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【親子で学ぶぅ】

<終戦の日編>今も残る戦争の影響 「二度としない」約束守ろう

広島市の平和記念公園で「核兵器なき世界」への決意を表明するオバマ米大統領(当時)。左は安倍首相=2016年5月27日

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 今日は終戦の日です。七十四年前の一九四五(昭和二十)年八月十五日、日本はアメリカなどとの戦争に負けました。この戦争では、兵士だけでなく、たくさんの民間人も命を落としました。平和の大切さをかみしめながら、戦争を振(ふ)り返ってみましょう。

 この戦争のしばらく前から、日本は現在(げんざい)の中国に影響力(えいきょうりょく)を持とうとして、アメリカなどと対立していました。三七(昭和十二)年には中国との戦争が始まり、四一(昭和十六)年十二月八日にはアメリカのハワイ・真珠湾(しんじゅわん)にある基地(きち)などを日本軍が攻撃(こうげき)し、太平洋戦争が始まりました。

 当時の日本はドイツ、イタリアと手を組み、イギリスなどとも戦いました。ドイツ、イタリアはヨーロッパで大きな戦争を起こしました。太平洋戦争とヨーロッパなどでの戦争を合わせ、第二次世界大戦と呼(よ)びます。

 太平洋戦争が始まったころ、日本軍はアジアの多くの国々を占領(せんりょう)し、太平洋ではアメリカ軍に多くの損害(そんがい)を与(あた)えました。

 しかし、日本よりも多くの資源(しげん)を持つ大国のアメリカが態勢(たいせい)を立て直すと、日本はだんだん不利になっていきました。兵士が足りず、大学生も兵士として戦場に送りました。子どもたちも、工場などで働かされたり、農村部に移(うつ)り住む「学童疎開(そかい)」で家族が離(はな)れ離(ばな)れになったりしました。

 戦争が終わりに近づくころには、アメリカ軍が東京をはじめとする日本各地を空襲(くうしゅう)し、爆弾(ばくだん)や焼夷弾(しょういだん)と呼ばれる武器(ぶき)を落として街を丸ごと壊(こわ)しました。沖縄(おきなわ)は四五年六月、約三カ月間で二十数万人の犠牲者(ぎせいしゃ)を出す激(はげ)しい戦いの末に、アメリカに奪(うば)われました。

 八月六日には広島市、九日に長崎(ながさき)市で原爆が落とされました。日本は、アメリカなどが無条件(むじょうけん)で負けを認めることを求めたポツダム宣言を受け入れることに決め、八月十五日正午、昭和天皇(てんのう)がラジオで敗戦を国民に伝えました。

 戦争では、合計約三百十万人の日本人が犠牲になり、アジア各国やアメリカ、その他の国々でも多くの犠牲者を出しました。戦争の悲惨(ひさん)さを忘れず平和を大切にするために、政府は毎年八月十五日に東京で全国戦没者追悼式(せんぼつしゃついとうしき)を開いています。

 戦後、日本は平和国家へと生まれ変わりました。新しくつくられた日本国憲法(けんぽう)の九条(じょう)で、戦争をしないことや、戦争をするための軍隊をつくらないことを誓(ちか)いました。この憲法の下(もと)、日本は戦争をしていません。

 終戦から七十四年たったいまも、戦争の影響はいろいろなところに残ります。

 原爆の被爆者は、いまも後遺症(こういしょう)に苦しみ続けています。一方で広島と長崎は、原爆のような核兵器(かくへいき)をなくすための核兵器廃絶(はいぜつ)運動のシンボルになりました。二〇一六年には、オバマ・アメリカ大統領(だいとうりょう)(当時)が広島平和記念公園を訪れて、核兵器廃絶を訴(うった)えましたが、廃絶に向けた世界的な動きは進んでいません。

 終戦から二十七年たってから日本に復帰(ふっき)した沖縄は、いまなおアメリカ軍基地の七割(わり)が集中する基地の島になっています。終戦の前後にソ連(現在のロシア)が占領した北方領土もロシアが支配(しはい)したままです。

 悲惨な戦争は二度としないという約束をどのようにすれば守り続けられるか、私(わたし)たちも考えなくてはいけません。

 

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