- 記述内容
- 「拝謁記」とは
- 年表
- 戦争への悔恨
- 退位への言及
- 象徴への模索
- 近日公開
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昭和天皇 語れなかった戦争の悔恨
NHKは初代宮内庁長官が、5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対でその一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。
繰り返し語る後悔の言葉
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。
田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやり取りやそのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。
その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。
強くこだわった「反省」
さらに、昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。
「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。
削除された戦争への悔恨
当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。
田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。
昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。
吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。
専門家「戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか」
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と指摘したうえで、「戦争への後悔や反省の記述が多く、昭和天皇は戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか。戦争の問題にけりをつけたかったが、その後も苦渋の思いを引きずることになった。『拝謁記』は昭和の戦争を忘れてはいけないと語りかけている」と話しています。
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東京裁判後も退位に言及
「拝謁記」の記述からは、敗戦後の退位をめぐる問題が決着したとされていた東京裁判の後にも、昭和天皇が「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と語るなど、退位の可能性にたびたび言及していたことがわかりました。分析にあたった専門家は「本当に皇室が国民に認められるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。
昭和天皇の退位の問題をめぐっては、これまでの研究で、昭和23年11月の東京裁判の判決に際し、昭和天皇が連合国軍最高司令官のマッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで決着したとされてきました。
しかし、「拝謁記」には、判決から1年が過ぎた昭和24年12月に、昭和天皇が田島長官に「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ又退位等ノ論が出テイロイロノ情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」と退位の可能性に言及し、当時皇太子だった上皇さまを早く外遊させてはどうかと述べたと記されていました。
また、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った昭和26年8月には、「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」と、退位した方がむしろ楽だと語ったと記されています。
「国民が退位を希望するなら少しも躊躇せぬ」
さらにその4か月後の拝謁でも、「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と述べたと記されています。
分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「辞めたほうが気が楽になるというのが昭和天皇の偽らざる本心だったと思う。位にとどまることが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。
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「象徴」への模索も明らかに
「拝謁記」には、戦後の日本国憲法で「君主」から「象徴」となった昭和天皇が自ら変わろうとする一方で、君主としての意識を払拭できずに、時に政治的な発言をしていさめられるなど、象徴天皇像を模索する姿が克明に記されていました。分析にあたった専門家は「象徴天皇の行動のあり方が決まっていく現場がわかる貴重な資料だ」と指摘しています。
象徴への決意
戦後、日本国憲法によって「君主」から「象徴」となった昭和天皇は、「私ハ象徴として、自分個人のいやな事は進んでやるやうに心懸ける 又スキなやりたい事ハ一応やめる様に心掛けてる」とか、「兎に角(とにかく)皇室と国民との関係といふものを時勢ニあふ様ニしてもつとよくしていかなければと思ふ。私も微力ながらやる積りだ。長官も私の事で気付いたらいつてくれ」などと語ったと記され、「象徴」として、自らも変わりながら、国民との新しい関係を築いていく決意を繰り返し示していたことがわかりました。
また、国民との距離を縮めることに心を配り、昭和27年2月25日の拝謁で、地方訪問の際の警備の強化が話題になると、「その為に折角の皇室と国民との接近を害するやうになつても困る/ あまり厳重過ぎると折角出掛けても逆の印象を与へる事ニなるから困る その辺のかねあひが六ヶ(むつか)しいネ」と述べたと記されています。
政治的発言も
その一方で、昭和28年3月12日の拝謁では、新しい憲法で政治への関与を厳しく制限されたにも関わらず、保守陣営が分裂していた当時の日本の政界について、「真ニ国家の前途を憂うるなら保守ハ大同団結してやるべき」などと述べ、田島長官に「新憲法でハ違反になります故、国事をお憂へになりましても何も遊ばす事ハ不可能であります」と釘を刺されるなど、政治的な発言をいさめられる場面が、繰り返し記されています。
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「憲法で抽象的に規定された象徴天皇とは具体的に何ができるのかという応用問題を実際に解いてく過程で、どんな葛藤や悩み、議論があったのかというのは、この拝謁記を見るまではわからなかった。田島が象徴天皇の最初の段階の姿を決めたキーマンだったことや、実際に象徴天皇の行動のあり方が決まっていく現場がわかる貴重な資料だ」と指摘しています。
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近日公開
近日公開
年表
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- 明治34年(1901)
4月29日
- 明治34年(1901)
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- 大正15年(1926)
12月25日 -
昭和天皇 皇位継承
- 大正15年(1926)
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- 昭和3年 (1928)
6月4日 -
張作霖爆殺事件
- 昭和3年 (1928)
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- 昭和6年(1931)
9月18日 -
柳条湖事件(「満州事変」の発端)
- 昭和6年(1931)
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- 昭和8年(1933)
12月23日 -
昭和天皇第1皇男子(上皇さま)ご誕生
- 昭和8年(1933)
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- 昭和11年(1936)
2月26日 -
2・26事件
- 昭和11年(1936)
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- 昭和12年(1937)
7月7日 -
盧溝橋事件(日中戦争始の発端)
- 昭和12年(1937)
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- 昭和12年(1937)
12月 -
日本軍 南京占領(南京事件)
- 昭和12年(1937)
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- 昭和16年(1941)
7月18日 -
第3次近衛文麿内閣発足
- 昭和16年(1941)
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- 昭和16年(1941)
10月18日 -
東条英機内閣発足
- 昭和16年(1941)
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- 昭和16年(1941)
12月8日 -
真珠湾攻撃 アメリカに宣戦布告
- 昭和16年(1941)
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- 昭和19年(1944)
7月22日 -
小磯國昭内閣発足
- 昭和19年(1944)
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- 昭和20年(1945)
4月7日 -
鈴木貫太郎内閣発足
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
5月8日 -
ドイツ降伏
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
8月6日 -
アメリカ軍 広島に原爆投下
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
8月9日 -
アメリカ軍 長崎に原爆投下
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
8月15日 -
終戦の詔勅(玉音放送)
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
8月17日 -
東久邇宮稔彦内閣発足
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
9月2日 -
アメリカ軍艦ミズーリ号で連合国と降伏文書の調印
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
9月27日 -
昭和天皇 マッカーサーを訪問 会見
- 昭和20年(1945)
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- 昭和20年(1945)
10月9日 -
幣原喜重郎内閣発足
- 昭和20年(1945)
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- 昭和21年(1946)
5月3日 -
極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷
- 昭和21年(1946)
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- 昭和21年(1946)
5月22日 -
第1次吉田茂内閣発足
- 昭和21年(1946)
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- 昭和21年(1946)
11月3日 -
日本国憲法公布
- 昭和21年(1946)
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- 昭和22年(1947)
5月3日 -
日本国憲法施行 天皇は「象徴」に
- 昭和22年(1947)
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- 昭和22年(1947)
5月24日 -
片山哲内閣発足
- 昭和22年(1947)
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- 昭和23年(1948)
3月10日 -
芦田均内閣発足
- 昭和23年(1948)
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- 昭和23年(1948)
6月 -
田島道治氏 宮内府(宮内庁の前身)長官に就任
- 昭和23年(1948)
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- 昭和23年(1948)
10月15日 -
第2次吉田茂内閣発足
- 昭和23年(1948)
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- 昭和23年(1948)
11月12日 -
極東国際軍事裁判(東京裁判)判決
- 昭和23年(1948)
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- 昭和25年(1950)
6月25日 -
「朝鮮戦争」始まる
- 昭和25年(1950)
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- 昭和26年(1951)
9月8日 -
「サンフランシスコ平和条約」調印 「日米安保条約」調印
- 昭和26年(1951)
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- 昭和27年(1952)
4月28日 -
アメリカの占領終わり日本が独立回復
- 昭和27年(1952)
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- 昭和27年(1952)
5月3日 -
「平和条約発効 日本国憲法施行5年記念式典」昭和天皇がおことば
- 昭和27年(1952)
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- 昭和43年(1968)
6月26日 -
小笠原諸島 アメリカから日本に返還される
- 昭和43年(1968)
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- 昭和47年(1972)
5月15日 -
沖縄 アメリカから日本に返還される
- 昭和47年(1972)
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- 昭和64年(1989)
1月7日 -
昭和天皇崩御 昭和が終わる
- 昭和64年(1989)
昭和天皇ご誕生