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韓国軍特殊慰安隊(2)

2016-08-05 23:45:55 | 慰安婦問題

2016年7月27日 タンジ日報(リンク

大韓民国陸軍特殊慰安隊


 1950年6月25日、韓国戦争(朝鮮戦争)勃発後、北韓(北朝鮮)の人民軍は瞬く間に南韓地域の大部分を占領し、同年9月15日、仁川上陸作戦をきっかけに、韓国軍と連合軍は、北韓地域の大部分を占領するに至る。以後、中国人民志願軍の参戦により、1950年12月から1951年初めの間に、北韓がソウルを再占領するという「1.4後退」があった。1951年3月には南韓がソウルを再奪還し、戦争は、現在の休戦ライン付近で膠着状態になった。この状態は、1953年7月27日に休戦協定が締結されるまで続いた。韓国戦争の全期間の3分の2を占めるこの期間に、前線では戦闘が絶えず続き、大韓民国陸軍本部は、韓国軍慰安婦すなわち「特殊慰安隊」を設置した。この特殊慰安隊は、休戦後の1954年3月になってようやく閉鎖される。

 韓国戦争が終わり、3年が過ぎた1956年、陸軍本部は「後方戦史(人事編)」という本を出す。本の序文には、発刊の目的として「今後、軍の後方支援業務を発展させることに寄与する」ことが謳われている。まさにこの本に、特殊慰安隊に関する内容が明記されている。これは、特殊慰安隊が、韓国戦争期の軍人に対する後方支援を目的とした軍隊の施設の一つであり、国家によって創設されたものであることを示している。

 その設置の背景と目的を見てみよう。

 表面化した理由のみにより、簡単に国の施策に逆行する矛盾した行為だと断定するなら話は別だが、実質的に士気高揚はもちろん、戦争に起因する、避けることのできない弊害を、未然に防ぐことができるだけでなく、長期間、代価を得られない戦闘によって後方への往来ができず、異性への憧れによって引き起こされる生理作用による性格の変化などにより、鬱病その他の支障をきたすことを予防するために、本特殊慰安隊を設置することになった。(陸軍本部、「後方戦史」、1956:148)

 つまり、軍人たちの士気を高め、性欲を抑えこむことから生じる支障を未然に防止するために設置したのが、まさに特殊慰安隊だったのだ。男性の性欲は自制できないという考え、そして女性をそのはけ口とみなす見方は、実際、2016年の今日の日常の中にも、たやすく見いだされる(からか、あまり驚かないということに、さらに驚くばかりである)。

 慰安隊は、小隊形式で編成された。ソウルには中区忠武路、中区草洞、城東区新堂洞に、計三個小隊が設置され、江陵(カンヌン)には、ソンドク郡ノアム里に一個小隊、また春川、原州、束草などにも、複数の慰安隊があった。1953年には、ソウル忠武路、鍾路和信デパート前、鍾路ダンソン社前、そして永登浦ロータリーに、4個小隊が追加で設置された。

 特殊慰安隊の規模について、「後方戦史」の記録ははっきりしない。説明と表の数値が異なっているからだ。一方、韓国戦争当時、国軍の主要指揮官の一人であったチェ・ミョンシン将軍は、次のように証言している。

 当時、わが軍は士気高揚のために、60人を1個中隊とする慰安部隊を三つか四つ運用していた。(チェ・ミョンシン「死線を越えて-チェ・ミョンシン回顧録」、ソウル・メギョン出版社、1994年、p267)

 これを基に計算すれば、韓国軍の特殊慰安隊にはだいたい180~240人ほどの慰安婦がいたことがわかる。1953年に新設された4つの小隊を合わせれば、300人を超えると推測される。

特殊慰安隊実績統計表(リンク
1952年韓国軍特殊慰安隊月別実績統計表(大韓民国陸軍本部、「後方戦史(人事編)」、120ページ

月別被慰安者数(リンク
1952年韓国軍特殊慰安隊月別実績統計表(キム・グィオク、「日本植民主義が韓国戦争期韓国軍慰安婦制度に及ぼした影響と課題」、2014年、社会と歴史、103、93ページ)

 陸軍本部の「後方戦史」には、1952年に特殊慰安隊の実績統計表が収録されている。ソウルの三つの特殊慰安隊小隊と江陵(カンヌン)の一個小隊の「実績」を、月別に表で提示しているのだ。ここでいう実績は、「被慰安者」の数で表されている。被慰安者とは、慰安婦から慰労と安寧を得た者たちをいう。つまり、慰安婦を通じて性欲を解消した軍人たちということになるだろう。

 初めてこの表を見たとき、「実績」という表現が相当に衝撃的だった。そして「ああ、女性を物扱いしなかったなら、特殊慰安隊など設置されなかったのに」と思うことしきりだった。実際のところ、韓国戦争当時、慰安婦は人間ではなかった。たんなる第五種補給品にすぎなかった。人ではなく「補給品」だ。

 連隊1課から中隊別に第五種補給品の受領指示があったので行ってみると、わが中隊にも、週8時間の制限で6人の慰安婦が割り当てられてきた。(キム・フィオ、「人間の香り―自由民主/対共産闘争とともにした人生遍歴」、ウォンミン刊、2000年、p70)

 再び統計に戻る。1952年の特殊慰安隊の実績統計表によると、その年、ソウルの三個小隊の特殊慰安隊と江陵の一個特殊慰安隊に属する慰安婦が、20万人を超える軍人の相手をした。慰安婦は一人一日平均6人以上との性行為を強要されたのだ。ただ、ここに出てくる「実績」は、4つの慰安隊に直接出入りした軍人の統計であるのか、前線部隊に出張した慰安隊を利用した軍人の統計まで含まれているのかは不明である。したがって、一日の平均被慰安者の数がもっと多かった可能性も排除できない。

 ここで「出張」というのは、もともと特殊慰安隊がいる場所で軍人を受け入れるのではなく、慰安隊員の何人かを、戦闘中の軍人たちが利用できるよう前線に送ることをいう。

 (1952年)3月中旬の気候は、春を嫉妬するかのように肌寒かった。(…)師団恤兵部から将兵を慰問しに来た女性慰安隊が部隊の宿営地付近に到着した、との報せがあった。中隊の人事係の報告によると、彼女たちは24人用の野戦テントにベニヤ板と雨合羽で仕切りをした野戦寝室に収容されたそうで、他の中隊の軍人たちは、列を作るほどたくさん利用したそうだ。(チャ・ギュホン予備役陸軍大将回顧録「戦闘」、1985年より)

 韓国戦争中、戦線が膠着状態になっていた1951年7月以降、後方には売春街が拡大した。法的には、1947年以来、公私娼制が廃止されたが、効果はなかった。売春街があったとしても、戦闘中、駐留中の軍人たちは女性に会うことができなかった。将校は現地妻をもち、ときには兵士たちが強制的に連れてきた女性たちから「性上納」(性の接待)を受けることもあった。一般の兵士たちは、占領地の女性を強姦することで、性欲を満たした。

 実際に韓国軍が38度線以北の地域を占領したとき、いわゆる人民軍やパルゲンイ(赤野郎)の家族、女性たちに対して、ほぼ例外なく性暴力が加えられたそうだ。夜ごと、韓国軍が若い女性たちを強姦して回るという噂が近隣の村から伝わってきて、その噂はまもなく事実であることが明らかになった。ある未婚女性は3回以上強姦された末に村を去り、ある女性は強姦されるのが恐くて乞食のような身なりでうろついたり、気がふれたふりをしたりしたそうだ。陸軍本部側では、戦線が膠着状態に陥ったあと、このカオス的状況を解消し、また戦闘で苦労した軍人に慰労および報奨を与えるために、特殊慰安隊を組織した。

 また、前線において、慰安婦隊への出入りは、一つの報奨だった。「チケット制」。すなわち、慰安婦と寝るためにはチケットをもっていなければならず、チケットは誰もがもらえるものではなく、戦場で勇敢に戦い、功を立てた者から順に配られるのだ。また、戦功の程度に応じてチケットの枚数も変わったそうだ。

 兵士たちは、中を覗き込みながら、「早く出てこい!  早く出てこい!」としきりに叫んでいた。私はようやくその場所がどんな所かを知った。テントに入って女性にチケットを渡し、10分間楽しんで出てくるようなところだった。その瞬間、私はこのうえなく恥ずかしいと思ったが、一方で、好奇心もわいてきた。(ハン・インス、「荒波の歳月と神の思し召し」、ソウル・キョウム社刊、2003年、p96)

 一方、陸軍本部の「後方戦史」によれば、軍は性病への徹底的な対策を講じた。慰安婦は週に2回、軍医官によって厳しい検診を受け、軍人たちには薬が処方された。しかし、キム・グィオク教授の口述研究の結果、当時、韓国軍における性病の発症は、かなり頻繁だったと見られる。

 「「(1950年代に)軍隊に行ってきた韓国軍人であれば、少なくとも一度は梅毒にかかった」と言われるほどだった」(2016年、フランスのパリ第七大学キム・グィオク教授のセミナーより)

つづく


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