「光源としての唯物論的ユーモア―尾崎翠と花田清輝6/10
 

 

 

 

 「第七官界彷徨」に恋が遍在するのは、ある意味では当時の「女流文学」のパターンの踏襲であろうが、このテクストはそうした「女流文学」のように恋を単純にユートピア化したりはしないし、逆に悲劇化しもしない。むしろ恋は、モンタージュ=対位法によって、あるいは「もの」への偏執的なアプローチによってユーモア化されるのである。そして、そのユーモア化を根底から支え、いっそう強化しているのがグロテスクなリアリズムである。
 ミハイル・バフチンはグロテスクリアリズムの中心に「糞」があることを指摘した。「糞は陽気な物質である。最も古い糞尿 的イメージにおいては……糞は生殖力、肥沃とつながりをもっている。他方において糞は大地と身体の何か中間にあって、両者を親近関係に置くものと考えられている。……糞は陽気な、酔いざましの物質であり、格下げと親しみを同時に持っている。 」花田が「苔の恋愛のくだりなどはすばらしくきれい」と形容した蘚の愛は、二助の煮た熱い肥やしがかけられることで成就するのだが、町子たちが住む家は二助が煮るこのこやし=「糞」の臭気に支配されている。ということは、各人の恋愛はこの「糞」によって格下げされ、抒情化・悲劇化されることを拒まれているということである。この「糞」という存在は、「世界の物質的・肉体的根源から分離し、孤立して自分のなかに閉じこもる一切の動きと対立する」のである。そして、視覚や聴覚が、刺激の対象を識別し、それを抽象することができるのに対して、嗅覚は物に密着し、物自体が発する匂いを嗅ぐことしかできない、判断以前の、ある意味では最も唯物論的な感覚である。「糞」=こやしの臭いに包まれながら、三五郎への秘めた恋に破れ失恋を味わう<私>は、泪を落とす。
  三五郎は机に腰をかけ、しばらくかち栗をながめていた。彼はなにかいいかかってすぐよした。私がふたたび泪を拭いたためであった。三五郎はかち栗をはずして私の頚にかけ、ふたたびつくへにかけ、そして幾たびか鋭い鼻息をだした。これは三五郎が二助の部屋で吸った臭気(=こやしの臭い、引用者)を払うための浄化作用であったが、耳のうえでこの物音をきいているうち私はだんだん悲しみから遠のいてゆく心地であった 。
  こやしのにおいを振り払おうとする三五郎の鼻息は<私>が悲しみの淵へと落ちていくことを許さない。たとえ、この直後の段落で、「私」に失恋の悲しみが舞い戻って来るにしても、この夜は、悲しみはこやしの臭いによって阻隔化されている。物に密着した卑俗で唯物論的感覚である嗅覚が、ナイーブで感傷的な場面に、茶番的な状況をもたらしてしまうのだ。
 しかし、この「糞」は、恋の格下げばかりでなく、読者にバフチンのいう「親しみ」をももたらす。「私」が二助の肥料実験用のこやしが煮つまるのを眺める場面では、
 
土鍋の液が、ふすふす、と次第に濃く煮えてゆく音は、祖母がおはぎのあんこを煮る音と変わらなかったので、私は六つか七つの子供にかえり、私は祖母のたもとにつかまって鍋のなかのあんこを見つめていたのである。

 この「糞」を煮る音があんこを煮ることにつながる唯物論的イメージは読むものにもあるなつかしさを喚起する。山田が指摘するように「このような想像と連想におけるメルヒュン性、あるいは幼児性(うんこ→あんこ)は…注目に値する 」が、そのようなノスタルジックな唯物論的連想から「私」の眼には二助の机の上の実験用の蘚の湿地が「森林の大きさにひろが」る。つまり、バフチンがいうように「糞は大地と身体の何か中間にあって、両者を親近関係に置く」からこそ、「私」の眼が森=大地へとひろがることを可能とする。もちろん、この表現自体には映画のクローズアップの手法の影響をみた方がよいが、この表現が喚起されるには「糞」を煮るグロテスクな唯物論的イメージが必要なのである。

 

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