1991年に『ムルデカ』(独立、自由の意)という映画が封切られ、大きな話題を呼んだ。これは、いわゆる歴史修正主義と言われる保守派のグループが作った映画であるが、先程述べたかつて現地逃亡脱走兵と呼ばれた人々を独立に貢献したヒーローであると位置づけ、インドネシアの独立は日本人の犠牲的貢献によって達成されたのだという観点から、スペクタクルな映画に仕立てられている。この映画を観た当時の駐日インドネシア大使、アブドゥル・イルサン氏は、その日本語に翻訳された『インドネシア人外交官から見た日本』において、その印象を「全くもって、インドネシア人の感情を害した」と断じている。
天皇が初めてインドネシアを訪問したのは1989年のことであるが、当時スハルト体制下で言論統制が厳しい中―同政権は日本と関係がとりわけ深かった政権であったが―、インドネシアの有力紙『スアラ・プンバルア ン』(改革の声)は次のような社説を掲げた。「傷は癒えたが、傷跡は残っている」。同じようにジャカルタの英字新聞『ジャカルタ・ポスト』の編集局長エンディ・バユニはこう言明している(『朝日新聞』2005年11月3日)。「大半のインドネシア人は日本の過去について、すでに忘れているし、許してもいる。だからといって日本の3年半の統治が残酷なものだったという事実は変わらない」と。https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/caas/qo9edr000000ml88-att/ni_53.pdf
インドネシアの教科書や、彼らとの日常的な会話の中でもよく耳にするのですが、「日本時代というのはオランダ時代と比べてはるかに過酷であった。しかし我々はそれを乗り越えて強靭さを身につけた」というのです。ほめられているのか、けなされているのかわかりませんが、恐らくその両方の面があるのでしょう。それが日本についての最大公約数的な体験イメージなのではないかと思います。(p.15)
例えば、ジャカルタの中心部にあるインドネシアの独立記念塔の地下にある博物館に行きますと、そこでは日本時代を象徴するただ一つのディオラマがロームシャの像なのです。先ほど述べた、戦争を知らない今の世代が学ぶ、客観的な記述が特徴的な教科書の日本占領期にかかわる一〇のキーワードでも、ロームシャが当然のごとく登場するという事実は踏まえておく必要があります。つまり数の問題ではなくて、この言葉が完全にインドネシア社会の中に日本占領期をイメージする言葉として定着していることに注目したいのです。(p.22)
インドネシアの歴史教科書にはABDAという言葉がたびたび出てきます。いわく、我々が日本の支配下に入ったのは、アメリカ(=A)、イギリス(=B)、オランダ(=D)、オーストラリア(=A)がだらしなく、我々をしっかり守ってくれなかったからだというのです。ちょうどフィリピン人政治指導者が自分たちを見捨てて去った米軍の弱体を難じる声と似ています。(p.23)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000034813.pdf
衆議院・予算委員会 1950年2月3日
○吉田国務大臣(吉田茂)
けれどもインドネシアは{対日感情は)私は相当悪いのじやないかと思います。フィリピンが悪いそうです、仏印もあまりよくないように開いております。 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/007/0514/00702030514007a.html
衆議院・大蔵委員会 1950年12月8日
○川島委員(川島金次)
インドネシア、インド支那、こういう方面にもフイリピンと同じように、対日感情の芳ばしからざる面が相当あるわけであります。
○池田国務大臣(池田勇人)
川島君の言われるようなことを私は他の人からも聞いたのであります。太平洋戰争中にわれわれの同胞の犯した罪に対しまして非常に憎悪の念を持ち、それがだんだんよくなりつつはありますが、まだわれわれの想像以上に憎悪の念が残つておるということを聞いておるのであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/009/0284/00912080284012a.html
日本では,「労務者」という言葉4)は「(主として肉体的な)労務に従事す る者。労働者」(『広辞苑』)を意味するにすぎないが,最新のインドネシア語の大辞典Kamus Besar Bahasa Indonesia(Edisi Kedua)には"romusa''の見出しのところに,「日本占領時代に重労働をさせられた人々;強制労働者」という説明があり[Tim Penyusun Kamus 1991:846],日本語の 「労務者」とは意味合いが違っていることがわかる。(p496)
(インドネシアの)この学習指導要領によれば、・・・「日本占領期」の要点として「第二次世界大戦とインドネシアへの波及」「インドネシアは日本の戦争支援のために原材料と人材の供給源とさせられる」「日本占領政府の政策は民族闘争に活用された」の3点があげられている。(p499)
A1は、「動員」の方法に関して、「ロームシャたちは、大半が村落から徴用され、それも一般的には学校を出ていないか、せいぜい小学校卒の人々であった。最初、彼らは甘い言葉でロームシャになるように勧誘され、甘言で成功しないと,強制された。・・・(インドネシア人が)任地へ派遣されることを嫌がったので、日本側は強制を行った・・・村に残ったのは、女子供と身障者だけになった」(p.76‐77)
A 1=Departemen Pendidikan dan Kebudayaan.1976(1st),1985(7th). Sejarah Nasional Indonesia Untuk SMPIll. Jakarta:Balai Pustaka (※中学教科書)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56532/1/KJ00000131834.pdf
当時、学生だったあるインドネシア人は・・・「早朝から・・・タイソウというものをしなくてはなりませんでした。タイソウを始める前には、テンノウヘイカ[天皇陛下]の宮殿があり、太陽の昇ってくる東の方角を向かなくてはなりませんでした。テンノウヘイカは、日本の神様でした。・・・私たちは、心の中では、神様などではないと思っていました」42と回想しており、(p15)
当時、憲兵(隊)の取調べを受けたインドネシア人は「ケンペイタイは、常軌を逸するほど乱暴で残酷でした。・・・私は、眼鏡をはずされ、取調べのあいだじゅう、粗野な言葉で怒鳴り散らされるばかりでした」43と、憲兵(隊)の厳しい取調べの実態について回想している。(p15)
あるインドネシア人は「私が憶えていることは、・・・人々が日本に協力することを怖れていたことです。・・・ちょっとした過ちでも平手打ちでした。・・・バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです」49と述べているし、ある元南方特別留学生も「民政部の前を通るときには、そこに立っている兵隊さんにお辞儀をしなければならないのです。・・・お辞儀をしないとビンタです」50と回想している。(p16)
元ジャカルタ海軍武官府調査部勤務であった西嶋重忠は「いつまでも当時、暴力をふるった日本人の名前をあげ、うらみごとをいうインドネシア人がいる」51と述べているが、(p16)
元調整大臣アラムシャ(Alamsyah)中将は「日本軍は当初インドネシア解放のためにやって来たと言っていたが、途中でインドネシアの国旗と国歌の使用を禁止してしまったので、私たちは日本人を信用できなくなってしまった」53と述べている。また、元インドネシア大学上級専任講師ストポ・スタント(Soetopo Soetanto)も「当初インドネシア民族の間にあった期待、あるいは熱狂に満ちた雰囲気はそう長くは続かなかった。・・・ジャワ全域の軍事的掌握が完了するや、その占領者としての真の態度というものがただちにあからさまになった。・・・インドネシア民族は・・・はやくも失望の念を抱くに至ったのである」54と述べている。(p17)
http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/3.pdf
私は一九七五年から二年間バンドンで暮らしました。そのときに必ず出てくるのは、日本軍の最も悪いことは、なぐることだと、繰り返し強調されました。それから食糧、日本軍の占領期にお腹がすいた話、布地が足りなくてゴムでつくった服を着た話、そういう話がよく出てきました。https://wako.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3916&file_id=22&file_no=1
そのような状況下の(1942年)3月27日、宣伝班とインドネシア文化人との初会合がジャカルタの芸術会館で開かれます。60人近くが出席したインドネシア文化人の最大の関心事は、日本がインドネシアの独立を認めてくれるかどうかでした。宣伝班を代表して、徴用作家の富沢有為男が講演を行います。インドネシアの独立運動に対しては過早に誘発することを避けることとしていた日本の方針を了解していた富沢は、アジア解放のために戦っている日本の独断的な政治をインドネシア人は辛抱しなければならないと演説しました。それを聞いてインドネシア文化人は非常に落胆し失望しました。この会合結果に対する日本人の徴用文化人の反応は、当時の日本の新聞などで報道されたものによると、富沢の話は当然のことであり、アジアの民族が共存共栄する「大東亜共栄圏」の中で各民族の独立は必要ないというものでした。しかし、のちに彼らが執筆した文章なども検討すると、それは、彼らがインドネシア侵攻前に予想していたことと異なり、インドネシアに哲学者などの知識人が多く存在し民度が高いことに対して衝撃を受けたこと、また日本の方針に対する現地知識人の落胆の大きさに対して困惑する自分たちの姿を隠ぺいする虚勢の発言であったと理 解できます。(p.147‐148)
以上の論旨は、インドネシア独立宣言がなされた後に刊行された総合雑誌「Voice of Free Indonesia」にサヌシ・パネとダルマウィジャヤが記した論考と重なります。彼らは、 日本は大アジアの文化として日本文化を強制したし、また日本は「大東亜共栄圏」文化を インドネシアに移植することに失敗したと、日本の占領下での文化政策を批判していま す。ただし、大アジアの文化が提起されたことは、東洋文化について考える機会となっ た、とも記しています。 (p.156)
https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/caas/qo9edr000000ml88-att/ni_55.pdf
インドネシア教科書
日本による占領期間は短かったとはいえ、長期にわたったオランダ時代に受けたよりも遥かに重い苦しみをインドネシア国民は体験することとなった
https://web.archive.org/web/20161005145655/http://www.geocities.jp/indo_ka/buku_pelajaran/bahasa_jepang2.html
講和条約交渉時のインドネシア代表
「本国では賠償問題がやかましく国民の要望をなんとか満足させる必要があり大いに腐心しているところである」(p155)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/heiwajouyaku4_04.pdf
日本は1930年代40年代の軍事行動に対して充分に謝罪したか?(2013年7月)
「いいえ」「はい」「謝罪の必要はない」「わからない」
韓国 98% 1% 1% 1%
中国 78% 4% 2% 16%
フィリピン 47% 29% 19% 5%
インドネシア 40% 29% 6% 25%
マレーシア 30% 22% 10% 38%
オーストラリア 30% 29% 26% 16%
日本 28% 48% 15% 9%
http://scopedog.hatenablog.com/entry/20130801/1375371347
ASEAN諸国における対日世論調査 平成14年11月
第二次世界大戦中の日本について、
「悪い面はあったが、今となっては気にしない」
インドネシア:44%
マレーシア:50%
フィリピン:51%
シンガポール:62%
タイ:45%
ベトナム:71%
「悪い面を忘れることはできない」
インドネシア:25%
マレーシア:22%
フィリピン:33%
シンガポール:31%
タイ:18%
ベトナム:12%
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/yoron.html
「極秘」印爪哇(※ジャワ)軍政監部警務部治安月報(二月分)第一 概況一、爪哇在住各民族は漸次時局を認識し防衛援護労力並に籾の供出増産勤労奉仕等積極的に軍政に協力しつヽありて治安は概ね平穏に推移しあり。二、然れども生活必需物資特に食糧衣料の不足と価格の昂騰は無智なる民衆の生活に深刻なる影響を及ぼし生活安易なりし戦前と比較して、不平不満を洩すもの増加の傾向あるのみならず之に乗ずる不逞分子の策動跡を絶たず。即ち二月中狂信的回教徒の暴動事件勃発憲兵警察官死傷せる外●諜報容疑事件 三件●謀略放火 一件●抗日陰謀事件 二件●思想事件 二件●籾略奪事件 件等発錆しありて治安と偸安を許さヾるものあり。
第二 民族の概況
一、民心の動向
(一)原住民
原住民大衆は防衛義勇軍の訓練実施、団旗の授与等に斉しく感激し益々防衛熱を昂揚しあるも飯米不足衣料不足窮迫化物価の暴騰等は民衆の生活に大なる不安を与へ之に起因する籾供出の拒否飯米衣料品の窃盗等増加し或ひは蘭印時代と比較し軍政を難ずる等離日反日的言動漸増しあり。
殊に二月二十四日「プリアンガン」州下に於て「キヤイ」を首謀者とせる回教徒の暴動は宣撫に急行せる原住民警察官を拉致し憲兵及通訳を殺傷せる事件発生せるが生活の窮迫化に伴ひ斯種不祥事態多発の公算大なり。
知識層は第二回中央参議院に於て答申せる防衛態勢強化食糧自給態勢強化は緊急不可避なる戦争則〔ママ〕応の具体策なりと概ね之を支持しあるも第一回に比し冷淡にして一部には
●政治参与の事実及之が意義を認めざるもの
●民主々義的協議会乃至言論の自由を主張するもの
●経済政策への参画を要求するもの
等未だ中央参議院の本質軍政下に於ける政治参与の真義に徹せず不平的言動を洩すものあり
(中略)
二、民族運動
新組織運動発表後相当動揺しありたる民族主義者も本期間に於ては特に見るべき言動なく表面情勢観察中なるものゝ如きも中には民衆の対軍政不満感情地方行政官吏に対する民衆の怨嗟を巧に利用し民族の自立を図らんとするものあり。事案次の如く厳に注意中なり。
(一)「マドラ」州下原住民一は「インドネシヤ」民族の独立と共産主義社会の実現を企図し同志を獲得し目的達成の手段として軍政不協力を標榜せる秘密結社黒鷲団(前月報に於て反日団体として掲載)を組織陰に陽に我が軍政を阻害組織の拡大強化を図りありたり。
(二)「ジャカルタ」州下国民学校教員原住民一は「インドネシヤ」民族の独立を目的とする「バリサン、キタ」なる秘密結社を組織し軍政誹謗乃至官民の離間策動等を為し以て団員獲得民心収攬に努めつゝありたり。
(三)民族主義者間に「バリサンダラム」なる秘密結社を組織し全島主要地点に四十名の運動員を派遣し民族独立思想の宣伝支持者の獲得に暗躍しある情報あり。
(三)、抗日排日運動の状況
・・・本島を繞る各種情勢は反日分子をして米英軍来攻の盲念を増大せしめあり。加ふるに物資の逼迫殊に米穀供出により一般的に食糧不足を告げありて不満を抱き居るもの多く之が為一般民衆は反日感情へ移行するの傾向無しとせざるを以て厳重警視に努めあり。
(中略)
第七 経済状況
一、概況
生活必需物資の減少は漸次深刻化し通貨膨張と相俟って価格は昂騰そあり。就中食糧衣料の逼迫著しく闇取引の横行による需給混乱と共に価格は日を追って昂騰し戦前の数倍乃至十数倍の高価に非ざれば入手し得ざる状態となり一部地方にありては半裸となり甘藷其他野生草の葉根又は尚早の「タピオカ」等を常食として露命を継ぎあるもの或は食糧の欠乏により飢餓浮腫病発生し死亡者を出す等ありて民情は悪化の傾向あるのみならず食糧衣料の欠乏に基因する窃盗闇取引流言傷殺害事件及其他不祥事件増加しあり。アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jpレファレンスコード C14060156300治安月報(2月分) 昭和19年3月19日
山中篤太郎と板垣興一によって実施された中部ジャワのケドゥ州における生活実態調査3でも,1943年当時の住民生活の困窮ぶりが報告されている.一例をあげれば,繊維類の高騰について以下のような記述がみられる.「特に視察部に於て戦争後変化せる慮として強調せられたるは繊維類の価格高騰にて戦前約二十五銭の児童用ショートパンツ一円二十銭内外となれること,特に回教葬儀に必要なる屍衣の入手困難となれることを訴へり」(南方軍政総監部調査部1943:5) この繊維類の高騰に関する記述から1943年当時のジャワでは,児童用のショートパンツが戦前と比較して約5倍にも高騰したこと,イスラーム教の葬儀で使用する屍衣さえ入手が困難であった経済状況であったことがみてとれる.
(参考)その他日本がインドネシアでやったこと
「秘録大東亜戦史」富士書苑、1953年
吾等に光を―インドネシア独立闘争小史―
朝日新聞社外報部 谷口五郎
このようなインドネシア民族運動の闘士(※スカルノ・ハッタのこと)を日本軍が引き出して、大東亜共栄圏を説いて軍政に協力させたのだが、差当りの占領以外には何も考えていなかった日本軍のやり口を彼らが懸念したのも、もっともな話である。彼らの民族歌=あとで国歌とされた=「インドネシア・ラヤ」を禁止し、インドネシア国旗=赤白二色旗を認めない軍政は、その当初からおかしなものであった。
スカルノが「共和国」の理想を語れば、「反日」分子だと批難し、彼の公式の演説は思想が好ましくないといって、しばしば書きかえを強制され、「もうこれ以上手を入れることは、、出来ない」とペンを投じて彼がなげいたことも一再ではなかった。ハッタが英国の協同組合運動に共鳴して、インドネシアの経済的発展は「組合主義」によらなければならないといえば「彼は赤だ」「とか、おしまいには「学生に毛のはえたような連中が何を生意気なことをいうか」というのが多くの将校たちの態度であった。
「軍の命令を徹底させろ」
「彼らを鍛え直してやるのだ」
というのが司令部の連中の口ぐせであった。
しかし、インドネシアのなかでスカルノやハッタの見識や人望を否定するものはなかったので、軍政のうえで何としてもこの二人を利用しなければならぬということには異論はなかった。
だから日本軍の上級将校たちは、日本側の御都合主義をインドネシア側に押しつける場合は、インドネシア指導者たちを呼びつけて、いわゆる声涙ともにくだる懇談をやった。最初は彼らを感激させることが出来たが、あまりに日本軍の首脳者たちが彼らとの重要会談で泣くので、彼らはまたあの手かと用心するようになった。(p16‐17)
1942年3月20日、日本軍は国民集会、政治運動の場では、merah putih(赤白国旗)を日の丸国旗に代えて、という指令を出した。結果としては、インドネシアの国家主義の指導者たちは日本軍政府に対して、文句を言い出し始め、反日本軍政の態度を広めた。1943年末に太平洋戦争戦場各地におけるアメリカ軍の攻勢により日本軍はますます弱くなって来た。インドネシア国民の協力を得るために、1943年1月23日に日本首相の東条英機は参議院本会議で「本年の間ビルマとフイリッピンの独立を約束」2。当時インドネシア独立について東条英機は何も云わなかった。だが、インドネシア国家主義指導者のスカルノ(Sukarno)・ハッタ(Hatta)は軍政官部に批判を表明した。スカルノ・ハッタは「軍政部が約束を破ったため、これからインドネシア国民は戦かって自力で自国の独立を獲得すべき、日本軍政官の約束は今後信頼できない」と語った3。
インドネシア国家主義運動の盛り上がりを見ると、1943年4月末に東条英機は青木大東亜共栄圏の大臣をジャカルタに派遣した。ハッタは青木大臣との会見時に、再び質問を出し、「なぜインドネシアを差別して、ビルマやフイリッピンと同じような地位(status)にさせなかったか、なぜインドネシア独立の約束を破ったか」と鋭い質問を出し、「もしインドネシアをビルマとフイリッピンと同じようにしなければ、これからインドネシア国民は日本軍政府に協力しない…」とハッタが強く言い出した4。ハッタは二点の要求を出した。第一点はインドネシア国歌の大インドネシア(lndonesiaRaya)とインドネシア紅白国旗(BenderaMerahPutih)を自由に使用できるようするべきこと、第二点はインドネシア諸島を占領軍政府により統一されるべきである。このバッタの要求に対して、青木大臣は東条英機に伝えると約束した。青木大臣訪イの結果、インドネシアの独立について代表事務所(ライソンオブイス)で討論が行われた。東条英機首相、重光外務大臣、青木大臣はインドネシアに独立を与えるように勧めたが、陸軍・海軍代表がこれに反対した。
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2536&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1
こうした中で、インドネシアの民族主義運動指導者たちは日本をどのように見ていたのでしょうか。ここでは独立後にそれぞれ初代の大統領、 副大統領、外務大臣となったスカルノとモハマッド・ハッタ(両者は当時流刑地に幽閉中)、アフマッド・スバルジョの三名について簡単にご紹介したいと思います。
スカルノの場合には、約言しますと、「今、国際関係の中で日本の台頭が大変著しい。やがては現在東南アジアを支配している英米両大国と日本との間に角逐が起こるだろう。我々はその間隙をぬって独立のチャンスを拡大していこう」という立場を打ち出しました。
ハッタはオランダ・ロッテルダム商科大学で経済学を修めた合理主義者であり、ヨーロッパ的社会主義の信奉者でしたが、「日本の唱えるアジア主義というのは大変危ない。自分は、アジアの真の連帯には賛意を表するけれども、日本を盟主とするアジア主義には反対する」という立場でした。そして開戦直後に執筆した論文の中で、本が攻めてくるならば、私は民主主義の陣営、つまりオランダ側に立って日本と戦う」とまで言っているのです。ただし実際にはハッタも日本軍占領下では日本と「協力」せざるを得ませんでした。
そしてスバルジョ、彼もオランダのライデン大学法学部に留学したエリート中のエリートですけれども、彼の場合には、「日本のアジア主義と我々の独立運動の間には共通の接点がある。したがって、日本とは大いに協力の余地がある」ということで、三者三様の立場が表明されていました。
こうしたインドネシア側の対日観を視野に入れつつ、開戦の三カ月前には新設の外務省南洋局が「東印度民族運動ノ現状」所蔵)という調書を作成しています。その中で外務省は、インドネシアの民族主義運動を分析して基本的には親日であるが、「将来仮リニ」日本が占領した場合「圧政ヲ以テ臨」むならば、その反日感情はかつての支配者オランダに対する以上に「悪質ナルモノトナルデアラウ」としています。「悪質」という言葉が適当かどうかはわかりませんが、要するに慎重な占領統治をしなければオランダに対する反感以上の大きな抵抗をインドネシアの人たちの間に引き起こすだろうと言っているのです。そして結果的にみるとその予測が適中してしまったことになります。(p.7-8)
まず政治的には、一九二〇年代からオランダ植民地支配下の蘭領東インドでは独立を目指すナショナリズムが非常に高まっていました。つまり、インドネシアという言葉に託して「想像の共同体」をイメージしたわけですが、そうした戦前期の民族主義運動の成果であるインドネシアという擬似国民国家を、日本軍政はジャワとスマトラと海軍が支配するその他地域に三分割してしまいます。このことが一定程度高まっていたインドネシアのナショナリズム、民族感情をいたく傷つけることになります。インドネシア側からは事あるごとに、早く一元化された行政体の中に自分たちを組み込んでほしいという要望が出されます。(p.14)
文化面について見ますと、当初日本はオランダ語を禁止して日本語を公用語にするという政策を実行しようとしますが、すぐそれが不可能だと悟ると、それ以降はインドネシア各地をつなぐ一種のリンガ・フランカであったインドネシア語(マレー語)を整備、近代化してそれを準公用語にしていくという政策を打ち出します。(p.14)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000034813.pdf
1942年3月より1945年8月までインドネシアは日本の軍事政権下におかれたが,日本軍政監部は植民地者の言語オランダ語の使用を禁止し,日本語をオランダ語に代って公用語としたばかりでなく,占領地政策として日本語教育を強力におしすすめた。すなわち,占領二年目の1943年になると,軍政監部は,日本語を大東亜の共通語にしょうという野望の実現に向って日本語普及教育要綱を公布し,国民学校においてはインドネシア語や種族語よりもはるかに多く日本語の授業を課した。三者の割合は日本語7,インドネシア語2,種族語1であった。しかし,日本語を群島の共通語とするには非常に時間を要し,オランダ語の使用を禁止したので,結局,民衆とのコミュニケーションには,インドネシア語が最も効果的な手段であることがわかった。すなわち,日本軍は日本語を共通語にするという長期的目標に向って日本語教育を強制しつつ,短期的にはそれまでの調整期間としてインドネシア語の使用をとらねばならなかったのである。あらゆる指令通達の類はインドネシア語で行なわれ, これまでのオランダ語にとって代ってインドネシア語が唯一の学校教育用語となった。(p.47-48)
陸軍大臣は「南方」占領地行政上不可欠の日本語の普及について,南方軍総参謀長と第十四軍参謀長に対し,「戦射完遂ノ為ニハ米英勢力ヲ大東亜ヨリ根コソキ駆逐スルニ在リ之力為ニハ形而下二於テハ勿論言語ヲ通シテ原住民ノ思想内二滲透セル形而上ノ英米勢力モ固ヨリー掃セラル可ラス之力為従来通訳ヲ介スルヲ当然ナリトスルカ如キ観念ヲー擲シー日モ速二日本語ヲ普及徹底シ多少ノ不利不便等ヲ忍ヒテ当初ヨリ徹底的二日本語ヲ使用シ日本字ヲ教習セシメ速二普及微底スル如ク施策ヲ望ム」25)と指示している。軍政総監指示の日本語普及に関する部分は次のとおりである。「原住民工対スル日本語ノ普及二当リテハ多少ノ不利不便ヲ忍ヒツツ当初ヨリ徹底的二日本語ヲ使用シ日本語ヲ習得セシメ速カニ普及徹底ヲ図ラレ度此際凍住民ノ音楽的才能ヲ利用シ唱歌ノ中二日本諮ヲ教育スルモー案ト思考セラル」。https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyouikushigaku/33/0/33_KJ00009273470/_pdf/-char/ja
キムイルソンが400万人の朝鮮人の命を奪ったんだろうが!!!!!!!!!!
歴史的事実を思い出せ!!!!!!!!!!!!