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満蒙開拓「岡谷郷」逃避行 元団員の六波羅さん

旧満州の体験を語る六波羅さん=松本市県の自宅で

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 太平洋戦争中、旧満州(現中国東北部)に岡谷市出身者らが暮らした満蒙(まんもう)開拓団集落「岡谷郷」があった。1943(昭和18)年春から入植を始めたが、旧ソ連軍参戦後の逃避行や収容所生活の中、飢えや寒さなどで60人余りが命を落とした。元開拓団員の六波羅義博さん(84)=松本市県=から話を聞いた。

 「向こうから満人(中国人)の集団が襲ってくるのが見えたんです。開拓団員は背中と両手に持てるだけの物を抱えて山へ逃げました」

 六波羅さんは当時十歳。その頃、満州はちょうど雨期で、びしょぬれになりながら何日も歩き続けたという。

 岡谷郷には三十七戸百五十人が暮らしていた。六波羅さんは四五年五月、六歳上の兄吉亮(よしすけ)さんと満州へ渡った。先に父吉平さんと四歳上の兄吉幸さんが暮らしていた。新天地の生活が始まったのもつかの間、七月になると男性たちに赤紙(召集令状)が届き、吉平さんと吉亮さんも出征。集落には女性や子ども、高齢者が残された。そんな中、四五年八月九日、旧ソ連軍が満州に侵攻し、呼応して中国人の襲撃が始まる。

 「逃げてる時はずっとどしゃ降り。雨に打たれながら寝ました。自分は『腹が減った、足が痛い』と泣いてばかりで、兄(吉幸さん)が自分の荷物を背負ってくれた」と振り返る。草むらで出産した女性もいた。赤ん坊はすぐに命を落としたが、女性はおんぶし続けた。悪臭が団員たちを悩ませたという。

 九月、新京(現長春)の収容所にたどり着いた。日本企業の寮だった「東崗(とうこう)寮」という施設で、あてがわれた六畳部屋に岡谷郷の団員十二人(五所帯)が寝泊まりした。東崗寮では岡谷郷以外の開拓団員も大勢生活していたが、シラミを媒介した発疹チフスや飢餓で毎日のように誰かが命を落とした。

 「冬になると寒さで次々と人が死んでいきました。皆、集落を逃げてきてから着たきりすずめ。われ先にと死者から衣服をはぎ取ったんです」。遺体は一つの空き部屋で一週間保管した後、荷車に材木のように積まれた。一カ所の穴の中に何体も放り投げられた。

 たくさんの遺体を見ても何も感じなくなっていたという。「明日はわが身。自分も生き残れるとは思っていませんでした」。だが四六年七月、帰国の朗報が飛び込んできた。「母の顔がまぶたに浮かび、日本に帰ったら抱きついて思い切り泣こうと思いました」

 葫蘆(ころ)島から引き揚げ船に乗った。船内でも人が死んでいき、遺体は戸板に載せ、海中へ落とされた。やがて水平線のかなたに祖国の山々が見えてきた。「元気な者から病んでいる者まで甲板に飛び出しました。皆、声を上げて泣いたんです」

 (福永保典)

 

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