<東京新聞の本>
校閲記者の日本語真剣勝負
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【書評】ある「BC級戦犯」の手記 冬至堅太郎(とうじけんたろう)著◆死刑と向き合い、綴る[評]福島泰樹(歌人)終戦後、連合軍は東京裁判の被告(A級戦犯)の他に、占領地の国民や捕虜に対する殺害の直接当事者及び殺害を命じた指揮官(BC級戦犯)を巣鴨プリズンに収容、処罰した。「私は」「福岡市西部軍司令部」「米軍飛行士処刑事件の執行者の一人で」「前夜来の空襲によって母を失った憤りから、自ら志願して米飛行士四人を斬首した」。元陸軍主計大尉・冬至堅太郎が牢舎(ろうしゃ)で書き綴(つづ)った信仰の書「苦闘記」の書き出しである。 罪人として死ぬより自決を覚悟した冬至を諭した福岡油山(あぶらやま)の僧蓬舟(ほうしゅう)がいる。現在「自分がいる所が自分の世界のすべてだ」「牢屋を自分の天地として生きぬくのです」「断頭台に上っても同じことです」。一九四六年八月、巣鴨プリズンに入所するや、この教えは実行される。拾った釘(くぎ)と苦心の糸と飯粒とによる図書の修理である。未決二年半の間に冬至は千三百枚の「回想録」を書き、数千に及ぶ短歌俳句を制作、二百冊もの修復を終え、さらに生死の書「巣鴨日記」の執筆に力を注ぐ。 そう、戦死者の死には、国のためという大きな目的があり、その死を讃(たた)える銃後があった。ところが戦争犯罪人は「個人的に死の問題を解決」してゆくしかない。「私はその人たちのことをできるだけ詳しく書き残しておきたい」という願いは、二千五百七十頁(ページ)もの膨大な日記となり、絞首台へ歩みゆく人々を万感、記録する。「元気でお発(た)ちなさい」 四八年十二月、冬至らに絞首刑判決が下り、死刑囚専用の五号棟に移される。その夜、冬至は元陸軍中将岡田資(たすく)の房を訪ね、「死刑判決」は「人生稀有(けう)のよき練成の機会である」「全力をつくして自己の練磨に費やせ」との言葉を得る。日記は、教誨師田嶋隆純(きょうかいしたじまりゅうじゅん)との出会いを通してさらに熱を帯びてくる。 「あるは狂ひあるは絞(くび)られこの獄の房(へや)の灯(あかり)は数減りゆくも」。五〇年七月、冬至堅太郎、終身刑に減刑。終わりに編者山折哲雄の純真、そして膨大な遺稿の山から珠玉の抜粋を果たした本書編集者の献身に謝意を表したい。 (山折(やまおり)哲雄編、中央公論新社・2160円) 1914~83年。東京商科大(現一橋大)卒。元陸軍主計大尉。56年巣鴨プリズン出所。 ◆もう1冊加藤哲太郎著『私は貝になりたい-あるBC級戦犯の叫び』<普及版>(春秋社)
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