「光源としての唯物論的ユーモア―尾崎翠と花田清輝4/10
 

 

 

 

 だが、先の一節には、花田の誤認がふくまれている。花田は十代の終わりにこの小説を読んだと書いているのだが、1909年生まれの彼にはそれは不可能である。『第七官界彷徨』が執筆されはじめるのは30年の9月以降であり、すくなくとも花田がこの小説に最初にふれえたのは「七」執筆以後の31年2月であるから、このとき彼はすでに22歳になっていたのである。これをたんなる花田の思い違いとして片づけてもよいのだが、花田の思想と尾崎のこの奇妙な小説の世界を知るものはむしろそこにフロイトのいう「失錯行為」を見るべきであろう。フロイトによれば、「失錯行為」とは、記憶の失錯行為(度忘れ、覚え間違い)、言葉の失錯(言い間違い、書き誤り、読み違い)、行為の失錯(やり損ない、置き忘れ)などの総称で、症候や夢とともに「無意識」の存在を証し立ててくれるものである。とすれば、特異な批評家花田清輝の誕生には尾崎翠のこの小説が重大な影響を及ぼしていることを、彼は自ら告白しながら隠蔽しているのである。
 彼が記憶違いという失錯行為によって隠蔽し抑圧したものは何か。それは、時間の錯誤において現れている以上、時間のなかで解かれるべきものである。花田の記憶にしたがえば、彼が「七」という小説を書く以前に「第七官界彷徨」は読まれていたことになり、このテクストは彼の出発に際してすでにそこにあったということになる。ところが、事実が彼の記憶を裏切るわけだから、花田があえて尾崎の小説を読んだ時期を早めなければならなかったその無意識の働きにこそ抑圧は働いているわけである。それは四年の空白に結びつく。「七」と「悲劇について」という二つの小説の間に横たわる微妙だが決定的なディスクールの断絶は、「第七官界彷徨」を媒介にしてはじめて説明できるであろう。4年の空白は「第七官界彷徨」が彼に与えたであろう衝撃の深さを物語る。そして、その衝撃ゆえ彼は無意識的にそのテクストを10代で読んだことしなければならなかったのである。自信満々であった自分の哲学的青春に基づいた出発が誤りであり、全く違った地点からあらためて出発しなければならぬことをそのテクストのディスクールは呼びかけていたからである。小林秀雄に深く傾倒していた貧乏学生にすぎなかった男が、読んだこともなかったような世界。小林秀雄の<悲劇的な>ディスクールとは全く異質なディスクール。

 よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけて短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあひだに私はひとつの恋をしたやうである 。

 過去の回想、追憶として語りだされる兄たちとの妙な共同生活。「第七官にひびくような詩を書きたい」と願っている少女<私>は、一軒の廃屋に二人の兄、小野一助と二助、そして従兄の佐田三五郎とともに住んでいる。長兄は分裂病を研究し、彼自身も自分の病院に入院する資格をもっていそうな精神科医であり、次兄二助は大学で肥料学を専攻し、蘚の恋情研究に熱中している農学生、従兄の三五郎は音程の狂ったピアノの音色のために憂愁に陥る音楽予備校生である。「私」はかの有名な歌人を連想させる小野町子という名を持ちながらも、兄たちからはその名で呼ばれることはなく、「うちの女の子」と呼ばれ、女中代わりに使われるだけの娘である。「私」は、縮れた赤毛で、痩せた身体をもつと示唆されている以外は、物象化されており、兄たちにとっては「女の子というものは、なかなか急に拒絶するものではないよ」「女の子というものは、感情を無駄づかいして困る」とうつる「もの」にすぎない。読者にとっても「お祖母さんのバスケット」や「びなんかづらの桑の根」の美髪料、三五郎によって断髪にされた髪を巻く「ボヘミアンネクタイ」などの彼女をとりまく「もの」によってかろうじてその存在が肉体を備えた存在であるらしいことがわかるのである。その意味で、川村湊の「兄たちにとって『うちの女の子』は社会的な交換価値としてあるのであり、それが“妹”としての若い女たちの、その時代の存在の一つの様式だったのである」という指摘は正しい。だが、この「第七官界彷徨」は、川村がいうような「文学的にも、実生活的にも、そうした世間的な倫理[=妹とは従順で、可愛い存在であれという理想、引用者註]を、林芙美子のように踏み越えてゆくことはできなかった」という尾崎翠の「限界」や悲惨を刻印したテクストではない。

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