2016年7月27日 タンジ日報(リンク)
このように、韓国軍慰安婦の存在を否定する余地はない。大韓民国陸軍本部から発刊された「後方戦史」だけでなく、当時、軍に身を置いた者たちの回顧録や自伝のあちらこちらに、韓国軍慰安婦の記録が見いだせる。この確かな証拠にもかかわらず、韓国軍慰安婦が急速に忘れられていったのは、実際に自分たちが慰安婦であったことを名乗り出る証人がいなかったためだろう。
そして、韓国軍慰安婦をしていたのはどんな女性だったのかという問いに対する答えは、間接的な証言から類推するしかない。実際、韓国軍慰安婦が公に募集されたという証拠はどこにも見いだせない。キム・グィオク教授は、慰安婦と推定される何人かに会ったが、「涙と沈黙」で答えるばかりで、「墓の中に持っていくつもりだ」と言って、翌日には陳述を翻したこともあったそうだ。これから紹介する三人の話は、したがって、加害者によって語られた話を再構成したものである。
1951年、ムンさんも少女だった。やっと17歳になるかどうか。38度線の向こう側では朝鮮女性同盟員として活動していた。ある日、ムンさんは、同じ町に住んでいた4人の女友達とともに、韓国軍諜報部隊員(北派工作員)に拉致され、南に連れて来られた。少女たちは、昼間は部隊でいろいろな種類の仕事(掃除、洗濯など)をし、夜は部隊の性奴隷にされた。1953年7月27日、停戦協定が発効した後は、それっきり捨てられた。当時のことを尋ねるキン・グィオク教授にムンさんが語ったところによれば、「戦争の時は、子供を産んで苦労した思い出しかない」とのこと。これ以上話すことはないと言って、過去のことを思い出すのを固く拒否した。
他の二人の女性は、医学生だった。人民軍に連行され、しばらくは軍医官として過ごした。人民軍は洛東江に進軍(あるいは撤退)するとき、彼女たちを置き去りにした。自由の身になったのも束の間、二人はまもなく韓国軍に出くわす。捕虜になって軍部隊に連れて行かれた。そこには彼女たち以外の者もいた。すでに数多くの十代の少女たちが、学生服あるいは韓服を着て、人民軍反逆者(韓国戦争中、38度以南の地域が人民軍の勢力下にあったとき、自発的または強制で人民軍に協力した者たち)として監禁されていた。
どのくらいの時間が経っただろうか。年齢が若いほうの一人は、まもなく将校に、いわゆる「性上納」される運命をたどった。神様の思し召しか、将校は彼女に結婚を申し込む。将校との結婚で、少女は人民軍反逆者、軍慰安婦になることは免れた。もう一人は監獄に入れられ、スパイ容疑で拷問まで受けた。幸い、家族や知人の保証のおかげで釈放され、軍慰安婦になることは免れたと伝えられている。
キム・グィオク教授が最初の女性つまり将校と結婚したと証言した女性に尋ねた。
「当時、捕えられていた数十人の十代の少女たちは、どうなったのですか?」
彼女は淡々と、軍慰安婦になったのだろうと答えたそうだ。どうやってそれを知ったのかと聞くと、冷ややかに答えた。
「決まってるじゃない。」
彼女たちの証言は、韓国軍特殊慰安隊がどのように集められたのかが推測できる事例だ。この三人の女性の証言だけでなく、韓国戦争当時、戦線にいた軍人、つまり陸軍本部の言い方にしたがえば「被慰安者」であった者たちの証言も一致している。被慰安者は当時、慰安婦女性たちのことを回想して、化粧をし、垢抜けた私娼窟の女性ではなく、田舎っぽい容貌の15、6歳くらいの幼い女の子だと語った。リ・ヨンヒ先生の自叙伝『軌跡・私の青年時代』(創批、1988年)にも、韓国軍慰安婦の話が登場する。韓国戦争当時、自分の部隊に何人かの軍慰安婦が出張慰安に来たが、そのうちの一人は自分の部隊員の故郷の友達だったそうだ。
キム・グィオク教授は、韓国軍慰安婦は、強制的に連れて来られた女性たち、もしくは「パルゲンイ(赤野郎)」や「パルゲンイの家族」に分類され、軍に拉致された女性たちによって構成されていたとみる。実際にキム教授が会った三人の女性は、いずれも社会主義者か、自発的であれ強制的であれ人民軍の側に立った者たちだ。もちろん一部に戦争孤児が含まれていたかもしれないが、軍慰安婦の女性たちは、ほとんど左翼反逆容疑者たちと推定されるという。パルゲンイ(赤野郎)。故朴婉緖(パク・ワンソ)の小説を読めば、韓国において「パルゲンイ」というレッテルが貼られると、どれほど野蛮な扱いが許されたかがわかるだろう。いわゆるパルゲンイの疑いをかけられている状況において、武力をもった軍人たちに対し、慰安婦になることを拒否することは、死を意味した。左翼であることを口実に、いともたやすく引っ張ってくることができたのだろう。
われわれは、共産主義を信奉する北韓と、南韓でも左翼イデオロギーを持つ人々をひっくるめて、パルゲンイと呼んだ。(…)この国ではパルゲンイと決めつけられるのが最も過酷な制裁だった。(朴婉緖、『進めなかった道はいっそう美しい』、ソウル・現代文学刊、2010年、p167)
ソウルを回復した韓国政府が第一に注力した作業が、市民証と道民証の発行だった。以前は、平民には特別な身分証はなかった。(…)審査は厳しく、反逆者と疑われたり、密告があったりすると、市民証をもらうのは難しかった。その頃、鴨緑江まで北進していた国連軍が、中共軍の参戦で、作戦上後退したのにともない、ソウル市民も動揺し始めた。権力者や金持ちがまずソウルを離れた。(…)(われわれは)家長である兄がユギオ(6・25)の時に反逆した疑いをかけられ、まだ市民証をもらえておらず、身動きができなかった。市民証がすなわち命綱の時代だった。それがなければパルゲンイ扱いされ、パルゲンイは人間ではなかったから。(朴婉緖、『進めなかった道はいっそう美しい』、ソウル:現代文学、2010、pp61-62)
(つづく)
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