手塚治虫先生はエッセイで東光堂の社長と横山先生が訪ねて来てとあるが、私が聞いた話は 手塚治虫先生が東光堂と縁を切るために東光堂に来られて、その時の現場にいたのが横山先生だった。 もう少し時間を遡り、当時の事情を時系列に話すと…
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昭和28年11月に発売した『罪と罰』を最後に手塚治虫先生は東光堂での新作書き下ろし漫画は描かれていない。 何故か?の理由は雑誌連載にいっぱいいっぱいで、とても新作を手掛ける時間がなかったからだ。 しかし、それは出版社側にとっては全く関係のない話で丸山社長のお怒りもよく分かる。
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「ヨソにも描いてウチにも」が本来の正しい筋なのだろう。 しかし、両者は建設的な関係を維持することは出来なかった。それは丸山社長の性格も多少なりは関係したのだろう。 手塚治虫先生と東光堂の昭和29年の関係は… 5月に『月世界の少年』のみの発売だけだった。pic.twitter.com/0dAxrDb18B
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ちなみに月世界の少年とは昭和27年2月に学童社から発売された『新編月世界紳士』の改題であり、言わば再録作品だった。 罪と罰以降、東光堂に全く関わってもらえない手塚治虫先生へ無理難題を言ってやっと手掛けてもらい販売出来たのが新作ではなく上記の再録本だった。pic.twitter.com/EFcTcmRwPc
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新作も描いてもらえることなく、再録も嫌々されてしまう始末…一方、丸山社長は丸山社長の方で怒髪天であり、両者の溝はドンドン広まるばかりだった。 ちょうど、その時が横山先生の東光堂への持ち込み時期だった。 丸山社長は横山先生の絵を見て経営者としてのイケる手応えを感じた。
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そして丸山社長は横山青年と話をするうちに彼が手塚治虫先生のファンであることを知り…ある閃きが浮かぶ。 それは手塚治虫先生にこの原稿の評価をしてもらうことだった。 「ヨッシャ!手塚治虫先生に会わしたる」
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と、横山先生を喜ばせて帰らしたのは良いが、いざ東京にいる手塚治虫先生と会うには困難な状態だった。 そこで丸山社長は一計を案じたのである。 「最後にワシの見込んだ新人の原稿を見てやってくれへんやろか」 だった。実はそれまで手塚治虫先生はしつこいくらい丸山社長から電話がかかっていた。
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しかし、最後ということで 『これで東光堂とやっと縁が切れる』 の安堵に手塚治虫先生も陥ったのであろう。そして、東京に住んでいる手塚治虫先生は自分が実家に戻るタイミングを計り秋口に東光堂で会うことになったのである。 この時、手塚治虫先生は24歳、横山先生は20歳で、どちらも青年だった。
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この時の手塚治虫先生だが、私が思うに 『実は新人の原稿をベタ褒めするつもりだったのではないか?』 と考えている。何故なら中途半端な褒め方だと『やっぱり自分に描いてくれ〜』とまた丸山社長と前の関係に戻るからだ。 だから東光堂と関係を絶つ…が前提でその場に臨んだのだと思う。
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しかし、実際に横山先生の絵を見て手塚治虫先生から出た言葉は… 【売れるかも知れませんな】 とクールな一言だった。手塚治虫先生が藤子不二雄先生の原稿を初めて見た時は評価も励ましもした。 しかし、横山先生に対しては励ましをされさなかった…
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それは一体どのような意図として手塚治虫先生は語ったのだろうか? 横山先生は緊張ながらも憧れの漫画家よりお褒め頂き、内心は小躍りしたことだろう。だが、ここから… 【これまで世に知られなかった修羅場が始まるのである。】
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丸山社長は手塚治虫先生の言葉で自分の先見の明に自信を持ったのか、その後は手塚治虫先生を侮蔑し、これからは横山先生を育てると啖呵を切るのである。 そして啖呵の中には 「オマエに描いてもらわんでもワシにはコイツがいるんや」 の横山先生に対する寵愛ぶりなセリフも言われたのである。
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オロオロする横山先生と顔を真っ赤にする手塚治虫先生と勝ち誇った顔をする丸山社長の三人三様の異様な空間… それは手塚治虫先生にとって今までどの出版社に対してからも言われたことのない挑戦的であり、屈辱的な言葉でもあった。
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そして私は『この日こそが今日、私達の知る負けず嫌いの手塚治虫先生の誕生の日』ではないか?と思った。 この後、手塚治虫先生はどうなさったのか?これが実に手塚治虫先生らしいエピソードで 東光堂と縁を切るつもりだったのが翌年の昭和30年に…
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◉戦国巨人(原題:はりきり弁慶) 2月発売 ◉太平洋の火柱(原題:太平洋Xポイント) 10月発売 ◉透明人間(原題:ケン一探偵長 透明人間) 12月発売 ◉世界を滅ぼす男 12月発売pic.twitter.com/TJih8KO13p
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◉地球の悪魔(原題:地球1954) 12月発売 と、打って変わって5冊も本を出してしまうのである。 それは横山先生に負けてなるものか!の裏返しと言っても良いだろう。 私はこの時の丸山社長の『してやったりな顔』を生涯忘れることが出来ない…
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横山先生は『戦国巨人』の発売1ヶ月後の昭和30年3月に『音無の剣』を発刊しており 手塚治虫先生は自分が横山先生を売るための梅雨払い状態になっているのも分からなかったのかもしれない… 何のことはない、横山先生を世間に広めた張本人こそ手塚治虫先生だったのではないだろうか?
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そして、手塚治虫先生は丸山社長が手塩にかけて育てようとした漫画家がどれほどのものか?を自分で確認したいために 昭和30年5月号付録で『黄金都市』 を横山先生に描かせたのだと思う。横山青年と手塚治虫青年の出会いは 1人の老獪な大人によって2人とも手のひらで踊らされたと言っても良かった…pic.twitter.com/BqRWNlBSX7
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その後、横山先生は東浦美津夫先生の口利きもあり一時的には手塚治虫先生と仲良くはなれた。 しかし、昭和31年に横山先生が上京、間もない頃に手塚治虫先生が住まれていた 並木ハウス前で写る写真のお二人の立ち位置は両端だった…pic.twitter.com/6NCUhZhCog
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最後に一言 手塚治虫先生はどろろの担当だった少年サンデーの中村編集に対して 「僕にはライバルはいません。しかし、絶対に許せない人がひとりいます。その人の名は横山光輝クンです。」 と、横山先生を毛嫌いする発言をされていたのである…
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