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![]() 【茨城】<つなぐ 戦後74年>脳裏焼き付く あの光景 日立の戦争体験 同級生6人が語る
日立製作所などの軍需工場が多く立地していた日立市は太平洋戦争末期、米軍から大規模な空襲や艦砲射撃を受け、千五百人を超える犠牲者を出し、街並みが破壊された。十五日は戦後七十四年の終戦記念日。命をつないだ市内在住の六人に当時の体験を聞いた。 (水谷エリナ) 六人は片野八重子さん(89)、窪木繁子さん(88)、長山賢さん(88)、滑川和行さん(89)、山形裕信さん(89)、山本八千代さん(88)で、旧多賀町(現日立市)の小学校の同級生。空襲や艦砲射撃を受けたのは、中学三年の時だった。 長山さん、滑川さん、山形さんの三人は一九四五年春から、学徒動員として日立製作所海岸工場でクレーン操作などの作業に当たっていた。 空襲があった六月十日、三人は燃料となる「松根油」の原料の松の根を掘り出すため、工場から離れた高台にいた。故三笠宮が前日に海岸工場を訪れ対応したことから、工場での仕事は休みになっていた。 空襲警報が鳴った後、約百二十機のB29爆撃機が約三十分にわたり、海岸工場に大量の爆弾を落とすのが見えた。山形さんがすぐに現場へ行くと、空襲のすさまじさを物語るように工場の建物が鉄骨だけになり、誰もいなかった。 米軍の記録では、九割以上の建物が壊れ、工場従業員や周辺住民の八百八十六人が死亡した。工場にいたのは平常時の一割に当たる約千六百人だったという。山形さんは「三笠宮さまが来ていなかったら、今、ここにはいないね」と話した。 別の場所から空襲の様子を見ていた片野さんは「地をはうように炎が広がり、黒い煙が上がった」と、当時の光景が脳裏に焼き付いている。
六人が「一番怖かった」と口をそろえるのが、七月十七日の米軍による艦砲射撃だった。窪木さんは「雷が爆発したような音」と表現する。山形さんは「山に逃げて竹林にあった溝で、布団をかぶって隠れていた」と説明。ほかの五人もそれぞれ防空壕(ごう)に隠れるなどで、一命を取り留めた。 艦砲射撃の恐怖について、長山さんは「空襲は飛行機の下にいなければ大丈夫だけど、艦砲射撃はどこで爆発するか分からない。よくぞ生きていたと思うよ」と吐露する。 米軍艦隊は沖合から直径約四十センチの砲弾を八百七十発撃ち込んだ。工場を狙った攻撃だったが、命中率はわずか4%ほどで、ほとんどが近隣の住宅街や山林に落ち、四百三十六人が亡くなったとされる。 艦砲射撃だと理解する市民も少なく、終わった後も混乱が広がったという。滑川さんは「米軍が上陸するんじゃないかといううわさが飛び交っていた」と振り返る。 わずか二日後の深夜、一般市民も対象にした焼夷(しょうい)弾による無差別攻撃があった。未明にかけて空襲が続き、市役所がある助川や宮田の市街地の七割近くが焼けた。六人の家はかろうじて無事だったという。 二十六日午前九時すぎには、長崎の原爆と同じ形と重さの模擬原爆の「パンプキン」が落とされ、数人が亡くなった。
六人とも「日本が負けると思っていなかった」という。八月十五日に終戦を迎えるまで、いつか空襲で死ぬかもしれないと思っていた長山さんは「助かったと思った人がほとんどだった」と当時の心境を語った。 悔やまれるのは、もっと早く戦争が終わらなかったこと。山本さんも「(無条件降伏の)決断が速ければ、もっと早く戦争が終わったのに」と話す。戦争へ行った五人の兄は無事に復員したが、八月二日の水戸空襲で慕っていた姉を亡くし、今もその悲しみを忘れられずにいる。 山形さんは「振り返ってみると、なんと惨めな思いをしたのかと、しみじみと思う。戦争して勝っても負けてもいいことはない。平和が一番大事」と、教訓を次世代に伝えた。 <日立空襲と艦砲射撃> 1945年6、7月に、軍需工場地帯が広がる日立市(旧多賀町を含む)を狙った米軍の3回にわたる大規模攻撃で、市内の死者、行方不明者は約1580人に上った。6月10日にB29爆撃機が、日立製作所海岸工場に1トン爆弾508発を投下した。7月17日深夜には、米艦隊が複数の工場を狙い、艦砲射撃。19日深夜には、B29爆撃機が1万3900発の焼夷弾を市街地に無差別投下した。
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