけれど本人にとっては理解者でなければ好きになられても意味はないですからね。

それだから一番最初にするのは自分の魅力に気付かせてあけることなの。それで本人がその魅力を大切に出来るのなら、寄ってきた人がそれを理解することでよい関係が築いていけます。本人が自分のそういうところを嫌いならばこれはうまくいかないからです。

自分が好きな自分を愛してもらうことほど幸せなことはないの。だからそのように戦略を立てていきます。

そのひとの魅力を無意識に探させるようにもっていくのがポイントなんだよね。相手の好み自体はかえられないからです。

相手の好みを変えること自体は出来ないのです。また、錯覚によって好むもののように見せかけてもあとで困ったことになります。だから視点をころころと変えてもらって一番綺麗な見え方をする部分をそのひとに選んでもらうの。

簡単に言えば相手に発見をしてもらうのです。



7月10日
それゃ何万回となく親に可愛い、綺麗だって連呼されて育てば少々のことで自信をなくしたりはしません。しかもそれは外面のことではないと気付いてるのならなおさらですね。

7月10日
うん、カリウムの補給は大切。バナナでもいいんだけどわたしはりんごジュースかな。
ナトリウムは塩分としてとるんだけどあまり多すぎてもバランス崩すからカリウムを補うのです。

ナトリウムのみで塩分補給するとまずいのです。

塩分補給したのに頭がくらくらするという経験はない? 恐らくカリウムが不足してるのです。ミネラルにはほかにマグネシウムやカルシウムがあるけど、主にナトリウムとカリウムのバランスが大事なの。
だからナトリウムのみで塩分をとると体内のミネラルバランスが狂って体調を崩します。

夏場はとくに気をつけてね。塩分というアバウトな分類だとまずいから。

身体はいろいろなもののバランスの上に成り立っていますからね。心もそうなんだと思う。



読書感想文コンクールの象徴が牧神なのが不自然すぎる。
読書=知的行為と真逆の属性だぞ。
左向き=左目=反知性、直感、感情優位、野生、獣性、アスラだし。
結社がらみだろうな。
パーンで読書ってエロ本を推奨したいのか?






牧羊神は淫乱という設定で、お見せできない画像もあるくらいなのでw 青少年の読書にこのキャラというのは、
謎のセンスではありますねw




獣の下半身と山羊の角、これはギリシャ神話のパーンだよね、でも同じ特徴を持つ者が他にもいるよね、そう、キリスト教の「悪魔」なんだよね。じゃあなぜそんなものを使うのか、って事。このコンクールを作ったJSLAが設立されたのは1950年。そう、フリーメイソンが日本ロッジを再建した年、なんだよね。

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7月9日
いお、ぱーん。

‏科学によって幸福はつかめないと思う。それは道具だから用途によって使い分けるものですし幸福になる理論なるものをわたしは信じていないの。同じように恋愛の理論も信じてはいない。ただ個別の目的に合わせたソリューションがあるだけのこと。それ自体が目的ではないですからね。

他人から見た「正常」なるものがわたしの幸福だなんてまっぴらごめんです。
そういうのはテクノロジー偏重の思想であって個人の意志を無視してる。
そのひとにとっての理想が実現できるのが一番だからです。

何が幸福なのかはそのひとによります。というのも、ひとには好みがあるんだから。それを統計処理したところであんまり意味はないの。

ビジネスを展開するにはいいんですけどね、何が一番好まれるかについては。けれど統計には必ず取りこぼしがある。一番少なかった好みのマイノリティーをどう扱うかが問題になるのだけど、その受け皿を作るという楽しみがある。

牧神ってマイノリティーの象徴だからね。
そう、醜いアヒルの子的な?

独立独歩で多様性の申し子。孤独な彼の葦笛はマイノリティーにとっての自然の呼び声。ひとの心の奥底に封じられてるのは完全に個人的な感覚でありその好み。
社会に生きる限りはそれを共有するのは難しいこと。だからこそ魔女たちは「万歳、牧神(イオ、パン!)」とそれを称える。

牧神って一番誤解される存在だからね。

牧神が何故醜い姿で表現されるのかを考えてみて? ひとによってはそれを美しいと感じるからよ。

誰が見ても美しいと感じるのなら、それはマイノリティーを表現し得ないからです。

きれいは醜い、醜いは綺麗。これがこの謎をとく鍵なのです。

牧神の信仰はこれがなんのことか理解してないとお話がかみ合わないのです。すっきりした?

牧神の召喚というのは強烈な自然の力を呼び起こす。それもそのはず、彼は自然の多様性を意味してるから。それは個人の中に眠る魅力そのものを意味してるから、
そのひと独自の魅力のことでもあるのです。それだから牧神が連れ歩く集団というのは統制が取れていない足並みになるの。

だからマイノリティーの集団というのは牧神の群れのことなのです。足並みがそろってるはずもない。

牧神の持つ魅力というのは「好きな人にはたまらない、でも嫌いな人には全然駄目」というもの。その代わりその魅力は強烈なのです。

だからパン神の特徴のひとつは乱痴気騒ぎなの。

大好きなものに出会えて狂喜乱舞するっていうあれのこと。
これで大体のイメージはつかめたかしら?

牧神が原始的神様だというのは当然のこと、だってそれは社会形成以前の原始的衝動なのですから。

それだから牧神を召喚した後はそのままだと社会に戻れなくなります。きちんと退去する必要があるの。

牧神に連れ去られないようにしてね。

牧神の身近なたとえ? 例えばそうね、花火もってると振り回しちゃう子供いるでしょ。いくら注意してもやってしまうのです。雨が降ると水溜りが出来るよね。それでばちゃばちゃ足踏みする子もいるよね。あれのこと。素朴で原始的欲求のこと。

それは必ずしも反社会的とはいえないのだけど、しばしば社会のルールに反したことをしてしまうの。
だから牧神を扱うときは森の中や開けた林の中と相場は決まってる。凡そ文明社会的ではないからです。

そういった非文明社会的な物事って正当に評価されることは少ない。教育の現場においてはなおさらです。というのもその本質が必ず乱痴気騒ぎに結びつくから。林間学校などにおける枕投げをイメージしてみるといいの。

大人の世界というのは牧神がいる世界から遠くなるからね。

(なるほどだからピーターパンはネバーランド=子供の世界)

牧神がいる世界というのはゲームをその場で思いつく世界。牧神がいない世界というのはゲームをほかから与えられて楽しむ世界。その違いについて考えてみるといいです。

牧神の力の源は狂乱につながるからそれはすごく野蛮なのだけど、それは個人の根源的欲求につながってるから無視するわけにもいかない。適切な方向性を持たせて誘導するのがいいのです。具体的には歌と踊りね。

召喚儀式っていうのは適切にやればセラピーになるの。その神格がどういったものかよく理解してる必要はあるけど。

牧神の典型的力は大地の力だから生きてる感覚というのを呼び起こす。典型的な所作は足踏み。このことからドラムがその役に立つのがわかるでしょうね。


牧神の力は生きる活力を与えるからキャンプなどで召喚されるけれど扱いが難しいんですよね。その呼び声に心が反応してもうまくついていけない人もいますし、反対に乗りすぎて半狂乱になるひともいる。だからかの力について熟知した人がついていないといけないの。

知性がありすぎると牧神の力に触れるのを邪魔をするからね。だから子供の頃に触れておいたほうがいいのです。大人になってからだと少々厄介だから。

要するにお薬がききすぎちゃうから。

大地に触れていないとわたしたちは生きる活力を失う。そういわれてる理由はもう説明したとおり。小さなころのことを思い出してね。
具体的年齢? 第二次性徴以前の記憶ね。

あまり年齢が過ぎちゃうとそういうのに触れるのが駄目になってくるから。

雨の匂いを楽しんだり雪の上をサクサク歩くのが楽しいのならなお善いんだけど。
大人になってもそういう感覚をもってるのならそれはひとつの才能ですから。

月に代わっておしおきするのっていったいどういうことなのか考えてみた。多分、散々幻想を抱かせて夢中にした後で思いっきり振るんだきっと。

Angeliqua@nap master@Ripple1975
現象をどのようなイメージで扱うかの問題かな~? 天使さまのgenreって。
それは例えば、ドイツ語でお日様を女性名詞で呼ぶか、
フランス語で男性名詞で呼ぶかの違いでもある。
もともと人格的イメージを持たないものを人の心が理解しやすいように翻訳するわけですから、
そこには自ずと無理が生じます。

天使さまの性別を決めるGDのアレ(テレズマの創出法)だってこうした複合的イメージを扱うためにより詳細に記述すると男性性と女性性が混ざったような姿になるの。だからそもそもが現象を扱うのに人間のジェンダーをそのまま当てはめるのは無茶なの。あくまで力を入れる鋳型を創るためのものですから。

ん、そだ。日本人が使う漢字。たとえばこれには片やつくりなどがあって、そうした複合的要素によってなりたってるよね。それらのパーツに性別があって、くみ上げるとひとつの漢字を形成すると考えることも出来る。
では、その漢字の性別は? 日本語の名詞には性別は無いけど敢えて考えてみるといいの。

予備召喚で行うのは無形の霊を呼ぶのだから、
形の無い世界から形のある世界(この現象世界)に呼び込むことを目的としてる。
それは「頭無きもの」と呼ばれる。
それは非存在からこの世界(存在)に仮初の姿を与える儀式をしようとしてるためで、
無と有の橋渡し的儀式を構成する。

それはもともと「(こちらにとっては)何も無い世界」から呼ぶ力なのですから、
男性も女性もあったものではない。だから儀式の中でよく語られるように、
「主は男と女を創った」というときはもうこの現象世界のお話なのです。
あっち(非存在)のお話はしていないから。

ケテルの上端の縁、つまり人体で言えば頭頂にあたるのはイベントホライズンという比ゆで説明することが出来るの。
存在と非存在の接点をそこにおいてイメージしてるということになる。

でも、これはあくまでも比ゆのお話。ケテルをイメージするときに、そこに仮置きしてるの。
だから、
あたまの天辺に存在と非存在の境界線があるなんて思い込まないでくださいね。瞑想する上での補助なのですから。

Angeliqua@nap master@Ripple1975
究極的にいえば幸せってモノではなくて体験の一言に尽きるの。
だから誰が何を使うのかは自由なのだけ質素倹約は幸せのためにあると思ってる。我慢はすべて幸せのため。いくらよいものを食べても所持しても体験が幸せを形作る。その瞬間のために敢えて質素に暮す。美味しく食べたいならスポーツをする。

舌が肥えるのって要するに習慣が形成されるということ。その習慣は諸刃の剣でよい部分と悪い部分がある。美味しいものを食べ続ければそのうちに飽きてくる。世界中の美味しいものを食べ続けたらきっと屋台の安いフィッシュ&チップスが食べたくなるのです。それだと体験に満足せず不幸だもんね。

欲望は必ず習慣化する。だからそれを欲望の身体、アストラル体と呼ぶの。
欲望に良いも悪いもない。ただ、意識的にコントロールしないと欲望が更なる欲望を呼びもっと素敵な体験を欲する。これではきりがないからこれを制御する。それがアストラル体制御の意味なのよ。

肝心な部分は「美味しいものを食べるから美味しく幸せなのではなく、美味しく感じるから幸せなの」です。だから幸せを感じるように欲望をコントロールするの。そうしないと不幸になってしまうから。

魔術用語をきちんと説明すればそれは神秘でもなんでもない。
その観念を適切に説明するためにそういった用語がある。
よりイメージしやすく理解しやすいように。
それを知らないといくら訓練を重ねてもトンチンカンなことを考えてしまうの。


魔法の世界は自分自身を見つめる道。一見するとその姿は懐古的で神秘的に見えるけれど
ふたを開けてみればそういうもの。その気があるのなら中に入ってもいいと思うの。他のやり方も沢山あるから魔法がすべてではない。自分自身を見つけるのに手段などは問わないの。


本当に何でもいいのよ? あなたとその周囲が幸せになるのならどんな道を選んでも。


うん、「幸せになる」という言い方はちょっと変だったかもしれない。
「幸せでい続ける」というのが正しい表現かな? 何故ならそひれは日ごろからの維持努力によって為されるものだから、毎日のお掃除とおんなじなのです。


毎日の炊事洗濯ですら魔術訓練になるの。
その意味を理解していて欲望の制御を行うために自分自身に対して常に意識化するということを義務付け実行するのならば。何か秘密めいた特別なことをする理由というのは、そうでもしないと人は意識的に行動しないからなのです。


アレイスター・クロウリーは「自分の言動の意識化」について言及してるけど、
そのことについてより詳しくは述べていなかったかも知れない。
でも、こればかりは自分で気付かないとどうしようもない。
それでも明確に説明するのはあまりにも妄想激しい言動が散見されるからです。


魔法の儀式というのは禅で言うところの指先に相当すると思う。
勿論それだけではないのだけど、伝えようとしてるのは指先が指し示す場所のこと。
それに気付いたら「魔術」という道から卒業して自らの道を探求するようになるでしょう。
大切なのは自分の魂のありかを見つけることなのですから。


魔法の技法というのは自分自身の思考と行動を意識化するための工夫が目的だといえるの。
恐らくは他の類似した道もそうなのでしょうね。
悟りを開いたからえらいというのではなく、
それはただ物事を理解したことに過ぎないと思う。問題はその先で、夜が明けたからには自らの足で歩き出さないといけない。

だってもう自分自身をだますことがしにくくなってしまったのですから。

かみさまを知れば神様に知られる。これは本当なのだと思う。ただその意味するところを理解するまでがわたしには長かった。

7月19日
魔女ごっこというと
ホワイトハンドレットナイフのスパイン(背)で
フリント(メノウや燧石などの火打石)で火花を飛ばすところから開始しないと。
火を使うというのは四大を自在に操るということだからです。

事実として木材を燃やすというのは木材の繊維の中に樹脂が固体の状態で存在しており、
加熱によってこれが液化、気化してこれに炎がつくのです。つまりそれだけでもう四大がそろってるの。

樹脂って要するに油ですからね。
それが固体、液体、気体、そしてプラズマの状態に変化させるのだから、
火熾しというのはそれだけで四大の操作に当たるのです。

この辺を理解してないと四大ってなーに? ってことになるから何故魔女が料理をするのかというところにたどり着けないの。

特にこれは男性にいえることだけど
昔からオニキスなどの大きな石をリングにするひとは多かったの。
その意味するところは最悪それを火打石に出来るからです。
緊急時に暖を取れないというのは最悪じゃない? 今でこそライターあればなんて思うけれどね。

だからそういうのはある意味でお守りなのです。

迷信ではなくて実用的なおまもりね。

今でも男性用のファッション、アクセサリーの中にその名残があるの。その意味するところはもう忘れられちゃってますけどね。

火を熾す技能ってまじないとは切っても切れないものですよね。

いまは誰でも簡単に火を熾せる世界。なんの技能もなくてできるのだからまさに魔法です。

着てる服以外何ももってなくて森の中に放置されたらわたしたちは何日生きられるの?
水の確保が出来ないのなら三日で死んでしまうでしょう。その水をどうやって手に入れるの? 手に入れたとして安全に飲むには? やはり火が必要なのです。

時間が経つほどに体力が落ちてしまうから不用意なお水や食べ物の摂取で簡単にアメーバ赤痢にでもなって死んじゃうでしょうね。映画とは違うんだから。


Angeliqua@nap master
@Ripple1975
魔よけですか。魔よけって何をよけるものかによるかも知れません。
すべてのビナー以降のセフィロトには二面性が存在してるから、
特有の美徳と悪徳があります。魔よけを個々の悪徳を退けるものだとしたらそれにふさわしい対立する石を用いてバランスをとるなんて考え方も出来ますからね。

たとえばそうね、何でも受容する金星の特性は時として拙いことに対しても肯定してしまうという問題があります。そういう特質がつよく出てる場合はあまりよろしくないから断固とした態度もときにはひつようになる。この場合、火星も必要な要素になるでしょう。

金星特有のだらしなさってあるからね。

わたしのやり方は惑星と12宮をセフィロトに配置してそれで石も配置するという方法だからその中にあれこれとやりくりします。ホカノヒトニハほかのやり方があるとは思うけど、使ってる体系の中できちんと機能するように整合をとる必要はありますね。

12宮に対してはルーラーの考え方を採用してるの。だから天秤の場合は金星を使うってことになります。

何が正しいというのはないと思うんだけど、少なくともね? 自分自身の中では矛盾は解決してる必要があると思ってる。扱うのは無意識だから余計にそう思います。




Angeliqua@nap master
@Ripple1975
下はワニさん、そしてハンドル付大鎌は土星の象徴。
ワニさんは欧州にいないのだからこんな想像図になったと思われます。

占星術師などと一緒にしばしば描かれるワニさんはいつもそれっぽい姿をしてるとは言えず、
たまにドラゴンさんっぽく描かれます。だって絵師さんが本物見たことないから。


それから子供を食べてるように見えるのは赤ちゃんではなくて胎児の象徴だと思うの。
というのも、臨月を待たずに流産してしまった子のことだから。これは土星の性格のひとつ、自然淘汰というのがその象徴。

ヘカテー女神が堕胎に関係してるというのをみればわかると思います。

ヘカテーさんって月の女神でもありながら土星の性格を色濃く残してるのです。

(もしかして錬金術師など魔術師が吊るすワニの剥製って
竜のこと?
キリスト教圏で堂々と悪とされる竜を吊るすのはまずいもんね。










参考資料(追伸)

[メモ]カインの末裔
https://note.mu/makojosiah/n/nd65e730dc297
創世記4章にはカインの七代の子孫まで系譜が記され、以下のような情報を付記している。

"レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。
その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。
チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。"創世記 4:19-22

ここで、カインの子孫のある人たちが、ある文明の血統的祖となったことを述べている。
(ここで系図に女性たちが登場するが、これは非常に珍しいことで、何らかの重要な役割を果たした女性と思われる)

しかしレメクの子らヤバル・ユバルの代はアダムから数えて八代目であり、
セトの血統ではノアの祖父メトシェラにあたる世代に近い。

ノアの家族以外の人類は、アダムから十代目くらいで全て洪水で絶えたはずなのに、
二代か三代しか子孫を残さなかった人物を「これこれの文化を持つ全ての者たちの先祖となった」と言うのは違和感がある。

ここで思いつくのは、カインの子孫がノアの洪水を越え、洪水後の時代まで子孫を残した可能性があるのではないか、ということだ。

もちろん、ここで「洪水は地域的なものでノアの家族以外にも生き残った人たちがいる」というような説を検討するつもりはない。

ノアの家族以外が滅んでいるのに、カインの子孫が洪水後も存続しているところれば、それはノアの家族にカインの子孫の血が入る他ない。

しかし、カインの弟セトからノアまでの男系系図が明らかにされている以上、カインの直系男系子孫は滅んでいると考える他ない。カインの血が入るとすれば、女性を通してである。

ノアの家族にカインの血を入れるいくつかのルートが考えられる。

まずノアの家族で言えば、以下のルートがあり得る。

①ノアかノアの先祖の母
②ノアの妻(セム・ハム・ヤペテの母)
③セム・ハム・ヤペテの妻

また、①にはレメクの妻・メトシェラの妻・エノクの妻・イエレドの妻・マハラルエルの妻・ケナンの妻・エノシュの妻・セトの妻の8パターンがあり得る。

②はノアの妻が1人でない場合を考えると、セムの母・ハムの母・ヤペテの母の最大3人があり得る。ただし洪水を通って生きられるのは1人だけである。[2ペネロ2:5]

③はそれぞれに対して妻1人ずつの最大3人がカインの子孫であり得る。洪水前に子はなく、洪水を通って生きられる妻は1人ずつである。[2ペテロ2:5]

"また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち人の者だけを保護された。"ペテロの第二の手紙 2:5

もう一つ重要なことは、ノア以前の人々は長子を設けたあとも息子と娘を設けたという記述があるが、ノアはセム・ハム・ヤペテの後に子どもを残した記述がないということである。つまり洪水後に残った家系はセム・ハム・ヤペテの三系統しかない。

"アダムがセツを生んで後、生きた年は八百年であって、ほかに男子と女子を生んだ。"創世記 5:4

"ノアは洪水の後、なお三百五十年生きた。ノアの年は合わせて九百五十歳であった。そして彼は死んだ。"創世記 9:28-29

"ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生れた。"創世記 10:1

"これらはノアの子らの氏族であって、血統にしたがって国々に住んでいたが、洪水の後、これらから地上の諸国民が分れたのである。"創世記 10:32


カインの系図に話を戻すと、
⑴天幕に住まう者たちの祖ヤバル
⑵音楽を奏でる者たちの祖ユバル
がほぼ確実に洪水後まで子孫を残している者たちと推測される。

もう一人のトバル・カインは「武器を鍛える者」であったが、彼はそのような人々の祖となったとは書いていない。しかし彼の妹のナアマが女性であるにも関わらず珍しくも名を残していることを考えると、おそらくナアマがセトの系統に自身の血統と兄の技術を継承したと思われる。

そもそも、カインの直系子孫が創世記に名を残したのは、その系譜記録をノアの家族が保持したからであるはずであり、そこに名を残された女性はなんらかの形でセト系と重要な関わりがあったと思われる。

よってここでは洪水後に血統を残したもう一人の人物として
⑶トバル・カインの妹ナアマ
がいると推測する。


そしてこの⑴-⑶の血統がセム・ハム・ヤペテの子孫に継がれたと考えると、人類はみなカインの血を継いでいると思われる。カイン系の血をなるべくセト系に入れないシナリオを考えても、セム・ハム・ヤペテまでが純セト系を保ちうる最後の代で、カインの三系統を保つにはセム・ハム・ヤペテの妻たち三人に三系統の血が入っていると考えざるを得ない。(ただしナアマがヤバル系かユバル系に合流する形でのみ血統を残したとすれば、セム・ハム・ヤペテの妻のうち一人は非カイン系でありうる。)

ノアの子らの三系統とレメクの子らの三系統がそれぞれの婚姻で合流していると仮定すると、どのような対応になっているだろうか。

最もわかりやすいのは、セムの系統とヤバルの系統が合流しているという推測である。

"神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。"創世記 9:27

"彼(アブラム)はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。"創世記 13:3

"アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。"創世記 13:5

アブラハム(アブラム)はセムの系統であり、彼らはヤバルの子孫のように「彼は天幕に住んで、家畜を飼う者」となった。もしアブラハムの先祖が「天幕に住まい家畜を飼う者の祖」ヤバルであるとすれば、ヤバルの子孫の女性がセムの妻である可能性が高い。

ユバルとナアマが、ハムとヤペテのどちらの家系に合流したかははっきりとはわからない。おそらく、カナン人系統に武器が発達していた特徴が見られる(歴史・考古学的にもヒッタイト/ヘテ人と鉄器の発達はよく関連づけられている)

"ヨセフの子孫は答えた、「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナンびとは、ベテシャンとその村々におるものも、エズレルの谷におるものも、みな鉄の戦車を持っています」。"ヨシュア記 17:16

ことから、鍛治する者トバルの妹ナアマの家系がハム系と合流し、音楽を奏でる者の祖ユバルの家系がヤペテ系と合流したと思われる。ただ、引っかかるのはヤペテの子に「トバル」という名が見られることである。名は基本的に家系にある名が継がれる。このことが洪水前からあったとすれば、
ヤペテの子トバルはトバル・カインの子孫、あるいはその妹ナアマの子孫である可能性が十分にある。さらにヤバルとユバルの母アダはカナン人の名として後代に登場しており、この人物もヤバルかユバルの子孫である可能性がある。

"八日目になったので、幼な子に割礼をするために人々がきて、父の名にちなんでザカリヤという名にしようとした。ところが、母親は、「いいえ、ヨハネという名にしなくてはいけません」と言った。人々は、「あなたの親族の中には、そういう名のついた者は、ひとりもいません」と彼女に言った。"ルカによる福音書 1:59-61

"エサウはカナンの娘たちのうちから妻をめとった。すなわちヘテびとエロンの娘アダと、ヒビびとヂベオンの子アナの娘アホリバマとである。"創世記 36:2

また、弦楽器や管楽器がギリシア神話などヤペテ系と思われる民族で重視された一方、より古くは古代エジプトやウル第一王朝で弦楽器の原型が見られ、管楽器の原型もシュメール文明からあったようである。エジプトはハム系である可能性が高く、ウル周辺はセム系かハム系である可能性が高い。

"クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。"創世記 10:8-10

"テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。"創世記 11:31

セム系とヤバル系の対応を固定するとしても、「ハム系/ナアマ系とヤペテ系/ユバル系」という対応なのか、「ハム系/ユバル系とヤペテ系/ナアマ系」という対応なのか判断がつかない。これはまた別の機会に考えることにする。

もう一つ考えなくてはいけないことは、セムらの父ノアにカイン系の血が入っているかどうかである。これは恐らく、入っていると思われる。先ほど述べたように、名は親族から継承されている可能性が高いことを考えると、カイン系の系譜とセト系の系譜に共通の名が見られるのは、どちらかがどちらかの子孫として名を継いだ、と読めるからである。

そしてこのことから、カイン系とセト系の血統交差が起こった代は七代エノクの時であることが推測される。より正確に言えば、エノクの父イエレドがカインの子孫の女性を娶ったと思われる。エノクがセト系で最初にカイン系に共通の名を持つ人物であるためである。

"カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。"創世記 4:17

エノクとはカインの恐らく長子の名である。セトの系統のうち、カインの血統を継いだ最初の子は、カインの長子エノクの名を継いでエノクと名付けられたと思われる。
カイン系のエノクがエノクⅠ世セト系のエノクはエノクⅡ世というわけだ。

イエレドの代にカインの子孫を娶ったことについて、創世記6章と関連づけられるかもしれない。

"神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。"創世記 6:2

ここで全く真逆の二種類の解釈が可能である。まずは、「神の子たち」がセトの系統のことであり、「人の娘たち」がカインの系統のことである、という解釈である。この場合、イエレドは神の意に反してカインの子孫を娶った、というストーリーになる。

しかしそのようなストーリーの場合、ノアが三人の子の妻としてわざわざカインの子孫の女性を選んだと思われるのは奇妙なことである。

この解釈の問題点は他に主に二つあり、一つ目は「人の娘たち」と訳されている言葉は言語では「アダムの娘たち」であり、5章で「アダムの系譜」として紹介されているセトの子孫を「アダムの娘たち」から除外しているという不整合であり、二つ目はユダの手紙の解釈に困難を引き起こすことである。

ユダの手紙にはこう書かれている。

"主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。"ユダの手紙 1:6-7

ここである御使たちへの裁きが為されていたことと、その裁きの理由がソドムとゴモラの罪(性的不品行)と対応するものであったことが述べられている。単純に読めば、「ある御使たちは不自然な肉欲によって地位を失った」と読める。このように解釈すると、創世記6章の「神の子たち」は天使たちであり、「人の娘たち」はセト系も含む人間の女性たちのことであった、という二種類目の解釈と呼応する。

さらに、ユダの手紙は第1エノク書の引用とされる部分を含んでいる。

"アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、
「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。"ユダの手紙 1:14-15

これは第1エノク書の1章9節と一致しており、ここからの引用である可能性がある。このことを考慮すると、ユダの手紙の著者の創世記6章の解釈も「天使と人との交雑」である可能性がある。
なぜなら第1エノク書では確かにシェミハザという天使がたくさんの天使を率いてヘルモン山に降り立って、人と交雑した、というストーリーが語られているからである。そしてなんと、第1エノク書6章にはここで考えていることに関係する重要なことが書かれており、それによるとこの堕天使たちが地上に蔓延り始めたのは「イエレドの時代」であったらしい。

このストーリー上でカインの子孫をイエレドが娶ったことにはどのような意味があるだろうか。イエレドの時代に大量にネフィリムが生まれ始め、それが神の意に背くことであったとするならば、
しかもまさにこれがノアの洪水の原因でもあったとするならば、天使の血をノアの子孫に継がせることをなるべく避けるストーリーの方が説得力がある。そこで重要な役目を果たす存在は、血統的に隔離された氏族であり、洪水以前にそれにあたる、地理的・血統的にセトやセトの兄弟家系と隔離されて存続し、おそらく人々から忌み嫌われていた存在こそが、血塗られたカインの系譜であったと思われる。カインは兄弟氏族の全てから離れて東に逃れており、血統的な独立性が保たれ、従って天使たちの血からも逃れていたのかもしれない。

"カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。"創世記 4:16

洪水前の地理はよくわからないが、現在のチグリス・ユーフラテス川流域にエデンがあったならば、ヘルモンはエデンの西であり、カインの子孫のいた側と確かに逆である。

イエレドの家系は天使たちと交雑したセトとセトの兄弟家系から独立して、カインの子孫と共に純なるアダム(人)の血統をノアたちまで守ったのではないだろうか。

さて、カインの子孫の他の名は以下のようになっている。

"エノク
にはイラデが生れた。
イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。"創世記 4:18

このマソラ本文でメトサエル(מתושאל)となっているところは、
七十人訳ではマトゥサラ(Μαθουσαλα)となっており、メトシェラ(מתושלח)の訳と同一となっている。これはヨセフスの著作でも同様である。

このカイン系のレメクはおそらくノアの父レメクの先祖となったと思われる。また、もしかするとこのカイン系のメトシェラ(あるいはメトサエル)はノアの祖父メトシェラの先祖となったかもしれない。カイン系のレメクとメトシェラがレメクⅠ世とメトシェラⅠ世、セト系のレメクとメトシェラがレメクⅡ世とメトシェラⅡ世ということになる。世代関係は以下のようになっている。

1代目 アダム
2代目 カイン セト
3代目 エノクⅠ エノシュ
4代目 ヤレド ケナン
5代目 メフヤエル マハラルエル
6代目 メトシェラⅠ イエレド
7代目 レメクⅠ エノクⅡ
8代目 ヤバル メトシェラⅡ
9代目 レメクⅡ
10代目 ノア

この最も単純な世代関係を仮定すると、メトシェラⅠの孫世代にメトシェラⅡが、レメクⅠの孫世代にレメクⅡがいることがわかる。これはそれぞれのⅠ世の娘がⅡ世の父に嫁いで、生まれた子に父の名を継承させたことを意味するのではないだろうか。(ただしセトはカインがアベルを殺害した事件より後に生まれている。
カインが子を産んだのも殺害事件より後のように読めるため、
殺害事件当時カインもアベルも若かったとは思われるが、それでもセトとは十年〜数十年以上の年齢差があったと思われる。)

さて、カイン系の女性として特別に名を残したレメクⅠの娘ナアマはどのような立ち位置だろうか。上記の世代関係から単純に考えると、メトシェラⅡの妻がナアマであり、息子に父レメクの名を継がせたと思われる。レメクⅡは息子にカイン系の名を継がせていないので、レメクⅡの妻はおそらくレメクⅡの従姉妹(メトシェラⅡの弟の娘)あたりではないかと思われる。つまりノアの祖母ナアマはノアにとって最も近いカイン系の先祖であり、系譜に記されるべき人物となる。

ここから、ナアマを通してトバル・カインの「鉄器技術」という文化を継いだのはセトの直系系統で、
つまり洪水を越えてそれを継いだのはノアの長子系統であると思われる。ノアの長子はセムではないことはほぼはっきりしているが、長子がヤペテかハムかは解釈の仕方による。ナアマ系がヤペテ系かハム系かは先述のようにどちらともとれるので、ここではどちらかには結論付けないでおく。

"ノアは五百歳になって、セム、ハム、ヤペテを生んだ。"創世記 5:32

"こうして七日の後、洪水が地に起った。それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、"創世記 7:10-11

"セムの系図は次のとおりである。セムは百歳になって洪水の二年の後にアルパクサデを生んだ。"創世記 11:10

セムは洪水時に九十八歳であるため、ノアが五百二歳の時に生まれている。ノアが長子を設けたのは五百歳であるから、ハムかヤペテがその時に生まれているはずである。

セムとヤペテの順序関係が書かれているらしい箇所があるが、どうもどちらともとれるらしく微妙。

"セムにも子が生れた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。"創世記 10:21

"Unto Shem also, the father of all the children of Eber, the brother of Japheth the elder, even to him were children born."Genesis 10:21KJV

後者がより七十人訳に近い解釈と思われる。

「ハムが末の子」と読めるところもあるが、カナンもハムの末の子であることや、そもそも末の子ではなく長子ではない子とも読めるらしく、こちらも微妙。

"やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。"創世記 9:24

"And Noah awoke from his wine, and knew what his younger son had done unto him. And he said, Cursed be Canaan; a servant of servants shall he be unto his brethren."Genesis 9:24-25”




やまだまさゆき
🔮占い師/講師
‏ @tarotnavi
2018年6月4日
返信先: @Prokoptasさん

すみません、フリーメイソンのと逆でしたね。

つまり『女教皇』は神殿のほうを向いて座っている事になるのでしょうか。


TOMITA_Akio@Prokoptas
返信先: @tarotnaviさん
問題は2つです。
①神殿(の入口)は東向きなのか、西向きなのか?
②観測者は神殿の内側から柱を見ているのか、外側から見ているのか?
「ふつう神殿の中から見た位置でいわれるが、決定しがたい」(『イメージ・シンボル事典』)。
この書は、伝統的見解として入口を南としている。





















72はカバラでは神が持つ72の名として語られ、72人の律法学者が72日間かけてモーセ五書をギリシア語に訳了した
(それがセプテュアギント)。
全天360度を5度ずつで割った数が72であり
(これはシュメールの時代から知られていた)
72を6で割ると黄道の宮の数と一致する。


「あらゆる文字が数、言葉、そして奥義的概念を意味する時、
最も単純な発言においてさえ、
設定可能な対応するネットワークは極端に複雑になる。
カバラ主義者たちはこれらの対応を多くの世紀を越えて探求し、
注釈と解釈の莫大な要約を作った」(キング『数秘術』)。







第②方式は太陽の日周運動と関係して
東=ミズラーハ(日の出)、
西=メボー・ハッシェメシュ(日の入り)、
北=ツァーフォン(遮られた所または暗き所)、
南=ダーローム(輝ける所または明るき所)。

第③の方式は地形的とでも呼ばれるもので、
南=ネゲブ(パレスチナ南部が不毛の砂漠であるところから)。
西=ミツヤーム(海から)またはヤムマー(海に向かって)。
北と南に対してはこれと同類の名称が用いられていた形跡はない。(『旧約の天文学』)



前10世紀に建造されたとされるソロモーン神殿の至聖所(契約の櫃が安置される)は
長さ20キュービット、
幅20キュービット、高さ20キュービット(列王記上6:20)、
つまり立方体であった。
「明らかにこの神殿は宇宙を象徴している」(『世界シンボル大事典』)。















2018年6月7日

補足。
「イエス(Ἰησοῦς)」という名前は,ヘブライ語「ヨシュア」(の後期形)をギリシア語に音訳したギリシア語。
なお、『弁明の書』の心臓は倒立していることに注目。倒立したり、左右逆転したり……カバラの図のこの複雑さをきちんと説明した参考書は少ない。









TOMITA_Akio
@Prokoptas

しずかな肩には/ 声だけがならぶのでない/ 声よりも近く/ 敵がならぶのだ/ (石原吉郎「位置」冒頭の4行)
京都市左京区
web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/…
2010年10月に登録





2018年6月9日

「22の文字がある。これを使ってIAM(יאמ)「番軍の主」「全能にして永遠」なる君は3つの「セラフィム(数・文字・音)によって、その宇宙を設計し創造した。そして、それによってあらゆる被造物と将来生成するべき万物を形成した」(『形成の書』第6章9)。





(基礎イェソドがちゃんと股間(生殖器)にある)

2018年6月10日

人間の創造は2段階で行われる。すなわち、アダム・カドモンを原型として、素材を調達して「アダム」が造形される。
「神は地の塵χοῦςから人間を形づくり、ゾーエーζωήの息をその顔に吹きかけた。すると人は生ける霊になった」(七十人訳『創世記』2章7)

クリスチャン・カバリストが偏重するセフィロトの樹は、じつはアダム・カドモンの図案と見てよい。
ただし、われわれこれを背後から見ているのである。なぜなら、シナイ山で神はモーゼに「背部」のみを見ることを許したもうた(『出エジプト』33章22)からである。











2018年6月13日

重要なことは、ソロモーンの神殿を造ったのが、フェニキアの都市=ティルスから派遣されたヒラムという職人であったことである。その神殿は、主としてエジプト様式に基づいて建てられ、典型的なフェニキアの装飾を施したものだった」(『旧約聖書時代の諸民族』)。


6月13日

ソロモーンの神殿はレバノン杉と石と黄金で造られたが、ヤキンとボアズだけは青銅づくりであった(列王記上7,15)。
青銅は銅と錫の合金。これは、強度が増すという実用的な意味のみならず、反対物の結合という象徴的意味を有する。
「青銅の蛇は神殿に置かれ……→
ドドナにあるゼウスの神聖な森において、風に鳴る鐸は青銅製であり、ヘーパイストスの宮殿、神殿の扉、ウェスタの神殿の屋根、ローマで造られた初のケレス像、神聖な杯も青銅製、エジプト人にとって、天の蒼穹も青銅製である」(『世界シンボル大事典』)。



6月14日

マタイ6,28
「空の鳥を見よ。蒔くことも刈ることも、集めて倉に入れることもしない。……野の百合κρίνονがいかにして育つかをよく学べ。労苦せず、紡ぐこともしない。汝らに言う、栄光を極めたソロモンでさえこの花の1つほどに身を装うことをしなかった」(マタイ6、26-29)。


















タロットの神の家はベチル。
塔は柱




「ヘーラクレースの柱」は「人間が踏み越えてはいけない保護の限界を象徴するが、
……境界を踏み越えるのが王者の野心である。
フランス王シャルル・カン(シャルル5世)の野心がそうで、彼の紋章の銘はplus ultra(なおもそのうえに)であった」(『世界シンボル大事典』)。
「ヘーラクレースの柱」と「ヤキンとボアズ」は無関係ではない。
ヘーロドトスはヘーラクレース崇拝の古さを求めてテュロス!に渉っているのである。
「特記すべきは2本の角柱で、1つは精錬された黄金製、
1つは闇中でも輝くほどの巨大なエメラルド製であった」(巻2,44)。


ソロモーンの神殿も東向きだったと考えられる。
しかし、まわりを取り巻く農耕民の宗教に対して遊牧民の宗教を、
多神教に対して1神教を、
太女神の母権に対して父権を提示したのがユダヤ教だった。
異教と習合しかかるたびに、この要素を厳しく削ぎ落としていった。













ソロモーンの神殿は「実際は異教の多数の哲学的寓意画と男根の画を内蔵する密儀伝授の家だった……
柘榴、棕櫚の頭飾りをつけた円柱、バビロニアのケルビム、
及び部屋と幕の位置は、すべて、この神殿がエジプトとアトランティスの神殿にならって型どられたものだと暗示している」








「デーミウルゴスのヒラムは創造を引き受けた時、
宇宙における水からの殉教の時代を開始させるところとなった。
キリストと同様、彼も四大元素の十字架上で磔にされ、
アテュス同様に忘却の牡豚に喰われ、
オシリス同様に存在の鉛の箱に入れて封印された。→




ヤバルは地理学を発見し、初めて石と材木から成る家を造り、
ユバルは音楽の技術を、
トバル・カインは鍛冶の技術を、
ナアマは機織の技術を発見した。
ここまでは聖書に書かれている(創世記4章19-22)。

人間が学問を発明・発見した罪のために、
神が火か水で復讐することがわかっていたので、
発見した学問がその後も見つかるよう、
2本の石柱に書き込んだ。1本はマーベルと呼ばれ、
火の試練に耐えるよう焼成煉瓦で、
1本はラトラス(真鍮?)と呼ばれ水の試練に耐えるよう造られたと。

しかし、レメクにはもうひとつ、アダムから繋がる系譜がある。
アダム→セト(セツ)→エノシュ→ケナン→
マハラルエル→イエレド→エノク→
メトシェラ→レメク→ノアである(創世記5章)。

「アダムは、一度は劫火により
一度は大洪水により、世界が破滅することを予言していた。
→彼らはその学問が人類から失われないよう、
煉瓦の柱と石の柱を2本立て、それに自分たちの発見を記録した。……それは現在でもセイリスの地に残っている。
ヨセフス『ユダヤ古代誌』Iのii末尾。
このノアの時に大洪水が起こり、予見どおり、焼成煉瓦の柱は水によって消滅した。


焼成煉瓦の融点は1630℃付近から1770℃に及ぶとされ、耐火性にすぐれているが、水には弱いという。
対して青銅(銅と錫の合金)の融点は875℃(銅の融点より低くなる)、
真鍮=黄銅(銅と亜鉛の合金)は1050℃。水には強いが火には弱い。


15世紀の占星術テキスト(exordium e cod. Paris. gr. 2419, fol. 1v) (拙訳)
「セートが星学を発見したのは、「主」の天使のおかげである。
だから、将来起こること(火と水による氾濫)を予知して、
2つの門を石と焼成煉瓦で建造したのである。→

→そういう次第で星学において共働したのも、火による氾濫が起こったら、
焼成煉瓦の〔門〕が持ちこたえるよう、水による氾濫が起こったら、石の〔門〕が持ちこたえるためである。→






















Shelk@Shelk_Shelk_
習合の結果、エルの妻だったアシェラはヤハウェの妻とされた。
唯一神のヤハウェにも、当初は妻がいたのである。
だが、時代の経過とともに唯一神の思想が強まり、
アシェラの存在は削除された。
とはいえ、アシェラを象徴する樹木の表現だけは残ったようだ。
形を変えて女神の痕跡は引き継がれている。

イスラエルとは、「エルが支配する」の意である。
その名の通り古代イスラエル人は当初、ウガリトやカナンで信仰されたエルを主神として崇拝していた。
後にヤハウェが導入されると、エルは習合されて取り込まれ、ヤハウェがイスラエルの主神となった。

ユダヤ教徒とキリスト教徒が信仰するヤハウェは、
イスラエルに最初から存在していた神ではなく、実は後から導入された。
イスラエルという名が確認できる最古の資料は、
エジプトの第19王朝の王メルエンプタハの治世に造られた戦勝碑である。
碑文の中ではイスラエルが非定住の部族として紹介されている。


一方、キリスト教はそうした選民思想を取り払い、
神はすべての人間に恩恵を与える存在であると説いた。これは当時のユダヤ社会では反社会的思想であり、結果イエスはユダヤの司祭に疎まれ排除された。だが、弟子による命をかけた活躍のおかげで、今日まで彼の思想は継承されているというわけである。

内面を重視するキリスト教と異なり、ユダヤ教では形式を重視した。
安息日、割愛、動物犠牲、儀式の厳密な規定など、細かい行動規範が旧約聖書の「レビ記」に記されている。ユダヤ教徒にはその厳守が義務付けられた。そして、ユダヤ民族には自分たちは神々から選ばれた特別な民族という誇りがあった。



(箒ってささくれ側が前らしい)




術式 formulae は儀式構成要素の最小単位、
「それを行うことで心が動くもの」を指します。
「火に手を突っ込む」、
「目隠しして声のする方向に歩く」と心理的負荷がかかるわけです。
そういうユニットが集まってルーチン化したものが伝統儀式である、と。










やまだまさゆき 占い師
@tarotnavi
『高等魔術実践マニュアル』とか『魔法入門』とかも入手出来るようになるのかなー
版権の問題とかあるし微妙だけど、無駄に高額になってる本とかが安く入手出来るなら歓迎。これによって古書市場が変わる可能性もありそう

オンデマンドプリントは印刷が(自主規制)な事が多いから、特殊な印刷をしている本とかは難しいかもですね。昭和初期以前の古書とかも入手出来るようになったら面白いけど神田界隈から猛反発ありそうだから絶対無理だろうなー

arima
@arima_yukimi
読書クラスタの皆様には周知のことと思いますが、欲しい本をamazonで検索して高値の中古本しか出てこないときは、早まる前にまずhontoで全国の店舗在庫を検索してみましょう。案外、お近くのお店に普通に在庫があったりするかもしれませんよ。





もとなおこ@moto_n
もとなおこさんがもとなおこをリツイートしました

ロンドンは現在午前5時。1666年のこの時刻、プディングレーンから出た炎は、ロンドン橋近くまで広がり、聖マグヌス協会が燃え落ちたあたり。ロンドン橋は当時橋の上に建物が密集していたのですが、1633年の火災で一部の建物が取り壊されていたため、シティの火事がテムズ対岸まで広がらずにすみました








峨骨@Chimaera925
2017年12月3日
禁止ワードが追加ねぇ。ケアだかポアだかしらねぇが。
とりあえず、ソブンガルデへ行け!は凍結されないだろう。エルダースクロールにもそう書いてある。実際問題、この手の禁止ワード作っても人間の悪意は消えんのな。粘着で嫌がらせやってる奴で通報しても消えない奴なんてゴロゴロ居るし。

「貴公の首は柱に吊るされるのがお似合いだ!」コレも使えそうだな。

岡沢 秋(maat)
@Aki_Okazawa
2017年11月10日
今日から使える古代エジプトフレーズ
「ドゥアトへ赴け」(しね)
「隠れし者に導かれよ」(しね)
「西方の地平へ送ってやる」(ころす)
「アメミットの腹に収まるがい」(地獄へ落ちろ)
「セトの祝福を受けし者」(お前うざい)

この辺使うと悪口に見えないし垢凍結もされないから是非流行って欲しい。


日本語で言うあの世ですからねえ。オシリスの裁きを受けるがよい、
とかオシリスさんも使いやすいですね

黒鹿月 木綿稀/コミケ3日目の人
@yukurokazuki
2017年11月11日
返信先: @Aki_Okazawaさん
FF外より失礼します。アメミト(アメミット)って
死者の心臓を天秤にかけて羽毛(羽根)より重かったら
下にいる犬に心臓食われて復活できないっていうあれですよね…………
便利な言葉なので今度使わせて頂こうと思います。

岡沢 秋(maat)
@Aki_Okazawa
2017年11月11日
それです!犬みたいに見えるけど
カバとライオンとワニを合成した神様なんですよあれ。

ChangLeeShow日本が好きで何が悪い!
@ChangLeeShow
2017年11月11日
返信先: @Aki_Okazawaさん、@murrhauserさん
893の脅し文句に「西向かしたろか」ってのが有るが、
古代エジプトでも同じなのに驚いた。

珍小鳥@最終教師のフレンズ
@chinkotori_fake
2017年11月12日
仏教では西方浄土に行きなさい(往生せいや)という言い回しがあるので
893さんの西向かしたろか、はここから取っているものと思われます。
古代エジプトも侮れませんねw













(この古本屋さんサイトで魔法入門で検索すると
19,800~8,500円。
アマゾンのものも法外に高額に釣り上げているのではなさそう)




(ヘルメス+十字+鍵+黄金)










(ミクのネギはヤソがらみだと思っていたがこれかも。
神道のネギともかけてそうだが。)













お読みくださり感謝!
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