昭和20年8月15日前後の思い出 ~74年前の日々~ - 2019.08.15 Thu
人とくらべると、記憶の“始まり”が遅いようだ。
しっかり刻まれた最初の記憶は、町のはずれの
あぜ道のようなところで自転車を止めた3人の
おばちゃんが話し合っている光景だ。
昭和20年8月15日の午後…
そう、ラジオからポツダム宣言の受諾を伝える
天皇陛下のお言葉が流れ、戦争が終わった日だ。
B29による空襲が激しさを増した東京を逃れ、
母と私は福岡県久留米市に縁故疎開をしていた。
歴史的に見ても日本にとって極めて重要だった
この日前後の記憶は“まだら”だ。
東京大空襲の直前まで東京・杉並区に住んでいた。
タンスの上のラジオが1日に何度も空襲の情報を
告げていた。“空襲警報発令”、“東部軍管区情報”、
”接近中”、“退避”などの言葉が耳に残っている。
空高く、編隊を組んで飛ぶB29 のきらきら光る
銀色のつばさも思い出せる。大人は怖がったが、
私たち子どもに“恐怖心”はなかった気がする。
小学校の入学式は東京で済ませた…と記憶して
いるが、20年4月と言えば、連日のように
空襲があったから、この記憶は怪しい。
はっきり覚えているのは、久留米の小学校では
担任の女性教諭が優しかったこと、近所の子供と
帰宅途中に森に分け入って野生のアケビをもいで
食べたこと…などだ。
久留米時代には二つの出来事を思い出す。
終戦から数日後、深夜、二階からものすごい
いびきが聞こえた。“犯人”は 身を寄せていた
家の主人、父の弟だった。叔父は10時間以上
いびきをかき続けて、昼前に亡くなった。
メチルアルコールによる中毒死だった。
戦争末期から、酒に飢えた“のん兵衛”とたちは
悪質なアルコールに手を出していた。いろいろ
出回っていたようだ。中には、戦闘機が消えた
飛行場から盗み出したガソリンが原料という
とんでもない物まであった。“アルコール”と
名がついていればなんでもいい…という人たちは
それでも飛びついたらしい。失明することが多く、
“目散るアルコール”などと言われていた。
終戦から数週間後には、もう久留米でも進駐軍
(のちの駐留軍)の兵士を見かけるようになった。
ある日、近くでひとり暮らしをしていた祖母
(母の母)のところに数人のアメリカ兵が現れた。
飼っていたウサギをよこせと要求したようだ。
60歳前後だったはずの祖母がどうしたか?
一喝して追い払った! それも、英語で!!
子供を4人?産んだあと夫と死別した祖母は
親しくしていた人の家で子守りをしていた。
アメリカに行くことになった一家について
渡米していたのだ。
たぶん、新学期は東京で迎えたのだと思う。
前に書いたが、杉並区三谷(さんや:現 桃井)の
あたりは空襲を免れていた。我が家からほんの
数キロのところに中島飛行機工場があった。
米軍は間違いなく標的にするからこのあたりも
焼夷爆弾が落とされるだろうと周囲の大人たちは
話していたが、近所にその形跡はなかった。
家から100メートルほどの青梅街道を走っていた
米軍のジープを覚えている。MP(憲兵)を乗せた
車の後部でしなやかなアンテナが揺れていた。
子どもたちの間では、アメリカの悪口を言うと
あのアンテナがキャッチする…ことになっていた。
「ギブミーチョコレート(チューインガム)」と
言えば、もらえるといううわさが広く流れいて、
彼らの姿を見かけると大勢で取り囲んだものだ。
アンテナを気にしつつ。ハハハ。
ハーシー・チョコレート、リグレーのガム…は
子どもたちの憧れの的だった。
日常的に街のいたるところで接するようになった
アメリカ兵たちの体格に日本人は驚愕していた。
高い位置にある腰に支えられ長い脚にまとい付く
カーキ色のズボンがかっこよかった。「あれじゃ
戦争に勝てるわけないよ」と大人は言っていた。
赤紙一枚で招集され、敗れて、海外から帰国した
日本兵は気の毒だった。昭和20年代の半ばまで
省線電車(国鉄の前身)には松葉杖をつき戦闘帽と
白い病衣を身につけた復員兵がよく乗ってきた。
世間は“傷痍軍人”と呼んでいた。
うろ覚えだが、「帝国陸軍兵曹〇〇〇〇であります。
ただ今、帰ってまいりました。XXXXで右足を
失いました!」などと大声で叫んでいた。
その首から募金箱が下がっていた。同情を誘う
光景だったがニセ者も非常に多かったらしい。
…思い出すことはまだあるが、
長くなった。続きは来週、書く。