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【社会】

<つなぐ 戦後74年>妹よ 旧満州 避難列車の中の死

旧満州で亡くなった妹について話す小倉充盛さん=東京都東久留米市で

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 終戦の日に合わせて今夏も、一日限りの「平和の俳句」が復活です。入選作はもちろん、惜しくも選に漏れた句からも平和への強い願いが伝わります。戦争体験を投影した首都圏の作者たちに、句に託した思いを聞きました。

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 「ねえ、どうしたの」

 一九四五年八月、北満州から南へ逃げる避難列車の中で、六カ月の末妹を抱いて立っていた母が、一瞬腕に力を込めたかと思うと、床に座り込んだ。理由を尋ねても首を振るだけ。一面の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花畑を走り続けた列車は夕方、大都市で止まった。八月十五日だった。日本の地を踏むこともないまま、末妹が亡くなった日だ。

 東久留米市の元教員、小倉充盛(あつもり)さん(80)は当時六歳。母に連れられて一つ下の妹と満州に渡ったのは三歳のころ。旧満州のブハト(現在の内モンゴル自治区)で父が青年学校の校長をしていたからだ。現地で弟と末妹が生まれ、ペチカ(暖炉)のある元ロシア人住宅に一家六人で暮らした。

 「戦地という感じはなかった」暮らしも、一九四五年五月に父が現地召集されるころには一変する。入学したばかりの学校は休校になり、街には不穏な空気が漂い始めた。旧ソ連の参戦を受け、八月九日に最後と言われた避難列車で南下したが、すでに帰国はできなくなっていた。

 チチハルの難民収容施設に押し込められ、飢えをしのいだ暮らしは約一年間続く。帰国し、鹿児島の母の実家に着いたのは四六年十一月三日。日本国憲法が公布された日だったという。平和と人権を掲げた憲法の精神が子ども心に深く刻まれた。

 定年後、小倉さんは二回、中国に渡っている。教員の経験を生かし、現地の若者に日本語を教えるためだ。「自分は戦争に加担した者の子どもだ」と自己紹介してきた。父を召集されたつらさ以前に、現地を戦場にした加害の事実を共有した上で、友好のための存在でありたいと思ったからだ。

 父はシベリアに抑留されたまま死亡。母は当時のことを口にしないまま亡くなった。傘寿を迎え、子や孫に囲まれる幸せの中で「家族の中にこういうことがあったんだと伝えなければ」と強く感じるようになった。

 幼かった自分の記憶も不確かなことは多いが、白いネルの着物にくるまれた末妹のあごの下に手を触れたときの冷たさと、母の涙は忘れられない。句に詠んだのは、夏が来るたびに思い出す光景だ。 (原尚子)

◆満員の講堂 平和を学ぶ喜び

憲法講座の熱気を振り返る古屋美和子さん=東京都八王子市で

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 一九五〇年、新潟県高田市(現上越市)の新潟大高田分校の大講堂は学生であふれ返っていた。

 戦後、代用教員として二年間勤務した古屋美和子さん(89)は、正式な教員資格を取ろうと同大に進学。同分校の小学校教員課程を履修した。二十歳の古屋さんが出会ったのが、新憲法の講義だった。

 通年の憲法講座の初回、数人掛けの長机はもちろん、机と机の間の通路も埋まり、窓枠に腰をかけている学生もいた。同級生の仲良し三人組で講堂の一番後ろに入り込んだが、先生の顔もほとんど見えなかった。

 メモを取れる状況ですらなく、青白い顔をした先生の熱の入った言葉に耳をそばだてた。時折、「ウォー」という歓声が上がった。異常な熱気だった。

 「大講堂を埋め尽くした生徒からは、『平和な時代になった』という喜びが感じられた」と振り返る。

 上越市出身。地元の高田高等女学校に進んだが、三年生になって学徒動員で、飛行機部品の工場に駆り出された。その数カ月後に終戦。「戦争が終わった空を、B29が爆弾を落とすでもなく、悠々と旋回したのを覚えています」

 講義の細かい内容は覚えていない。しかし、「平和憲法」という言葉に興奮したことは、はっきり記憶している。

 今の為政者は、平和のありがたみをどれだけ分かっているのだろうか。そんな疑問を胸に、大講堂の熱気を思い返しながら句を詠んだ。 (布施谷航)

 

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