コラム

役者(後篇)

 「役者・舟木一夫」(前編)で、1966(昭和41)年10月の舟木の初座長公演までについて書いた。それ以来、今年9月の東京・新橋演舞場公演がちょうど80回目の座長公演になった。公演回数は3300回を超えている。約10数年の"寒い時代"の空白がなかったら、北島三郎が今年達成した4500回のギネス級記録と並んでいたか抜いていたかもしれない。もっとも、舟木に言わせれば「長くやっていれば数字は自然に増えていきますから」と数字には全く関心がない。それはそれとして、後編では名古屋・中日劇場で通算81回になった座長公演でのエピソードなどを振り返りつつ、さらに「役者・舟木一夫」に迫ってみたい―。


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■水谷八重子(初代)から「新派に来る気はない?」■

舟木は初座長公演の翌年から7年間連続で、東京・明治座で1か月の座長公演を行っている。「役者・舟木一夫」を語る時、ここで出会った人々の存在を無視することは出来ない。作家・川口松太郎、同・村上元三、劇団新派の俳優・伊志井寛、光本幸子らだ。光本との出会いは、明治座の出演が決まって相手役を探していた際に偶然テレビの時代劇に出演していた光本を見て「この人だ!」と直感したのがきっかけ。のちに"おやじさん"と呼ぶ伊志井はその光本の紹介...という具合に新派との縁が出来上がっていった。
 ともに3年、4年と続けていくうちに、周囲は歌手・舟木ではなく、本物の役者・舟木として見るようになっていた。その証拠に、舟木が歌手としての生き方に迷い始め深みにはまっていきかけた時、心配した川口は「君の舞台姿はいいから、若いうちに劇団に入ったらどうだ」と声をかけてくれた。水谷八重子(初代)にいたっては「舟木さん、新派に来る気はない?」と何度も誘ってくれた。周りがあまり熱心に勧めてくれるものだから、舟木も一時は真剣に考えたようだが、歌手を棄てる選択はしなかった。
しかし、この時、舟木の胸の中に「先輩方の歴史が刻みこまれた新橋演舞場の舞台でいつか演じたてみたい」という思いを強く抱くことになったのではないだろうか。それが現実のものになるのは、20数年後の1997(平成9)年8月。夢にまで見た演舞場の舞台で座長として「野口雨情ものがたり」を演じることになった。以来、歌舞伎座の建て替え時期を除いて毎年、1年間の"ヘソ"(中心)という位置づけで、演舞場の舞台を舟木一夫特別公演という形で飾り続けている。

■千穐楽の"お遊び"の始まりは明治座■

ところで、明治座といえば、どうしても書きとめておかなければならないことがある。舟木ファンならどなたもご存じのことだが、舟木は今でも座長公演の千穐楽の芝居で、台本を無視して突然アドリブで台詞を語ったり、奇異な行動をしたりして共演者泣かせの"お遊び"を行っている。9月の東京・新橋演舞場公演でも、初共演の田村亮、尾上松也らが即座に対応できずにタジタジになっていた。実はこの"お遊び"が始まったのが47年前の明治座公演からだったのだ。その経緯について舟木から聞いたことがある。
 「一番出来ない僕が真ん中に立って先輩に気を使うものだから、終わりごろにはストレスがすごいんです。明治座の2年目だったと思いますが、千穐楽の2日くらい前に村上(元三)先生に電話して『疲れちゃいましたので千穐楽は無茶苦茶楽しんでもいいですか』って聞いたら『おお、やれやれ』ということで始めたんです。1幕目から見ていた先生の方から『二幕目は本物の酒を飲ませちゃえ』とか言ってきましたから。それだけ信頼関係があったんでしょう。本当にいい時代だったんですね」

■銭形平次、そして大川橋蔵との出会い■

前編にも書いたように、1966(昭和41)年という年は舟木にとっていろんな体験、出会いがあった記念すべき年だった 。銭形平次、そして大川橋蔵に出会ったのもこの年だった。橋蔵主演の「銭形平次」がフジテレビ系でスタートしたのが5月4日。スタート時はまだモノクロ放送で、節目節目でカラー放送されていた。主題歌を歌ったのはもちろん舟木だが、当初のオープニングではテーマ音楽だけが流れ、歌が使われるようになるのは2年目に本格的にカラー放送になってからだった。
舟木は 早くも第3話「謎の夫婦雛」に美男剣士・秋月新太郎役でゲスト出演している。また、翌年10月10日に公開された東映映画「銭形平次」には平次を助ける浪人・立花数馬役で出演した。いずれも橋蔵が声をかけてくれたのだという。テレビにはその後もしばしば登場し、888回という連続ドラマのギネス記録を作った最終回(1984年4月4日)にも美空ひばり、里見浩太朗、五木ひろし、和泉雅子、汀夏子らとともにゲスト出演して有終の美に花を添えている。

■橋蔵から教えてもらった時代劇のイロハ■

橋蔵は時代劇俳優になる以前は、六代目尾上菊五郎に素質を認められ育てられた歌舞伎俳優だった。舟木はそんな経緯から、橋蔵のことを"音羽屋の先輩"と呼ぶ。橋蔵からは時代劇役者の"いろは"を教わった。「イチ声、ニ顔、サン姿」もその一つで、役者への入り口を作ってくれた人だという。ある時、丸1日休みを取って、橋蔵が公演中の大阪・梅田コマ劇場まで行ったことがある。楽屋を訪ねて「舞台化粧の基礎を教えていただけませんか」と頼んだら、舞台を終えた後、近くのふぐ屋に誘ってくれた。
 店に入るなり、橋蔵は開口一番、「そういうことを役者に聞いちゃいけないんだよ。失礼になるからね。よく観察して盗んで覚えるんだ」と舟木を諭した。「分かりました」と申し訳なさそうに答える舟木に、「1回しか言わないよ」と言って化粧方法を14か15点ほど教えてくれた。橋蔵の目の前でメモをするような雰囲気ではなかったため、とにかく必死で覚え込み、ふぐ屋を出るなり表の看板の下で持ってきた手帳に走り書きでメモしたという。この時のメモが"舟木時代劇"のベースになっている。

■復活後の初座長公演も「銭形平次」■

舟木が"寒い時代"から抜け出して動き始めた1993(平成5)年7月、復活後初の座長公演を行ったのが名古屋・中日劇場で、芝居の演目はやはり「銭形平次」だった。舟木はその6年前に55歳という若さで亡くなった橋蔵が実際に使ったものを身につけて舞台に立ちたいと思い、小道具さんに聞くと、投げ銭と矢立てを改造した銭をぶら下げる小道具があるという。橋蔵夫人の真理子に許可を取って実現することになった。この年は中日劇場後も、全国12会場で「銭形平次」を公演して回った。
 ところで、舟木の座長公演にしばしば名を連ねる俳優・丹羽貞仁は橋蔵の次男。長谷川一夫の娘・稀世、孫娘・かずきとともに、この11月15日まで中日劇場で行っていた「いろは長屋の用心棒」でも若侍・岡本謙之輔役で好演していた。長谷川家、大川家の親子二代、三代にわたって共演している舟木一夫は不思議な人でもある。丹羽にインタビューしたことがある。舟木には舞台で世話になっているばかりでなく、父親の命日には欠かさず花を届けてくれていて感謝しているという話をしていたのが印象に残っている。

■林与一、長谷川稀世が見る役者・舟木■

10月に放送された「オン・ザ・ロード2014」の「#3(役者)」を見逃した方のためにも記しておきたいのが、林与一、長谷川稀世へのインタビュー内容。NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」以来の付き合いだという林は役者・舟木について、「これだけ時代劇を愛してお芝居が出来る人はいません」と話し、「こんなに長い付き合いが出来ているのは、彼の人間性そのもの」と言い切っている。そして、「あの方に脇役は出来ません。座長として続けてほしい方。お神輿じゃないけれど、我々はいつまでも担いでいきたい」と答えている。
 また、若いころはシャイな舟木とほとんど話したことがないという長谷川は「舟木さんの『一本刀土俵入り』の最後の入りを見た時、本当に父(長谷川一夫)に似ていて、もう一度父に会えたみたいに思えたの」と話し、役者・舟木について次のように語っている。「舟木さんは舟木さんらしいというか、舟木一夫というブランドを沢山持っていらっしゃる。本当に芝居がお好きで、その発想が面白いんです。どうしてここでこういうことを考えられるのかって。そばにいて一緒に作品を作り上げていきたいという方です」

■娯楽時代劇を演じられるのは「舟木組」■

舟木自身は娯楽時代劇をどうとらえているのか。直接インタビューした際の話を中心に書きとめておきたい。舟木は自身で娯楽時代劇を演じる意義について、「娯楽時代劇というのは屈託なく肩を凝らさずに見ていただくのが大事なんです。その意味では、のっけから芝居の評価を気にせずやっていく必要がある。これは本職の役者さんにはきついことだと思います。ですから、僕がそういう題材を選んで演じさせてもらっているわけです。そんな舟木の娯楽時代劇を見たいというお客さまがいらっしゃることは昨年の『花の生涯』で証明されましたね」と話している。
 逆に言うと、舞台で娯楽時代劇を演じる、演じられる役者がほとんどいなくなったということだ。もっとも、舟木の力だけで演じられると思っているわけではなく、「ヨイっちゃん(林与一)、キヨちゃん(長谷川稀世)、ハコちゃん(葉山葉子)がいてくれて、なんとか持ちこたえられている」と話す。これは舟木が40周年を超えたころから強く意識し始めたことで、林、長谷川、葉山など娯楽時代劇の骨法(礼儀・所作)を踏まえて演じてくれる役者仲間が7割以上いる座組(舟木組)を編成して様々な舞台を展開していることを指している。

■役者・舟木が"次のステージ"へ上がった■

舟木によると、娯楽時代劇というのは「忠臣蔵」や「清水の次郎長」などの定番の時代劇、「眠狂四郎」や「新吾十番勝負」など正当の時代劇、いい意味で"遊び"というか融通の利く時代劇の3つに分類でき、それぞれが3分の1ずつを占めているという。舟木の作品でいうと、「花の生涯」や「八百万石に挑む男」などは骨太で歯ごたえがある正統派の時代劇、「いろは長屋の用心棒」などは手の中に入れて握り方によっていかようにも変化する融通の利く時代劇ということになる。
 そして、「花の生涯」が成功したのは「娯楽時代劇の何たるかを知り尽くした里見浩太朗という方の存在があったからあの台本が作れたし、固くならないお芝居に仕上げることが出来た」と分析。「八百万石に挑む男」については、「尾上松也という方の存在が大きい。芝居のスタイルが僕と似ていて、いい相手だった。とにかくあの舞台をやりながら『高校三年生もついにここまで来たか』としみじみ思った」と話してくれた。この舞台で舟木の芝居が"次のステージ"に上がったことを自ら実感したのだ。
 役者・舟木一夫はこれからますます円熟味を増してくる―。

バックナンバー

最終回
まとめ
役者(後篇)
役者(前篇)
BIG3(後編)
BIG3(前篇)
新曲(後篇)
新曲(前篇)
はじめに