9:西塚泰美先生を偲んで
2005年7月 貝淵弘三

 

 昨年(2004年)の11月4日、恩師の神戸大学元学長西塚泰美先生が亡くなられた。 プロテインキナーゼCの発見者で、毎年ノーベル医学・生理学賞の有力候補だった。 「10月の第1月曜日の夕方どこにおられますか。 受賞時のコメントをお願いします。」 毎年、新聞記者からの問い合わせがあると、「ああ、そろそろノーベル賞の季節なのだな。」と思った。 それも今回が最後になった。

 「おもしろくてやめられんでしょう。」 1979年3月、基礎配属の学生のときの西塚先生の言葉だった。 何人の学生が彼から囁かれただろう。 おそらく毎年一人か二人の学生には同じように話しかけられたに違いない。 こうやって学生を勧誘するのだろうなと思いながら、尊敬する教授に直接言われて悪い気はしない。 もともと研究者になることに憧れていた私は、臨床医になるか研究者になるかを迷いながら、研究への魅力絶ち難く好きな道を歩むことにした。

 学部学生が趣味で研究に取り組むのとは違い、プロを目指して大学院生として働くのは厳しい。 「歩きながら考えなさい。」 西塚先生がよく言われていたが、生化学というものの本質をよく表していると思う。 日々コールドルームでの実験に明け暮れ、毎朝、試験管を洗いながら、今日の実験について思いをめぐらす。 特に夏の暑さには参った。 コールドルームの内外では30℃くらいの気温差がある。 そのうち楽になるよとの先輩の言葉には半信半疑だったが、年の暮れにはこれが苦にならなくなった。 身体が大人になったのだ。

 毎日のランチセミナーは、ある意味でもっと過酷であった。 自分達の研究に関係する論文を紹介して議論するセミナーだったが、発表者は教授やスタッフの質問攻めに合い、論理的な答弁を要求される。 極端な場合は、担当者が論文のバックグラウンドを紹介している間に、教授がふっとセミナー室から出ていかれることもあった。 5分ほど待つが、教授は戻って来られない。山村博平助教授(当時、現神戸大学医学部教授)が、「戻って来られませんね。今日のセミナーは中止です。」 これほど鮮やかに落第と思い知らされることはない。 いつ自分がそういう目にあうのか、毎日が緊張の連続だった。 ある日、先輩がアメリカの高名な教授のグループが発表した論文を紹介した。 セミナーも佳境に入った頃、西塚先生が一言。 「この仕事は二番煎じだね。」 容赦のない辛辣な批評である。 たとえ、ノーベル賞候補の論文であっても、オリジナリティを認めないときは、妥協のない評価を下された。 Natureに発表されるようなトピックス性の高い仕事に対しても、もしデータに甘い点が見られれば、「砂上の楼閣はいつか崩れる。」と批判された。 細かい粗を探すのではなく、本質を見抜いての発言だった。 仕事のオリジナリティとデータの再現性の重要性をこの頃にたたき込まれた。 今振り返って見ても、物事の本質を見抜き、要点を捉える西塚先生の力には感服する。

 大学院を無事卒業し、期待されて助手になったのもつかの間、人事の件で意見したことが元で西塚先生の不興を買い、退職することになった。 不本意ながら、気まずい転出である。 幸い、教室の先輩である高井義美教授(当時、現大阪大学医学部教授)の研究室にお世話になることになった。 その後、間もなく日本を出てアメリカはPalo Altoに留学し、アメリカの研究社会の圧倒的なパワーと開放的な雰囲気を知った。 ただ、西塚研究室で鍛えられた実力が、アメリカで通用することがわかり、西塚先生には感謝の気持ちでいっぱいだった。

 1987年秋、帰国して高井先生の研究室の助手に復職し、寝食を忘れ研究に没頭した。高井研での7年あまりは、おそらく生涯でもっとも働いた時期になるだろう。 しかし、西塚先生との仲はなんとなくぎくしゃくしたままで、簡単には元に戻らなかった。

 1994年春、高井先生のご尽力で新設の奈良先端科学技術大学院大学に教授として赴任することになった。 自分の研究室を持つという期待と希望。 一方で、新設大学で建物や機器すら満足にない環境への不安。 スタッフも自分以外はおらず、新入の修士学生とスタートする危機感がつのっていた。 赴任間近の3月、西塚先生と基礎南棟の出口でお会いした。 「本当に奈良でよいのかね。」「はい、頑張ってみます。」「そうか、頑張ってみなさい。じっくりやりなさい。」 短いやりとりではあったが、暖かい激励の言葉が身にしみた。

 危なっかしい弟子を心配してくださったのだろう。 山村先生や吉川潮先生(現神戸大学バイオシグナルセンター教授)のお力添えもあり、西塚先生が主催される新プログラムという文部省の研究班に入れていただいた。 仕事が軌道に乗ってからは、未来開拓推進事業にも御推挙いただいた。 西塚先生のサポートがなければあの時期でつぶれていただろう。 この頃から次第に昔の弟子と先生の関係に戻っていったように思う。 研究会などでは、隣の席にさっと座られて冗談を言われることが多くなった。

 2000年春、名古屋大学医学部に転出した。 「貝淵君を頼みます。」と西塚先生が頭を下げられたということを、東海地区の先生方から何度も聞かされた。 お礼を申し上げると、「ははは」と照れくさそうに笑いとばされた。 奈良先端大に一度、名古屋大学にも一度突然訪ねて来られた。 心配されていたのだろう。 「じっくりやりなさい。己の信ずるところをやりなさい。」と何回も言われた。

 学長を退官された後も兵庫県、バイオシグナルセンター、学術振興会のこと等でいつも忙しくされていた。 弟子としては健康だけが心配だった。 その心配が現実のものになってしまった。 達筆で漢籍に造形が深く、多彩な趣味を持つ方であったとは思うが、走ったまま逝かれたとの思いが強い。 お別れの会で、本間守男先生(神戸大学名誉教授)が「二人で時々野池に出かけてヘラブナ釣りを楽しんだ。」と言われたことが心を和ませる。

 西塚先生、今まで本当にありがとうございました。 不肖の弟子ですが、先生の教えを守って、より良い研究を目指します。 安らかにお眠りください。 ご冥福をお祈りいたします。