天皇の位にとどまるべきか 心の動きも記述

昭和天皇は昭和27年5月3日のサンフランシスコ平和条約発効の記念式典のおことばで、天皇の位にとどまり国民とともに歩む意向を初めて公の場で明らかにしましたが、「拝謁記」には、そこに至るまでの昭和天皇の心の動きがうかがえる記述もありました。

目次

退位求める声も

当時、日本では、講和を機に天皇の退位を求める声が再び高まっていて、のちに総理大臣を務める中曽根康弘衆議院議員が国会の質疑(昭和27年1月31日予算委)の中で「もし天皇が御みずからの御意思で御退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当である」と述べたこともありました。

講和条約に調印する吉田茂首相(昭和26(1951)年)

こうした中、サンフランシスコ平和条約調印から3か月たった昭和26年11月9日の拝謁では、昭和天皇が「退位論者でなくても戦争防止がなぜ出来なかつたとか終戦がもつと早く出来なかつたかといふ疑問ハ持つだろう」と述べたと記されていて、退位を求める声や戦争に対する道義的な責任の問題を意識していたことがうかがえます。

「困難ニ直面する意味」

その2日後の昭和26年11月11日に近畿巡幸に向かう特別列車の車内での拝謁では、昭和天皇が「私の退位云々の問題ニついてだが」と切り出し、「帝王の位といふものは不自由な犠牲的の地位である/その位を去るのはむしろ個人としてハ難有(ありがた)い事ともいへる 現ニマ元帥が生物学がやりたいのかといつた事もある。/地位ニ止まるのは易きニ就くのではなく難きニ就き 困難ニ直面する意味である」と力説したと記されていました。

これに対して田島長官は「恐れ多くございますが/陛下は法律的ニハ御責任なきも道義的責任がありと思召(おぼしめ)され此責任を御果しになるのに二つあり、一つは位を退かれるといふ消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建の為に困難な道ニ敢て当らうと遊ばす事と存じます そして陛下は只今も色々仰せになりましたやうに困難なる第二の責任をとる事の御気持ちである事を拝しまするし 田島の如きはいろいろ考へまして その方が日本国の為であり結構な結論と存じまする」と述べたと記されています。

皇居前広場で開かれた記念式典(昭和27(1952)年)

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