「光源としての唯物論的ユーモア―尾崎翠と花田清輝10/10
 

 

 



 マルクスは『ドイツ・イデオロギー』のなかで「共産主義とは、…現実がそれに向けて形成さるべき何らかの理想ではな」く、「現在の状態を止揚する現実的運動のことである。この運動の諸条件は今、現にある諸条件から生じる 」と述べているが、「現にある諸条件」をどう理解するかによってこの運動は大きく性格の異なったものとなるだろう。それゆえ、革命的マルクス主義者は、バフチンであれ、ブレヒトであれ、ベンヤミンであれ、そして花田であれ、支配階級の与える歴史や誤った諸条件を拒絶し、グラムシのいう「財産目録」をつくり、過去に忘れられてきた可能性を現在に覚醒させようと歴史の放縦な書き換えに挑む。この歴史の書き換えは悲劇にもなりうることは小林秀雄の『本居宣長』をみればあきらかだが、花田の場合それが徹底的に喜劇になるのは、歴史をパロディ化することで<伝統>の救済がもくろまれているからだ。
 <伝統>とは、物や文化財でもなく、支配者階級によって抽出されたイデオロギー的精神でもない。それは、<状況>そのものであり、彼はこれを<転形期>と呼んだ。あらゆるものが流動し、変転を起こして姿をかえようとしている時期、それは抑圧されていたものが目覚め、新たな存在に生まれ変わろうとするときでもあるが、花田はこの<伝統>=<転形期>を救出することで、今ある歴史とはちがった可能性がありうることをわれわれに示そうとする。花田にとって批評とは、この<伝統>に積極的に介入・参加し、人や事物の他なるものなろうとする力が交錯し、溢れている<状況>を流動的なままわれわれに伝達することである。言い換えれば、花田の批評は革命的実践という政治的・文化的運動なのだ。そして、花田を、フーコーの系譜学と言説の政治学の教えを忠実に実践している日本の「言説研究」者たちから区別しているのはこの実践的な政治的態度である。たしかにフーコー的言説は、われわれの生活が規制化され、制度化されている様をものものしく暴露するが、同時に、われわれが規制化や制度化、すなわち法からも規格化からも監獄からも逃れられないことを教える。フーコー的言説は、ときとしてわれわれを<言説の牢獄>へ閉じ込め、われわれから現実的な政治的な能力を奪いさるのである。アカデミズムにおいてラディカルなフーコー的言説が興隆し、ヘゲモニーを獲得してきた時期は、奇妙にも日本の政治状況の総保守化の流れと一致しているのである。
 尾崎翠は、その死の直前に「このまま死ぬのはむごいものだね。」といって涙をながしたというが、それに対して花田は次のように書いている。 しょせん、人生とはそんなものだろう。しかし、かの女の作品には、戦中や戦後にスポイルされない、戦前のみずみずしい哲学的青春が脈打っている。はたしてかの女の一生は不幸だったであろうか。
 
 たしかに尾崎翠の実人生は不幸であったかもしれない。この実人生がときとして「精神の惰性」としての「感情移入」をわれわれに要求する。だが、彼女の作品は必ずしも不幸ではないだろう。少なくとも、彼女の作品のなかのユーモアは花田のテクストに木霊し、われわれのもとに届いているのだから。尾崎を追悼した花田も、彼女を追うようにこの一年後に亡くなる。彼は死の床にあって「自分の人生を不幸だ」とは決して思わなかっただろうが、もう少し「喜劇的」でありえたと残念がったかもしれない。「現在の状態を止揚する現実的運動」として彼のテクストは、すでにして喜劇的であるが、より高次の喜劇が「革命」だとすれば、花田の人生やテクストをいっそう喜劇的にできるのはわれわれの力である。

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